つれづれに

つれづれに:10月も半ばを過ぎて

10月 秋立ちぬ(サンダンス) (3号)

9月 (ぴのことジョバ)青い街(3) (2号)

 10月も半ばを過ぎている。今回もカレンダーを更新できずに、2ヶ月分を載せることになった。吉祥寺にいる娘は寒いのが苦手、こっちと代わって、こっちも代わってほしいと母と娘で遣り取りしている。3年続きで、10月の半ばを過ぎてもまだ日中の最高気温が30以上である。しかし、昨日から北東の風が吹いて雨も降り、少し気温が下がり始めている。月曜日くらいからは、下が22℃くらいになるらしい。植物は暑さ寒さに対応する幅があるようで、例年通りしっかりと柿(↓)も色付き始めて、芒もあちらこちらで見かけるようになっている。

 先週は熱中症気味でやられたかなと思ったが、早めに対策したので、何とか持ち直した。先々週に、暑い最中に長時間自転車に乗ったのがじんわりときいていたらしい。出来るだけ外出は控えましょう、は人ごとではなかったわけである。

 この時期になって、瓢箪南瓜(↑)の実がつき始めた。今年はわりと早い時期に竹の柵(↓、解体作業中)を拵えて肥料も入れたが、それがよくなかったらしい。最初の頃は葉っぱばかりが繁り、花が咲いても実をつけなかったり、途中で変色して消えてしまったり。1本の蔓に7~8個はなるものらしいから、70、80個はなってもおかしくないのに、今のところ十数個である。南瓜は肥料なしの方がたくさん実がなるものらしい。

 9月末と10月の半ばに、小説は投稿した。最近はウェブで投稿できるので原稿用紙を綴じて、郵送するという手間が省ける。ただ、相手次第なので、先行きは相変わらず見えない。教授選といっしょで候補者には投票権がない。相手任せである。次回は3月末に2つ出す予定で、どちらも400字で250枚と300枚らしい。1つは3日ほど前から書き始めている。100枚ほど書いたところだ。先の見えない旅路が続く。考えれば、小説を書きたいと思って大学の職を探したくらいだから、やりたいことがやれているので、有難い話である。

赴任当時の旧宮崎医科大学(ホームページより)

 きのう、長崎のオムロプリントから2026年のカレンダーの見本が送られて来た。いつも専属の人が表紙や各月の構成や色合を考えてくれる。今年も、なかなかの出来栄えである。有難い。表紙と8月は、注文をして下さった東京の方の愛犬である。お気に入りのうさちゃんの人形がかわいい。名前がりりーちゃんなので、百合の花が豪華である。僕はいつものように、花屋を巡って材料の調達係だった。写真ではなく、生きた花を見ながら描いているので、勢いもある。毎年、最後は寝不足になるので、来年は個展が終わったら準備を始めようと言っている。恒例行事である。

リリーちゃんと百合:2026カレンダー表紙

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つれづれに:久しぶりに

8月 オオカミ (3号)

 ひさしぶりに、更新している。前回が→「比較編年史1950⑤南アフリカ」(5月23日)だから、3ケ月余りが経ち、すでに8月(↑)も終わりかけている。6月(↓)も7月(↓)も、カレンダーの更新ができなかった。

6月 山桃とチェックとスカイ (4号)

7月  舟にて(アリス・M・さや) (3号)

 6月の半ばに前立腺の手術をしてもらって、初めて入院した。尿道から内視鏡を入れて肥大した部分を切除し、取った部分は細かく切って膀胱に落とし回収、切断面は焼いて止血したらしい。開腹しないので、体にかかる負担は最小限、月曜日に手術して、木曜日の午後には、もう帰ってもいいですよと言われた。予定通り金曜日まではいたが、何とも凄いことをするようになったものである。人に恵まれて、助けてもらった。

人体を切ったのだから、体には相当な負担である。出血もあったし、自転車に乗ったり、歩いたりするのもしばらく大変だった。まだ回復半ばである。男性の多くが歳を取ると、前立腺に支障が出るようで、体にがたがきているということだろう。先が見えてきたわけである。早くに生きても30くらいだろうと、すっかり世の中を諦めた気になったわりには、ずいぶんと生き存えてしまっている。出遭ってしまった出版社の人は、私とは仕様の違う人だったが、余生を生きていますという点だけは一致したようだった。なぜか、次から次にすることを勧められて、気がついたら退職していた。

出版社の人が亡くなってから、出遭う前に決めていたことだからと思い直して、小説を書き始めた。原稿も少し溜まり出した。この9月末と10月末にも投稿予定である。教授選と同じで、こちらが選ぶわけではないので、先行きは極めて怪しい。6つほど書いたあと、もう書けないかと思いかけたが、2つほど芯になるようなアイデアが浮かんだ。形にしていけば、何とかなりそうな気配である。

辛うじて丸莢オクラの世話は出来ている

 庭の畑(↑)に出るには暑すぎる日々が続いているが、草が生い茂って入れなくなるので、しばらく前から陽射しが強くなる前の短い時間に畑に出るようになった。屈む姿勢が長く続いて支障が出ない程度にしか作業は出来ないが、3日坊主にならずには続いている。秋になって、猛暑に心配がなくなると、少しは畑にも出やすくなるだろう。

近所の百日紅、今年も健在である

 辺りは8月の初めに刈り入れも終わり(↓)、そろそろ芒の季節である。暑い時期に咲き続ける百日紅(↑)も、今暫くは咲いていてくれそうである。

 加江田神社の展望所から加江田の山を背景に

つれづれに

つれづれに:比較編年史1950⑤南アフリカ

まだ日本に駐留していたGHQ

 比較編年史1950年の5回目である。1回目→「1950①私」では、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、朝鮮戦争が勃発し、戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも大きく変わり始めていたことに触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して、ペンタゴンが環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。4回目→「1950④アフリカ」では、朝鮮戦争のあった1950年、イギリス領ゴールドコーストでは会議人民党がデモを行い、警官隊と衝突していたことについて書いた。そして、今回は南アフリカである。

 1948年にアパルトヘイト政権が出来てから既に行っていた体制をより整えるために国会での数にものを言わせて、今までの慣例を次々と法制化して行った。過半数を取って法律を作り、したい放題してきた自民党と構図は同じである。1910年にオランダ系アフリカーナーとイギリスの入植者が金やダイヤモンドの採掘権をめぐって殺し合ったとき、どちらも銃を持っていたので殲滅するまで闘えば取り囲まれている多数派のアフリカ人に共倒れすると思い知って連合政権の国を作ってしまった。アフリカ人を搾取するという一点で妥協した。その政権で、肝心要の土地に関する法律を法制化している。1913年の原住民土地法である。アフリカ人側もことの重要性を知っていたので、法制化を聞いて、その前の年に初めて抵抗運動の組織を作った。それが今の与党アフリカ民族会議ANCである。使える土地は白人のもの、不毛の土地はアフリカ人のもの、互いの売買は禁じるというものである。アフリカ人から奪った土地は入植者のものと法律で決めたわけである。どの法律も、アフリカ人に重くのしかかった。

 1948年に単独過半数を取ったアパルトヘイト政権は、翌年に異人種間の結婚を禁止する法律を成立させた。人種隔離政策の主な政策の一つである。そして1950年に集団地域法を制定した。人種別に居住区が割り当てられ、割り当てられた地域以外での居住は違法とされた。1953年の隔離施設留保法では、道路を除いたあらゆる公共施設や公共車両、飲食店などで人種別専用の施設を用意することが義務付けられ、居住区と生活圏が法的に隔離された。アフリカ人は約2500万人、インド系約90万人、白人は約500万人程度だった。のちに、不毛の土地にアフリカ人の独立国を創るというバンツースタン計画が立案された。人種隔離はするが、都市部での労働力は要るので一時的に滞在を認めるという屁理屈を通しただけである。従って、労働力の動向を把握するための通行許可証が急務となった。それがパス法である。

朝鮮半島(↓)で、ソ連の後押しで北朝鮮・中国兵とアメリカ・韓国兵が戦っていた1950年に、南アフリカではアパルトヘイト体制が強化され、その一環として集団地域法が制定されていたのである。

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つれづれに:比較編年史1950④アフリカ

 比較編年史1950年の4回目である。1回目→「1950①私」では、1歳の記憶はないので、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。2回目→「1950②日本」では、まだ日本に駐留していた総司令部GHQ(↑)のマッカーサー(↓)を含めたアメリカの対日政策が東西冷戦での「反共の砦」の方向に向かっていたことと、朝鮮戦争が勃発したことを書いた。戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていたことにも触れた。3回目→「1950③アメリカ」では、国外では東西冷戦、国内では公民権運動の初期の段階であったことと、その流れの中で朝鮮戦争に出兵して環太平洋構想を推し進めたことについても書いた。そして、今回はアフリカである。

 アメリカやと韓国が、朝鮮半島でソ連や中国の助けを借りた北朝鮮と戦っているとき、アフリカでは独立に向けて動き出していた。戦争で無傷だったアメリカが荒廃した西ヨーロッパ諸国をまとめて北大西洋条約を結んでソ連や東ヨーロッパと対抗し始めていたが、アメリカには別の狙いもあった。アジアとアフリカへの進出である。アジアとアフリカではすべてがほぼ宗主国の独占状態だったので、先ずはその体制を崩す必要があった。そこでアメリカが思いついたのは多国籍企業による貿易と資本投資である。これなら大手を振って参入できる。特に鉱物資源の豊かなコンゴと南アフリカは魅力だった。普段ならイギリスやフランスなどもすんなりと応じる訳はないが、主要都市は戦禍で復興に追われ、おまけにアメリカには借金をしている。火事場泥棒とはまさにこのことだろう。口先だけのイギリスに真似て、アメリカは開発と援助という文字を付け加えた。弟分だけのことはある。

 これからアメリカにやられる予定のアフリカ(↑)は独立に向けて動き出していた。1960年の独立の年まで大きな出来事はすくないので、今回もガーナの続きを書こうと思う。独立第1号だったこともあるが、アフリカの統合に向けて欧米と面と向かって闘った指導的立場にいたからでもある。イギリスからしてみればゴールド・コースト模範的な植民地だった。1948年にそこで暴動が起きたのだから、当然押さえにかかる。物価高騰などによる不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始めて暴動に発展したということだったが、見過ごすわけにはいかない。第一、他の植民地に示しがつかない。実際にはエンクルマが書記長をしていた連合ゴールドコースト会議は動いていなかったが、植民地当局は同党が煽動したとしてエンクルマを含め党の首脳部を逮捕した。しかし、押さえ込もうとしたために却って党の人気は高まってしまった。そこでイギリスは調査団を派遣し、自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。富裕層中心で穏健だった党は賛成したが、エンクルマは即時自治の要求を掲げて党首脳部と対立して、1949年に会議人民党を作った。そしてストライキやボイコットなどの積極的な政策を実施して貧しい国民の支持を受け、独立へと進んで行くのである。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち1』)

エンクルマが袂をわかった植民地エリートや伝統首長は、かつて奴隷をヨーロッパ人に売り飛ばして権力を維持し、独立後は欧米の傀儡となって権力にしがみついた輩である。そして、独立後に欧米の傀儡となって、独裁政権を維持し続ける集団でもあった。
ソ連が承認した北朝鮮軍とソ連と同盟を結んだ中国からの志願兵と、アメリカ・国連・韓国連合軍が朝鮮半島で殺しあっていた1950年、イギリス領ゴールドコーストの首都アクラではエンクルマが創設した会議人民党が即時自治承認を求めてデモを行い、警官隊と衝突していたのである。