つれづれに

つれづれに:エイズ検査

 エイズに関するアフリカの6回目で、エイズ検査である。当時のエイズ検査はかなりいい加減で、診察でもマラリアや風邪の初期症状の患者もHIV感染者に入れた感染者数のデータそのものが間違っていた、それも国連や世界保健機構(WHO)や米国疾病予防センター(CDC、↓)などの西側諸国の主要機関ぐるみの捏造(ねつぞう)だったというとんでもない話である。忖度(そんたく)政治のあおりを受けて、国の文書自体の書き換えを公務員が強要され、一国の首相が国会で嘘の答弁を繰り返す、日本も負けていない。さすが「先進国」の一員である。

 ゲシェクターはアフリカ人が「性にふしだら」という思い込みに反論して、「アフリカ人が特に性にふしだらだとする証拠はなく、結果的に考えられるのは、(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していないか、(2)流行の原因が他にあるかだ」と指摘した。

ゲシェクターが(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していない、と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからでる。エイズ検査が実施される以前は、アフリカでは医者が患者の咳(せき)や下痢(げり)や体重減などの症状を見て診断を出していた。咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の疾病(しっぺい)にも見られる初期症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛(まぎ)れ込んでいる確率が高かったわけである。検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものの信憑(しんぴょう)性がやはり非常に低かった。著書(↓)で「アフリカ人に聞け」と提言したダウニングも、自分の妻が陽性の検査結果だったので、アメリカで再検査をしたら陰性だと判ってほっとしたと書いている。エイズを描いた小説の中でも、何回かそんな場面があった。

 1994年の「感染症ジャーナル」の症例研究では、「結核やマラリアやハンセン病などの病原菌が広く行き渡っている中央アフリカではHIV検査は有効ではなく70%の擬陽性が報告されている」という結論が出されている、つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクター(↓)は判断したのである。2000年前後に「30%以上の感染率で、崩壊する国が出るかも知れない」という類の多数の記事が出た。しかし、潜伏期間の長さを考えても、10年以上経った以降にエイズで崩壊した国はないので、報道そのものの元データが不正確だったと言うことになる。

 (2)流行の原因が他にある、とゲシェクターは考えた。アフリカがエイズ危機にあるのは異性間の性交渉や過度の性行動が原因ではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得なかったからである。その主張は、後にムベキ(↓)が欧米の猛烈な批判や攻撃に怯(ひる)むことなく主張し続けた内容と同じである。

 不正確な検査や統計に基づいたエイズ報道は信用せずに、アフリカ政府は援助に頼る悪弊(あくへい)を断ち切って適切な対策をとるべきだと「ニューアフリカン」は主張してきた。2000年前後に欧米のマスコミは、意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てた。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズ/HIVは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズ/HIVで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズ/HIVで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズ/HIVの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませた。

 同じ年に国連は、エイズが多くのアフリカ諸国で劇的に平均寿命を縮め、次の10年から15年の間に想像以上に人口が激減するという予測の世界人口調査結果を発表し、その結果を元にニューヨークタイムズなどが「サハラ砂漠以南のアフリカで最も被害が大きい国ボツワナでは、わずか5年前には61歳であった平均寿命が今や47歳に落ち、2000年から2005年の間には41歳まで下がるでしょう。成人の5人に1人がHIVの陽性であるジンバブエでは、死亡率は国の人口増加を激減させており、1980年から1985年の間の年間3.3%から現在の1.4%に、2001年には1%以下に下がると予測されています。もしウィルスがなければ、現在恐らく2.4%の増加率を示していたでしょう。」という類の記事をさかんに載せた。

 それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものだ。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なる。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなるので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになる。つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカの実態を反映したものではなかったのである。

 英国のテレビプロデューサー/ジャーナリストのジョーン・シェントンは研究者チームを連れてガーナとコートジボワールに渡って調査を行ない「ガーナで227名の患者に、コートジボワールでは135名の患者に『HIVと関わりのないエイズ』を発見した。すべての患者はアフリカに昔からあるスリム病(Slim Disease)と呼ばれる体重減、下痢、慢性的な熱、肺炎、神経的な疾病の症状を呈していた。しかも「ガーナの227名、コートジボワールの135名がHIVの陰性でした」と報告した。

 エイズ検査の結果も極めて不確かで、資金不足のためにアフリカの病院で一般に行われていたELISA法[酵素免疫吸着測定法]による血液検査では83%も擬陽性が出る可能性があると言われていたし、ロンドンでも研究所によって結果が違い、一ヶ月の間に検査結果が二転三転した例も報告されていた。ダウニングの妻が受けた検査もELISA法だった。ナイロビの病院でウエスタンブロット検査を受けたが判定できないと言われ、結局アメリカで検査を受けて陰性ではないと判ったと著書(↓)で紹介している。

エイズの検査キット

 なぜ、そんなでたらめなデータがまことしやかに流れたのか?理由は簡単で、日本の原子力エネルギー政策に似て、利害が複雑に絡(から)でいたからである。

シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣ジェイムズ・マクンビは「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えたと言う。別のウガンダ人バデゥル・セマンダは「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」と語っている。シェントンが言うように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです」ということである。

製薬会社(「エイズの時代」、2006年)

 莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけである。

次回はHIIV人工説詳細である。

つれづれに

つれづれに:性のあり方

 エイズに関するアフリカの5回目である。HIV感染者が急増し、抗HIV製剤が史上かってないほどの高い利潤を生むようになって、また奪われる側が大変な目に遭った。アフリカも標的にされた。→「エイズの起源」がアフリカだと言い出して、責任を転嫁し始め、挙句は性のあり方にまで踏み込んで煽(あお)り立てたのである。アフリカ起源説も「性にふしだら」も、責任転嫁には好都合だったと言うことだろう。

「アフリカ人の過度の性行為についての神話」は目新しいものではない。過去に何度も繰り返して使ってきた手口である。「異常に大きな陰核のゆえに性的に飽くことを知らない黒人女性と性の饗宴(きょうえん)にふける黒人男性の話」は、「アフリカ人は幼稚で野蛮である」などとともに、植民地時代の初期にヨーロッパの探検家が持ち帰って広めたものである。アフリカ争奪戦を繰り広げる侵略者にも、利益をもたらし生活を潤(うるお)してくれる植民地政策の支持者にも、理不尽な植民地支配を正当化するためには神話が必要だったのだろう。

神話は「猿の血を媚薬(びやく)として切り傷に擦り込んだザイール人の話」、「潰瘍(かいよう)のある性器の苦情が広まっている話」、「売春婦からHIVをもらい、自分の妻にうつしているアフリカのトラックの運転手の都市伝説」など、範囲が広がり、新たに「割礼(かつれい)や一夫多妻制などのアフリカの伝統的な習慣が流行に拍車をかけている」という神話まで付け加えられた。市場拡大を目論(もくろ)む製薬会社にも、開発や援助の名目で利益を貪(むさぼ)る多国籍企業や政府にも、貿易や投資で生活が潤う先進国の人にも、「神話」は不可欠なのである。

 欧米では主に男性同性愛者と麻薬常用者の間で、アフリカでは異性間で感染が拡大していたし、アフリカでは欧米よりもかなりの速さで広がっていたので、両者の流行の違いを説明するのにアフリカ人は「性にふしだら」、つまり、「性にふしだらなアフリカ人」がコンドームもつけないで「過度なセックスをして」急激に感染を拡大した、アフリカでの爆発的なエイズ感染の拡大の責任はアフリカ人にある、というわけである。

アフリカの歴史を研究する米国人チャールズ・ゲシェクター(Charles Geshekter、↓)は「ニューアフリカン」(1994年10月)の「エイズと、性的にアフリカ人がふしだらだという神話」(”Aids and the myth of African sexual promiscuity”)の中で、塩川優一を「性にふしだら」と思い込んでいる典型として最初に取り上げている。塩川優一は1994年8月に横浜で行われた第10回国際エイズ会議の組織委員長で、会議で「アフリカ人が性的欲望を抑制しさえすれば、アフリカのエイズの流行は抑えられます」と発言したのである。国際会議で、である。東京帝大医学部卒、順天堂大教授、厚生省お抱え学者、厚生省エイズサーベイランス委員会委員長、薬害エイズ事件では第1号患者の認定をめぐって批判された人物、なるほどである。ゲシェクターは主流派の言う「HIV/エイズ否認主義者」の一人で、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめた人物である。ムベキの大統領諮問(しもん)会議にも招聘(しょうへい)され、「ニューアフリカン」でも執筆している。しかし、政府も製薬会社も体制派も資金源が体制派のマスコミも、こぞってその会議を黙殺した。

日本政府の推進する原子力エネルギーの危険性を指摘した人たちが冷遇され、安全神話で政策を擁護する原子力村が優遇された構図と似ている。チェルノブイリは他の国の出来事と決め込んでいたひとたち、フクシマでの惨事を経験しても、性懲りもなく、原子力依存政策を推進している。原子力発電所を廃炉にせずに、年限が来れば廃炉にすると決めて始めた発電所の継続利用を推進、ベトナムに原子力発電所を輸出予定、既得権益に蠢(うごめ)く人たちの欲望は、空恐ろしい。原子力に群がる人たち、コロナ禍でもオリンピックを強行した人たち、そういった既得権益にしがみつく人たちの構図と、アフリカ起源、性のあり方で責任転嫁をはかろうとする人たちと、根っこは同じである。哀しい人の性(さが)だろう。

 ゲシェクターはいくつかの根拠をあげて神話に反論している。

「過度の性行為」については「エイズ地帯のルワンダ、ウガンダ、ザイール、ケニア人々がカメルーン、コンゴ、チャドの人たちより性的に活動的だと証明した人もいないし、精力を計る基準の男性ホルモン(テストステロン)の値は世界中どこでもそう大差はないので、ある大陸や地域の男性が他の所の男性より過度に性行為にふけるということはないという概念を忘れてしまっている」と科学者の一方的な主張を戒め、「アフリカ人が性にふしだらである」については、1991年のウガンダ北部モヨ地区の性行動の調査を引用して、性行動が西洋人と大して違わないと指摘している。調査の結果は、女性の初体験は女性が平均17歳、男性が19歳、結婚前の性体験は女性で18%、男性で50%だった。割礼については、女性の間でもっとも広く割礼が行われているソマリア、エチオピア、ジプチ、スーダンでエイズ患者が一番少ない事実を科学者が無視していると指摘し、そもそも公の場で性的な感情を表わすのが女性の「資質」を貶(おとし)めると考える地域と、ボーイフレンド、ガールフレンドが当たり前の西洋を同じ基準で論じること自体がおかしいと述べた。トラックの運転手についても、性的な行動面から見てアフリカ人の運転手はアメリカやヨーロッパの運転手と大差はなく、東アフリカのトラックの運転手だけを非難するのは片手落ちであると指摘している。

次回はエイズ検査である。

エイズの検査キット

つれづれに

つれづれに:エイズの起源

 エイズに関するアフリカの4回目である。奴隷貿易の蓄積資本で機械による産業化社会になり、資本主義が加速度的に進むなかで、持てるものはさらに富を増やす策を次々と繰り出す。その過程で、→「アフリカ」も原材料と市場の標的にされて、搾り取られてきた。アメリカに最初の患者が出たエイズでも、史上最高の利益を生む抗HIV製剤に群がる輩が、感染者が急増したアフリカも標的の一つとなった。アメリカ人医師ダウニングはアフリカのエイズ事情は→「アフリカ人に聞け」と著書(↓)に書いた。メディアも欧米諸国に圧倒的に支配されているからである。アフリカ人の声を聞ける数少ない情報源→「ニューアフリカン」の中からいくつかを取り上げて、紹介しているところである。今回はエイズの起源である。

 エイズのアフリカ起源説を言い出したのは、CDCが重用した人物ギャロである。ギャロは国立癌(がん)研究所でエイズウィルスを発見したと主張していた。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設である。ギャロはパリのモンタニエ研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中だったが、評価が下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われている。

ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学の獣医師エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になった。しかし、そのウィルスがマサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが後にわかり、ミドリザル起源説自体も否定された。ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表したが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかった。

元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えないが、1988年には、モンタニエ研究所の所長モンタニエも、世界保健機構(WHO)のエイズ特別プログラムの委員長ジョナサン・マン(↓)も、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源には謎が深まるばかりだと認めざるを得なかった。

 アメリカや西洋諸国ではエイズはアフリカが起源だとメディアで騒ぎ立てていたが、アフリカ人はそうは捉(とら)えていない。前回ジンバブエ大学の学生の話や、医学部で出会った医学生のタンザニアとケニアでの体験を紹介したが、ダウニングも1990年代の半ば頃に東アフリカ(↓)の病院で働いている時に同僚のアフリカ人からエイズの起源の話をよく聞いたと述懐している。

「エイズの起源は議論の余地がある問題でしたが、エイズが現に存在し、私たち医者の仕事はエイズを防ぐために努力し、そのために最善を尽すだけだと思っていました。しかし、いっしょに働いているアフリカ人たちには、それだけでは不十分で、誰もが『ニューアフリカン』を読んだこともない田舎の人たちでしたが、私が本当にアフリカがエイズの起源だと考えているかどうかを知りたがりました。私には実際わかりませんでしたし、本当に気にもしませんでしたが、エイズについてのアフリカ人の本当の声を聞くある重要な手掛かりを教えてもらっているとはその時は気づいていませんでした。」

 前回エイズ患者やHIV感染者の数を国連やWHOなどまでが水増ししていたことを書いたが、エイズのアフリカ起源説も、西側諸国の持てるものの利益最優先の延長上にあると言える。エイズのアフリカ起源説はHIVのアメリカ人工説と係わりが深いので、項を改めて取り上げようと思う。次回は性のあり方である。

つれづれに

つれづれに:ニューアフリカン

 エイズに関するアフリカの3回目、ニューアフリカン(↓)である。

1966年創刊の「ニューアフリカン」は英語の月刊誌で、ロンドンが拠点である。毎月、22万人がアフリカ大陸での最新情報を求めて購読している、と言う。読者層は主に官僚やビジネスマン、医師や弁護士などらしい。日本に来たグギさんの世話をして以来、反体制分子とレッテルを貼られてしまったケニアの友人も、New Africanは読んでるよ、と言っていた。ケニアの文部省から京大に政治の研究に来て、博士号を取ったあと3年は助手をしていた。その後の職がなかったので、私が世話になっていた先輩が大阪工大(↓)の非常勤を世話したときに、同じ非常勤として紹介してもらった。それ以来、よく遣り取りをした。

 出版されないままだが、グギさんの評論の翻訳をしたときは、いろいろ聞いた。ギクユ語やスワヒリ語やケニア(↓)の文化背景などで聞きたいことがたくさんあったからである。友人はナイロビ大学の秀才のようで、母国語のギクユ語の他に東海岸で使われているスワヒリ語に、もちろん英語、日本に来てからは日本語も使えるようになっている。ほかにルヒア語などもわかるらしい。日本語だけで済む人が多い日本と言語事情は違うが、多言語用の脳を持っている人物なのだろう。ただし、日本語は京都訛(なま)りというより、いかにも外国人という日本語で、一向に変化する気配はない。教えてもらうまで外国人だと気づかないほど流暢(りゅうちょう)な日本語をしゃべる人が身近にいるので、比較してしまう。

 欧米のメディアが圧倒的な力を持っている現状では、アフリカに関心のある人たちには貴重な雑誌である。ただし、日本では「タイム」や「ニューズウィーク」のようには行かない。もちろん、研究室で定期購読という手もあったが、エイズの記事以外にそれほど必要性を感じなかったので、私は科研費の旅費を使って、過去の在庫がある大阪の国立民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行き、アフリカのエイズ関連の記事を大量にコピーさせてもらった。民族学博物館は事前に連絡を通り、有料の万博公園を無料で通って図書館に辿(たど)り着いた。誰もが気軽にという雰囲気ではないなと、毎回思いながら公園内を歩いていた。もちろん、中に入れば図書館員は親切だったが。いかにも国家公務員という対応だった、と言えばいいか‥‥。東京外大のAA研(↓)の図書館は本館で事情を説明したら、案外すっと係員が連れて行ってくれたが、人はいなかった。わざわざ足を運ぶ人がほとんどいない分野ということだろう。お蔭で、一人静かに雑誌を見ることができた。

 たぶんイギリス資本で、1999年までは英国人アラン・レイクなどのイギリス人が編集長をしていたようである。それが、イギリスに住むガーナ出身のパンアフリカニストバッフォー・アンコマー(↓)が編集長になってから、編集の色彩が大きく変わった。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向も変化した。

 アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増えているし、異端派と無視されたアメリカ人の医師に原稿依頼をして、内部告発の人たちに書く場を提供してしている。扱うテーマも、エイズ検査や統計に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、ぐっと幅を広げている。その後の約10年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心である。次回以降は、そこに提起された問題を詳しく紹介したい。次回はエイズの起源である。参照→「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号、2011年)

エイズの検査キット