つれづれに:お別れ(2022年8月12日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:お別れ
その時はそうも思わなかったが、私たちが宮崎に行ってしまったら会うのはこれが最後になると知って「中朝霧丘」の家に来て下さった人がいた。妻からその人の話はよく聞いていたが、お会いしたのはその時が初めてである。妻が異動して通った高校で同僚だった人である。中朝霧の家の最寄り駅はJR朝霧駅(↑)で、一駅西が明石駅(↓)、次が西明石駅でその駅までは複々線である。その区間も含めて海側には神戸と繋がっている山陽電鉄が走っている。公共の交通の便はいい。市立商業高校はその私鉄沿線にあったので、妻は明石駅から山陽電鉄を使っていた。その人の家は海岸近くの高校と私鉄の駅のすぐ近くにあったようである。
私よりだいぶ年上の人で、戦前に旧京都帝国大學の法学部に入ったらしい。妻の父親が九州の国立大工学部を出て、私たちが転がり込んだ家に定住するまで大手の紡績会社の技術職として工場を転々としていたが、工場長の待遇はかなりのもので、スラム同然の地域に住んでいた私と比べると、同じ時代に生きていたとはとても思えなかった。多くの人が大学に行ける今とは違って国立大学に行く人の割合は極めて少なく、その中での旧帝大系の東大は別格、それに次ぐ大学である。卒業して順調に行っていれば、相応のポジションにいて、相応の生活をしていたはずである。その人がどういう経緯で市立商業高校(↓)の英語教師をしていたのかはわからないが、二人目の息子が生まれた直後で妻が一番大変な時期にお世話になった。家事に育児に私の母親の借金にとほんとうにぎりぎりの毎日だったし、一年目から担任していたクラスでは「わたしせんせの言うことわからへん」と言われることも多く精神的にもきつかったから、学校での理解と助けは特別だった。産休明けに妻が担任を持たずに済んだのも、図書部所属で長に配慮してもらったお陰である。授業時間以外は図書室の一室であまり気を遣わずに過ごせたので、大部屋の職員室にいなくても済んだ。同じ時期に産休明けで出て来た同僚が、どうしてあの人だけ担任を持たなくていいの?と漏らしたと聞く。
その後、妻は神戸市の普通科の新設校に異動し、最後は家の近くの自分の通った高校(↓)に異動した(→「再び広島から」)が、ずっとその人との遣り取りは続いていたようだ。いつの頃からか、年末に弟の家とその人の家のおせち料理も作るようになっていた。高校の職と子供二人の世話に食事や家事だけでもかなりの負担だったのに、共働きの弟夫妻も母親の借金返済のために大変な思いをしていたので、せめておせちでもと毎年渡すようになっていた。ちょうどお世話になっている時期だったので、その人にも日頃のお礼にとおせちを持って行くようになった。その人は妻を33歳で亡くして以来、障害のある幼い娘さんを一人で育てていた。年末には二人で「魚の棚」に出かけ、昼網の鯛や生きた海老を買い込んで、妻が料理した。煮物には時間もかかる。妻の母親からは結婚したら料理をするから、今は料理せんでもいいよと言われて育ったようなので、料理の経験はなかったが、結婚した最初から家で料理もしてくれたし、弁当も作ってくれた。妻の父親も子供ももちろん私も、毎回おいしく食べさせてもらっていた。運んだおせちも、いつもなかなかの味だった。昼網で仕込んだ魚介類は、酒好きのその人には格別だった気がする。
その日はお昼前に家に来られた。妻がおせちの支度をしている間、お昼と夜の二食の相手は私の役目だった。お酒が大好きな人で、日本酒の熱燗をちびりちびりやりながら、ほんとうにおいしそうに食べていた。私は今はまったく飲まないが、その頃はビールを少しは飲んでいた。元々アルコールは体に合わないようだし、無理やり飲まされる場所を極力避けていたこともあって、酔い潰れたことはない。酔う前に、戻してしまうことが多かったのは、無意識に体の防御作用が働いていたのかも知れない。その日は、ビールを少しずつ飲んで、もっぱら聞き役に回った。素敵な人の話は長時間聞いていても、飽きることはない。楽しいひと時だった。十時くらいだったか、そろそろお暇をと立たれて玄関で挨拶をしたとき、人目を憚らずにはらはらと涙をこぼしておられたが、その人の生き方の結晶のような涙に思えた。おせちを抱えて、暗闇の中を帰っていった。私たちはいつでも会えると考えていたが、会ったのはその時が最後だった。年賀状は毎年届いて歌が添えられていたが、ある年から年賀状も来なくなった。妹さんから、少しぼけが入り出しまして、というはがきをもらったのが最後である。
次は、横浜から、か。
山陽電鉄