小島けいの世界

☆1 お知らせ


● 私の絵画館・ジンバブエ日記を更新しました(2020年3月20日)→☆2 

● →「モンド通信」(門土社:横浜)「私の絵画館一覧」(81編)

● 2020年のカレンダーが出来ました。→☆3

● ご挨拶→「2020新年のご挨拶」続モンド通信14、2020年1月20日)


☆2 連載:私の絵画館・ジンバブエ日記


パオンちゃんとチューリップ(小島けい)(続モンド通信16、2020年3月20日))

「小島けいのジンバブエ日記9回目:9月26日 自転車泥棒続モンド通信16、2020年3月20日))

「私の絵画館一覧」 門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」No. 16(2009年11月29日)からNo. 98(2017年1月9日)の81編です。


☆3 カレンダー


● 2020年のカレンダーが出来ました ↓

● これまでのカレンダー→「今までのカレンダー」


☆4 本の装画・挿画


● 門土社(横浜)から出版された本の装画や挿画です。


<アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)>

● 出版された本の一覧です→「本の装画・挿画一覧」(門土社・門土社総合出版・Mondo Books)


☆5 作品紹介



<シェルターとモルディブの海>

「2018年個展 作品一覧」の中で紹介しています。

● さらに絵をご覧になれます→「作品紹介」


☆6 個展


● 2008~2012年:大分県飯田高原→九州芸術の杜ギャラリー夢
● 2013年~:東京都世田谷区祖師谷「ルーマー」→Cafe &Gallery Roomer

● 2017小島けい個展→「個展始まりました!」
● 詳しくは「個展詳細」


☆7 額入りです


13_3_30ぎん君とももちゃんと三色菫
ぎん君とモモちゃんと三色菫です。

元の絵は→「新作です:ぎん君とモモちゃんと三色菫(2013/3/6)」

● 詳しくは→「額入り詳細」


☆8 販売情報


● カード、カレンダーを置いてもらっています
COWBOY UP RANCH(カウボーイ アップ ランチ ウエスタン乗馬クラブ in MIYAZAKI 宮崎市清武町大字今泉甲6618)
「はこ動物病院」(福岡県遠賀郡岡垣町吉木東)


更新ページに続きます ↓


☆9 更新ページ



小島けいのジンバブエ日記9回目:自転車泥棒

9月26日 自転車泥棒

帰国を1週間後にひかえ何かとせわしない土曜日の早朝、ゲイリーたちの騒ぐ声で目が覚めました。二台の自転車が明け方盗まれたのです。

ゲイリーとデイン

自転車は門から真っすぐ進んだつきあたり、一番奥にあるガレージにいつも置いていました。そこへ行くには、私たちが寝ている三つの寝室のすぐ横を通らねばなりません。けれどゲイリーとグレース以外の黒人には必ず吠えるデインが、昨夜は一吠えもしませんでした。そのためガレージの横の部屋で寝ていたゲイリーたちも、全く気付かなかったのです。日時も、帰国が七日後に迫った金曜の夜です。私たちは自転車をゲイリーたちにあげるつもりでしたが、普通なら、自転車店に売り渡す直前です。これらから、私たちが帰国する日を知っていたメイドのグレースの関与はほぼ確実のようでした。

突き当たりがガレージ、右手が寝室

 実は、私たちは八月末でグレースにやめてもらいました。もともと彼女が要求した賃金は通常の数倍でした。またこれも後でわかったことですが、徒歩で通っているにもかかわらず往復のバス代も請求しました。

<高いなあ・・・>とは私たちにもわかりましたが、もめるのがイヤで、言われた通りの金額を払いました。

にもかかわらず彼女は三日目くらいから、次々と様々な要求をし始めます。家主のスイス人の老婆がメイドにそんなことをしたとは考えられませんが。まず<10時にお茶がほしい>といわれ、紅茶と砂糖を出しました。砂糖ツボの砂糖は、その度に全て無くなりました。さらにはお茶だけでなく<パンとバターもほしい>と続き、パンとバターを出すと、バターも毎回ごっそり無くなりました。

食べるのはパンなのかバターなのか?!と思いながらも、きっと家で待つ子供たちへのおみやげなのだろうと考え、黙って出し続けました。それでも小さな要求にはどめがかからないので<要求はまとめて聞こう>というと一応大人しくなりましたが、かわりに小さな物が無くなるようになりました。

グレースが私たちの寝室を掃除している時ポケットの中に何かを入れているのを、娘が目撃したこともあります。けれど私たちは、鏡台の引き出しにもすべて鍵をかけるこの国の習慣には、なじむことができませんでした。神戸で買ったお気に入りの私のサングラスも、いつのまにかなくなっていましたが、現場を見ていないので問いつめることはできません。<ふつうに>置いていた私たちの方が悪いのでしょう。

慣れない外国暮らしで、日々疲れがたまって来ていました。そうした状況で、家の中でまで神経を張りつめるのは、正直これ以上堪えられませんでした。

運悪くその日はたまたまグレースが弟をつれて来た日で気の毒でしたが(私たちの神経も限界でしたので)少しお金を多めに渡して<私たちの滞在中はいったん今日でやめてほしい>と話をしました。原因はグレースにありましたが、精悍な顔つきの青年にはひどく屈辱的な出来事で、深く傷ついたに違いありません。帰り際に見せた青年の憎しみの目は、今も忘れられず、苦い思いが残っています。

ハラレで自転車は貴重品です。乗る練習までしていたゲイリーとフローレンスは、大変な落胆ぶりでしたが、私たちはむしろ、誰にも怪我がなくてよかったと、胸をなでおろしました。

自転車に乗るゲイリー

と同時に、私たちはあくまで短期滞在の外国人なのだ、という現実を思い知らされました。片言のショナ語を覚え、大学でも小学校でもいい関係が出来てきた。そう思い始めていた時だけに、背すじを冷たいものが走り、ふと我に帰りました。

出発まで一週間ですが、自転車だけですむだろうか。街なかで何らかの被害にあわないのは珍しい、といわれていた私たちですが、いつも誰かに見張られているような不安を覚え、夜ちょっとした物音でも、目覚めるようになりました。

その得体の知れない緊張感は、この国を離れるまで続きました。

フローレンス(小島けい画)



パオンちゃんとチューリップ

パオンちゃんとチューリップ

「続モンド通信16」(2020年3月20日)に収載。

ロバのパオンちゃんとの出会いは、15年前私が乗馬に通い始めた牧場で、でした。

ほんとうは<ランディ>という素敵な名前を持っていましたが、<パホ・パホ・パオーン!!>と、とてつもなく大きな声でなくことから、私が勝手に<パオンちゃん>と呼びはじめ、そのうち牧場のオーナーやロバ主さんまでもが、パオンちゃんと呼ぶようになりました。

小さな牧場では近所迷惑で、牧場のはずれのトンネル(高速道路の下)につながれていましたが、しばらくして、阿蘇高原の大きな牧場に移りました。

何年か後、大空に近い広大なパノラマのなかで人気者になっていたパオンちゃんと会いました。この絵は、その時のことを思い出して描きました。

今も元気で草を<はむ・はむ>してくれているといいなあ・・・・と思います。

 

 

 

 

 

ロバのパオンちゃんとの出会いは、15年前私が乗馬に通い始めた牧場で、でした。

ほんとうは<ランディ>という素敵な名前を持っていましたが、<パホ・パホ・パオーン!!>と、とてつもなく大きな声でなくことから、私が勝手に<パオンちゃん>と呼びはじめ、そのうち牧場のオーナーやロバ主さんまでもが、パオンちゃんと呼ぶようになりました。

小さな牧場では近所迷惑で、牧場のはずれのトンネル(高速道路の下)につながれていましたが、しばらくして、阿蘇高原の大きな牧場に移りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何年か後、大空に近い広大なパノラマのなかで人気者になっていたパオンちゃんと会いました。この絵は、その時のことを思い出して描きました。

今も元気で草を<はむ・はむ>してくれているといいなあ・・・・と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロバのパオンちゃんとの出会いは、15年前私が乗馬に通い始めた牧場で、でした。

ほんとうは<ランディ>という素敵な名前を持っていましたが、<パホ・パホ・パオーン!!>と、とてつもなく大きな声でなくことから、私が勝手に<パオンちゃん>と呼びはじめ、そのうち牧場のオーナーやロバ主さんまでもが、パオンちゃんと呼ぶようになりました。

小さな牧場では近所迷惑で、牧場のはずれのトンネル(高速道路の下)につながれていましたが、しばらくして、阿蘇高原の大きな牧場に移りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何年か後、大空に近い広大なパノラマのなかで人気者になっていたパオンちゃんと会いました。この絵は、その時のことを思い出して描きました。

今も元気で草を<はむ・はむ>してくれているといいなあ・・・・と思います。



私の絵画館:ニモ No. 1

私の絵画館:「ニモ No. 1」(小島けい)

この絵は、知人の家に保護された<ニモ>が子猫の時に描いた3枚のうちの1枚です。とても気に入っているのですが、今までのカレンダーの中には入れていません。なぜなら縦長ではないからです、

毎年作っている<私の散歩道「犬・猫・ときどき馬」>は、小さな縦型のカレンダーですので、絵はどうしても縦描きになってしまいます。

昨年の個展で、毎年見に来て下さる私より十歳年上の方が<この絵、いいね>とポツンと言われました。ご自身も絵を描かれるこの方は、一昨年も<こう言っては何だけど、昨年よりレベルが上がったね>と言って下さいました。

一年間ずっと一人で描き続ける私には、個展でのこんな一言が、むしょうに嬉しくて、励みになります。

この文章を書きながら、四角のこの絵ならいつかカレンダーの表紙になってもらうのもいいかなあ・・・・?と思いはじめたりしています。

 



小島けいのジンバブエ日記8回目:ルカリロ小学校

2 小島けいのジンバブエ日記8回目:「9月17日(快晴)ルカリロ小学校」(小島けい)

 <ジンバブエ>は南半球に位置します。そのため8月が学校の冬休みです。

ゲイリーの三人の子供たちは、休み中お母さんのフローレンスと一緒にハラレにやってきました。そして一夏(一冬?!)、私たちの子供(二人)と楽しく遊んですごし、九月の新学期に間にあうよう田舎に帰って行きました。

私たちは9月から学校にもどったウォルターとメリティに会うため、大きなバンを借り、ゲイリーの田舎の「ムレワ」を訪問しました。

土埃の舞うムレワのショッピングセンター(日本のように建て物があるわけではなく、赤茶色の土の広場の両側にいくつも店が広げられているという場所です。)からでこぼこの細い道をたどると、ゲイリーの家に着きます。さらにもっと奥の丘の上に、二人の通うルカリロ小学校がありました。 若いジャカランダの木が二本、入口あたりにアーチのように植えられていて、その向こうに小さな建物がコの字型に建っています。

車が止まると、中から一斉に子供たちが、その後から先生たちが飛び出して来ました。そして、差し出される手、手、手。握手ぜめです。

ルカリロ小学校の子供たち

資金不足のために床や壁や屋根のない校舎を見学した後、広場で盛大な歓迎会です、私たちは村を訪れた初めての外国人なので、村人たちも三三五五集まってきました。

村人たちも総出です

アフリカ特有のダンスから始まり、クラス毎の合唱、英詩の暗唱と、会は延々と二時間以上続きました。最後は「イシェコンボレリアフリカ」の大合唱。それに対し、相方がお礼の言葉を述べて、会は終わりました。

音楽の先生と歌う女子生徒たち

けれどその後には、各クラス、さらには全体の記念撮影が待っていました。この国では、ショナ人たちが写真を撮る機会は、ほとんどありません。彼、<迷カメラマン>の大活躍です。

ほぼ300人全員での記念撮影

 撮影会の後、ゲイリーの家にもどりました。幾つものインバ(小屋)で出来た彼の家から、遥か向こうの山裾までがゲイリーの土地です。つい百年前までは、この土地で自給自足の生活が可能だったそうです。

1980年に独立はしたのですが、白人優位の経済機構は変わらず、ほとんどのショナ人は以前と同様に、街へ出稼ぎに行かなければ暮らしていけなのが、現状です。

ゲイリーの家族といっしょに

丘を背景に、子供たちいっしょに



小島けいのジンバブエ日記7回目:ボローデール行き

小島けいのジンバブエ日記7回目:「8月25日ボローデール行き」(小島けい)

借家の玄関口

アフリカでは毎日<ふつう>に食べることが、なかなか大変です。ホテルに滞在せず、車を運転しない私たちにはなおさらです。

公の交通手段はほぼ無いものと思って下さい、とはハラレに来る前から聞いていました。けれども度重なる手続きや買い物に、いろいろお世話になっているハラレ在住の吉國さんの奥さんに、頼ってばかりもいられません。そこで自転車を二台購入しましたが、戦前の日本にあったような(?)、ペダルを懸命にこいでも思うようには進まない自転車では、どうしようにもありません。

ある日、少し勇気を出して、なかなかつながらない電話で、何とかタクシーを呼んでみました。街なかまで約十五分、三百円程度。運転手はみんな、人のいいショナ人です。ドアが閉まりにくかったり(きっちり閉まらない場合も、そのまま走ります)、窓ガラスが割れてギザギザだったり。ちょっとスリルはありますが、少し慣れれば、私たちには結構便利な乗り物でした。

日常の食料品はほとんど、自転車で20分ほどのショッピングセンターでかろうじてすませますが。限られた材料でメニューがまんねりになると、食欲も体力も落ちてしまいます。そこで、ちょっと遠くの白人街にある高級ショッピングセンター「ボローデール」まで、出かけてみることにしました。

今日の運転手も気持ちのいいショナ人です。場所を言うと地図で確認して、さあ出発。お昼はおいしいイタリア料理だ!と話題も弾みます。

が、どうも途中から様子が変です。前に吉國さんの奥さんに連れて行ってもらった道とは、明らかに違います。目的地からどんどん離れていくようなのです。そして運転手の顔にも、不安の色が浮かんできました。

何度も頼みこんでようやく、彼は人を見つけて道を尋ねてくれました。やはりずいぶん方角が違っていたようです。

借家の前の道路

そこで車はUターンしましたが。ほっとしたのもつかの間、また予想に反する方向に向かい始めます。こうなっては私の勘をを頼りに、かなり強い口調で指示するしかありません。そうこうして、通常の何倍もの時間をかけて、やっとのことでボローデールに着いた時には、運転手はじめ全員がぐったり疲れていました。

帰りは、食事と買い物の時間を考え、三時間後にこの場所に来てくれるように頼みました。

ところが、ゆったり楽しんだ三時間後、約束の場所にタクシーがいません。また、まっ青です。1台の公衆電話もバスもない白人街では、帰る方法が全くありません。

あせる気持ちをおさえながら、必死で手分けして探しまわったあげく、少し離れた広場に一台のタクシーを見つけました。その無線を借りてタクシーを呼んでもらおうと中をのぞくと、例の運転手が深く眠りこんでいます。彼は街へもどらずに、ずっとここで待っていてくれたのでした。

”まいったなあ”とつい微笑んでしまうしかないような、アフリカの「ミスター運転手」でした。

近くのショッピングセンターに行く途中で

 



私の絵画館:「三太とノアと子供たち」

私の絵画館:「三太とノアと子供たち」(小島けい)

この絵をいつ描いたのかは、はっきりしません。
いつものポーズで横たわり、優しくみんなを見ている犬の三太は、13年前に亡くなりました。お気楽に毛づくろいをしている猫のノアは、3年前に見送りました。
ノアは渋谷の中央郵便局の前で泣き叫んでいるのを、娘に保護されました。生まれてまもない状態だったとか。そしてある春の日、宮崎に帰ってきた娘のコートの胸元から、何の前ぶれもなくちょこんと顔を出しました。それが、三太とノアの新しい生活の始まりでした。
絵の中のノアは、まだ幼くて細身ですので、きっとその衝撃の出合いからそれほど時間をおかずに、この絵はできたのだろうと思います。
<人のいい>三太は、やんちゃ盛りの子猫のノアに何をされても怒りませんでした。熟睡中に突然耳をガキッ!とかまれたりと大変なこともありましたが。それでも新しい家族を迎えて、三太も楽しかったのではないかしらんと、この絵を久しぶりに見て思いました。



2020新年のご挨拶

あけまして おめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

遠い以前から繰り返されてきた昨日から今日に変わることが、どうしてそんなにおめでたいの?と肩ヒジ張っていた時代も、確かにありましたが。
今や「ふつう」に昨日が終わり「ふつう」に今日が始まる。ましてそれが、人も猫たちも何とか元気でむかえられるなら、それほど有り難いものはない、と思います。

亡くなった母は、元日の朝起きていくと、いつもより少し上等の着物にまっ白な割烹着を着て、改まって<あけましておめでとうございます>と、子供の私にも丁寧に挨拶をしました。
その母の思いが、この頃ようやくわかるようになりました。

わかることは、いつもそんなに遅すぎるのですが。



2019年の終わりに

現在、ご注文の絵を描くのと並行して、お世話になったり個展に来て下さった皆様に、お礼のお手紙を書いているまっ最中です。いつものようにアトリエも混乱を極めたまま、今年が終わりそうです。<一度落ち着いて振り返り・・・・>などできないままですが、カレンダー『私の散歩道2020』~犬・猫・ときどき馬~を作ることができ、カフェ&ギャラリー「Roomer」で個展もできましたので、<まあ、いいか・・・>という感じでしょうか。

2020年カレンダー

 今年の個展で、新しいご注文をたいただいたのはもちろん嬉しいことですが。同じ方たちから2枚目や3枚目のご注文をいただけたのは、何よりの喜びでした。ありがたいなあ・・・と思いふと思い返してみると、犬・猫・馬など数えきれないほどの絵を描かせていただいている(乗馬で通っている)牧場のオーナーは別格としても。今年はこの犬、次はもう一匹の犬、翌年は猫たちで・・・・と続き、さらにはお友だちへの贈り物としてその方の馬と犬を、と今まで6枚のご注文を下さっている方もおられます。
そこまでの枚数ではなくても、ご注文や絵の購入を2枚3枚となにげなく続けて下さる方はたくさんおられ、今の私があるのは、そのような皆様のおかげなのだと、改めて実感致しました。皆々様に、心より御礼申しあげます。す。

皆様、今年もほんとうにありがとうございました。

カレンちゃんとイルミネーション

 



小島けいのジンバブエ日記:6回目8月15日

6回目 8月15日(晴れ)トラック来宅

(5回目の原稿が見当たりませんので飛ばしています。)

 

500坪ほどの借家

 この家に住み始めてひと月近くになりますが、時折、予期せぬ訪問者がやって来ます。 3日目の朝早く、一人の白人女性に、車の調子が悪いので電話を貸してほしい、と起こされました。車はすでに門の中です。庭番のゲイリーに門を開けさせたわけですから、家主の親戚かもしれません。電話をすませると礼も言わずに、故障のはずの車でさっさと帰って行きました。あの人は何だったのだ?と今だにわかりません。(けれど、後で考えると、家主から頼まれて偵察にきたのだろうと思われます。)

家の玄関口

 8日目にはYAMAHAの赤いバイクに乗ったおじさんが突然やって来て、「今日中にたまっている電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ」と脅して帰っていきました。私たちは慌ててタクシーを呼び、街中の電気会社に行きました。そして、長い行列に並んでようやくわかったことは、家主の老婆がたまっていた電気代を払っていなかったこと。そのため、代金を支払わなければ、電気がほんとうに止められてしまうということ。さらにわかったことは、全額ではなくても一部を支払えば当座電気は止められずにすむというものでした。
日本と全く違う電気料金のシステムに、使ってもいない多額の電気代を全額私たちが払うのか?と、一度はまっ青になった出来事でした。
そして今朝は、門からまっすぐ一番奥の台所まで大型トラックがずんずん入って来ました。その運転手は、契約が切れたから食卓セットを持って帰る、と強気です。ちょうど食卓についていた私たちは”では、どこで食べればいいの?”と食べかけの朝食を見ながら、うろたえました。
どうやら食堂の家具はすべて、家主がみえをはって借りたもののようです。とにかく今は困るので、私たちの帰国後取りに来てもらうように何とか頼み、帰ってもらいました。やれやれ、です。

家の前の通り