つれづれに

つれづれに:秋立ちぬ

妻の通う馬場の馬サンダンスを描いて「秋立ちぬ」の題に

 10日ほど前に→「彼岸花」を摘んで来たが、30℃以上の暑さが続く中では、とても秋になったとは言えなかった。しかし、昨日から急に秋になった。秋立ちぬである。

小島けい画

 旧暦では季節が始まるのを「始まる」ではなくて「立つ」と言う。旧暦の呼び名には農業を中心に生きて来た人たちの息遣(づか)いが漂う。秋が始まったではなく、秋立ちぬである。今年の旧暦の4季の始まりは 立春(2月4日)、立夏(5月5日)、立秋(8月7日)、立冬(11月7日)である。普段、土を触っている感覚ではこの辺りの旧暦と新暦の差は2週間か3週間、しかし最近は6週間ほどに感じられる。感覚の世界だが、恐らく温暖化のせいだろう。

 この前の台風(→「台風10号」、8月28日、→「台風10号続報」、29日)で瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↑)はだいぶ雨風(あめかぜ)に叩(たた)かれたが、何とか勢いを取り戻した。しかし、一度やられると時期がずれて、最初の勢いには戻らない。折角かなり好調に推移して最初の何個かは大きくなってお裾分けして喜ばれただけに、少し残念である。このまま盛り返してくれればいいが、また台風に遣(や)られる確率も高い。自然には、克てない。

 茎を一本一本丁寧に麻の紐(ひも)で結んだピーマン(↑)は生き残っている。腰を痛めて苗を植える時に肥料をやれなかったので、今ひとつ大きくならないが、何とか追肥をしているので、予想以上に生き残るかもしれない。去年は霜がなかったせいか、2本ほど夏前まで生きていた。

丸莢(さや)オクラ(↑)も生き残った。倒れかけの分もあったが、まっすぐにして開いていた葉を結んでいた紐(ひも)を解くと、葉が勢いを取り戻した。去年は終わりが早かったが、勢いがある。普通のオクラより実が大きいので、3本もあれば一日分は充分にある。粘り気のあるオクラは使い勝手があるので、有難い。胃壁を守るだろうと、毎日納豆と山芋をすって食べているが、オクラを加えると、粘り気が増す。どちらも、朝方に花が咲く。瓢箪南瓜は濃い黄土色、オクラは薄めの黄色である。実が大きくなるだけあって、花も大きい。夕方に写真を撮ったので、花は開いてなかったが、何年か前に撮った写真(↓)がある。見事な花である。

 毎年この頃にオクラの苗を買いに行く。種からも苗を作るが、芽が出て大きくなるまでに時間がかかるので、大きくなった苗を先に10本ほど買う。12月には食べられる。まだまだ虫が活発に動く時期なので、何もしなければ見事に葉はやられる。希釈した酢と焼酎(しょうちゅう)をこまめに撒(ま)く必要がある。

三日前にいつもの店にブロッコリーの苗を買いに行ったら、閉店していた。苗や花と野菜を少々取り扱っていた店だが、薄利多売に傷みやすい生もの、あの安い値段でよう続いてるなあと思っていたら、やっぱり閉店してしまった。他にも系列の店舗が宮崎駅の近くにあったけど、あそこももうないやろなあ。

 それで仕方なく、少し高めでもと思いながら清武の量販店に行ってみたら、12個セットの小さな苗があった。初めてみかけたが、他よりは安い。2セット24本の苗を買って来た。3日ほどかかったが、ブロッコリーの苗(↑)は何とか植え替えた。こまめに希釈した酢と焼酎をかければ、年末には無事食べられそうである。

 玄関先の西条柿(↑)も少し色がつき始めた。1か月もすれば、干し柿に出来そうである。色づいてくると、熟すのは早い。短い期間に作業をしないと、熟した柿は干しても落ちてしまう。手間も暇もかかる。しかし、陽に干すだけで、何とも言えない色と艶が出る。太陽の力は、凄い。

秋立ちぬ 西条柿も 色づき出した      我鬼子

7年目になった1個(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:大統領選

 人類史上で恐らく最も利益を生むことになった薬抗HIV製剤は、アメリカの大統領選まで左右する事態になった。それだけ、巨大な資本が絡(から)んでいたということだろう。コロナ騒動で全国民がマスクを強制され、外出や移動の自粛を迫られている最中に、しかも国民の大多数が強く反対しているにも関わらずオリンピックを無観客でも強行したのは、巨大な資本が蠢(うごめ)いていたからである。既得権益に味をしめる輩(やから)がコロナごときで、その権益を手放すわけがない。
1997年に、コンパルソリー・ライセンス法を制定して安くコピー薬を創り始めた南アフリカに対し圧力をかけたアメリカ副大統領ゴアを鋭く批判したのはイギリスの科学誌「ネイチャー」(Nature July 1, 1999)の論説記事(Editorial)である。

「熱き民主党の大統領候補者オル・ゴアは、エイズ問題に関してそれなりの信念を持ってやってきていましたが、ある緊急のエイズ問題で、製薬会社の言いなりの冷たいおべっか使いという汚名を着せられて、自らを弁護する窮地に立たされています。
この春に行なわれた出産前の臨床調査では、性的に活発な年齢層の22%がHIVに感染しており、2010年までにエイズによって平均寿命が40歳を下回ると予想されています。発症と死の時期を遅らせることが可能になったカクテル療法はごく少数の恵まれた人以外、南アフリカでは誰の手にも届きません。
この事態に直面して、1997年、政府はある法律を通しました。同法の下では、権利の保有者にある一定の特許料を払うだけで国内の製薬会社が特許料を全額は支払わずともより安価な製剤を製造することが出来るという権利、いわゆるコンパルソリー・ライセンスを厚生大臣が保証出来るというものでした‥‥
欧米の製薬会社はそれを違反だとして同法の施行を延期させるように南アフリカを提訴し、ゴアと通商代表部は‥‥その法律を改正するか破棄するように求めました。
公平に見て、アメリカの取り組みを記述するその強引な文言は、数々の巨大製薬会社の本拠地であるニュージャージー州から選出された共和党議員の圧力に屈して国務省がでっち上げたものです‥‥
しかしながら、動機がどうであれ、最近のゴアの記録は事実として残ります。南アフリカ大統領タボ・ムベキ(↓)とともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して、副大統領は、悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。これまで『良心の価値』(values of conscience)を唱え続けて来た人の口から出た言葉であるだけに、その発言は、少し喉元にひっかかりを感じます」

 論点は南アフリカやブラジルのHIV感染やエイズの死亡者数の当時の状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」だったかどうかである。ゴアと通商代表部が南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めたのは、南アフリカのやり方が開発者の利益を守るべき特許権を侵害し、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したからである。しかし、1985年頃から始まったアフリカ大陸の感染状況は凄(すさ)まじかった。特にマンデラが釈放された1990から2000年頃までの爆発感染は尋常ではなかった。南アフリカの経済の核となっているヨハネスブルグ金鉱(↓)の周辺には南部諸国から短期の契約労働者が集まる。

 田舎から単身赴任で出稼ぎに来て、コンパウンドと呼ばれるたこ部屋に集団で住む。その周辺にその労働者目当ての売春婦がたむろして、HIVに感染。契約切れのあと田舎に帰って配偶者にうつす。出稼ぎで男手の少ない田舎の農作業や老人や子供の世話を一身に担う女性たちがエイズで斃(たお)れ、孤児が増え、このままでは村ごとなくなるのではないか、そんな報道が2000年前後に盛んに報道された。欧米のメディアは、CDCが担ぐギャロが言い出したエイズのアフリカ起源説をこれ見たことかと繰り返し取り上げた。責任の転嫁を図ろうとしたのか?しかし、あまりのHIV感染者数に疑問を感じたいくつかの欧米のNGOがアフリカの各地を回って感染状況を調べたら、7割から8割がHIV陰性だった。風邪やマラリアの初期症状の患者も皆HIV陽性者と報告していたことが原因だったのである。さらに、1996年に国連エイズ計画(UNAIDS)を発足させた国連は、資金集めのために、その報道の一翼を担った。2000年11月にはUNAIDSが2000年末のHIV感染者数は推定3610万人と発表した。

 結果的には、CDCや国連や製薬会社の自業自得だったと言える。当時の状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」と言えるほどではなかったかも知れないが、自分たちがはじき出し、盛んに自分たちのメディアで煽(あお)り立てた数字では、「国家的な危機や特に緊急な場合」に該当するのは誰が見ても明らかだった。

 現在アメリカで展開されている大統領選を見ていると、「ネイチャー」が指摘するように、あからさまな共和党のネガティヴキャンペーンに利用されたのは否定できない。しかし、実際には大統領選でゴアがブッシュに僅差で敗れた。石油業界や兵器産業界が地盤のブッシュは父親がした湾岸戦争にならって、武器の在庫を一掃するかのようにイラク戦争を強行した。

トランプの無茶ぶりを見せつけられたあとだけに、頭も切れ良識派だったゴアが製薬会社との繋(つな)がりを優先させて多数の票を失い、落選したのは残念である。途中まで優勢だっただけに余計に、である。エイズは、アメリカの大統領選も左右するほどの大問題だったのである。

つれづれに

ZoomAA第7回目報告

発売30周年記念DVD版の表紙

 *前回(→「ZoomAA6第6回目報告」、4月21日)のあと、腰を痛めて大変な日々を過ごして、やっと再開できました。その間に、一人はベトナムに。日本2人、インドネシア一人、ベトナム一人のズームになりました。再会できてよかったです。
*<Today’s Toppic>
What was the results of the slave trade?
・自分の意見→三角貿易は資本主義を体現した貿易制度であるため、貧富の差がより拡大する結果となった。
・感想
→ 奴隷貿易は、結果として社会そのものを変容させてしまったというところが一番心に残った。現在の社会が消費社会のシステムになってしまった以上、その枠の中で生きていくしかないのだから、その中でアンテナを高く張って、いろんなものの見方や考え方ができるようになりたい。
そう考えると、映画『ROOTS』の自分を形作ってきたものを探し求め、系譜をなんとか探そうとするシーンをもう一度見直してみたいと思った。自分の考え、ものの見方、生活は、社会の変容が大きな影響を及ぼしているからこそ、本質をたどる『ROOTS』の村に行くシーンは大きな意味があるシーンなのではいかと思った。(AI)

*今回のゼミでは、これまでテーマごとに学んでいた内容を歴史の流れとしてそう復習する事ができた。 義務教育の内容では、奴隷貿易や産業革命がそれぞれの出来事として説明される。しかし実際は奴隷貿易によってこれまでにない資金が貯まったことで資本主義の土台が生まれたほか、これまで手作業で生産されていたものが機械化されるようになった。根本的な社会のありようが変化し巨大化していく中で、自国を守るための武器製造も進められていく。また、時代は変化してもその枠組みは今でも影響が残っていることが理解できた。(MN)

*ZoomAA7回目の報告である。奴隷貿易の結果について討論した。映像をみて、という形で来たので、普段よりは意見をいう時間が多かったのはよかったと思う。奴隷貿易による資本蓄積→産業革命を可能に→結果、手で作っていたものを機械で作るようになった→社会が産業化、資本主義を加速度的に進める→大量生産、大量消費で社会の規模が格段に拡大→その社会を維持するための武器も加速度的に強力なものに。そんな辺りを話をしました。意見に出た①国際貿易の形態がへんかした、②貧富の格差が更に大きくなった、③文化な交わりが増大した、なども奴隷貿易の結果だろう。次回は、奴隷貿易によってアメリカ社会はどう変化したか?

最初にヘイリーのアメージンググ、ニューポートの旅番組の冒頭と、ニューポートジャズフェスティバルでのマヘリア・ジャクソンを紹介。ヘイリーについては、英語の授業で紹介していたのを下に貼っておきます**↓。(YT)

**ヘイリー・ウェステンラ(Hayley Dee Westenra ヘイリーは、ニュージーランドクライストチャーチ出身の歌手である。アイルランド系ニュージーランド人。日本ではヘイリーの名義で活動している。なお、ヘイリーは米語読みであり、ニュージーランドでは、ハイリーに近い発音である。

祖母は歌手、母方の祖父はピアニストという音楽好きの一家に育った。6歳の時に学校のクリスマス会で歌を歌ったことから始まった。彼女が絶対音感の持ち主であることに気づいた教師に薦められヴァイオリンやピアノ、リコーダーを習い始めた。やがて発声の練習も始め、ミュージカルの舞台を夢見るようになった。11歳までに40回を超える舞台を務めた。

12歳の時に家族と友人に配布する目的でデモ・アルバム『Walking in the Air』を録音し、1000部を制作した。この録音を終えた後、妹と一緒にクライストチャーチの路上でパフォーマンスを行った。多くの群集に取り囲まれそれを目にしたカンタベリー・テレビ (CTV) の記者から番組への出演申し出を受けた。

テレビでのパフォーマンスはプロモーション会社社長の目に止まり、その後、ユニバーサルミュージック・ニュージーランドからレコーディングの申し出を受けた。2000年に自身の名を冠した「Hayley Westenra」でデビューを果たした。アルバムは好調な売れ行きを示し、クリスマス・アルバム『 My Gift To You 』が制作された。ニュージーランド随一の声楽指導者であるマルヴィナ・メイジャー (en:Malvina Major) も彼女の才能を称賛しレッスンを買って出た。2002年の春にロンドンへ渡った際はラッセル・ワトソンと共演する機会にも恵まれた。ヘイリーの名が国際的に知られるようになったのは2003年にデッカ・レコードと契約しアルバム『Pure』を発表してからのことである。クラシックの楽曲やポップス、マオリの伝承歌のほか、ジョージ・マーティンの書き下ろし曲などを収録したこのアルバムはイギリスのクラシック・チャートで1位、総合チャートで7位となり、国際的な累計売上は200万枚に達した。

『Pure』は日本でも28位と健闘し、さらにテレビドラマ『白い巨塔』の主題歌に「アメイジング・グレイス」が起用されたことで広くその名を知られるようになった。日本ではこのほかに「モーツァルトの子守歌」が映画『ローレライ』の主題歌に採用されたことも話題になった。

2005年にはアルバム『Odyssey』を発表した。ここで彼女はいくつかの曲を共作し、編曲にも参加している。同年12月にはカート・ブラウニング主催のアイス・ショーにゲスト参加しアンドレア・ボチェッリと共演した[4]。2006年の前半はソロ活動と並行してイル・ディーヴォのツアーにゲスト・パフォーマーとして参加した。同年8月から2007年前半にかけてはケルティック・ウーマンに加入し、コンサート・ツアーに同行した。2007年には『ウエスト・サイド物語』の録音(7月30日発売)にマリア役で参加した。2007年2月にはアルバム『Treasure』を発表。彼女自身が全ての選曲を行ったこのアルバムは彼女の祖母に捧げられた。

2008年5月に日本でシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。これは2005年に白血病で亡くなった本田美奈子.の残された音源との仮想的なデュエットによるバージョンである[5]。同年6月3日には『NHK歌謡コンサート』に洋楽歌手として初めて出演し、本田の2004年のライブ映像をバックにこの“デュエット”版による歌唱を披露した。翌6月4日にはこの「アメイジング・グレイス」に加え日本のポップスのカバーを収録したアルバム『純~21歳の出会い』をリリースした。ここでヘイリーは一部の楽曲の編曲や訳詞も手がけている。「アメイジング・グレイス」の一部とボーナス・トラックの「白い色は恋人の色」ではきれいな日本語による歌唱を聴かせている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:HayleyWestenraWikipedia1.jpg                         2012/11/09

つれづれに

つれづれに:製薬会社

 →「多剤療法」 (multi-drug therapy, cocktail therapy)のあとは製薬会社である。

1981年に最初のエイズ患者が出たあと、感染症の研究者や感染症の臨床研究も同時にやっているホー医師のような人の努力もあって、HIVの構造式や抗HIV製剤の可能性の道筋が見え出していた。そういった地道な努力の成果も受けて、製薬会社は自社の研究者を中心に、HIVに対抗できる薬を作り始めた。

 薬の目途が立っても、効き目を確かめるための治験には同意が得られる患者も必要である。予め内容を国に届けて、患者を探し、治験を行って審査を受けるにはかなりの時間も要る。それに、薬の開発には莫大な費用がかかる。資本主義社会の中での競争を強いられる製薬会社なので、利益も優先される。免疫不全の病気はあるものの、これほど大量の免疫不全の患者は初めてである。最初の患者が出てから、次々と患者の数も増えて行った。すぐには新薬は望めないので、承認済みの製剤を援用できないかと考えるのは自然の流れである。おそらく、逆転写酵素阻害剤(RTI, Reverse Transcriptase Inhibitor)AZT(azidothymidine)はその流れで生まれたと思う。もちろん改良されたのだろうが、元々癌の薬なので副作用の問題もあるし、人に合わないことも多かったようである。前回の→「医師の苦悩」で書いた幼児のように、薬の効果が出ない患者もいる。

 多額の費用を使って命を救うために薬を創る製薬会社も、資本主義社会においては投資家の対象の一つで、その人たちは何より利益最優先である。業績が悪くて儲(もう)からないとわかれば容赦(ようしゃ)はしない。だから、企業は無茶をしてでも、利益を上げる努力はする。ただ、行き過ぎるのはよくないだろう。1981年に最初のエイズ患者が出てから既存の抗癌剤を援用してが逆転写酵素阻害剤を製造してきたが、1996年の多剤療法でプロテアーゼ阻害剤も含めて、抗HIV製剤の需要はますます高まっていた。アメリカ国内だけでなく、アジアやアフリカや南アメリカなど、いわゆる第3世界での感染拡大も脅威的になってきていた。当然、「不治の病」から免疫の機能損ねるHIVのように抗HIV製剤の需要も高まっていた。1996年以来、おそらく人類史上でももっとも利益を生む製剤になっていた。

HIVに感染しても薬で発症を遅らせて日常生活が可能になったとは言え、アメリカでもアフリカ系やプアホワイト層は保険診療を受けられず、高価過ぎて手が出ない人の数が多かったし、第3世界ではほとんどの人が多剤療法の恩恵を受けることができないのが現状だった。潜伏期間が最長10年とは言え、その間に何もしなければ日和見(ひよりみ)感染症にやられて衰えて死ぬ。

 だから1997年に、爆発的に感染が広がっていたブラジル政府はブラジル特許法例外規程を、南アフリカは「コンパルソリー・ライセンス」法を制定して安くコピー薬を創り始めた。それに対して、製薬会社がブラジルに嫌がらせをしたり、アメリカ副大統領が南アフリカの副大統領に圧力をかけたり、製薬会社が提訴したりして可能な限りの妨害をしたのである。

製薬会社は、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したが、どちらの国も、WTOのその協定自体が「国家的な危機や特に緊急な場合に」コンパルソリー・ライセンスを例外として認めていることを根拠にしていた。つまり、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当るので、自国でコピー薬を創る始めたというわけである。

 製薬会社もアメリカの副大統領も、国際社会から集中砲火を浴びることになって、結局は訴訟を取り下げた。しかし、提訴の期間中に製薬会社は出来るだけ決定を引き延ばす作戦に出て、充分過ぎるほと稼ぎまくっていたのである。帚木蓬生(ははきぎほうせい)の『アフリカの蹄』の続編『アフリカの瞳』の中で、製薬会社の悪だくみを詳細に描かれている。小説に登場するくらいだから、もちろん周知の事実である。製薬会社が充分に稼いいでいたことは、新聞などでも細かく金額まで報道されていた。大企業が薬を利用して暴利を貪る構図は相も変わらず、というところだろう。

 3つ目の山☆社会問題として:アフリカのところで取り上げるつもりだが、アメリカ政府もCDCも製薬会社も国連や世界保健機構も、2000年前後から、エイズ感染者の数を水増しして報告していたようである。そんな公の大きな期間がと驚きを隠せないが、日本では国の書類を公務員に書き換えさえ、総理大臣が嘘の答弁を繰り返していたし、怪しい宗教団体の集票で3代も総理を続けてきたのだから、さほど驚くことでもないか?製薬会社は巨大な利益を得るために、他はその期間に多額のエイズ基金を集めるために協力したようだ。まさかと思ったが、2000年前後の報道記事を見ると、感染者が3割を超えていた国が多い。もし正確な数字だったとしたら、10年後には感染者の割合だけ人口が減ったことになるが、そんな話は聞かない。アメリカ人医師ダウニングが言ったように「アフリカ人のことはアフリカ人に聞け」は至言である。アフリカ人の声に耳を傾けると、製薬会社や大企業がスポンサーである西欧のメディアが如何に偏見に満ちていて、大半の人がその偏見に毒されているかを気づかされる。相も変わらず。金持ち層は貧しい人から搾り取れるだけ絞っていたのである。その辺りについては、アフリカに関する項で詳しく書きたい。

いま、エイズ関連の連載を続けている。先に→「エイズ」、→「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書いたあと、1つ目の山☆→「HIV増幅のメカニズム」と2つ目の山☆簡単な→「エイズ発見の歴史」は書き終えた。今は最後の3つ目の山☆社会問題として:アメリカ(エイズ会議、抗HIV製剤、HIV人工説)に入っている。→「CDC」、→「国際エイズ会議」、→「医師の苦悩」、→「多剤療法」を書いて、今回は製薬会社を書いた。次回は大統領選である。

今回は国際エイズ会議である。

1981年にアメリカで初めてエイズ患者が出てから4年後の1985年に第1回国際エイズ会議がCDC(疾病対策予防センター、Centers for Disease Control and Prevention、↑)のあるアトランタで開かれた。それから今年2024年までに25回の国際エイズ会議が開催されている。会議に沿って、エイズ問題の大きな流れを辿(たど)って行こうと思う。

1994年までは毎年、それ以降は隔年開催である。25回のうちアメリカとカナダで各4回、ヨーロッパで10回、アジアとアフリカで各2回、中南米(厳密には北米?)とオセアニアで各1回である。アジアは日本(1994)とタイ(2004)、アフリカは南アフリカで2回(2000/2016)となっている。同じ都市で2回開催されたのはアムステルダム(1992/2018)とダーバン(2000/2016)だけである。2020年第23回はCovid19の影響でオンラインでの開催だった。開催された年と開催地一覧である。

1985年第1回アトランタ/1986年第2回パリ/1987年第3回ワシントン/1988年第4回ストックホルム/1989年第5回モントリオール/1990年第6回サンフランシスコ(↓)/1991年第7回フィレンツェ/1992年第8回アムステルダム/1993年第9回ベルリン/1994年第10回横浜/1996年第11回バンクーバー/1998年第12回ジュネーブ/2000年第13回ダーバン/2002年第14回バルセロナ/2004年第15回バンコック/2006年第16回トロント/2008年第17回メキシコシティー/2010年第18回ウィーン/2012年第19回ワシントン D.C./2014年第20回メルボルン/2016年第21回ダーバン/2018年第22回アムステルダム/2020年第23回オンライン/2022年第24回モントリオール/2024年第25回ミュンヘン

横浜でアジアで初めての国際エイズ会議があったのは1994年で、医学生の英語の授業で医学的な問題を取り上げようと思案していた時期である。次の年にコンゴで2回目のエボラ出血熱騒動があって、並行して準備を進めた。会議については、タイやインドなどで感染が拡大していたので、アジアでの開催が必要だったのかも知れない。ただ、エイズ自体についての目新しい動きはなかったように思う。英字新聞にあれこれ関連記事が出たのは有難かった。

1996年のバンクーバーでの会議では、すでにアメリカのエイズ会議で多剤療法の症例報告があったので、エイズ=死ではなくなったエイズ治療元年にふさわしく明るい話題が多かったようである。当時の同僚の外国人教師が夏にバンクーバーに一時帰国した時期と会議が重なっていて、お土産にエイズ会議の特集記事をくれた。国立大学でまだ外国人教師を採用していた時代で、キャリアの割りには破格の待遇という印象が強かった。4人と同僚になったが、英会話の授業だけで公務もほとんどなく、2年毎に配偶者もいっしょに帰国する手当までついていた。何か鎖国明けの外国人招聘みたいやなと思ったことがある。待遇の割りには、そのカナダ人以外は何らかの形で学生と揉(も)め事を起こしてこちらに飛び火していたから、余計にそう感じたのかも知れない。21世紀に入って、ようやくその外国人教師のポジションはなくなったが‥‥。

エイズ治療元年の会議の反動か、1996年のジュネーブの会議は終始重苦しい雰囲気が漂っていたと言う。一つは、多剤療法の副作用の症例報告が多かったからと、次回開催の南アフリカダーバンの医師が「多剤療法にわいてますが、私の勤めている国立の病院で抗HIV製剤を見たことはありません」と発言したかららしい。

そして迎えた2000年のダーバンの会議では、アパルトヘイト後の処理に追われる大統領のマンデラからエイズに関してはすべてをされて来たタボ・ムベキ(↓)が散々非科学的だと欧米のメディアに叩(たた)かれていたにも関わらず「エイズはウィルスだけが原因ではありません」と、従来の発言を繰り返した。それで、更に一層製薬会社がスポンサーの西洋のメディアはまたムベキに矛先を向けて叩き続けた。

 

この時期、3年間と4年間の科学研究費をもらってエイズとアフリカ、医学と文学を交えながらあれこれたくさん書いたので、アフリカとエイズに関しては3つ目の山☆社会問題としてアフリカ:(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)で詳しく書きたい。

次回は医師の苦悩である。

次回は多剤療法である。

次回は製薬会社である

 

次回は大統領選である。

次回はHIV人工説である。

おした雑誌をバンクだった時期が、一気に発症時期を遅らせてHIVを抱えて生き存えるした時期に、り、1995年に

 

 

 

開催された会議の流れの中での最大の話題は、1996年の多剤療法だろう。それまではエイズ=死だった。エイズ治療に当たる医師は逆転写酵素阻害剤が合わなければ、苦しんでも投薬を続けるか、苦しまずに余生を家で過ごす緩和ケアを選ぶかの選択を迫られていた。その時代を凌(しの)いできた医師たちには多剤療法は画期的だった。抗HIV製剤でエイズの発症を遅らせることが可能になって、HIVを抱えたまま生きられる希望が見え出したのだから。海外での臨床実習に向けて医療に特化した英語を担当している時に、材料としてアメリカのテレビドラマ「ER、救急救命室」(↓)を使っていたが、その中に医師が選択に迫られる場面に出くわした。項を改めて書いてみたい。

多剤療法を思いついたのは、HIVがリボ核酸(RNA、RiboNucleic Acid)がデオキシリボ核酸(DNA、DeoxyriboNucleic Acid)を逆転写(reverse transcribe)するときによく間違いを起こすのを見て、それじゃ、たくさんの薬でやってみたらどうだろう、という発想が浮かんだそうである。それまでは既存の抗癌(がん)剤を利用したAZT(azidothymidine)という逆転写酵素阻害剤(RTI, Reverse Transcriptase Inhibitor)しか選択肢がなかったが、プロテアーゼ阻害剤(Protease Inhibitor)と併用してみたら、劇的な効果があったというわけである。1996年の米国エイズ会議でその症例報告をしたグループの一人がデビッド・ホー(David Ho、何大一)、UCLA医学部(1978年 – 1982年)で内科の臨床研修を行ったときにエイズ患者を診察している。のちに、イギリスとアメリカが作ったドクメンタリー「エイズの時代」(2006)に登場し、診察した当時の模様を伝えている。

逆転写(RT、Reverse Transcriptase)酵素と呼ばれる酵素がウィルスのリボ核酸(RNA、RiboNucleic Acid)をデオキシリボ核酸(DNA、DeoxyriboNucleic Acid)

多剤療法は症例報告された。マスコミもその年をエイズ治療元年と呼び、その類の見出しの記事がたくさん出た。カクテル療法を使う記事もあった。

デヴィッド・フォー

アメリカとイギリスが製作した「エイズの時代」(↓)4回シリーズのドキュメンタリーが放送された。最初にエイズ患者を診察した医師やハイチやコンゴなど、当時話題になった地域を取材して関係者にインタビューした内容は、先に読んだ記事を裏付けるなかなか興味深い映像だった。文字だけでは感じられない内容を伝えていたと思う。それ以降は、映像ファイルを作って授業でも使わせてもらった。

写真

 

横浜1994

 

1996

1994 0700  第10回国際エイズ会議(横浜)
1995 0306  東京HIV訴訟原告の川田龍平さんが記者会見して実名を公表
1996 0100  米国エイズ会議でカクテル療法話題に
国連エイズ計画(UNAIDS)発足
1996 0707  第11回国際エイズ会議(バンクーバー)
東京地検が安部英・帝京大学副学長を逮捕
1997 0401  HIV訴訟和解を踏まえ、国立国際医療センターに「エイズ治療・研究開発       センター」
1998 0628  第12回国際エイズ会議(ジュネーブ)
2000 0306  UNAIDSが年間キャンペーン標語を発表「エイズ男が違いを作る」
2000 0709  第13回国際エイズ会議(ダーバン)
2000 1124  UNAIDSが2000年末のHIV感染者数は推定3610万人と発表
2001 0201  薬の知的所有をめぐる米国とブラジルの争いでWTOに紛争調停パネル
2001 0207  インドの製薬会社シプラが抗レトロウイルス薬の廉価供給発表
2001 0305  南アフリカで大手製薬39社がエイズ治療薬の特許権侵害で南ア政府を訴え       た裁判の審理開始
2001 0419  大手製薬39社が南ア政府に対するエイズ治療薬の特許権侵害の訴え取り下       げ
2001 0526  第1回軽井沢エイズウォーク
2001 0625 米国がブラジルに対するTRIPS違反提訴取り下げを発表

1985年第1回アトランタ/1986年第2回パリ/1987年第3回ワシントン/1988年第4回国際エイズ会議(ストックホルム)
1989 0600  第5回国際エイズ会議(モントリオール)
1990 0600  第6回国際エイズ会議(サンフランシスコ)
1991 0600  第7回国際エイズ会議(フィレンツェ)
1992 0720  第8回国際エイズ会議(アムステルダム)
1993 0600  第9回国際エイズ会議(ベルリン)
1994 0700  第10回国際エイズ会議(横浜)
1995 0306  東京HIV訴訟原告の川田龍平さんが記者会見して実名を公表
1996 0100  米国エイズ会議でカクテル療法話題に
国連エイズ計画(UNAIDS)発足
1996 0707  第11回国際エイズ会議(バンクーバー)
東京地検が安部英・帝京大学副学長を逮捕
1997 0401  HIV訴訟和解を踏まえ、国立国際医療センターに「エイズ治療・研究開発       センター」
1998 0628  第12回国際エイズ会議(ジュネーブ)
2000 0306  UNAIDSが年間キャンペーン標語を発表「エイズ男が違いを作る」
2000 0709  第13回国際エイズ会議(ダーバン)
2000 1124  UNAIDSが2000年末のHIV感染者数は推定3610万人と発表
2001 0201  薬の知的所有をめぐる米国とブラジルの争いでWTOに紛争調停パネル
2001 0207  インドの製薬会社シプラが抗レトロウイルス薬の廉価供給発表
2001 0305  南アフリカで大手製薬39社がエイズ治療薬の特許権侵害で南ア政府を訴え       た裁判の審理開始
2001 0419  大手製薬39社が南ア政府に対するエイズ治療薬の特許権侵害の訴え取り下       げ
2001 0526  第1回軽井沢エイズウォーク
2001 0625 米国がブラジルに対するTRIPS違反提訴取り下げを発表
2002 0707  第14回国際エイズ会議(バルセロナ)

2004第15回国際エイズ会議バンコック
2006で第16回国際エイズ会議トロント
2008第17回国際エイズ会議メキシコシティ―
2010第18回国際エイズ会議ウィーン
2012第19回国際エイズ会議ワシントン D.C.
2014第20回国際エイズ会議メルボルン
2016第21回国際エイズ会議ダーバン
2018第22回国際エイズ会議(アムステルダム)
2020第23回国際エイズ会議オンライン
2022第24回モントリオール
2024第25回国際エイズ会議ミュンヘン

当初エイズ=死の概念が変わり、エイズ予防の製剤まで開発されつつあるようだが、最初の患者からエイズ会議を辿りながら

先に→「エイズ」「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書いたあと、一つ目の山☆→「HIV増幅のメカニズム」、2つ目の山☆簡単な→「エイズ発見の歴史」を書き終わった。今は3つ目の山の前半☆社会問題としてアメリカ(エイズ会議、抗HIV製剤、HIV人工説)を書いている。最初に→「CDC」

を書いたあと、今回はエイズ国際会議についてである

 

 

最中である。前回はと後半アフリカ:(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)と書いた。最初に→「エイズ」、次に今回、☆HIVの増幅のメカニズムを書いた。次回は☆簡単なエイズ発見の歴史である。

 

1985 0322  第1回国際エイズ会議(アトランタ)
1986 0600  第2回国際エイズ学会(パリ)
1987 0601  第3回国際エイズ会議(ワシントン)
1988 0612  第4回国際エイズ会議(ストックホルム)
1989 0600  第5回国際エイズ会議(モントリオール)
1990 0600  第6回国際エイズ会議(サンフランシスコ)
1991 0600  第7回国際エイズ会議(フィレンツェ)
1992 0720  第8回国際エイズ会議(アムステルダム)
1993 0600  第9回国際エイズ会議(ベルリン)
1994 0700  第10回国際エイズ会議(横浜)
1995 0306  東京HIV訴訟原告の川田龍平さんが記者会見して実名を公表
1996 0100  米国エイズ会議でカクテル療法話題に
国連エイズ計画(UNAIDS)発足
1996 0707  第11回国際エイズ会議(バンクーバー)
東京地検が安部英・帝京大学副学長を逮捕
1997 0401  HIV訴訟和解を踏まえ、国立国際医療センターに「エイズ治療・研究開発       センター」
1998 0628  第12回国際エイズ会議(ジュネーブ)
2000 0306  UNAIDSが年間キャンペーン標語を発表「エイズ男が違いを作る」
2000 0709  第13回国際エイズ会議(ダーバン)
2000 1124  UNAIDSが2000年末のHIV感染者数は推定3610万人と発表
2001 0201  薬の知的所有をめぐる米国とブラジルの争いでWTOに紛争調停パネル
2001 0207  インドの製薬会社シプラが抗レトロウイルス薬の廉価供給発表
2001 0305  南アフリカで大手製薬39社がエイズ治療薬の特許権侵害で南ア政府を訴え       た裁判の審理開始
2001 0419  大手製薬39社が南ア政府に対するエイズ治療薬の特許権侵害の訴え取り下       げ
2001 0526  第1回軽井沢エイズウォーク
2001 0625 米国がブラジルに対するTRIPS違反提訴取り下げを発表
2002 0707  第14回国際エイズ会議(バルセロナ)

2004第15回国際エイズ会議バンコック
2006で第16回国際エイズ会議トロント
2008第17回国際エイズ会議メキシコシティ―
2010第18回国際エイズ会議ウィーン
2012第19回国際エイズ会議ワシントン D.C.
2014第20回国際エイズ会議メルボルン
2016第21回国際エイズ会議ダーバン
2018第22回国際エイズ会議(アムステルダム)
2020第23回国際エイズ会議オンライン
2022第24回モントリオール
2024第25回国際エイズ会議ミュンヘン

 

バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)の基準で言えば、HIVはレベル3で、エボラウィルス(↓)はレベル4である。(→「音声『アウトブレイク』」でコンゴでのエボラ出血熱騒動の時に話題になったアメリカ映画の紹介もしながら解説している)どちらの場合も、患者の発生の報せを聞いて、疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC、↑)は必要性ありと判断して、早期に対策を講じたわけである。

 ジョージア州アトランタにあるCDCは、保健社会福祉省(Department of Health and Human Services: DHHS、↓))の下部機関で、国内外の人々の健康と安全の保護を主導する立場にある連邦機関である。CDCにはいくつかの主要組織があり、それらの組織はそれぞれの専門分野で独立して活動する一方、それぞれの持つ資源と専門知識を組み合わせて分野横断的な課題と特定の健康への脅威に対処している。

 エボラやエイズなどの感染症は、命を奪い、地域資源の負担を増すだけでなく、多くの国にとって脅威となる可能性もある。今日のグローバルな環境では、新しい疾病(しっぺい)は数日、場合によっては僅(わず)か数時間で全世界に広がる恐れもあり、早期発見と早期対処の重要性は高まっている。エイズ患者の報告を受けて、特別調査チームを置いたのもその流れの中にある。

役割が大きいだけに、影響力も大きい。予測の判断を間違う場合もある。エイズの場合も、いくつか方向性を誤った可能性がある。誰しも方向を見誤ることはある。大きな組織になれば、尚更である。問題は、その過ちを修正するために何をしたか、問題解決に向けてどう手を打ったかである。

 →「エイズ発見の歴史」の概要で、1981年にCDCがカラン(↓)を指名して発足させた「特別調査チームは、その症状が病原体の侵入から人の体を守る細胞免疫において重要な役割を演じるTリンパ球(↑)の減少によって引き起こされたことを発見し、最終的に、この疾患が血液あるいは精液によって感染するという結論を下した」と書いた。その過程でチームは早くから、疫学的研究の焦点を男性の同性愛者に絞った。ゲイの病気だと決めつけたわけである。この絞り込みは早計で、明らかに方向性の誤りだった。すぐに幼児や男性エイズ患者の配偶者や、静脈注射による麻薬常用者から患者が出たからである。その時点で、男性同性愛者やハイチの人たちに対する偏見はすでに広まってしまっていた。CDCが疫学的研究の焦点を男性同性愛者に絞ったから偏見が生み出されたのは明らかだったのだから、CDCは早期に無理をしてでも偏見を和らげるための何らかの強力な方策を採り、それに見合うだけの予算を当然つけるべきだった。エイズ患者は病気だけでも大変なのに、偏見とまで闘わなければならなかったのだから。

 この偏見は個人の生活には予想以上に厄介で、仕事を解雇されたり、人間関係が壊されたりする。社会的に抹殺される場合が多い。1996年に多剤療法でエイズ=死でなくなるまでは、殊に厳しかった。エイズと男性同性愛にまつわる偏見を法廷で覆(くつがえ)してゆく物語「フィラデルフィア」(Philadelphia、↓)は、1993年のアメリカ映画である。主人公はエイズを理由に解雇されて法廷で闘った。治療法がないので、長くても10年の残り時間を覚悟したうえで闘っていたわけである。韓国ドラマ「ありがとうございます」(2007年、고맙습니다)は恋人の医療ミスでHIVに感染してしまった少女に謝罪するためにある島に渡る外科医の話である。エイズ=死でなくなってから10年ほどが経った頃の設定だが、島の人たちの偏見は凄まじかった。鹿児島大院生の情報漏れの話も、偏見によって普通の生活が実際に出来なくなるからこそ大きな問題になったのである。

 輸血用の血液製剤でも方向を誤った。貧困層の麻薬常用者から献血される血液のHIVを完全には除去できないまま、汚染された血液製剤を使用された血友病患者などがHIVに感染してしまったのである。10ドル目当ての貧困層の献血者の中に、麻薬常用者(↓)も含まれていた。CDCが登用したロバート・ギャロが責任者だったが、日本の厚生省もギャロを信奉する安部英を登用して血液製剤によるHIV感染の犠牲者を多数出してしまった。危険性を指摘されても、しばらく継続したので犠牲者が増えた。犠牲者は大規模な訴訟を起こして国と闘った。犠牲者の一人は被害者の会の代表として国会議員に選ばれ、活動を続けた。CDCも厚生省も、危険性を指摘される前に対処すべきだった。素早く対処出来ていれば、少なくとも犠牲者の数をそう増やさずに済んだはずである。

 1992年のエイズ国際会議と同時に開催された医師による内部告発に国もCDCもマスコミも耳を傾けるべきだった。いくら利益を生む抗HIV製剤(↓)で潤う製薬会社が主なスポンサーだとしても、CDCやマスコミは、異端派として黙殺し続けたが、方向性を誤ったと思う。

マスコミはギャロやその取り巻きが言い出したエイズのアフリカ起源説を盛んに取り上げた。アメリカのHIV人工説の非難の矛先をかわすためには好都合だったのだろう。エイズがアフリカで爆発的に感染を始めたときに、欧米人はエイズはアフリカの病気だと騒ぎ立てた。奴隷貿易や植民地支配を正当化するために白人優位・黒人蔑視を浸透させた手法を、またエイズでも使ったというわけである。アフリカで永年医療活動を続けたアメリカ人医師レイノルズ氏は、アフリカのエイズのことはアフリカ人に聞くべきだと提言した。耳を傾けてみると、普段いかにマスコミに支配されて偏見に満ち溢れているかがわかる。教えられることが多かった。アフリカを巡っては、☆社会問題としてアメリカのエイズ事情について書いたあとに、詳しく書いてゆきたい。

次回は、世界エイズ会議についてである。