藪椿

2022年3月3日つれづれに

藪椿

藪椿を5本摘んで来た。葛などの蔓植物に覆われた樹に辛うじて小振りの花が咲いているのを見つけたからである。思わず切って、持って帰って来た。10月の半ば頃の「つれづれに」の中でも書いたのだが、その藪椿の樹が恐ろしく葛に覆われて、今年は花は咲かないだろうと諦めていたからである。写真↓の右手が畑になっていて、腰の曲がったお年寄りの女性が畑作業を続けている。最近、息子さんらしき人が手伝っている姿を何度か見かけた。おそらくその人たちの家の樹だと思われるが、まったく手入れされていないので、年々葛の勢いは増すばかりだ。つい最近、越して来た左隣の人が見兼ねて枝を払ったようだ。手入れとは言えないほど雑な払い方なので、来年も花が咲くか心配である。誰かの家の樹を勝手に手入れするわけにもいかないし。→「つれづれに: 葛」(2021年10月18日)

この小振りな藪椿にはずいぶんとお世話になった。当時、妻は横浜の出版社の本の装画・挿画を次々と頼まれていたし、長崎の広告・印刷会社からカレンダーの話もあって、当時描いていた花の絵をたくさん使ったからである。友人と作成した絵と字の作品を横浜のビッグサイトに出展していた息子に薦められて花の絵を出品した妻に、会場で絵を目にした東京支社の人からある日電話があった。藪椿の絵もたくさん描いて、そのうち何枚かがカレンダーや本の表紙絵になった。→「クリカレCreators’ Power Calendar」の「クリエーター紹介」

「クリカレ2009」

『さざん・くろーす 広野安人戯曲集』(門土社総合出版、1996/5/22)

1988年に急に宮崎医科大学に決まったとき、妻は14年勤めていた高校を辞めた。30くらいで死ぬだろうと人生をすっかり諦めて生きていたのに、急に結婚を決めてから、人生が急回転し始めた。高校のバスケットボールの顧問や母親の借金に振り回されていたとき、文句も言わず、転がり込んだ父親の家で家事、育児も一手に引き受けてくれた。元々体の弱かった妻には体力ぎりぎりの生活だった。若かったし、子供たちも幼かったし、実の父親の助けもあって辛うじて持ち堪えていた、そんな感じだった。卒業後念願の詩の出版社に就職できたのはよかったが、人と折り合えずに結局辞めたらしい。その後通信教育で単位を補充してからなった高校の教員は、元々望んでいたわけではなかったようだが、それなりに楽しんでいるように見えた。私が高校を辞めて5年後に大学が決まった時に、交代した。どちらも、出せる方が出せばいいと思っていたからだが、やっぱりやりたいことをやれるのが一番だったからである。時間を見つけて絵は描いていたが、仕事と家事・育児の中では、当時まだ半ドンで授業のあった土曜日の午後2時間をみつけて、神戸の絵画教室に出かけるのが精一杯だった。大学が決まったとき「辞めて絵を描いてもいいの?」と、嬉しそうに高校を辞めた。やっと家の近くの自分が卒業した高校に転勤になって一年目、少しは子供との時間も増えたところだったが、一切の迷いはなかった。油絵を描いていたが、「元々体力がないので、一発勝負の水彩にしようかな」と言うので、土曜日の午後に新幹線を使って京都に日本画を見に出かけた。西明石からは半時間で京都に着く。錦市場に寄ってから、色々と観て回ったが、「日本画も体力要るねえ」というのが感想だった。

錦市場アーケード

宮崎に来てからは、水彩で描き始めた。最初は、市民の森の花菖蒲だった。毎日毎日自転車で菖蒲園に通っていた。次が道草、烏瓜、それに藪椿だった。「つれづれに:通草」→「1」「2」「3」「4」「5」「6」「 7」(2021年9月26~10月3日)、「つれづれに」→「 烏瓜」(2021年10月8日)、「烏瓜2」(2021年9月23日)、「椿」