つれづれに

つれづれに:アフリカシリーズ

 「アフリカシリーズ」に出会えてよかったと思う。小説のために大学を探していたときに見つけた。通例、大学の職には修士号が要るので、修士論文を書いた。それが出発点だった。大学で、研究業績、教育実績、社会貢献が求められるとは考えていなかった。大学の採用条件は学歴、教歴、研究業績である。博士号が望ましいが、門前払いでどこにも入れてもらえなかったので、教歴と研究業績を増やすしかなかった。高校を辞めての職探しだったので30歳を過ぎていたが、先輩のおかげで修士修了時に非常勤の機会をもらった。大学での教歴の始まりだった。その1年目に「アフリカシリーズ」と出会ったのである。業績のために参加した「黒人研究の会」の月例会(↓)でアフリカの話を聞けたこともよかった。

例会があった神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

 修士論文でアフリカ系アメリカ人の作家の理解を深めるために歴史を辿(たど)っていたので、ルーツとしてのアフリカは自然の成り行きでもあった。それに、授業で出来る限り映像や音声を使う工夫をしていたので、「アフリカシリーズ」はありがたかった。大阪工大(↓)の先輩が開発して予算をつけて整備していたLL教室も、気兼ねせずにたっぷりと映像や音声が使えるので、とても有難かった。学生の助手の手助けも、機械操作などに疎い私には何よりだった。個人的には大学の購読は好きだったが、それまでのリーディング中心の授業にはしたくなかったこともあって、映像や音声をたくさん使った。特に、最初の工学部学生は受験英語で英語に抵抗がある人も多かったので、尚更好都合だった。単に言葉だけよりも、映像や音声は効果的な場合が多かった。

 「アフリカシリーズ」に出会えて一番よかったと思うのは、この500年余りの歴史を見渡せたことだろう。しかも、侵略した側のイギリス人がアフリカから絞ってきた富、今はそれを返す時に来ています、それには先進国側の経済的な譲歩が必要です、と語るのを聞けたのだから、感動ものだった。マルコム・リトゥル(↓)が「金髪で青い眼をした白人がみな悪魔だと思っているのか?」と常々親しい友人に語っていたのを証明するかのようだった。

小島けい挿画

 「アフリカシリーズ」には大きな山が3つある。①ヨーロッパ人が来る以前、②奴隷貿易後の産業化、植民地化、植民地時代、③第2次世界大戦後以降、である。どこでこんな映像を手に入れたんやろ、と感心する映像が多い。自分の足で歩き、アフリカの人たちと話をしてきた賜物だろう。それと、侵略者側は記録として見るに堪(た)えぬ写真や映像でも残すらしいので、後の世代の人にとっては貴重な証拠と言えそうである。サハラ砂漠を横断するトワレグ人と焚火(たきび)の横で語らうデヴィドスン、ザイールの深い森の中で大きな川に蔓で編んだ橋を架ける作業をするピグミーの人たち(↓)、揺れる船の上でダウと呼ばれる帆船のロープを操るスワヒリの船乗りたちなど、とりわけ印象に残っている。

次回は、アフリカについて書く前に、『アフリカのための闘い』に触れておきたい。

つれづれに

つれづれに:陽が出て

柿干せど 献上ままならぬ 雨、雨が降る        我鬼子

小島けい画

 雨の日が続き、というより陽が顔を出さない日が続いて、折角49個の大きな西条柿を剥(む)いて干してはみたが、乾かず重みで枝から外れてぼとんと落ちてしまうし、雨を避けて家に取り込んでも黴(かび)がぎっしりと生えるし、こま蠅(ばえ)はわくし、落ちた汁に蟻(あり)が群がるわ、散散だった。それでもしつこく、最後まで望みを捨てずに粘ってみたが、結局すべてを廃棄、畑の土に埋めることになった。→「柿干せど」(2024年10月23日)

 今年は終わったなあとすっかり諦めていたのに、どうやら台風も消えて、明日から1週間ほど晴れの日が続くようである。陽が出て、干し柿の作業が出来るわけである。うまくいけば、干し柿のお裾分けができるかも知れない。昼ごろに樹をみてみたら、まだ柿は生きている。垂れ下がっている実を、少々取り入れた。大きな実が32個、だめになった49個、すでに落ちた100個ほど、まだ樹に生っているたぶん100個余りをいれると、今年の生り年は300個前後になりそうである。うまくいけば、半分は生き残る。今から作業である。

 昨日から11月に入って、カレンダーも11月用にかわっている。1980年代の終わりに宮崎に来たころには、神宮より北の借家に住んでいた。妻は仕事と家事と育児にと、体力の限界近くにいたが、宮崎に来てからは絵を描きたいと仕事も辞めた。来た当初は、ちょうど市民の森公園の花菖蒲が咲いていたので、毎日自転車で通って花菖蒲を描いた。描きたくても時間がなかった分、いくら描いても描き足りない様子だった。花菖蒲のあとは、明石では簡単に手に入らなかったあけびや葛など、野の花をせっせと描いた。材料集めは私の役目で、毎年どこに何が咲くかがわかるようになった。そのあと。出版社から装画の話が来て、出版社の人の言われるまま、躑躅(つつじ)や水仙など、次々と花を描いた。カレンダーの絵は、その時に描きかけのままにしていた絵にコーギーを組み合わせて描いたものである。

11月:<犬(コーギー)とあけび>(3号)

 金木犀(きんもくせい)が咲いている。マッサージに行くときに、たくさん枝を切って持って行った。恒例行事になっている。私同様に、あの甘酸っぱい香りが大好きなので、毎年この時期には持って行く。ただし、1週間ほどしかもたない。ぽろぽろと散ってしまう。あと、2、3日で盛りが過ぎる。ほんとに短い、期間は僅(わず)かである。

「中朝霧丘」の庭でも毎年いい香りを漂わせていた。ちょうど息子が生まれたころである。金木犀の犀を名前に使って市役所に届けに行ったら、この字は使えませんと言われた。10月8日だった。多少南に位置しているせいか、金木犀の咲く頃が、2週間から3週間は遅い。毎年その思いを味わう。今年は3週間ほど遅い。

陽が出て 柿を干す 秋になった        我鬼子

つれづれに

つれづれに:1980年頃

 「アフリカシリーズ」が放映されたのは1983年である。大学も小説のために探したので、まさかアングロサクソン系の侵略の系譜を辿(たど)ることになるとは思わなかったが、その過程で1980年頃に歴史の流れに大きな変化があるのを感じた。「アフリカシリーズ」も、その大きな流れの中にあったと思う。バズル・デヴィドスン(Basil Davidson)がタイムズの記者をしていた時期に、アフリカ大陸を駆け巡りながら考えていたことをまとめ始めた頃のビデオ映像である。イギリスで出た45分8巻の英語版ビデオシリーズをNHKが編集し、日本語の吹き替えで放映されている。編集と日本語を担当したのは国立大の教員で、「黒人研究の会」での評判はよくなかった。学生の時のゼミの教員が同僚と始めたアフリカとアフリカ系アメリカの研究をしている人たちの小さな集まりで、会誌の発行と月例会が主な活動だった。編集を担当した人は、私が入会したときに退会していた。

 1980年頃の流れの変化に気づいたのは、南アフリカの歴史の全体像がぼんやりと見え始めた頃だったと思う。きっかけは、武力闘争を続けていたアフリカ民族会議の本部にアパルトヘイト政権後の相談に出かける人たちが出始めたという話を聞いた時である。最初はなんでやろ?と思っただけだったが、その疑問が頭から離れず、何かにつけて考えるようになった。

そうかあ?アメリカが遣りたい放題し難(にく)うなってきたからやったんか?

あるとき、ふとそう感じた。そう言えば、第2次大戦後はアメリカの一人舞台やったなあ。30数年経って、その構図が変わって来たんや。「アフリカシリーズ」の結論は、アフリカから絞ってきた富、今はそれを返す時に来ています、それには先進国側の経済的な譲歩が必要です、だった。デヴィドソンは、戦後アメリカ主導で再構築された、多国籍企業による資本投資と貿易の体制の詳細を、映像で見せてくれていた。特に、独立後にアメリカが公然としゃしゃり出たコンゴでは、民衆からアメリカの民主主義的に選ばれた首相のルムンバが、アメリカが立てた若き日の精悍な将校モブツに殺される生々しい映像は衝撃的だった。危機を感じたルムンバが出動を要請した欧米が資金を拠出する国連軍に見守られながらである。1995年のエボラ出血熱騒動で映像に現れたモブツは、まだ独裁政権を続けていた肥った老人(↓)だった。

 東側諸国も関係してると意識したのは、1970年代に宗主国ポルトガルと闘ったアンゴラとモザンビークが独立後社会主義路線を取ったことを知ったからである。1992年に行ったジンバブエも、社会主義路線を取っていた。ハラレ空港で、グレートジンバブエ(↓)行きのプロペラ機の写真を子どもたちがカメラを構えたとき、突然兵士が現れて撮影を止められた。知り合ったショナ人の子どもさんが通う田舎の小学校の校長室に案内されたとき、正面に大統領ムガベの大きな写真が飾られていた。ハラレのスーパーに行ったら、まったく品物がない棚がいくつもあった。日本では見かけない光景だった。ジンバブエは宗主国イギリスとも東側の中国やソ連とも国交があるので、意識しないと社会主義路線だと気づかないくらいである。

 1990年くらいから15年間ほど、学生や留学生や教員といっしょに週に一度体育館でバスケットボールの試合(↓)をしていた。中国の留学生が多かった。中国では体育館が使えないと言っていた。中国は産業化の最中だったので、工学部と医学部が同じレベルだと聞いた。工学部博士課程の国費留学生が、中国の状態を資本主義と呼んでもらっても、共産主義と呼んでもらってもどっちでもいいです、と言っていた。1972年に日中の国交が回復したあたりから、西側諸国の企業や投資家が進出し、市場も開放されて、西側の車や家電製品や日用品が大量に出回っていたからである。もちろん、コンピューターやスマートフォンも、西側と競いながら普及させていった。少なくとも、中国人留学生が共産主義の国から来ていると普段意識することはなかった。

 シャープヴィルの虐殺(↓)で非暴力を捨てて武力闘争を始めたとき、アパルトヘイト政権は欧米と日本の支援のもと軍事力、警察力を総動員してアフリカ人勢力を抑え込んだ。1964年にリボニアの裁判でマンデラなどが終身刑を言い渡されたときには、指導者層は殺されるか、投獄されるか、亡命するかしかなかった。地上から指導者が消えた。そのとき、正式に外交官扱いでその人たちを受け入れたのが、ソ連とキューバである。もちろん、武器の供給も両国が主体だ。武器の製造は自国の産業を潤(うるお)す。第2次大戦では核兵器も使われたのだから、重火器や戦闘機などの規模や質も格段に上がり、軍需産業は利潤の高い重要な産業になっていたのである。

 多国籍企業による資本投資と貿易の体制を再構築したアメリカは大戦で疲弊した宗主国を尻目に大手を振って、鉱物資源の豊かなコンゴと南アフリカの経済競争に参入した。南アフリカには、おまけに入植者が築き上げた安価なアフリカ人労働者を無尽蔵に使える短期契約労働システムまでついている。IT産業や家電製造に必要なレアメタルや金やダイヤモンドを安く掘り出して手に入れていたのである。もし、東側諸国にから武器を供与されているANCが、最先端の近代兵器を備える白人の軍隊と正面衝突すれば、南アフリカは廃土と化す。余り汁を吸い続けるアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、日本などのアパルトヘイト政権の盟友は、搾り取る主体をなくしてしまうのである。だからこそ、1980年代に入ると、アメリカやヨーロッパ諸国はザンビアのANC本部にアパルトヘイト政権後の相談に行き始めたのである。そして、1980年代の後半には、ベルリンの壁が崩れて東側も自由経済に向けて舵取りを余儀なくされた。経済レベルの低い国の人たちは、当然、豊かな西側諸国にどっと流れてゆく。東ドイツの人たちが西ドイツにながれるのは、貧しい田舎から仕事のある都会に人が流れるのと同じ原理だろう。

ヨハネスブルグ近くの金鉱山

 1990年にはマンデラたちは投獄された時と同じ法律のまま無条件で釈放された。そして、4年後、マンデラが大統領になり、アフリカ人政権が誕生した。白人政府が、アフリカ人政権と引き換えに、アメリカや日本と協力して搾取構造を死守したのである。1980年頃の流れの変化は、まさにこの帰結のための予兆だった。

1990年2月12日に釈放された時のマンデラ夫妻のBBC映像

 次回はアフリカシリーズである。

つれづれに

つれづれに:アフリカ人

 奴隷貿易に続くアングロ・サクソン系の侵略ですっかり白人と黒人のイメージが変わってしまったが、奴隷貿易が始まる前のヨーロッパ人はアフリカ人をどう見ていたのか?

デヴィドソン(↓)の「アフリカシリーズ」の前に、見ておきたい。ずいぶんと昔のことなので、推論の域は出ないが、その後の侵略の過程で捏(ねつ)造されたイメージを再認識するためにも触れておきたいと思う。

 最初にアフリカ系アメリカ人作家ラングストン・ヒューズの(Langston Hughes, 1902-1967)「黒人史の栄光」(↓)の中の記述などを紹介したい。大学は夜間で英米学科だったので、1年から月水金は英語科目の授業があった。夜間は夕方の6時前から9時前までの100分間で、大半が5時に定時の仕事が終わってから集まって来る。みな急ぎ足だった。科目は購読、英作文、英会話で、購読が一番多かった。その購読の教科書の1冊が「黒人史の栄光」だった。当時は英文学が優勢、アメリカ文学も白人文学が主流で、アフリカ系は有名な数少ない作家の翻訳本が出回っているくらいだった。ノーベル文学賞の受賞者は、白人である。アフリカ系のテキストが複数回使われたのは、大学にアフリカ系を選んだ人たちが多くいたからである。白人のイギリス文学やアメリカ文学以外のものに何かを求めた人がいたのだろう。アジアやアフリカの独立運動やアメリカの公民権運動の影響が大きかったに違いない。ゼミの担当者も最初はホイットマンの詩を読んでいたが、アフリカ系やアフリカの歴史の大冊の翻訳をやるようになっていた。専門課程の特殊講義では、黒人文学入門や黒人英語もあった。他では見られない科目だと、後で知った。黒人英語は全国レベルそうだったので授業に出てみたが、教官とゼミたちの馴れ合いを見るのが不快で、行けなくなった。

 ヒューズは体制に立ち向かって闘うタイプの作家ではなく、むしろ、現実を受けとめながら、詩や小説や民話や歴史やの形で人に寄り添うタイプの作家である。「黒人史の栄光」でも、その姿勢が垣間見える。最初にアメリカに来た黒人は水先案内人や通訳で、奴隷ではなかった、と物語を始めている。祖先はアフリカ大陸で平和に暮らしていた。エジプトや西アフリカには豊かな帝国もあった。もちろん、東アフリカにも南アフリカにも王国があり、広大な交易網が張り巡らされていた、と伝えたかったのだろう。

アフリカの北部はヨーロッパから近く、古くから往来もあった。パリに行ったとき、会いに行ったソルボンヌ大の人が留学生に予め案内役を頼んでくれていたが、その留学生の女性はモロッコの人だった。フランスの植民地だったモロッコなどの知識人はパリの大学に進学しているということだろう。屋根裏部屋(↓)のある小さなホテルを予約してくれていて、家族をホテルまで送り届けてくれた。子供たちはモロッコさんと呼んでいた。パリにはアフリカ人も多く、北アフリカのクスクス料理なども人気があった。日常でアフリカ人と接する機会が多い感じだった。

 コロンブスの船に乗っていた水先案内人のひとりペドロ・アロンゾ・ニーニョは黒人だったと言われている。1492年のことで、ポルトガルやスペインが南米や中米で遺跡を荒らして好き勝手していた頃である。水先案内人の一人エスタヴァンも黒人で、モロッコ生まれだった。そのエスタヴァンの註である。

Estavan – Estabanico Estrbsnの綴字もある。Morocco(同地にはアフリカ人ととアラブ人の混血人種のムーア人と呼ばれる人びとが居住)のAzamorに1500年ごろ生まれ、スペイン語の記録でnegroと記述されている。15、16世紀のスペイン、ポルトガル両国では黒人は稀な存在ではなく、船乗りとして地中海を渡ったり、奴隷・人質とそてヨーロッパにつれて来られたアフリカ人はかなりあった。シェイクスピア劇Othello(1604年上演)の主人公は文中Moorと呼ばれ、The Merchant of Venice(1596-97)では、MoorとNegroとは同義に使われている。Estabanicoすなわち“Kid Steve”は<ちんぴらスティーヴ>、<スティ-ヴ小僧>ほどの意。

 中世では西アフリカの文化レベルの高さがヨーロッパでも広く知られていたので、黒人を劣ったものと思わせるものは残っていない、とデヴィドスンは→「『アフリカシリーズ』」(↓)で紹介している。現存する中世の壁画を見ても、黒人と白人が対等に描かれていて、ヌビア出身の聖モーリスに仕えていた侍女は白人である。

アフリカ小史の3つの山①侵略される以前、②奴隷貿易から植民地時代、③第2次大戦後、を書き始める前に、次回は「アフリカシリーズ」について書きたい。