つれづれに:黒人研究の会シンポジウム(2022年8月18日)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会シンポジウム

 宮崎医科大学で授業が始まったあとの6月に大阪工大(↓)で(「大阪工大非常勤」 )「黒人研究の会」の総会があり、シンポジウム(↑)を開催した。

 研究会では毎年6月は例会をせずに総会を開いて特別な企画を続けていた。普段の例会には神戸や大阪、京都や三重などの人が細々と参加していたが、総会には全国から会員が集まった。当時の会員は100名くらいだったと思う。入会したすぐあとから月例会の案内や入会案内、会誌(↓)や会報の編集もするようになって、だいぶ個人的な繋がりも広がっていた。研究会は1954年に創られ、1950年代、60年代のアメリカの公民権運動(the Civil Rights Movements)や1960年前後のアフリカの独立の頃が一番活動に活気があったようだが、その後は会誌の発行と例会を何とか続けているという状態だった。

 その年はアフリカとアメリカを繋ぐものという企画だった。司会をアフリカ専門の先輩がして、ケニアのムアンギさんがケニアの政治事情、三重の北島さんがアフリカと宗教、私がアフリカとアメリカを繋ぐリチャード・ライトについて話をするシンポジウムだった。研究会に入って6年目で、だいぶ例会での顔馴染も増えていた。最初はアフリカ系アメリカの作家で初めて会誌にも毎年作品論を載せてもらっていた。会誌でも毎年ライトの作品論を継続連載していたし、1985年には「ライトシンポジウム」(↓)に参加して、例会でも報告していた。その後南アフリカの作家で「MLA」の発表をやり、ラ・グーマの伝記家を訪問したことも報告していたので、アフリカ系アメリカからアフリカに移行している感じだった。

 ライト(↓)は1947年にアメリカに見切りをつけてパリに住んでいたが、そのころからアフリカでは独立に向けての動きが激しくなっていった。もちろんヨーロッパで殺し合いをして、戦場になったヨーロッパの総体的な力が一時急激に弱まったので、アフリカ諸国が自立に向けて動き出せたという側面もある。この頃から、ヨーロッパに物資や武器を送って大儲けし、戦場とは無縁で無傷のアメリカは、国内の復興に目が離せないヨーロッパ諸国を尻目に、世界のあらゆる場面で傍若無人に振る舞い始めた。ニューヨークからパリに移り住んだライトは、当時のそんな事情の反映している象徴的な人物にも思えたので、その辺りを中心に話をした。実際には事前に打ち合わせをしなかったので、各自が同じ方向で各自の話をするだけのシンポジウムだったが。先輩がそれぞれをうまく繋いでくれた。

 司会の先輩がシンポジウム(↓)の初めに「ムアンギさんともども3月までここで授業もしていたので、知っている学生もいるでしょう」と紹介してくれた。教歴の最初の非常勤から嘱託講師まで世話になり、紀要にも載せてもらった。LL教室を使わせてもらって、映像や音声をふんだんに使って授業をやらせてもらった。普通非常勤は居場所がないが、LL教室の3人の補助員の学生にはずいぶんと助けてもらった。世話になりっぱなしだった。4月から正職員の口が決まり、そこから出張で参加出来たわけである。大学(↓)ではシンポジウムも研究業績になる。このあと前回の総会で企画したアフリカ系アメリカ人の女性作家のテーマと併せて本になる予定だった。それも業績になる。小説を書ければそれでよかったが、表向きは大学では研究と教育と社会貢献が教員に求められるので、研究をしている振りもしなければ居心地が悪い。これらの業績は、いい隠れ蓑になってくれる。

 最初飛行機が落ちないかと心配した妻から列車で行くように強く言われてそれを忠実に実行していたので、行き帰りはなかなかの苦行だった。夜の11時の寝台急行に乗り翌朝到着、帰りも同じで、四人分の寝台のある小さな空間は、息苦しかった。特に小倉からの5時間は苦行だった。小倉から新幹線を使う場合も、小倉と宮崎間の特急車(↓)の中の5時間は、長かった。宮崎では飛行機を使うにしろ、列車を使うにしろ、神戸や大阪に行くのもお金がかかる。それが積もり積もれば、陸の孤島になるのも自然の成り行きである。行き来すると、二つの世界の違いがよくわかる。台風を永年経験すると、台風が来ている時には余程のことがない限り外出しない。身を守る術だから、当然と言えば当然である。しかし、この前の大きな台風の時にテレビに映っていた人は、暴風雨の中に外にいた。先ずあり得ない感覚である。その映像を観た時に、宮崎も長くなったんだと再確認した。髭に下駄の風貌が学生運動の過激派と結びついたようで警官に呼び止められて職務質問を受けていたが、こちらに来てからは経験がない。学生運動や同和に絡む高校紛争も全くの無縁で、制服なしも別世界の話である。同じ国に住んでいるとは思えなかった。まあ、それも時とともに感覚が鈍って行くが、それもそれで仕方ないか、なんかそんな風に思えてくるのも困ったものである。このシンポジウムが、赴任後最初の出張になった。
 次は、ラ・グーマ記念大会、か。