つれづれに: 歩き始めたのは・・・(2021年6月26日)

つれづれに

歩き始めたのは体調を大幅に崩してからである。

今の散歩コースの最初、背景は加江田渓谷

原因は無理をし過ぎたからだが、自分を追い込まないと生きていられなかったからもあると思う。一時は背中から頭の芯まで鉛が入っているような感じできつかった。若かったので34歳まで持ちこたえたが、少し遅れていたらどうなっていたか。すぐに死ねていたら本望だったと思うが、寝たきりになったりしていたら周りが大変な荷物をしょい込んだ可能性もある。

きついマッサージで救ってもらった。

宮崎に来たのは昭和の最後で途中で平成に変わった年のようである。あまり意識したことはなかったが、退職後も履歴書を書いて「そうやったんや」と思った記憶がある。文部科学省に出す書類には元号が要る。今は西暦併記のようだか、いちいち西暦に置き直して考える必要がある。たしか1988年だったような気がするから30数年にもなるわけである。

宮崎医科大学(旧のホームページから)

その前は明石、正確にいうと朝霧という優雅な町名の街に住んでいた。子供が出来て暫くしてから妻の父親が一人暮らしをしていたその街の一軒家に転がり込んだ。一人暮らしが長くなりかけて少々老人臭くなっていたが、突然孫が転がり込んで、ぐっと若返った。目にいれても痛くない娘が帰って来たし、孫との相性が抜群だったこともある。ただいっしょについて来た孫の父親とは相性が悪く、今から思うとお気の毒、としか言いようがない。加害者には常に自覚はないのでその分本当に申し訳ないが、宮崎に来てから同居を薦めて重い腰を上げていっしょに住んでもらえたので、相殺ということで勘弁してもらえると有難い。亡くなる前日まで、好物のステーキを食べて、娘の手を煩わせることなく逝った死に際はお見事である。

歩いて行っていた大蔵海岸、背景は瀬戸内海と淡路島

朝霧に住みだした頃に歩き始めた。その前は少し西側の小さな町に住んでいた。その時は、川の堤防を朝日に向かって全力で走っていた。

書き始めた小説にこんな文章を織り込んだりしてる。次は今の散歩コース、か。