小島けいの世界

☆1 新作・2月私の絵画館


***

☆ →「新年のご挨拶・1月私の絵画館」

***
新作・2月絵画館:<りんちゃん、すずちゃんとメキシコのサボテン>

 最近は高齢者と呼ばれるようになっても、元気に活躍されている方がたくさんおられます。それも70歳代、80歳代をこえてです。そのような<アラハン>(100歳前後)世代の本がよく売れているとか。
 確かにそのお年まで元気に生き抜くためには、それぞれ何か信念というか哲学のようなものを持っておられるはずで、私も聞いてみたいなあ、と思います。
 そんなお一人が、美術家の篠田桃紅さんです。私がその方のことを知ったのは2・3年前でしたが、ちらっとみた作品に<すごい迫力だ>と感じたことを覚えています。
 ところが、現在も進行形で活躍しておられるようで、御年105歳。アッパレ!としかいいようがありません。
 その桃紅さんの言葉の一節に<ことわる勇気をもとう>というのがあると聞きました。昨年末に思いあたることがあった私は、少しばかり後悔もまじって<ほんとうだなあ・・・・>と、つくづく思いました。元気でなければ、自分の描きたい絵も描けないからです。
 私は20代~30代にかけて、神戸で伊川寛という先生の絵の教室に通っていました。そこでは、ヌードのモデルさんを中心に、それぞれが好きな場所で、それぞれが好きな画材で絵を描いていました。痩せて飄々としておられた先生は、小磯良平と同期だったそうで。<あいつはうまいことマスコミにのったからなあ>と、少し悔しそうに話されるのを何度か聞いたことがありました。
 その教室のグループは、毎年神戸の元町駅近くの画廊でグループ展をしていました。メンバーの中には、私も尊敬している<ほんものの画描きさん>もいましたが、おおらかなメンバーは、段違いに下手だった私も、快く参加させてくれました。
 先生は晩年、透析のために入院され教室にはこられなくなりましたが、私はグループ展に出す絵を必ず先生のところに持っていき、見ていただきました。
 ベッドに寝ておられる先生は、私の顔をみると笑顔になりムクッと起きあがり<絵の具をかしてごらん>と言われます。そして<一応これはこれでいいんだが・・・・>と言いつつも、気になる箇所にちょっちょっと筆を加えて下さいました。すると、下手な絵なりに見事にレベルアップするのです。<そうか、そう描くのかあ・・・・>と、私はいつも目の覚める思いでその筆使いをみていました。
 グループ展には、毎年先生も絵を出しておられましたが、私が最後に見たのは一枚の水仙の絵でした。小磯良平とは全く違うけれど、先生は都会的な軽妙でおしゃれな絵を描かれており、私はその画風がとても好きでした。
 ただ、先生が病室で描いたであろうその水仙の絵は、これまでの先生の絵とは少し違ってみえました。
 描きたい絵を描くためには健康でいなければならないことを、私はその時ぼんやりとでしたが、実感しました。そのしばらく後、先生の息子さんから宮崎に住む私のところに訃報が届きました。
 それだけに、105歳でなお描きたい絵を描いておられる桃紅さんは<偉人だ>と思ってしまいます。
 実力、体力、気力、いずれも、くらべることさえ恐れ多いことですが。ほんの少しでも近づきたいものだと、ひそかに願っている私です。

 2018年度として、ようやく1枚目の作品が完成しました。
 東京在住のりんちゃんとすずちゃんがモデルです。飼い主さんは、昔長い間メキシコで暮らしておられたそうで、ウチワサボテンと柱サボテン、そしてメキシコの太陽を一緒に、というご希望でした。
 知っているようで、ほんとうは何も知らないメキシコでしたので、メキシコの空は?土の色は?から始まり、けっこう長い時間がかかってしまいましたが、昨日OKのお返事をいただけてほっと致しました。
 今年りんちゃん(白色)は12才、すずちゃん(グレイ)は4才ですが。昨日のお電話の時も、すぐ横で<二人>の元気な声が聞こえていましたので、安心しました。
 一昨年、昨年と続き、今年も<三人>にお会いするのがとても楽しみです。


☆2 私の絵画館(毎月ここに連載します。)

「私の絵画館一覧」→「2017年「私の絵画館」一覧」(門土社のメールマガジン「モンド通信」に連載されたものです。)


☆3 次の絵もどうぞ。

「サンデーくん(2017/3/13)」

クリックで絵が出ます→「モクくん(2017/3/4)」、→「カレンちゃん(2017/2/5)」、→「ルージュ(2017/1/2)」、→「新作:シェルターとログハウス」、→「新作:ルーマー」、→「新作:白い椿」、→「朔太郎くんとかぼちゃとベッド(2015/4/21)」、→「白い椿(2015/4/21)」、→「ルーマー(2015/4/21)」、→「シェルターとログハウス(2015/4/21)」、→「青い街と黒猫(2014/9/27)」、→「ミー子と椿(2014/9/21)」、→「ケルピーとラ・ブランと木立ダリヤ(2012/9/6)」、→「ゴロと白百合(2014/8/17)」、→「ツヨシと海(2014/7/28)」、→「ケーシー、ムギ、コトと山藤(2014/7/1)」、→「レイチェル、ジェリー、ジャガーと野菊(2014/8/10)」、→「ポチくんとコスモス(2014/6/12)」、→「ララとベルフラワー(2014/5/29)」、→「ナナちゃんと桜(2014/4/17)」、→「アルトくんと菜の花(2014/4/29)」、→「アルトくんとのアネモネ(2014/4/4)」、→「モアくんとの海(2014/3/1)」、→「ダックスくんといちょう(2014/4/4)」、→「ツルマルツヨシとのうぜんかずら(2013/9/15)」、→「ターバン君とコスモス(2013/9/8)」、→「バロンと紫陽花(2013/9/1)」、→「ピノキオとマックス(2013/8/17)」、→「ぺぺとリリと梅(2013/8/4)」、→「まめちゃんとひまわり(2013/7/11)」、→「ゆきちゃんとミニチューリップ(2013/6/23)」、→「アイちゃんと福丸くんとライラック(2013/6/12)」、→「シロ君とさくら(2013/6/4)」、→「ぎん君とモモちゃんと三色菫(2013/3/7)」、→「三色菫(すみれ)(2013/3/6)」、→「ベティちゃんと水仙(2013/2/3)」「水仙(2013/1/30)」、→「武藏くんとポインセチア(2012/12/17)」、→「ポインセチア(赤)(2012/12/17)」、→「ポインセチア(ピンク)(2012/12/10)」、→「ショー子ちゃんとブラックナイト(2012/11/27)」、→「ブラックナイト(2012/11/10)」、→「子犬と姫蔓日々草(2012/8/5)」、→「ピノコと梅(2012/8/2)」、→「子猫と銀杏(2012/7/28)」、→「ももちゃんちの子犬(2012/7/21)」、→「バーニーと水仙(2012/7/10)」、→「クーちゃんとハイビスカス(2012/6/29)」、→「てんまとカサブランカ(2012/6/5)」、→「芍薬(2012/5/9)」、→「チェリーちゃんたちとチューリップ(2012/5/9)」、→「さくらちゃんと桜(2012/4/15)」、→「チューリップ(2012/3/28)」、→「椿(2012/3/12)」、→「ラックくんとアンくん(2012/3/4)」、→「玄風(2012/2/3)」


☆4 カレンダー

「私の散歩道2018~犬・猫・ときどき馬」です。

2018年カレンダー表紙
表紙
2018年2月 2018年3月 2018年4月桜
1月 2月 3月 4月
2018年5月 2018年6月 2018年7月 2018年8月
5月 6月 7月 8月
2018年9月 2018年10月 2018年11月 2018年12月
9月 10月 11月 12月

詳しくは→2018年カレンダーをどうぞ。

ご希望の方はメール:tamadayoshiyuki@gmail.comでお申し込み下さい。

2008年に小島けいの名前でオムロプリントという長崎の印刷・広告会社からお誘いがあり、「私の散歩道2009」が出たのが最初です。紀伊國屋や東急ハンズなどにも置いてもらいました。
 東京ビッグサイトで開催されているデザインフェスタに絵やカードを出品していた時に、オムロプリントからお誘いがありました。花は企業向けのカレンダーです。何個かの企業が使ってくれています。詳しくは→クリカレCreators’ Power Calendar

今までのカレンダー:

「私の散歩道2017~犬・猫・ときどき馬」
「私の散歩道2016~犬・猫・ときどき馬」
「私の散歩道2015~犬・猫・ときどき馬」
→「私の散歩道2014花」(作業中)
「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」
「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬そして鸚鵡~」
→「私の散歩道2013花」(作業中)
「私の散歩道2012~犬・猫・ときどき馬~」
「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」
→「私の散歩道2011花」(作業中)
→「私の散歩道2010」(作業中)
→「私の散歩道2010花」(作業中)
→「私の散歩道2009花」(作業中)
「私の散歩道2009」
→「2008年」(作業中)
→「2007年」(作業中)
→「2006年」(作業中)
→「2005年」(作業中)
→「2004年」(作業中)

(2004年~2008年は世の中に一つだけのカレンダーです。)


☆5 個展

2008~2012年:大分県飯田高原→九州芸術の杜ギャラリー夢
2013年~:東京都世田谷区祖師谷「ルーマー」→Cafe &Gallery Roomer

2017小島けい個展→「個展始まりました!」

2014年個展→「個展が終わりました。告」

2012年個展→「2012年個展報告」

2011年個展→「2011個展、ありがとうございました。」

2010年個展→「<ギャラリー夢>に行ってきました!」

2009年個展→「小島けい個展 2009に行きました。」

(2008年に初めて個展をしましたが、報告は2009年からです。)


☆6 この一作(作業中です)


(作業中です)

→犬(作業中です)

→猫(作業中です)

→馬(作業中です)

→その他(作業中です)


☆7 額に入りました

13_3_30ぎん君とももちゃんと三色菫 ぎん君とモモちゃんと三色菫です。

元の絵は→「新作です:ぎん君とモモちゃんと三色菫(2013/3/6)」

13_3_30額ベティちゃんと水仙 ベティちゃんと水仙です。

元の絵は→「新作です:ベティちゃんと水仙(2013/2/3)」

13_3_30額山羊の親子 山羊の親子(旧作)です。

13_3_30三色菫 三色菫です。

元の絵は→「新作です:三色菫(すみれ)(2013/3/6)」

13_3_30菖蒲 菖蒲(旧作)です。

13_3_30水仙 水仙です。 

元の絵は→「新作です:水仙(2013/1/30)」

 →額に入りました(2013/1/17)、→額に入りました(2012/12/16)、→額に入りました(2012/7/10)、→(2012/7/10)、→(2012/5/31)もどうぞ。


☆8 本の装画・挿画

「本の装画・挿画一覧」(門土社・門土社総合出版・Mondo Books)

アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)


☆9 販売情報

 →COWBOY UP RANCH(カウボーイ アップ ランチ ウエスタン乗馬クラブ in MIYAZAKI 宮崎市清武町大字今泉甲6618)
→「はこ動物病院」福岡県遠賀郡岡垣町吉木東


更新ページに続きます ↓  


☆10 更新ページ



新作・2月私の絵画館

 <りんちゃん、すずちゃんとメキシコのサボテン>

 最近は高齢者と呼ばれるようになっても、元気に活躍されている方がたくさんおられます。それも70歳代、80歳代をこえてです。そのような<アラハン>(100歳前後)世代の本がよく売れているとか。
 確かにそのお年まで元気に生き抜くためには、それぞれ何か信念というか哲学のようなものを持っておられるはずで、私も聞いてみたいなあ、と思います。
 そんなお一人が、美術家の篠田桃紅さんです。私がその方のことを知ったのは2・3年前でしたが、ちらっとみた作品に<すごい迫力だ>と感じたことを覚えています。
 ところが、現在も進行形で活躍しておられるようで、御年105歳。アッパレ!としかいいようがありません。
 その桃紅さんの言葉の一節に<ことわる勇気をもとう>というのがあると聞きました。昨年末に思いあたることがあった私は、少しばかり後悔もまじって<ほんとうだなあ・・・・>と、つくづく思いました。元気でなければ、自分の描きたい絵も描けないからです。
 私は20代~30代にかけて、神戸で伊川寛という先生の絵の教室に通っていました。そこでは、ヌードのモデルさんを中心に、それぞれが好きな場所で、それぞれが好きな画材で絵を描いていました。痩せて飄々としておられた先生は、小磯良平と同期だったそうで。<あいつはうまいことマスコミにのったからなあ>と、少し悔しそうに話されるのを何度か聞いたことがありました。
 その教室のグループは、毎年神戸の元町駅近くの画廊でグループ展をしていました。メンバーの中には、私も尊敬している<ほんものの画描きさん>もいましたが、おおらかなメンバーは、段違いに下手だった私も、快く参加させてくれました。
 先生は晩年、透析のために入院され教室にはこられなくなりましたが、私はグループ展に出す絵を必ず先生のところに持っていき、見ていただきました。
 ベッドに寝ておられる先生は、私の顔をみると笑顔になりムクッと起きあがり<絵の具をかしてごらん>と言われます。そして<一応これはこれでいいんだが・・・・>と言いつつも、気になる箇所にちょっちょっと筆を加えて下さいました。すると、下手な絵なりに見事にレベルアップするのです。<そうか、そう描くのかあ・・・・>と、私はいつも目の覚める思いでその筆使いをみていました。
 グループ展には、毎年先生も絵を出しておられましたが、私が最後に見たのは一枚の水仙の絵でした。小磯良平とは全く違うけれど、先生は都会的な軽妙でおしゃれな絵を描かれており、私はその画風がとても好きでした。
 ただ、先生が病室で描いたであろうその水仙の絵は、これまでの先生の絵とは少し違ってみえました。
 描きたい絵を描くためには健康でいなければならないことを、私はその時ぼんやりとでしたが、実感しました。そのしばらく後、先生の息子さんから宮崎に住む私のところに訃報が届きました。
 それだけに、105歳でなお描きたい絵を描いておられる桃紅さんは<偉人だ>と思ってしまいます。
 実力、体力、気力、いずれも、くらべることさえ恐れ多いことですが。ほんの少しでも近づきたいものだと、ひそかに願っている私です。

 2018年度として、ようやく1枚目の作品が完成しました。
 東京在住のりんちゃんとすずちゃんがモデルです。飼い主さんは、昔長い間メキシコで暮らしておられたそうで、ウチワサボテンと柱サボテン、そしてメキシコの太陽を一緒に、というご希望でした。
 知っているようで、ほんとうは何も知らないメキシコでしたので、メキシコの空は?土の色は?から始まり、けっこう長い時間がかかってしまいましたが、昨日OKのお返事をいただけてほっと致しました。
 今年りんちゃん(白色)は12才、すずちゃん(グレイ)は4才ですが。昨日のお電話の時も、すぐ横で<二人>の元気な声が聞こえていましたので、安心しました。
 一昨年、昨年と続き、今年も<三人>にお会いするのがとても楽しみです。



新年のご挨拶・1月私の絵画館

2018年新年のご挨拶

↑ 2004年1月

2018年1月3日

 まぁるい月を見て、眠り。目覚めたら新しい年が始まっていました。摩訶不思議。
 捨てられるカレンダーと共に、一年間におきた様々な出来事やいろいろな思いも、昨年へと遠のきます。

 元旦。誰もいないキャンパスのグラウンドをひとり占め。久しぶりに芝の上を少し歩きます。見上げれば、お陽様にむかって、飛行機雲が一本のびていきます。<ぜいたく>な時間です。そこからキャンパスの西の端へむかい、赤い実をつけた「ごんずい」の枝を3本、道路横の雑木林からいただいて帰りました。

 2日。今日はグラウンドには先客の方がいたので遠慮して、フィールド・センターの方へ。少し奥まったところにひっそりと、そして堂々と咲く「バーフィニア」に会いました。
 25年前に行ったジンバブエの首都ハラレで見た花が、ここ宮崎でもいくつか見られます。紫色の花をつけるジャカランダや、一本の木で白・うす紫・紫の花を同時に咲かせる「昨日・今日・明日」と呼ばれていた花。そしてこのひときわ大きな木にピンクの大きめの花が咲くバーフィニアです。
 何年か前、花の少ない冬の季節にピンクの花が咲いているのを遠くから見て、何だろう?と奥の方へ入っていき、見つけました。
 今日は、久しぶりにこの花に会えて、<ラッキー>でした。

 3日。今日は少し遠くの加江田川の方へ自転車を走らせました。
 昨年秋、大型台風がやってきた翌日に行くと、それまで見たこともない水の量で荒々しく流れていました。そして驚くほどたくさんの白鷺が両岸に舞っていました。上流から押し流されてくる魚をねらって、待っていたのです。
 川沿いのハイキングコースが始まる駐車場には、すでに12、3台の車が止まっていました。その駐車場へ下りていく途中で、今日初めて稲荷神社があるのに気付きました。50段の石段に一瞬ちゅうちょしましたが、せっかくなので登ってお祈りしました。これが私の<初詣で>です。
 今祈ることはただ一つ。<みんなみんな(人も猫も)元気ですごせますように>です。
 そこから山の坂道を登り、下り、大廻りをして住宅地の方へもどってきました。
 何回も通っている道なので、そうそう珍しいものには出会えませんが。きれいな葉っぱや実はないか。何か絵のヒントになるものはないかしらんと、左右に気を配りながら山道を走る時間は、とてもわくわくします。

 こんなふうに穏やかに、私の2018年のお正月がすぎました。
 それもこれも、三匹の猫たちが今落ちついて、ほがらかにすごしてくれているおかげです。
 生きていれば、真新しい1年にはまた、いい事つらい事とりまぜておきるのでしょうが。せめていい事楽しい事がひとつでも多くありますようにと、願わずにはいられません。
 皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。

私の絵画館2018年1月

↑ 2004年2月

↑ 2005年1月

↑ 2005年2月

↑ 2005年3月

 これらの花の絵は、いつ描いたものかわかりません。確かなのは、結婚してから30年間のいつか、ということです。
 私は30年間たったひとりのために、毎年手作りカレンダーを作ってきました。毎月の数字に添えて描いたのは、花でした。
 それらは1年間使われた後、役目を終えて捨てられてきました。そのカレンダーを見て娘が<たった一人の人しか見ないのは、もったいないなあ>と言い始めたのは、ずいぶんと年月がたってからでした。
 そう言われて、初めて私も<そうだねえ。たくさんの人に見てもらえたら嬉しいのにねえ>と思いました。
 今から10年前、その日は突然やってきました。長崎県の印刷会社から<花のカレンダー>を全国発売したいというお話をいただいたのです。
 その何年か前から、息子がデザインフェスタで私のカードを販売してくれていました。それを印刷会社の社員の方が見て下さり、最後に社長さんも直接ご覧になり実現に至りました。
 これが私とカレンダーとの出会いです。
 現在では、犬ちゃんや猫ちゃんたちのご注文の絵におわれ、じっくり花の絵を描く余裕もないのですが。今年は原点にもどり、花や風景にももう少し力を注いでいけたら、と思っています。
 それにしても12ヶ月×30年。全て捨てずにいたら、360枚の花の絵が残っていたはずなのですが。これまでの人生、何の計算もできずに<行きあたり、バッタリ!>でやってきたのですから、しかたありませんね。
 この数枚だけでも、アトリエの混乱の中から見つかったことを<良し>とすることに致します。

↑ 2006年1月

↑ 2006年2月

↑ 2006年3月

↑ 2007年1月

↑ 2007年2月

↑ 2007年3月

↑ 2007年4月



がま口の貯金が二円くらいになりました

ブログを借用します(玉田吉行)。


ー貫名美隆先生を悼んでー


「ゴンドワナ」3号1986年8-9ペイジ

<解説>

 初めての依頼原稿です。門土社(横浜)から貫名さんの追悼集を出すから何か書いて欲しいと依頼があって書いたものです。
 大学には行きたかったものの、受験勉強に馴染めず、結局入れる所に行ったこともあり、英米学科にもかかわらず英語も含めて何もしませんでした。元は文章だけですが、解説と写真を付け加えました。

ドゥレイク氏

 11月下旬に、私はミシシッピー州立大学で行われたリチャード・ライトの死後25周年記念国際シンポジウムに参加する機会を得たが、その時、発表者の一人でもあり、ライトがその序をよせた『ブラック・メトロポリス』の共著者でもあるドゥレイク氏に、ある親しみを覚えた。白髪の風貌と瓢瓢とした語り口が、貫名さんのイメージと重なったからである。名誉教授であること、年齢がほぼ同じであることも、その要因の一つだったかもしれない。10月15日のお葬式の日に、菊の花を添えてお別れした死に顔が、なぜかちらついて仕様がなかった。マーガレット・ウォーカー女史の出版記念パーティの席上で、いたたまれず、ドゥレイク氏にそのことをお話ししたら、やさしい目で微笑んで居られた。私がつい一週間前に『ブラック・メトロポリス』の文献複写を依頼したことを告げると、一部お送りしましょうと言って下さった。また、貫名さんが、1954年に黒人研究の会を創設されたことに触れると、一瞬驚きの表情を示された。3日間の期間中に、様々な人と喋ったが、1954年の創設の話をした時の反応は一様に「驚き」だった。30年余の歴史の重みを、アメリカの地で知ろうとは夢にも思わなかった。


シンポジウムの特集記事を掲載した雑誌


 雑誌の中に紹介された写真:ファーブルさんと

二冊の本

 1981年に私は初めてアメリカの地を踏んだ。「行くこと」が主な目的だったせいか、あまり人とも喋らず、ひたすら本屋、古本屋を歩きまわった。お蔭で思わぬ拾いものをしたが、その時もとめた二冊の本を貫名さんへのおみやげにと持ち帰った。一冊は、1942年にライトが「地下にひそむ男」のタイトルでその草稿の一部を発表したクロス・セクション誌の『1940~1960年秀作特集』で、もう一冊は、ライトの『アフリカの飢え』だった。帰ってから、二冊の本と菊の花を一枝持って、何度か貫名さんのお宅をおたずねしたが、決ってお留守だった。いつも、庭に水をはって置いてあったバケツに花をそっと投げ込んでは、黙って戻って来た。菊はしつこく枯れないから、どうも好きになれない花なのに、どうしてよりによって菊の花を選んで持って行ったりしたのか。


クロス・セクション誌『1940~1960年秀作特集』

 それ以降にも、いく度となくお渡しする機会はあったはずなのに、その二冊の本は、今も本箱の片隅に眠ったままである。持ち主となるべき人の手元に、今はもう届ける術はない。
祖父と孫
 今、私の手元に1971・5・28の日付け入りの10枚からなる手書きのレジメがある。とじるのに用いたホチキスがさびついて赤くなっている。貫名さんから戴いた葉書きを探していて見つけたものだが、ゼミの発表時にくばったもののようだ。「親(父)と子の愛情について-HARPER LEE 著 TO KILL A MOCKINGBIRD より」と題してあり、拙い数匹のものまね鳥らしきもののカットが見える。そして、「作者は三つのこのそれぞれの親子関係を前後にならべることによって親の子に対する影響の大なること、ひいては人の愛の絶大なることを訴えている気がしてならない。」と結んである。どうも、登場する三組の親子関係を比較したようだ。
後にも先にも、これが一度きりの発表だった。15年経った今、詳細は必ずしも定かではないが、断片的な記憶は残っている。
 登場人物を明らかにするために、主人公の家で働く黒人女性カルパーニヤに”their cook” (negress)の説明を付した。本文でしばしば見かけた niggerの女性形を知っているぞと私は言いたかったのであろう。貫名さんから「negressという言葉が使われてましたか」と問われた時、私は「たしかに見たのですが……」と言いながら、一応、必死に本をめくってみせた。帰宅してから詳しく調べてみたが、negressの語は見当たらなかった。
 時間もなく、自信もなかったので、引用には翻訳本をそのまま借用した。貫名さんが「これはだれかの訳ですか、それともあなたの訳ですか」と聞かれた時、私が「菊池という人の訳です」と答えたら、みんながどっと笑った。なんだ自分で訳もつけられないのか、というあざけりのひびきがあった。「そうですか」とおっしやった貫名さんの目は笑ってはいたが、決して責めてはいなかった。
 親への飢えを常に感じながら育った私は、勝てないとわかっている裁判の弁護をあえて引き受け、身をもって子供に生き様を示した父親アティカスに羨望を覚えたことだろう。しきりに、父親の子に対する義務が如何に大きいかを力説したようだ。じっと耳を傾けておられた貫名さんは、最後に「玉田クン、親に子を育てなければならない義務は、やはり、あるんですかね」と一言だけ、ぽつんとおっしやった。

教壇の真下の席

 ゼミが一年間しかなかったことや、卒業する年に貫名さんが居られなかったこともあって、とうとう私は卒業論文を書かずじまいであった。今回、アメリカ南部のある本屋で、It Is a Sin To Kill a Mockingbird (『アラバマ物語』の題で翻訳出版)の3種類のテキストを見つけて買い求めたが、どうやら、今から私の〈卒論〉を仕上げるつもりでいるらしい。 私は「良い」学生ではなかった。はじめから、学校そのものに期待していなかったせいか、授業に「出る」ことをあたりまえと信じ込んでいる人達には、どうしてもなじめなかった。大抵は何度目かの授業が私のはじめての「出講日」だった。貫名さんの授業の場合も例外ではなかった。テキストが教室で販売されたと聞いて、臆面もなく研究室に買いに出かけたのは夏休みも間近かの頃だ。授業に、出ないことなんか、気にもとめておられない貫名さんの表情に、却ってこちらが気おくれしてしまって、「ぼく、川端さんが自殺なさった気持ち、わかる気がします」と言う言葉がつい口から出てしまった。褌に着物、下駄ばきに風呂敷き包みの出て立ちで、天城越えをするなど、当時の私は川端さんに相当いれこんでいたからであろう。とにかく、とっさに口がすべってしまったのである。貫名さんは、私をまじまじとごらんになってから「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」とおっしゃったが、目は実に優しかった。


『アラバマ物語』(暮らしの手帖社)

 授業にはあまり出ないくせに、出ると決って質問をした。大抵の場合、あらかじめ質問の答えを用意をして居て、かえって来る答えで教師のランク付けをやっていたのだ。貫名さんにも、私はやっぱり質問をした。ところが答えがいつも違うのだ。準備していたランクに貫名さんの答はおさまりきらないのだ。私の思考形態の範疇を超えていたというわけだ。私はいささかまいった。それ以降、授業に出るときには、必ず人より早く行き、黒板を丁寧に丁寧に、拭いた。そして教壇の真下の席に座った。少し離れるとぼそぼそと話される内容が聞き取れないということもあったが、誰にも教壇下の席を譲らなかったという芥川龍之介さんのまねをして、私なりの敬意を表したかったのだ。
 貫名さんにはオーソリティという言葉がよく似合う。偉大すぎて却ってこわいという声も耳にしたが、「偉大さ」をわかり切れなかったせいか、私にはやさしいばかりの存在だった。叱られたことがない。negressの無知浅学についても、間違いをずばりと指摘なさりはしなかった。翻訳のことについても、不勉強を責めたりはなさらず、少し余地を残して下さった。今にして思うと、私にとっての貫名さんは何をしても叱られることのない「祖父」であり、貫名さんにとっての私は叱る気にもなれない「孫」ではなかっただろうか。
 ゼミで、貫名さんが最初に言われたのは「勝手にテーマを決めて、勝手にやって下さい」だった。何とほっとしたことか。高校では丸刈りに、運動靴、学生服の下には白のカッターシャツを着せられて、帽子をかぶれだの、通学路を守れだのと、園児か、まるで牛馬の如き扱いを受けていたから、なおさらだった。やることを自分で決めて、自分でやれることが如何にうれしかったことか。
 その年がゼミを担当された最後の年だったことや、お身体の調子が悪かったことなども重なったせいか、やたら休講が多く、たしか半分ほどしか授業がなかったと思う。それに、私の方でも、すすんで「自主休講」の措置をとるものだから、よく考えてみると、結局、数回ほどしかゼミで貫名さんにお目にかかれなかったことになる。それでも、成績表を見たら優がつけられてあった。
 今、私は学生に惜しげもなく単位をあげ、優をつけている。どうやら、無意識のうちにこの時のご恩返しをやっているらしい。


神戸市外国語大学旧学舎(神戸市東灘区土山町)

がま口の貯金

 あるとき入院なさっていると聞いて、お見舞に行ったことがある。案の定、病院にはおられなくて、小一時間程して貫名さんは「一寸、郵便局まで手紙を出しに行ってましてね」とおっしゃりながら部屋に入ってこられた。
 お身体がよくないのに、かれこれ四時間ほどもお話しして下さったろうか。何をお話ししたのか、あまりはっきりしないが、出来るだけ若い時に外国へ行ったらいいですよ、ロシア文学の英訳本を読んだりするのもいいですよ、などとおっしゃった様な気もする。別れ際に「玉田君は、今、がま口の貯金が一円くらいしかないから、一円でも多く貯金しなさいよ」とおっしゃった言葉が今だに耳にこびりついている。
 あれから、何年経つのだろう。二度、アメリカに行った。高校に七年間、教科に、ホームルーム活動に、クラブ活動に精一杯だった。本を読み、書く時間がどうしても欲しいと考えて高校を辞めた。もう五年になる。その間、少しは本を読み、少しは物も書いた。それでも「がま口の貯金が二円くらいになりました」と言えるのかどうか。
 何年か前から、私は黒人研究の編集のお手伝いをさせてもらっている。今回、会報に貫名さんの訃報を載せた。会報の充実を望んでおられた貫名さんを思いながら、何とかがんばってみた。その編集後記に、私は次のように書きとめた--「…編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名美隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩返しにふさわしいものにしたいと念じています。それが、30年余の歴史を継承する次の布石のひとつになりますように、と祈りながら……」何年も前に貫名さんが蒔かれた〈一粒の麦〉は、ひそかに育ち続けているようだ。


貫名さん

 1985年12月12日            (大阪工業大学非常勤講師)



ライトと『千二百万人の黒人の声』

ブログを借用します(玉田吉行)。

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」

黒人研究」56号(1986)50-54ペイジ

ライトのアフリカ系アメリカ人の歴史書に関する作品論です。
1985年11月にライトのシンポジウムで初めてミシシッピを訪れたとき、ライトが書いたこの歴史に関する本について書きたいと思いました。この年の夏に、またミシシッピを訪ねて一人で歩きました。ファーブルさんの伝記に書かれているライトがかつて住んだ所を歩いてみたいと考えたからです。
ニューヨークからニューオリンズに飛び、そこからプロペラ機で州都ジャクソンに飛び、グリーウッド、ナチェツ、メンフィスと歩きました。
もちろん、ライトの生きた1910年代、20年代のミシシッピが存在するわけもありませんが、歩いてみたいと思いました。そして、この文章を書きました。

Ⅰ. 『1200万の黒人の声』

 『1200万の黒人の声』(1941) は、なかなかの力作である。『ネイティヴ・サン』(1940)と『ブラック・ボーイ』(1945)の谷間にあって、まとまった評こそ少ないが、ライトの人と作品を理解する上で欠かすことの出来ない存在である。
 『1200万の黒人の声』は、2つの点で重要な役割を果たしている。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点である。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業が、結果的に思わぬ副産物を生んだーつまり、苦々しい過去300年の黒人体験を、歴史というフィルターにかけることによって、その忌まわしい過去の体験を濾過し、未来に生かそうとする視点にライトが曙光を見い出し始めた点である。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、当時コミュニズムに殆んど希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの光に見えたことだろう。その視点が、やがて「地下にひそむ男」を、そして『ブラック・ボーイ』を生む。
 『1200万の黒人の声』は、文化として黒人が受け継いできたスピリチュアルズ、ブルース、ジャズなどを盛り込み、自らが朗読してそのレコードをウッドスン博士に献じたラングストン・ヒューズの『黒人史の栄光』のように、有名、無名の戦士たちの栄光への闘いの讃歌ではない。むしろ、英雄たちの「栄光への闘い」の一切を省き、少数の支配者層に搾取され、虐げられ続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」である。1
 『1200万の黒人の声』は、正確な数字に裏打ちされた社会学的、或いは人類学的な歴史書ではない。その序で6つの作品の名を挙げ、概念や解釈の大半を深く依存している点をあっさり断った上で、思い切りの簡素化をはかった、言わばおおざっぱな「歴史書」である。ライトのよき理解者であり、協力者でもあった社会学者ホレイス・ケイトンは、本書を書評として取り上げて次のように語っている。

 私たち社会学者は資料をつくってきたし、その理論も充分承知している。しかし、それが必要としている力や形では述べることが出来なかった……この新書は、簡潔で、直接的で、力強い点において秀れている……ライトが文を書き、ロスカムが写真を配したものと同じ社会がアメリカに存在し得はしないだろう……しかし、その社会は確かに存在する、永年の間、同僚たちと私は数字と地図とグラフによってその社会を描き出そうと努めてきた。今、ライトとロスカムは、今まで誰も語ったことのないような物語を語りかけている。2

 『1200万の黒人の声』は、歴史書というよりはむしろライトの心の「物語」である。小説家のライトが歴史そのものを取り上げたのも、そして極端なまでにその簡素化をはかったのも、ひとえに「歴史」を借りて己を語りたかったからだ。それは『ネイティヴ・サン』でロバート・ニクソン事件を借用はしたが、小説の基調をあくまで「自分自身の感性経験」3 に置いたのと同じである。小説家が歴史家や社会学者の「概念や解釈の大半」を借り、思い切ったその簡素化をやって「己」を語ったからこそ、小説家にしか持ち得ない言葉の力を最大限に生かして読者に強烈なインパクトを与えることが出来たのではないか。その「物語」には、ライトの南部が、ライトの北部が、そしてライトのアメリカが熱っぽく語られている。

Ⅱ. ライトと南部

 南部を語るライトの作品には、いつも反発と愛着が複雑に絡み合っている。人としての存在をかたくなに認めず黒人を疎外し続けてきた白人社会への反発やジム・クロウ体制下で苦しみながら、尚自らの惨状の実体を解し得ない無恥厚顔な黒人達への反発とどんな状況下であれ自分が確かに生まれ、育った風土への愛着などである。しかしながら、苦難の歴史を生き永らえてきた黒人同胞への愛着がこれほどまでに示された作品も少なかろう。
 「毎日埃っぽい農場や街通りの堅い舗道で私たち黒人を見かけても、あなた方はいつもあたりまえだと考えるし、私たちのことを知っていると思っているが、私たちの歴史はあなた方が考えているよりも遙かに奇妙だし、それに私たちは見かけとは違う」4 とライトは語り始める。人間としての生活を営んでいたアフリカから奴隷として無理やり新大陸に連れて来られた祖先のアフリカ人たちを代弁してライトは次のように語る。

 私たちの神は死に絶え、もはや答えてはくれなかった。アフリカの故郷を離れたという精神的外傷、長い間航路の苦しみ、渇き、飢え、奴隷船の恐怖、これらすべてのものによって、私たちは空っぽになり、感覚を失ない、魂を奪い去られてしまった、そして後にはただ心の強い衝動と恐怖感、疲弊感だけが残された。(15ペイジ)

 奴隷として次々に新大陸に送り込まれた黒人たちは、各農園に振り分けられ耕す道具として利用された。解放宣言により、法的に「自由」を保証されはしたが、経済力、政治力を持たない多数の黒人が、ひと握りの金持ち白人土地所有者に搾取される構図は変らず、名前が「奴隷」から「小作人」に変ったに過ぎなかった。それでも、黒人たちの耕す土地は美しかった。ファーブル氏が指摘するように「私たちの耕す土地は美しい……」で始まる次のくだりは、ライトが南部について紡ぎ出した最も美しい文章の一つであろう。5そこにはライトの風土への愛着が滲み出ている。

 私たちの耕す土地は美しい・・・・・・
 南部の春は静かな物音と万物の成育する光景で一杯である。林檎の芽が生き生きと花を咲かせ、忍冬(すいかづら)が家の脇を伝う。向日葵は暑い野で頭を垂れる……・
 夏には泰山木が何マイルにも渡って芳香を野辺に充たす……・蝶が熱気の中をひらひらと舞い、雀蜂が鋭い、跡切れない詩を唄う……
 秋には土地が鮮やかに色づく…綿が摘まれ、綿繰り機にかけられる……
 冬には、林に、冷たい鉛色の冬に燃す薪を集める男たちが出すのであろう、高い木に鉄斧の食い込む音が響く……時折、川は堤から溢れ、後に土地を肥やす厚い沈泥の層が残る、その時、大地の様子はまばゆく物わびしく感じられはするが、はじめての日の静けさと不思議さと畏怖に満ちている。(32-34ペイジ)

 しかし、ジム・クロウ体制の下では、黒人たちが如何に土地を美しく耕そうと収穫が公平に分配されることはなかった。最後の綿が綿繰り機にかけられ、梱詰めが終るとき、結局は更に借金がかさんだことを思い知らされる。そんな時、黒人小作人は目を伏せ、そしてつぶやくのである。

   ひとつの零はひとつの零、
   5はひとつの数字、
   すべて白人のもの、
   「黒んぼ」のもの何もなく……(42ペイジ)

 「火と雲」(1938) の冒頭の場面で、家路を急ぐ主人公テイラーが口ずさんでいたあの歌6 には、そして『ひでえ日だ』(1963)の主人公ジェイクと3人の仲間が、郵便局での仕事中に、南部を懐しんで交した会話の中で歌ったあの歌7 には、実はこんな黒人小作人の恨みがこめられていた。
 美しい風土と残虐な白人社会。その対照は「ビッグ・ボーイは故郷を去る」(1936)のイメージの基調をなしている。黒蝶が舞い、蜜蜂が稔り、忍冬(すいかづら)の甘い香りが漂う。草いきれの中、遠くに列車の汽笛を聞きながら戯れる4人の少年。「犬と黒んぼ入るべからず」の法に触れただけの4人への制裁はあまりにも凄まじかった。風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会がますます酷なものに映る。
 綿花の帝国は、しかし、崩壊し、南部は破産する。多くの農園は北部の大資本家の手中に落ち、トラクターが黒人たちの仕事を奪っていった。黒人たちは増え続ける家族を抱えて行き暮れた。歳月は去来しても、生活の厳しさは増すばかり、「犠性者となるか或いは反逆者となるか」(57ペイジ)、他に道は残されてはいなかった。この選択が「河のほとりで」(1938)の主人公マンの苦境のイメージの一つの基調である。濁流に家ごと流されてしまうか、或いは白人から掠めたボートを使うか。又、ボートの黒人青年に真相を打ち明けて逃亡するか、或いは白人を射殺したことでリンチの憂目にあうことを覚悟するか。又、目撃者の家族を殺すべきか、或いは運よく逃れることを願うか。いずれの場合も、どちらの選択肢にも、希望はない。身重に悶える妻や家族を乗せて、ごうごうと渦巻く暗闇の濁流を遡るマン。やっと辿りついた病院で、妻の死を悼む時間すら与えられずに作業に駆り出され、結局は射殺されて死んで行くマン。そのイメージは、南部「破産」のあおりを受けて、家族を抱えてただ行き暮れる黒人小作人たちのイメージにあまりにも似通っていよう。
 南部じゅうを移動しながら、北部の大資本家の手による「農園工場」で働く黒人たちに、北部の大都市から「自由」への誘いの声がかかった時、かつての白人大地主とかつての黒人小作人との間で次のようなやりとりがあった。

 「おい黒んぼ、どうしようってんだ」       
 「南部の土を足から払ってんでさ、だんな」
 「おい黒んぼ、北部じゃ飢え死ぬぜ」
 「構うもんかね。人間いつか死ぬんでさあ」・・・・・・
 「おめえ、北部じゃ凍えちまうぜ」
 「構うもんかね」・・・・・・
 「聞いた風な口をきくな、黒んぼ」
 「口をきいちゃいないんで、ここを離れてんでさあ」
 「おい、でっけえ学校おっ建ててやるぜ」
 「ここで知事でいるよかシカゴで街燈柱でいる方がましでさあ」(87-88ペイジ)

 『ひでえ日だ』の4人の会話の中にあらわれる「ミシシッピで知事になるよりはむしろシカゴで街燈柱でいる方がいい」8 の歌は、こんな情況の下でつくられた。「1890年から1920年にかけて200万人以上の黒人が南部を離れた。」(89ペイジ)

Ⅲ.ライトと北部

 あこがれの北部も、黒人たちにはやはり約束の地ではなかった。ライトは南部を引き合いに出して、北部を次のように語る。

 ……私たちは人の群れの只中で暮らしている、しかも人と人との間には大きな隔りがあって、その隔りは言葉がその架け橋にはならない。私たちの暮らしはもはや土や太陽や雨や風によるのではなく、仕事と仕事の残酷な論理によっている……南部では暮らしは違っていた、人が人に喋りかけ、ののしって、わめいていた、そして人が人を殺していた……しかし、ここ北部では、冷たい力が人を襲い、圧迫する。それは、一種のものの世界である。(100ペイジ)

 「ものの世界」での黒人たちの生活は悲惨を極めたが、その惨状を最も鮮烈に描き出しているのは「キチンネットは……」で始まる各ペイジ写真入りの7ペイジに渡る「キチンネット哀歌」(105-111ペイジ)であろう。家賃の法外さを説いたあとの次のくだりである。

 キチンネットは、我々の監獄であり、裁判なき我々への死刑宣告である……
 キチンネットは、30人かそれ以上の住人にトイレが一つ、空気が淀んで穢ない為に乳児は早く死ぬ……
 キチンネットは、猩紅熱、赤痢、腸チフス、結核、淋病、梅毒、肺炎、それに栄養失調の温床である。
 キチンネットは、我々の間に余りにも広範に死をまき散らすので、今や死亡率が出生率を超えてしまっている……キチンネットは、混み合って絶えず騒々しいので、あらゆる種類の犯罪を誘発する場となっている……
 キチンネットは、希望を失なった不幸な人々に耐えられない程狭苦しい思いを強いるので、目に見えない摩擦を生み、誉めたり責めたりやり返したりの絶え問ない諍いを起こして人々の人格を歪めている。
 キチンネットは、個人の人格に圧迫感や緊張感を与えるので、よくてせいぜい独り何とかやっていこうと、多くは争うことを諦め、妻や夫や子供さえ残したまま家を出てしまう。
 キチンネットは、夫に棄てられた母親が膝に子供を抱えて坐っている、そんな何千という一部屋式の家を生み出している。
 キチンネットは、伸び盛りの子供たちの人格を挫き、秩序を壊し、希望を奪っている……
 キチンネットは、黒人の少年たちをいつも苛々させ何かしたいという気持ちにさせている。その結果、少年たちは家から飛び出し、他の落ち着きをなくした、徒党を組んだ少年たちと一緒になることになる……(106-111ペイジ)

 この「キチンネット哀歌」は、『ネイティヴ・サン』の舞台設定や家族構成などのねらいを手に取るように教えてくれる。冒頭の場面で、ビガー兄弟に鼠を殺させたのは、30センチ以上もある太った鼠にサウス・サイドの穢なさを象徴させたかったからだし、その 「格闘」によってあたりの騒々しさを読者に印象づけたかったからだ。又、舞台をキチンネットに設定したのは、女性が着替えする度毎に目をそらしながら恥しさをこらえたり、「耐えられない程苦しい思い」を強いられて「咎めたり責めたりやり返したりの絶え間ない諍い」を余儀なくされることによってビガーや家族が如何にその人格を歪められているかを強調したかったからだ。又、ビガーと仲間に、白人の店を襲うことで喧嘩させたのも、キチンネットによって人格を挫かれた少年たちが街に飛び出してどんな日々を過ごしているかを示したかったからだ。又、母親と3人の子供という家族構成は、サウス・サイドにならどこにでも見られる「争うことを諦め」た夫に、父親に捨てられた母子家庭を持ち出したかったからだ。
 様々な問題を抱えるサウス・サイドは、人種の問題をはらむアメリカの産物に他ならなかったし、キチンネットは、そのサウス・サイドの言わば縮図であったと言ってよい。ビカーを生んだ病めるアメリカ社会を描こうとするライトにとって、サウス・サイドは、そしてキチンネットは、持ち出さねばならぬ恰好の舞台であったと言える。
 ビガーの住むキチンネットは、実は慈善事業の一環として、ビガーに運転手の職を与えてくれたあのドールトン氏のものだったが、かつて南部で、大農園主が奴隷を、小作人を食いものにし続けたように、北部でもひと握りの大資本家が多数の貧しい黒人労働者を搾取するという構図はいささかも変わっていなかったのである。法に守られ、貧乏白人を巧みに利用しながら。

Ⅳ. ライトと社会

 歴史を通してライトが描き出したのは、歴史や社会や経済機構という巨大な枠組の中で、なす術もなく虐げられ、翻弄され続けて来た無力な黒人たちの姿だった。それはある場合には、自分や家族を捨てた無学な小作人の父親であり、ある場合には、夫に捨てられてあのおぞましいキチンネットの一室で呻吟する母親や叔母マギーの姿である。地に這う年老いた農夫の写真(83ペイジ)は、1940年にメキシコ旅行の帰途、故郷南部にライトが立ち寄った際に再会した、手に泥のついたくわを持ち、ぼろのつなぎを着てミシシッピの赤土の上に立っていた、今はもう年老いた父親のイメージをほうふつとさせる。9 又、壁の崩れ落ちたキチンネットの写真(106ペイジ)は、のちにライトが『アメリカの飢え』の中で記したように、引越し先の下見に出かけた際に、あまりのひどさに泣き崩れてしまったという母親の姿を連想させる。10しかし、何よりもライトが描き出そうとしたのは、時代の大きな流れの中で、故郷を捨て北部の大都市シカゴの片隅で辛苦を味わう運命に弄ばれはしたが、それでも懸命に自分を生きてきたライト自身の姿ではなかったか。かといって「故郷のアフリカから、かつてなかったほど最も複雑に、高度に工業化された文明の真只中にほうり出されたが、今まで殆んど誰も持たなかったような意識や記憶を持って、今日しっかりと立っている」(146ペイジ)と語るライトには、苦難を強いた社会や時代に対する憤りや、或いは自分を捨てた父親への恨みはない。むしろ、滅び去っていてもおかしくない程厳しい歴史の中をよくぞくぐり抜け、生き永らえて来た黒人同胞への同情と愛着がある。そこには、戦時下、『資本論』の入ったカバンを片手に南部を行くのは危険だという白人の友人に向って「しかし、ミシシッピの親戚を尋ねたい」「しかし、南部を見たい、そこで生まれたんだ」11 と言い切って、父親との再会を果たし、「私は父を許し、父を憐れに思った」12 と記し得た姿と相通ずるものがある。そんなライトの姿勢を、エリスンは、やはり見逃してはいない。

 あなたの歴史を読んだ後、私はとっくに血や骨やこの体で、或いは一番奥深い記憶や考えの中ですっかりそれを承知しているのですが、あなたの歴史を読み、写真をみたあと、感情の生きものである私たち黒人は、将来闘いの中で最も手ごたえのある打撃を与えると確信しました……私が知っている多くのことにあなたが苦しんで来られたことも、そしてあなたが学ばれた真実は黒人の真実だということもずっとわかっていました……あなたの本から滲み出てくるこの過去はいつも私たちの中で生々しく、ぴりぴりと、ひりひりと生きています……あらゆる残忍な仕打ちや飢えや苦しみを経験したのち、私たちがその体験に愛着を示し、受容し始めた現実から湧きあがって来るほろ苦い誇りを私はあなたの本から感じます。13

 奇しくも、この本が出されてから約半世紀後に、ミシシッピ州は、かつて故郷を離れた今は亡き息子を「リチャード・ライト死後25周年記念国際シンポジウム」と銘打ってむかえいれた。「ミシシッピはミシシッピの息子に敬意を捧ぐ」の見出しをつけたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中で、エリスンは自分や他の黒人作家がライトから少なからず感化を受けたことについて触れたあと「ミシシッピ大学でライトの会議が持たれたことは意義深い」14 と述べているが、その感慨はどんなものであったであろうか。南部に反発しながらも、生まれ育った南部への愛着を捨て切れず、南部社会と自分との意味合いを終生考え続けて止まなかったライト。そんなライトを理解する一つの鍵を、たしかにこの『1200万の黒人の声』は握っている。
 「その体験に愛着を示し、受容し始めた」視点が、まもなく「地下にひそむ男」を、そして『ブラック・ボーイ』を生む。

<註>

1 A Folk History of the Negro in the United States が副題である。全体は152ペイジ、4章から成っており、主として南部の小作農民を扱った2章と、主として北部の都市労働者を扱った3章がその8割を占めている。掲載写真はジャケットの分も含め88枚である。
2 Horace R. Cayton, “Wright’s New Book: More than a Study of Social Status,” Pittsburgh Courier (November 15, 1941), rpt. in Richard Wright: The Critical Reception, ed. John M. Reilly (n.p.: Burt Franklin, 1978), p. 104.
3 Michel Fabre, The Unfinished Quest of Richard Wright, tra. Isabel Barzun (New York: Morrow, 1973), p. 173.
4 Richard Wright, 12 Million Black Voices (New York: Viking Press, 1941), p. 10. 以下の引用はこのテキストによる。
5 Fabre, The World of Richard Wright (Jackson: University Press of Mississippi, 1985), pp. 85-86.

6 Wright, Uncle Tom’s Children (1940; rpt. Cleaveland & New York: World, 1943), p. 153.
7 Wright, Lawd Today (New York: Walker, 1963), p, 153.
8 Wright, Lawd Today, p. 154.
9 Wright, Black Boy (New York: Harper & Brothers, 1945), p. 30.
10 Wright, American Hunger (New York: Harper & Row, 1977), p. 42.
11 Wright, “I Was in the South Where Neither Law nor Tradition Was on My Side,” in Bondage, Freedom and Beyond (New York: Doubleday, 1971), p. 83.
12 Wright, Black Boy, p. 30.
13 Fabre, The World of Richard Wright, p. 88.
14 “Mississippi Offers Homage to Native Son,” The New York Times (November 23, 1985), p. 14.



個展報告・11月の絵画館①~⑤

個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>①

 ご報告が遅くなりました。
 2017年の個展を、無事終えることができました。皆様のお力添えのおかげです。ありがとうございました。
 
 「ルーマー」での個展も5年目となりました。毎年11月にしてきましたが、今年は9月に変更しました。
 実は昨年11月30日に、家にいる4匹の猫のなかで最年長の<ノア>という子が亡くなりました。1年間病気と闘い、見事な最期でした。

<ノア>↓

(2018年カレンダー1月に収載)→「ノアです」

 犬も猫も、人間よりずっと小さい体なのに、どうしてあれほどりっぱいに生き抜くことができるのだろうと、ぼんやり思い出していた時、<せっかくノアがくれた時間だから、大切に使ったら。9月なら長い期間猫(3匹)の世話ができるから>と、相方が言ってくれました。
 その一言のおかげで、11泊12日の東京滞在が実現しました。
 結論から言えば、前半の土・日は大型台風が来る!ということで、犬ちゃんたちとの出会いは少なかったのですが。あの日あの場所にいたからこそ会えた素敵な方たちとの出会いがありました。

 9月15日(金曜日)

 この日はまだ本格的に雨が降っていたわけではありませんが。関東の方までやってくる台風は珍しく、皆さん台風にそなえてか、あるいは何もこんな時に散歩しなくてもと思われたのか、犬ちゃんたちは姿を見せませんでした。
 お天気ばかりはどうしようもないし、外は暗くなったしと帰り支度を始めた時、<今からでも食事できますか>と若いご夫婦が入ってこられました。
 赤ちゃんのカートを置きやすいようにギャラリースペースの席に座られたので、食事ができるまで絵を見ていただいたりしていました。
 赤ちゃんは正真正銘(?)の赤ちゃんで、まだ2ヶ月。そしてご主人はパソコンで絵を描いておられること。奥様は目を痛めて仕事をやめたけれど、以前はテレビのディレクターをしておられたことなど、ぽつりぽつりお話している間にわかりました。
 私が、常々パソコンを使うと細い線などもきれいに描けるのでうらやましく思っているとお話すると、ご主人は<確かに便利な面もあるけれど、こういう柔らかい優しい感じは、やはり手描きでないと描けません>と、飾ってある絵を見ながら言われました。
 さらに、お会いできて嬉しかったからとカレンダーをさしあげようとしたところ<こんないい作品はお金を出して買わないと>と言って、カレンダー1冊とカードを1枚買って下さいました。
 若いのにとても落ち着いた素敵なお二人に出会えただけで、今日一日お店に居た甲斐があったなあと思いながら、帰路に着きました。
 ちなみにその1枚のカードは、<旅する子猫3―ニモと傘>でした。

<旅する子猫3―ニモと傘>↓

(2016年カレンダー6月に収載)

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個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>②

 9月16日(土)

 今日も台風のため、犬ちゃんたちとの出会いは少ない一日でした。けれどオーナーとお知り合いの楽しいご夫婦と会うことができました。
 そのご主人は、以前犬の「自動エサやり機」を作られた方でした。そして今は「猫の自動トイレ掃除機」を考案中だとか。
 ご主人はれっきとした<犬派>なのですが、これからは猫の時代になると考え、たくさんの猫の本を読んで研究を重ね、猫が年を重ねると尿の問題を抱えることを知りました。そこで、掃除だけでなくその回数等を飼い主の携帯に報告していち早く病気を知らせるという、画期的な物を作ろうとされていました。
 確かに家にいる三毛猫の<ぴのこ>はとても神経質で、トイレの砂がきれいでないとオシッコをしに来ても、プイッとやめて行ってしまいます。
 猫にとって、トイレが清潔であることはとても大切なことだと実感していましたので、そのことをお話すると、ますます実現化への意欲が増したご様子。
 ところで何時完成するのですか?とお聞きしたら、研究には莫大な費用がかかるので今から資金集めです、とのことでした。
 私には雲をつかむようなお話ですが。ご主人はしごく真面目に考えておられるので、そう遠くないいつか、長い時間お留守番をしている猫たちが、いつも笑顔で気持ちよくオシッコできる日がくるだろうなあと思えるのでした。

<ぴのこ>↓

(2010年カレンダー表紙に収載)→「梅とぴのこ」

 9月17日(日曜日)

 今日は朝からいろいろ用事をすませ、さあホテルを出ようとした時、オーナーの映子さんからお電話。
 毎年大阪から来て下さる若いお友だちがもう「ルーマー」に到着。そして飛行機の時間が迫っているので長くはいられないとのこと。結局、今年は慌ただしくお電話でお話するだけになってしまいました。ほんとうに、ごめんなさい。
 特に土・日は、これからもっと早く「ルーマー」に行き、お客様をお出迎えしなければ・・・・と反省しました。
 ようやくお店に着くと、以前「月に眠る」という絵をごお購入下さったご夫妻と犬のマリスくん・クリスくんがお食事中でした。毎年お会いしていますが、1年ぶりの再会です。お兄ちゃんのマリスくんは人に慣れていますが、弟分のクリスくんはまだあまり慣れていないそうで、飼い主さんとしてはもう少し人に慣れてほしいということでした。
 そこで本人に気付かれないように(?!)上手に抱かせてもらいました。それでもさすがにクリスくんは途中で、あれっ?いつも抱いてくれている人ではない!と気付き体を硬くしていましたが、黙って我慢していてくれました。
 しばらくして下に降ろすと、ひどくせかせかと水を飲んでいましたので、人知れずずいぶん緊張していたのでしょうね。ごめんね、クリスくん!
 この日は台風一過で、さらにサプライズの静岡県からのお客様もいらして下さったり。久しぶりに大にぎわいの一日となりました。

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個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>③

 18日・19日(月火)は定休日でしたが。18日の月曜日は祝日でしたので、お店が開いていると思ってタクシーでかけつけて下さった方や、電車で途中まで来て電話を入れて下さった方がいらっしゃいました。もっと定休日が目立つようにご案内しなければ、とこれも今年の反省材料です。皆様、ほんとうに申し訳ございませんでした。

「月に眠る」↓

(2011年カレンダー11月に収載)→「三太とイチョウ(元の題)」

 9月20日(水曜日)

 知りあいのお客様のご来店は土日が多いので、黙々と作業をしていた午後、ドアの外に懐かしいお顔が。<世田谷から群馬県に引っ越しをして遠くなったので、今年は行けません>とお聞きしていたサクくん・レンくんとご夫妻です。高速を使い2時間かけて来て下さいました。
 実は、ご夫妻はまだ完成した絵を見ておられません。カレンダー会社に画像を送るギリギリ直前まで、絵の描き直しをしていたため、そのままギャラリーに飾らせていただいたのです。
 これは私だけかもわかりませんが、モデルが1匹の絵を2枚描くのと、モデルが2匹の絵を1枚描くのとでは、後者の方がはるかに難しく時間もかかってしまいます。
 今回も、サクくんの方は1回の書き直しですぐご満足いただけましたが、レンくんの表情には悩みました。
 私が参考にしたのは、去年「ルーマー」で撮った何百枚もの写真から選んだレンくんでした。ところが、その表情は家にいる時のレンくんとは違っていました。何しろ弟分のレンくんは家ではまったりくつろいで、甘えん坊の顔をしており、その表情を飼い主さんは望んでおられました。
 ところが、慣れない場所で知らない人が撮っているカメラを見るレンくんの目は、ビックリして見開いている写真ばかり。
 結局、再度送られてきた新しい写真を使って全く違う2枚目の絵を描いたりもしましたが。やはり1枚目の絵が二匹の雰囲気がでているということで。レンくんのまぶたを微妙に描きかえることで、何とかご了承いただきました。
 2匹以上を1枚に描く難しさを、昨年の4匹(ツキちゃんたち)に引き続いて再認識した1枚となりました。

<ツキちゃんたち> ↓

 飼い主さんとは2枚目の絵のご縁で、4回目の再会です。1枚目はサクくんとベッドとカボチャでした。それまで装画を描いていた流れで、花と組み合わせることが多かったのですが、この絵を境に、皆様のお好きな背景をお聞きして描くようになりました。
 懐かしく楽しくお話させていただき、アッという間に時間がすぎました。
 遠い所を、ほんとうにありがとうございました。

<サクくん・レンくん>↓

(2018年カレンダー9月に収載)

<サクくんとベッドとカボチャ>

(2016年カレンダー10月に収載)→「新作:朔太郎くんとかぼちゃとベッド(元の題)」

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個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>④

 9月23日(土曜日)

 今日はお店も大にぎわいの1日。
 そんななか、モクちゃんと飼い主さんが来て下さいました。ご夫妻は18日の祝日に、タクシーでお店までいらして下さったとか。改めて、すみませんでした。
 飼い主さんとは3回目の再会ですが、モクちゃんとは初顔合わせ。犬種は確かにトイプードルのはずですが、通常よく見かけるサイズの3倍はある大きさです。奥様の膝の上に座るとドッカリと被ってしまう感じで、大笑いしました。
 お預りした写真では比べる物がなかったので、私は普通のサイズと思い描きあげました。背景のご希望が、小さい頃から大好きだというスノーマンの毛布でしたので、全く不都合がなかったのは、幸いでしたね。
 大きくても可愛いくて愛らしいのは、写真そのまま。普通サイズ(?)のりんちゃんすずちゃんと飼い主さんも加わり、話がはずみました。

<モクちゃん>↓

モクちゃん

(2018年カレンダー10月に収載)→「モクくん(2017/3/4)」

 大にぎわいが少しおさまった頃、横浜からカレンちゃんを抱いたご夫妻が来て下さいました。カレンちゃんが来てくれた!というのは、大きな喜びでした。何故ならカレンちゃんは腎臓の治療中で、お会いできるかどうかは体調次第とお聞きしていましたから。
 今日も午前中に注射をして来てくれたカレンちゃん。それでも会えたのは、嬉しい限りです。

<カレンちゃんとイルミネーション>↓

(2018年カレンダー12月に収載)→「カレンちゃん(2017/2/5)(元の題)」

 昨年は2回も個展に来て下さいましたが、それほどゆっくりお話できたわけではありませんでした。けれど今年は、とてもゆったりと絵やポストカードを見て下さり、いろいろお話もして下さいました。
 ご主人が<花の絵と今描いている絵の雰囲気が全く違うけれど・・・・>と聞かれたことから、装画を描いていた話、横浜の街の話などになり。<そういえば「馬車道の女」という戯曲の装画を昔描きましたよ>というと、さっそく携帯で検索。あたり前ですが、瞬く間にその本が画面に出てきて。パソコンをよく知らない私としてはビックリ。描いた本人でさえ忘れかけていた本が<今もアマゾンで売られていますよ>と教えて下さいました。

「馬車道の女」↓

「本紹介8 『馬車道の女』」

 そうそう、マリスくんとクリスくんは今日もご来店。今日もクリスくんをけっこう長い時間抱かせていただきました。<一緒に宮崎に帰ろうよ>と本気で誘いたくなる可愛さです。飼い主さんも、最初に比べるとずいぶん抱かれるのに慣れてきた、と言って下さいました。今からもう、来年もお会いしてクリスくんを抱きたい!と思ってしまうほどの、あったかい優しい抱き心地でした。

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個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>⑤

 9月24日(日曜日)

 今日が個展の最終日。
 お店には<犬種がトイプードルのダックスくん>のお友だちが来ておられました。イタリアン・グレーハウンドという珍しい犬ちゃんです。少し前、ソファの上を軽やかに飛びはねるコマーシャルでその犬を見たことはありましたが、実際に会うのは初めてです。
 走るために作られたような犬ですが、2匹はとても穏やかで優しい性格です。その2匹をなでさせてもらっている間に、ダックスくんと飼い主さんがかけつけて下さいました。実は、ご案内のハガキが遅くなったため、先週の木曜日にすでに1度いらして下さったのですが。まだ私が来ていないということで、2度目のご来店です。何度も足をはこんでいただき、ありがとうございました。

<ダックスくんとイチョウ>↓

→(2015年カレンダー11月に収載)

 また今日は「ルーマー」では珍しい猫派のお客様もいらっしゃいました。香川県から遊びに来られたということで、お気に入りの猫のカードは、後ほどお送りさせていただくことにしました。

 そろそろ外も暗くなった頃、ふらりと一人の男性が入って来られました。以前外に展示してある案内ハガキをご覧になり、本人が居る時に又来るよ、と話しておられた方です。
 その方は、何十年も前から毎朝近くの大きな公園で犬ちゃんたちの写真をとっているそうです。そのたくさんのお写真の中には、八千草薫さんと愛犬の写真もありました。もちろん、八千草さんとご本人の2ショットもありましたよ!
 たくさんの犬仲間がおられるということで、最初2~3枚の名詞と宣伝用のハガキをお預けしましたが。もう今日で個展も終わりだからと、最後はテーブルに置いてあった何十枚もの名刺とハガキを、そっくり全部お渡ししてしまいました。
 彼はいいよいいよと嫌な顔もせず、受け取ってくれました。
 <猫も私も元気で来年も個展ができたら、きっとお会いしましょうね>と言うと、<逝くとしたら僕が先かも。何しろ昭和13年生まれだから>の言葉に<私は23年生まれ>と答えました。すると<そうか、十歳年下かあ・・・>と、笑いながら帰っていかれました。
 <平均寿命を越えたから・・・・>と口では言いつつも。とてもそんなお年には見えず、お洒落で溌剌としておられる素敵な紳士でした。

 今回5年目にして初めて搬出に立ち合いました。こんなに大変な事を毎年黙々としてくれていたのだと、改めて娘とお友だちに感謝です。
 また今年は、例年以上にオーナーの映子さんにいろいろお手数やらお世話をおかけ致しました。ほんとうに、ありがとうございました。

 小さな個展ですが。毎年続けることで、少しずついろいろな方と知り合い親しくなっていける。その皆様との楽しい時間が、一年の大半を一人絵とむきあう私の大きな心のささえとなっています。皆様に心より、御礼申しあげます。



個展報告・11月の絵画館④

個展のご報告・11月の私の絵画館<モクちゃん>④

 9月23日(土曜日)

 今日はお店も大にぎわいの1日。
 そんななか、モクちゃんと飼い主さんが来て下さいました。ご夫妻は18日の祝日に、タクシーでお店までいらして下さったとか。改めて、すみませんでした。
 飼い主さんとは3回目の再会ですが、モクちゃんとは初顔合わせ。犬種は確かにトイプードルのはずですが、通常よく見かけるサイズの3倍はある大きさです。奥様の膝の上に座るとドッカリと被ってしまう感じで、大笑いしました。
 お預りした写真では比べる物がなかったので、私は普通のサイズと思い描きあげました。背景のご希望が、小さい頃から大好きだというスノーマンの毛布でしたので、全く不都合がなかったのは、幸いでしたね。
 大きくても可愛いくて愛らしいのは、写真そのまま。普通サイズ(?)のりんちゃんすずちゃんと飼い主さんも加わり、話がはずみました。

<モクちゃんとスノーマン>↓

モクちゃん

(2018年カレンダー10月に収載)→「モクくん(2017/3/4)」

 大にぎわいが少しおさまった頃、横浜からカレンちゃんを抱いたご夫妻が来て下さいました。カレンちゃんが来てくれた!というのは、大きな喜びでした。何故ならカレンちゃんは腎臓の治療中で、お会いできるかどうかは体調次第とお聞きしていましたから。
 今日も午前中に注射をして来てくれたカレンちゃん。それでも会えたのは、嬉しい限りです。

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(2018年カレンダー12月に収載)→「カレンちゃん(2017/2/5)(元の題)」

 昨年は2回も個展に来て下さいましたが、それほどゆっくりお話できたわけではありませんでした。けれど今年は、とてもゆったりと絵やポストカードを見て下さり、いろいろお話もして下さいました。
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「馬車道の女」↓

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 そうそう、マリスくんとクリスくんは今日もご来店。今日もクリスくんをけっこう長い時間抱かせていただきました。<一緒に宮崎に帰ろうよ>と本気で誘いたくなる可愛さです。飼い主さんも、最初に比べるとずいぶん抱かれるのに慣れてきた、と言って下さいました。今からもう、来年もお会いしてクリスくんを抱きたい!と思ってしまうほどの、あったかい優しい抱き心地でした。



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