つれづれに:諦めの形(2022年3月26日)

2022年3月27日つれづれに

 

つれづれに:諦めの形

 

小さい頃の写真が一枚もない。大学の入学を決めた日に燃やしたからだが、五十年以上も前のことなので詳細ははっきりとしない。ただ、卒業写真の中の自分を、何か筆記用具みたいなもので串刺しにした覚えがある。写真を串刺しにしながら、何演技してんねん、と呟くもう一人の自分がいたような気もする。
よほどそれまでの自分を否定したかったのだろう。「十七から二十一くらいまでの期間は、僕には悪夢の歳月であった。おそらく自分の持つ価値観が、大きく移っていった時代だった。そんな大げさなものではないかも知れないが、それが過ぎた頃には、たしかに自分が、それまでの自分とは違うものになっていた。」と担任をしていた文芸部員から頼まれた原稿にそう書いている。

ある日、世界が一変してしまった。生まれ育った環境や家族や学校に、いつも腹を立てていたし、大学もいくとことろが見つからなかった。しかし、それが直接の原因ではない。「ぼくは、それまで、世に絶対的なものがあると信じて、疑ったことがなかった。そのことを考えたこともなかった。だからこそ、生きるということを疑ったこともなかったし、生きるからこそ、生きなければならないという命題があった。すべて思う通り生きられるはずもなかったが、それでも、思いどおりにゆかないときには、それこそ、事あるごとに後悔をし、自分を責めた。
一日、六時間も寝た日には、ああ惰眠をむさぼって、自分は何となさけない人間だと本気で思った。大阪の街に出て、人の多さと、建物の大きさに驚いて、自分の非力を嘆いて、涙した。
そんな自分が、本当に…絶対的なものを信じているのか…もしかりに、あるとしても、わからないものをあると信じる自分が果たして、本当に、自分なのか・・・そんなことを思い出してから、心の中のすべてが、がらがらと音をたてて、くずれはじめた。
一瞬には、くずれなかった。長い歳月が必要だった。悪夢の連続であった。夜すら、ねむれなかった。ちょうど、大学入試や、家のごたごたが重なった。が、それどころではなかった。自分の存在がわからない…くる日も、くる日も、同じことを考えた。生きる命題が見つからない…そんな言葉に換えた……生きる命題が、見つからない…」

どうやらそういうことだったらしい。一番多感な時期に、すべてを割いて没頭した社会活動を支えていた拠り所が、実は自分にとってはまことに不確かなもので、基盤もろとも崩れ去ってしまったのである。そして出した結論は、絶対的なものがあるかどうかはわからないが、あると思いこむのはやめよう、わからないならわからないまま、すべての社会の規範をもう一度取捨選択して取り込み直そう、そう考えたら、少なくとも、いま暫くは生きて行けそうである。生きるのは大変や、こんな大変なもんなんや、これからまだ生きなあかんのか、そう思ったのが13くらいの時で、その倍を生きて、それでも死にきれずにおたおたして、それでもよう持って30くらいやろな、そう思いこんでしまった。その区切りが、写真を燃やすという形になったのかも知れない。→「生きゆけるかしら」(1976)、→「露とくとく」(1978)、→「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」(1981年)

前の「つれづれに」を書いてから、歩くのも畑も停滞気味で、気が付いたら春分の日を過ぎ、すっかり春になっている。田に水が張られ、どころではなく、田植えが始まっていた。芽を出した夏野菜の季節である。少し、またペースを戻さないと。

次回は、大学入学か。