つれづれに

つれづれに:江之電と「天国と地獄」

 海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だったが、江之電に乗りたかった理由は他にもあった。黒澤明監督の「天国と地獄」に出て来たシーンが目に焼き付いていたからである。一度近くで見てみたいと思っていた。録音した江之電の音を手掛かりにして犯人の動向を割り出し、江之島の見える高台の別荘で逮捕することに成功した。電車の架線の出す音が特徴的だったことにヒントを得て、別荘を割り出していた。今では考えられないが、今以上にあほな男社会で、煙草(たばこ)の煙がもうもうとする中で行われていた捜査会議が、いかにもその時代を象徴していた。男中心のあほな基本構造はそう変わっていないように見えるが、少なくとも職員室や捜査会議で煙草を吸えることはないだろう。

「天国と地獄」は1963年の製作である。翌年に東京オリンピックがあった。後に南アフリカの作家の作品を理解するのに歴史を辿(たど)り、日本がアパルトヘイト政権と深く関わっていることを知った。第二次大戦で中断されていた通商条約を結んで白人政権に加担した日本は、南アフリカの人にとっては経済を優先する恥知らずの国である。1960年の大量虐殺でアフリカ人側がオランダ人とイギリス人の連合政権の横暴に耐えかねて武力闘争を開始したとき、アパルトヘイト政権はなりふり構わず欧米や日本に協力を求めて力でねじ伏せしまった。ネルソン・マンデラなどの指導者たちは逮捕され、終身刑を言い渡されてロベン島に送られた。1964年のことである。南アフリカは地上での指導者を失い暗黒の時代に入り、日本は高度経済成長時代に突入した。映画はその頃の話である。

 映画を見たのは三ノ宮の高架下のビッグ劇場という映画館だった。旧作が3本1000円だった。夜の授業に行くつもりで家を出たが、三ノ宮で阪急電車に乗り換えるときに、大学には行かずに映画館に行き先を変えることも多かった。シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier、1927-2022)の「いつも心に太陽を」(To Sir with Love)、「谷間の百合」(The Lily of the Valley)、「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)や黒澤明の「赤ひげ」などは、無為な日々を過ごしていた私の心にも充分に響いてきた。のちに、まさか授業で「招かれざる客」を使うとは、その時は思いもしなかった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三ノ宮駅(今はJR)

つれづれに

つれづれに:湘南

 『海岸道路』の一節である。

「鎌倉を中心にして海岸道路は左右にのびていた。左は江之島、茅ケ崎(ちがさき)を経て大磯、小田原に至り、右は逗子(ずし)を経て葉山に至る道である。海岸道路にはいたるところにホテルが建っていた。これらのホテルは夏場は混むが、いくつかのホテルは季節はずれになるとひっそりとしてしまう。したがって予約なしに行っても、いつでも泊まれる。海岸道路ぞいに朝まで営業しているレストランが何軒かあり、深夜、東京からわざわざバーのホステスをつれてくる男達もいた、これらの男達は、ひとむかし前は、ホステスををつれて横浜の″南京街″にくりだした連中である。その頃ホステスは女給とよばれていた。

地元のある人達は、この海岸道路を有閑道路とよんでいた。よくも深夜これだけの人間があつまるものだ、と思うほど、どのレストランもまいばん満員だった。」

主人公も朝まで営業しているレストランの常連で、有閑道路脇のホテルに泊まる。海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だった。

 鎌倉と藤沢間を走る江之島電鉄である。ウェブで検索して見つけた1970年代の写真(↑)では、電車と併行して走っている海岸道路と江之島が見える。

 鎌倉から電車に乗り、途中で稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島の駅で降りて海岸道路を歩いた。『海岸道路』のほか、『春のいそぎ』、『はましぎ』、『恋人たち』の主な舞台である。

 私の日常は方埒(ほうらち)な生活とはまるで無縁だったが、生きても30くらいまでかなあと、ぼんやりと過ごしていた先の見えない無為な生活に、主人公の無為な世界を重ね合わせて、大根のところでは理解できる気がしたのか。

 しかし、小説を書き出せなかった。書き出すばねがないと感じたからだが、突然の母親の借金騒動であらぬ方向に動き出してしまった、というのが正直なところだ。その後、結婚して子供も出来てと、また思わぬ方向に展開して、小説どころではなかった。このままでは書けそうにないと言う気持ちが高じて、先ずは書くための空間をと、大学の職を思いついた。元々貧乏だから自分一人ならそれでもよかったが、妻や子供に強いる気にはなれなかった。返すあてもなく金を借りて、借りてまで生きてはいけないと思った感情に似ている。

つれづれに

つれづれに:湘南

 →「漂泊の思ひ」と、入れ込んでいた作家の作品の舞台を見たいという思いもあって、三月の初めに湘南・鎌倉に出かけた。1970年代の半ばである。舞台を見る前に、一度は行ってみたいと常々思っていた伊豆地方にも立ち寄った。→「伊豆」では「修善寺」、→「西海岸」の戸田、→「下田」から→「伊豆大島」に渡ったあと、→「小田原」に行った。小田原城公園では、仰向けになって空を眺めた。そのあとは、最終地の湘南・鎌倉だった。初期の作品の主な舞台だったからである。作品の中の地名を思い浮かべながら、江ノ電に乗り、海岸線を歩いた。

 その後、1980年代にアメリカ文学を選んで修士論文を書く時にも、同じことがあった。英文だったが、作品がすっと意識下に入ってきた。著者が多感な時期を過ごしたミシシッピは、やはり初期の作品の舞台だった。作者が生まれたナチェズには、首都ジャクソンからプロペラ機を利用した。

ナチェズ空港

 空港前に広がる長閑(のどか)な景色から黒人を樹に吊(つ)るしていた残虐な場面は浮かんでこなかったが、眼の前の美しい光景がかえって残酷な風に思えた。旅先から学会誌に送った原稿には、その時ミシシッピを回りながら感じた思いが綴(つづ)られている。(→「ミシシッピ、ナチェズから」、1986)

 「『風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る』とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く」

 英文だったが作品の文字がすっと心に染みこんで、意識下に働きかけてきた何かを確かめたかったのだろう。時代も違うし、英語も充分に使える状態ではなかったが、作家の生まれ育った辺りの土地に立ってみたいという思いは強かった。

 日本人の作家が新聞に連載していた小説だったが、文字が意識下にすっと入ってきて、何かに響くのを感じた。作品の舞台を歩いてみたいと感じたのも同じ思いからである。

 『海岸道路』はその頃に書かれた代表作で、由比ケ浜、七里ケ浜、稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、藤沢、逗子(ずし)などの名が躍(おど)る。鎌倉に住む主人公はその海岸道路の近くで、放埓(ほうらち)な日々を過ごしていた。従妹で銀行の頭取の娘、有閑マダム、夫が有名大学教授の人妻、隣町の県会議員の妾(めかけ)など、女に困ることはなかった。ときには喧嘩(けんか)や、いかさま坊主と吊るんで喝(かつ)上げもする。手際よく相手を倒すまでには、数々の修羅場(しゅらば)をくぐって来たに違いない。

 作品を読みながら、海岸道路を見てみたいと思い、出かけて海岸線を歩いてきた、そんな湘南行きだった。

つれづれに

つれづれに:春模様

 ぐずついた日が続いたが、一昨日はきれいに晴れて白浜の海(↑)も色が鮮やかだった。いつもの位置で砂浜と海の写真を撮った。

 高台を下りたら、田圃(たんぼ)に水が張られていた(↑↓)。田植えの準備である。まだ張られてない田圃の方が多いが、今月末には超早場米の田植えが始まる。ほんとうは田に水を張る前にやる田起こしの場面を撮りたかったのだが。耕運機のあとを群がって着いていく烏(からす)か白鷺(しらさぎ)の構図が面白くて、いつも撮りたいと思っているからだ。過去に撮った写真はないか確かめたが、残念ながら画像は残っていない。何回も見たので。その画面は目に焼き付いているのだが、鳥たちの目当ては、耕運機で掘り起こされた地中に眠っていた虫たちである。自然の摂理というところだろう。

 家の庭では沈丁花(じんちょうげ)の花もほぼ終わり、北側の庭に植えた藪椿(やぶつばき)のこぶりの花が次々と落ちている。もちろん南側の日当たりのいい場所に植えたかったが、他にも樹があるし、畑の空間も要るので、一本だけしか植えられなかった。北側の樹は、なぜか本調子ではないのに、今年は葉がすっかり落ちているのに、花だけが20ほど咲いている。椿は時機が過ぎるとぼとんと花が落ちる。花の落ち方から嫌がられた向きもあるようだが、→「椿」、特に藪椿は好きな花の一つで、妻のカレンダーや装画の材料の一つである。「椿の花 斬首」でウェブ検索したら、次のような記述があった。

 →「本(装画・挿画)一覧」

 「椿は花が原形を保ったまま地面に落ちるが、その花が斬首にあった人間の首を思い出させるので、江戸時代の武士には嫌われたそうである。
人間の首は地面に落ちたらそれまでであり、桜の花びらもまた然り。しかし椿の花はその誇りを失わず、地面に落ちてもしばらくの間は鑑賞に堪えうる。」

「私の散歩道2009」の表紙絵の原画

 去年の夏ころに近くの家の庭に郁子(むべ)の実が2個(↓)なっているのをみて写真に撮って、→「郁子」と→「郁子と通草(あげび)」について書いたとき、春に花が咲いたら写真を撮ってこようと考えた。

 その花が咲き出していたのである。その群生は毎年花をつける。まだ蕾(つぼみ)が多いが、花は咲き出している。自転車の通る道をしばらく海沿いのコースに変えていた。しばらく通らなかったが、また元の道を通るようになっているので、写真が撮れたというわけである。秋に「つれづれに」に書いた時は「薄紫の花」と書いたと思うが、実際はかなり濃い紫色だった。郁子が熟した時の実の表面の色よりも濃い気がする。

 春一番も吹いたと誰かが言っていた。その前後はぐずついた天気が続いていたが、その間にすっかり春模様になったようである。田植えの準備と郁子の花が、その時機の訪れを教えてくれている。

 今年こそは、稲刈りの後と水張りの前に田起こしの写真を撮りたいものである。からすさん、しらさぎさん、その時はどうかよろしく頼んます。

小島けい「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」3月