小島けいのジンバブエ日記14回目:後書き

「続モンド通信21」(2020年8月20日)

小島けいのジンバブエ日記14回目:「後書き」(小島けい)

 何故か、旅の六年後に書いた文章が残っています。その時からっもずいぶん月日は流れましたが、感じる思いは今も変わりませんので<小島けいのジンバブエ日記>の後書きに代えたいと思います。

旅から六年を経た今、改めてふり返ると、「私のアフリカ」はほとんどゲイリー一家との交流に限られています。そして出逢ったことを忘れてしまわないで、引き受け続けることの難しさを、感じるこの頃でもあります。

白人と黒人が対立している国を訪れ、初めて、そのどちらにも属さない立場を意識しました。それはとても中途半端ですが、その曖昧さ故に、どちらにも関わり得るということが強みでもあります。

これからもし何か出来るとすれば、それはいずれかに擦り寄ることではなく、「黄色」の立場からではないか、と感じたのですが、その実行は、生半可にはいかないようです。

 

アフリカ不思議なところです。何もなくてあたりまえですが、何が起こってもおかしくありません。体力的にそれほど強くない私たち家族が、病気もせず帰ることができた。本当は、それだけで、十分だったのかもしれません。



私の絵画館:寅次郎くんとコスモス

「続モンド通信21」(2020年8月20日)

1 私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

 

モデルは、大分県在住の<寅次郎くん>です。

寅次郎くん

個展を始めて今年で13年目になりますが、最初の五年間は、大分県の飯田高原にある<九州芸術の杜>でお世話になりました。

九州芸術の杜正面

そこで個展をしていた時。一人の落ち着いた雰囲気の女性が、作品を見終わった後話しかけてこられました。豊後大野市で<夢色工房>というお店をしている方でした。<私のお店で、絵とカードを販売しませんか?>というお誘いを受けました。

しばらく後、ありがたく作品を置かせていただいたのですが。そのお店に来る若い女の人で、えらく私の作品を気に入って下さった方がおられるとか。そして、彼女はもっと私の作品を広めようと、自主的にあちこち動物病院にあたったりして下さっているというのです。そのお話を聞いてからずっと、何という<ありがたい方>!と感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後何年も年月が流れ、彼女は縁あって大分県から四国の方に嫁いでいかれました。

寂しくなった彼女の実家には、新しい犬ちゃんがやってきました。それがこの愛らしいダックスフンドの寅次郎くんです。ちなみに、命名はお父様だそうですよ。

2020年10月カレンダー



私の絵画館:赤い屋根

「続モンド通信20」(2020年7月20日)

私の絵画館:「赤い屋根」(小島けい)

赤い屋根が印象的なこの街は、クロアチアのドブロブニクです。

何故かイタリアの石だたみの街には、とても猫が似合うと思うのですが。この街にも猫がぴったり!と思い、たくさん登場してもらいました。

 

絵を描きおえた後で、この街がジブリ映画<魔女の宅急便>のモデルになったと知りました。

2020年9月カレンダー



小島けいのジンバブエ日記13回目:「パリ編」

「続モンド通信20」(2020年7月20日)

小島けいのジンバブエ日記13回目:「パリ編」(小島けい)

 

ハラレ最後の夜。空港の殺気立った大混雑のなかから、ようやくパリ行きの飛行機に乗り込むことができた時は<アフリカから何とか抜け出せた!>という思いに尽きました。

空港で飛行機に乗る。ただそれだけのはずでしたが。その場所が<アフリカ>だったということなのでしょう。

慣れない土地で少しずつたまってきていた疲れに、最後の一撃のような空港での大混乱で、私たちは疲れ果てドロのように眠りました。

 

私にとっては三度目のパリでしたが、初めて飛行機に酔い、同じく気分が悪くなった息子と私は重い足どりで、相方と娘は元気にシャルル・ド・ゴール空港に降り立ちました。

ロンドンでは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの奥さんのブランシさんにお会いしましたが。パリでは、ソルボンヌ大学でアメリカ文学を研究しておられるファーブルさんにお会いします。

宿は、ファーブルさんが素敵な屋根裏部屋を予約して下さいました。建物の最上階に最後はハシゴを使って登ると、広い空間が広がっていました。ベッドは手前と奥の二カ所にあり、空にむかって斜めになった窓を開けると、パリの屋根屋根が目の前に重なっています。

小島けい画(奥の扉は壁に描かれた絵です!)

 

いかにもパリらしい<ワンルーム>に大喜びしましたが。まもなく由緒ある古い建物の不便さに気付くことになりました。

最上階なので水圧が弱く、水もお湯もチョロチョロしかでません。バスタブのお湯も一杯になるまで長―――い時間がかかります。また10月初めのパリはすでに寒くなっていましたが、暖房も思うように使えませんでした。

とても魅力的な部屋で、普通の時ならきっとその不便さも許容できたと思いますが、当時の私たちにはその余裕がありませんでした。

2~3日後、パリらしさよりも快適さを選び、この上なく心地よくすごせる<モン・タ・ボー>というホテルに宿を移しました。

湯船にいっぱいお湯を入れ、シャボンの泡に包まれている子供たちの笑顔が、どれほどしあわせそうに見えたことか。

大学用テキストの装画に使ったこの時のパリのスケッチ

少し休んだ後、ファーブルさんのお宅に伺いました。やはり古い建物の中の一軒で、1回が玄関とロビー、2階が広いリビングとキッチン、3階が書斎と寝室でした。奥さんのジュヌビエーブさんも大学の先生で、忙しくしておられました。

私たちはご挨拶の後お茶をいただきましたが、ファーブルさんはテーブルに置いてあった小さなリンゴを薦めて下さいました。それは<別荘で一昨日摘んできたりんご>ということでした。

パリは古くからの街並みを大切にしているため。古い建物を壊して高層ビルを建てたりはしません。そこで、ある程度余裕のある人たちは、ふだんは街なかですごし、週末は広い庭のある田舎の別荘でのんびりすごすという生活をされているようでした。

お茶の後、ファーブルさんと私たちはレストランで食事をしました。まだ飛行機酔いが収まっていない息子に、彼は心配して<そんな時はコーラが一番いいんだよ>と勧めてくれました。私は内心<ほんとかなあ・・・?>と思いましたが、効果があったかどうかは、息子に聞き忘れました。

もう何十年も昔のことですので、どんなお話をしたのかは忘れてしまいましたが、食器の音や人々の話し声のする暖かくてにぎやかなレストランの雰囲気だけはぼんやりと記憶に残っています。

食事の後は、ソルボンヌ大学を案内して下さいました。あちこちの建物を回り、最後には授業中の大きな教室にもずんずん入って行かれました。私たちが少しためらっていると<気にしなくていいからおいで>と呼ばれます。いいのかなあ?と思いながらもついていったのですが。今から思えば、突然見知らぬ東洋人の家族が入ってきて、きっと学生さんたちは<何だ、これは?>とびっくりされたことでしょう。

 

すでに秋の気配のするパリは、肌寒い日々でした。寒さに弱い子供たちの体が心配で、残りの数日はあまり無理をせず、小さな美術感をいくつかめぐったり、少し買い物をしたりしてすごしました。

毎朝焼きたてのフランスパンを買いに行くお店で、店員のかわいいパリジェンヌが、おつりを渡す時、相方に笑顔でウィンクしてくれた!と子供たちが大喜びしたり・・・。

そんな何げないパリでの数日が、アフリカでの生活の疲れを、知らないうちに少し軽くしてくれたような気がしました。

本の装画に使ったスケッチ



小島けいのジンバブエ日記12回目:「アフリカの旅―前と後―」

小島けいのジンバブエ日記11回目:「アフリカの旅―前と後―」(小島けい)

今でこそ、アフリカの情報も多少は入ってくるようにはなりましたし、ましてやインターネットという便利な物も普及していますが。

私たちがジンバブエに行こうと決めた約三十年前は、アフリカでの生活が実際にどういうものかは、全くわかりませんでした。

そこで、日本から直接アフリカの生活に入るのではなく、一度どこかに滞在し少し体調を整えてから、ジンバブエに向かおうと思いました。

ジンバブエの地図

帰りも同じように、どこかでアフリカでの生活の疲れを少しとってから、日本への長旅に備えたいと考えました。

そうして、往きはロンドンで帰りはパリで、それぞれ一週間程すごすことに決めました。

どちらにも、相方が以前アメリカやカナダでの国際会議でお会いして、再会を約束した方たちがおられました。

ただ、旅を記録した3~4冊のノートは、最後の一冊以外は紛失しましたので、断片的な記憶にたよるしかありません。

<ロンドン編>

ロンドンでまず思い出すのは、ヒースロー空港です。

<やっと着いたあ・・・・>と四人はそれぞれ背中にはリュックを担ぎ、大きなトランクをゴロゴロ引っぱりながらタクシー乗り場に向かいました。するとすかさず二人の男の人がやってきて、サッサと荷物を二台の車に積み込みました。何かを考える間もなく、宿に向かって出発です。

ところが、これが空港名物(?!)の<白タク>だったとわかったのは、もはや宿についた後でした。

ロンドンの宿は、私の大学時代の友人が経営している日本人向けのインです。大学時代は、最初はケービング部(洞窟探検部)で、後では部をやめて二人で一緒にケイビングをやっていたお友だちですが。

その頃は、ロンドンで3~4件のインの経営者となっていて、中でも一番落ち着くからと住宅街にある<イン>を紹介してくれました。

<イン>

 

彼女の<イン>は、ビジネスマンや旅行者にとても人気でした。何故なら朝食に、しっかりした日本食の<定食>を出してくれるからです。

私たちの滞在中も、朝からハンバーグ定食やら天ぷら定食が出ましたが、慣れない外国生活では、とてもありがたいものでした。

朝ご飯をしっかり食べた後は子供たちのリクエストで、大英博物館でミイラを見たり、シャーロックホームズの家(?!)を訪ねたりしましたが。

もちろん一番の目的は、相方が研究している南アフリカの作家<アレックス・ラ・グーマ>の奥さんであるブランシさんに会うことでした。

ラ・グーマは、1966年にANC(アフリカ民族会議)の指示でロンドンに家族で亡命し、その後ソ連とキューバに外交官として招かれたりしましたが。1985年に亡命先のキューバのハバナで急死しました。60歳の若さでした。

ラ・グーマ(小島けい画)

私たちが訪れた頃、ブランシさんはロンドンで一人暮らしをしておられました。古いアパートのなかの一軒が彼女の住まいでしたが、1階は玄関、2階が居間兼台所、3階が寝室になっていました。つつましい生活のようでしたが、清潔感のある落ちついた雰囲気の家でした。それは、ブランンシさんの温かくもの静かな性格と重なりました。

彼女は私たちのために、ミートボールのような郷土料理を準備して待っていてくれました。心のこもったおいしい食事の後に、相方は、結婚式や、ソ連で(長男・次男も一緒に)撮った写真をいただいたり、本だけでは知りえない作家の実像や様々な体験談

をいろいろ聞かせていただき、大きな感銘を受けたようでした。

二人が話し込んでいる間、私と子供たちはアパートのまわりの庭を散策したりして、ロンドンという街をそれなりに楽しんで過ごしました。

<アフリカのお母さん>という感じのブランシさんとの時間は、四人にとってあったかい、そして心地よい数時間となりました。

その後世界の情勢は変わり、お会いした数年後にブランシさんは南アフリカへの帰国が実現しますが。相方との交流は、南アフリカにもどられてからもしばらく続いていたそうです。

ブランンシさん(小島けい画)



私の絵画館:「アフリカ―家路―」

「続モンド通信19」(2020年6月20日)

私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

この絵は、1992年に出版されたアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』の装画です。

私たちがジンバブエに向かったのは、その年の6月の終わり頃ですから、出発する前に描き終えて、出版社に送ったわけです。

この小説は、南アフリカが舞台ですが。実際にはどういうところなのか、私は全くわかりませんでした。そこで参考にしたのがBSで放送されたアンゴラのニュースです。その短かい映像のなかで一番印象に残ったのが、乾いた土埃りの道を黙々と歩く黒人の人たちの姿でした。

南アフリカではありませんが、アンゴラもアフリカ南部に位置しており、南アフリカの北側にあります。きっと同じような光景があるのではないか、と思いました。

当時の私の描き方は、今とは全く違います。短時間で一気に描きあげて,終わり!というきわめて大ざっぱなものです。<5m離れて見てみると、いい感じ>とよく言われました。

この絵は、その描き方の最たるものだと思います。ただ、いつもは注文の多い出版社の社長さんも編集者の方も、珍しく1回で気に入って下さり、OKがでました。

おかげで、私たちはハラレ滞在中に、日本から送られてきたこの本を受けとることが出来ました。

私が参考にしたのはアンゴラでしたが、実際にジンバブエに行ってみて、驚きました。ハラレのいろいろな場所で、これと同じような光景を目にしたからです。

白人はいつも車で移動して、決して外を歩いたりはしません。私たちは中古の自転車を買いましたが、それさえも高価なものです。そのため、黒人は働きに行く時も、買い出しに向かう時も歩くしかありません。

野原には、自然とその人々の通る道が幾すじも出来て、交差していました。

一瞬のイメージで描いた絵でしたが、それは日常のよくある風景で、黙々と、ひたすら歩いて家にむかうしかない<現実>そのものでした。

『まして束ねし縄なれば』



小島けい2020年カレンダー「私の散歩道2020~犬・猫・ときどき馬~」

小島けい2020年カレンダー「私の散歩道2020~犬・猫・ときどき馬~」

 

表紙

1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

 

9月

10月

 

11月

 

12月



小島けいのジンバブエ日記一覧

小島けいのジンバブエ日記一覧(「続モンド通信9」、2019年8月20日~)

11→「小島けいのジンバブエ日記回目:空港にて」(小島けい)(「続モンド通信18」、2020年5月20日)

10→「小島けいのジンバブエ日記10回目:10月3日(晴れ)最後の晩さん」「続モンド通信17」、2020年4月20日)

9→「」「続モンド通信16」、2020年3月20日)

8→「小島けいのジンバブエ日記8回目:ルカリロ小学校」「続モンド通信15」、2020年2月20日)

7→「小島けいのジンバブエ日記7回目:ボローデール行き」「続モンド通信14」、2020年1月20日)

6→「小島けいのジンバブエ日記6回目:8月15日」「続モンド通信13」、2019年12月20日)

5回目(原稿が一部見当たらずに欠番)

4→「4回目8月1日」「続モンド通信12」、2019年11月20日)

3→「3回目7月27日」「続モンド通信11」、2019年10月20日)

2→「2回目7月22日」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

1→「1回目7月21日」「続モンド通信9」、2019年8月20日)



小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

                  「続モンド通信9」、2019年8月20日)

小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

 

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。

ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。

あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。

そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。

++++++++++++++++++

1回目:7月21日

1992年の夏、私たち家族は「アフリカで暮らす」ということだけを目標に、ジンバブエの首都ハラレで、3ヶ月をすごしました。

ジンバブエの地図

行く前もそうでしたが、帰った後も、アフリカは遠い。日常の雑事に追われていると、時の流れも加わり、あの鮮烈だった日々がどんどん遠ざかり薄れていきます。

「旅は終わった。けれど、私のアフリカは今から始まる」と旅の終わりに思いました。その想いを消さないためにも、ハラレでの<普通>の毎日を、少し書き綴ってみようと思います。

(1) 7月21日(快晴)ハラレ着

アフリカ文学、特に南アフリカの「アレックス・ラ・グーマ」の作品を読んでいた相方は、留学先に南アフリカを望んでいましたが、当時まだ日本とは教育や文化の交流が禁止されていました。

アレックス・ラ・グーマ(けい画)

ケープタウン遠景:テーブルマウンティンを望む

そこで南アフリカに一番近く治安も良いと聞くジンバブエの、ジンバブエ大学に短期留学を決めました。さらに14歳の娘と10歳の息子を、短かい期間でも現地の学校に通わせたい。そのような希望を実現するために、在ハラレの吉國さんご夫妻に多大なご迷惑をかけ、白人街に一軒の家を借りました。

私たちの滞在中スイスに里帰りする老婆の家は、月額10万円。大学の敷地に近く、広い道路をはさんで「アレクサンドラパーク小学校」があるという、願ってもない場所です。約500坪の家は、広い芝生の庭とL型の建物から成っています。玄関を中心に、広いリビング、食堂と明かるい台所。そして寝室が3つです。

500坪の借家

まず驚いたのは鍵の多さです。玄関の1枚のドアに3箇所、そこからどの部屋に行くにもまた鍵です。さらに、鏡台やたんすの引き出し、冷蔵庫に至るまで、家中が鍵だらけでした。

また家具付きとは聞いていましたが、庭番のゲイリーと番犬のデインもいました。すこぶる大きなデインが黒人に吠える姿には迫力がありますが、私たちには最初から吠えませんでした。きっと小さな時から、黒人にだけ吠える訓練をされているのでしょう。

日本の家に比べるとずいぶん大きなこの家ですが、プールや夜間照明付きのテニスコートのある両隣りは、敷地も数倍あり、庭番も3、4人います。

ゲイリーとデイン

 何はともあれ、まずまず快適なこの家で、私たちのアフリカでの生活が始まりました。



小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

                    「続モンド通信10」、2019年9月20日)

小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

 

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

街中のジャカランダ

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。今回は2回目です。

前回の「続モンド通信9」(2019年8月20日)→「小島けいのジンバブエ日記:1回目:7月21日」

++++++++++++++++++

2回目:7月22日(晴れ)グレース来宅

グレースさん

長旅の疲れで全員がまだ寝ている朝七時、突然、この家のメイドをしているグレースがやって来ました。家では子供が三人もいて大変だから、家主のいない間も雇ってほしい、となまりの強い英語で訴えます。即答はできないので、とりあえず十ドルを渡して帰ってもらいました。この家には洗濯機がなく、掃除機は一円玉も吸えないうちに壊れました。(それでも私たちの帰国後、掃除機を壊したということで、相当額の修理代を請求されましたが・・・・。)ガスは無く、料理は電器コンロです。貴重な限られた時間を有効に使うため、結局働いてもらうことにしました。

 

右側の部屋を寝室に

翌朝グレースの要求した値段は、吉國さんから聞いた相場の二倍でしたが、午前中二時間、掃除と洗濯だけを頼みました。話が終わったと思ったら、往復四ドルのバス代を請求されました。後でゲイリーに確かめるとバスは片道一ドル、さらに吉國さんに報告すると、あの人は歩いて通っていたはずだ、とのことでした。なかなかのしたたかさです。