つれづれに

つれづれに:旅番組

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、たくさん英語を聞いた。ちょうどその頃にNHKの衛星放送を利用できたのが大きかった。家でも研究室でも利用できた。研究室ではかなりの量の映像を録画した。宮崎ではNHK以外に民放が2局しかなく、2か国語放送もほとんどない時代である。赴任した当時、講師の私以外に日本人の助教授とアメリカ人の外国人教師の同僚がいた。普通は英語教師なら同僚に外国人がいて有難いと思うのかも知れないが、戦後すぐの生まれの故でか、戦争に負けて無条件降伏を飲まされた相手国の人たちの話す英語が苦手だった。なぜか、反発を覚えた。1980年代に何度かアメリカに行って、ここにはここの良さがあるとは思ったが、過度のアメリカ化には強く反発を覚えたままだった。(→「シカゴ」)日本人の同僚は温厚な人で、アメリカ人の外国人教師と接すると問題が起きますから、何なら私が中に立ちますよと言ってくれた。日本で働くのだから日本語を使うのが自然と考えていたこともあって、有難く助言に便乗させてもらった。従って、英語が使えるようになるには自分でやるしかなかった。

道路の縁石に腰かけてパレートをながめたミシガン通り

 同僚は東京外大を出たそうだから、私とは違って英語が好きなようで、こともなげに、英語の授業ですから英語でやるのが自然ですね、と言っていた。事実、授業は全部英語でやっていた、ようである。宮崎に限らず東京から遠く離れた田舎では、東京に出るのは一番手の集団だから、その人もよく出来る人だったんだろう。私のように受験勉強が出来ずに行くところがなくて夜間に行き、大学の職場も見つからずに地方に流れて来た人種とは造りが違う。ある日その人に、どうやって英語をやってるんですかと聞いたら、もっぱらNHKの「大草原の小さな家」の2か国語放送と、ラジオの短波放送ですよ、と言っていた。筋金入りの独学の人だった。

東京外大

 衛星放送で英語放送を利用できるようになったのは、幸運だった。ニュ-ス番組も色々録画して繰り返し聞いた。ニュースの次は旅番組だった。十数年ほどの間にかなりの量の映像を録画したが、大抵は1箇所が20分程度で3か所を紹介する番組が多かった。視聴率が悪ければ番組が続かないから、欧米の観光地が主体である。中にはオーストラリア製作の番組もあった。欧米に人気の北アフリカのモロッコなどもあった。旅番組は気楽で楽しいので、耳にも入りやすい。行ったことのある場所だと、親しみもわく。二人で案内しているものなら、二人の会話が楽しめる。会話の場合は、ニュースよりも早口で喋(しゃべ)る。一番のお気に入りは、アメリカ行で最初に行った→「サンフランシスコ」と、行ったことはないがジャズフェスティバルで有名なニューポートである。ゴールデンゲートブリッジやケーブルカーも映っていたし、ジャズの軽快な演奏も紹介されていた。聞き取りのレベル2と言ったところか。

ジャズフェスティヴァルのルイ・アームストロング

つれづれに

つれづれに:薊(あざみ)

 →「薊」が少し大きくなった。→「きんぽうげ」も摘んで来たが、これで摘み始めてから4週目になる。辛うじて集めたという感じだったので、今回が最後のようである。あざみは棘がすごいので採るのはやっかいだが、摘んで持って帰ってきた。この辺りでは、大学のキャンパスにもたくさん咲いているが、加江田川と清武川の堤防の薊が大きくて見事である。

 歩けばきんぽうげ 座ればきんぽうげ

のあとは

あざみあざやかなあさのあめあがり

の山頭火の句である。

 山口の防府で父親といっしょに身上(しんしょう)を潰(つぶ)して、結婚相手と子供と熊本に逃げた後、死にきれず、得度して堂守をしたが、それでも旅に出た。その時に宮崎にも来ている。2度目だったようである。白浜に行くときに通る青島屋折生迫辺りも歩いたようであるそのみちみちできんぽうげやあざみを見て句を詠み、日記に書き記したわけである。

大山澄太

 日記を頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて歩くも大変なので、溜まったら飯塚の木村緑平に送り、それら集めて後に大山澄太が編集した。どちらも『層雲』の俳友である。木村緑平は炭鉱医で、大山澄太は逓信局員で、経済的に余裕があったようである。どうしようもない自分が歩いていると読む山頭火の生涯通じての良き理解者だった。山頭火に寄り添う大山澄太の山頭火伝記『俳人山頭火の生涯』も出ている。句に魅かれて山頭火を知りたければ、最初に読むといい良書である。温かい気持ちになれる。

大山澄太が編集した山頭火の本

 金曜日にまた白浜に自転車で行けたのは有難いことである。晴れていなかったので、海の色も曇りがちだった。引き潮で風もあり、普段の景色とは少し違って、鬼の洗濯岩が剥(む)きだしの砂浜だった。

 夏日になる前に、そろそろ瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵を造らないと。今年は3段にしようと思っているので、また竹取の翁(おきな)の日々が続きそうである。

いつもの白浜

つれづれに

つれづれに:ニュースを聞く

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、次は聞く、だった。相手の言っている内容を正確に聞き取れないと理解出来ないからである。会話も続かないし、意志の疎通も図れない。聞けるようになるには、聞くしかない。英語も言葉の一つだから、当たり前と言えばごく当たり前のことである、やってみて実感しただけの話である。

聞いて理解できるようになるために、英語の授業で映像や音声をたくさん使っていたので、それを利用した。バスケットボールをやったときもそうだったが、シュートやドリブルなどの各部分の力を集中して高める分習法と言ったところか?ちょうど衛星放送が使えるようになったので、先ずはBBC(British Broadcasting Corporation)、ABC(American Broadcasting Companies)、CNN(Cable News Network)、NHKBS1などのニュースを録画して、繰り返し聞いた。特にマンデラの釈放時前後の英語放送は全部予約録画した。1995年の淡路阪神大震災の時も可能な限り録画して聞いた。

ニュースを聞いてわかったことがいくつかある。一つは意外と簡単だったことである。考えれば、キャスターが予め用意された原稿を読む場合が多いので、スピードも速くないし、いわゆるわかり易い標準的な喋(しゃべ)り方なので慣れればそう難しくないわけだ。俗語や聞いたことのないような言葉もそうは出て来ない。中に挿入されるインタビューが早かったりするが、流れで慣れれば大体わかる。

NHKBS1のニュースはわかり易かった。取り上げる題材が国内のことが中心なので、内容が大体わかっている場合が多い。それに、キャスターのレベルがたかい。シンショウカルナというキャスターがCNNのメインキャスターだったという話も聞いた。概してできる女性の集団で、微笑みながら軽快にニュースを読んでいるという感じだった。女性の声の質や音の高さの方が耳に心地よい気がする。一度、ネクタイを締め髪を七三に分けた男性のキャスターが登場したが、その違いをはっきりさせるために登場させたんやない?と思えるほどだった。緊張気味で頬(ほほ)の筋肉が固まっていたせいか、音がくぐもって聞きづらかった。おそらく真面目で優秀な人だったと思うので、かえって気の毒な感じがした。2ケ月ほどで交代した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 1995年の震災後、各国は地震をどう伝えたか?という特集があった。英語ニュースでは、アメリカやイギリス以外に、香港やフィリピンのニュースがおもしろかった。香港はイギリス英語ぽかったし、フィリピンはたぶんタガログ訛(なま)り?という感じだった。その頃、バングラデシュの人がよく研究室に来ていて舌を巻くベンガリーズイングリッシュに慣れていたし、ジンバブエではショナイングリッシュの洗礼を受けていたので、そう苦にはならなかった。

 赴任したすぐあと、4年生がひとり部屋に来た。英語をするにはどうしたらいいでしょうか?と聞かれたので、いやー、英語が苦手でどうしたらいんでしょうねえ?と答えた。最初の年は2年生と1年生しか持たなかったので面識はなかった。今度来た新しい人どんな人やろと覗(のぞ)きにきたのか、いまだにその真意はわからない。その後何回か部屋に来て、次の年の講演会を手伝ってもらったり、家に来たりもしたが、そのあと医者になってからは会っていない。

だいぶ英語が使えるようになった頃、授業で顔を合わせていた1年生が部屋に来て同じような質問をした。その時は、最初にニュースを聞いてみたら?とテープをたくさん渡した。陸上をやっている背の高い真面目な学生で、トラックの上やキャンパスでヘッドフォーンをつけた姿を時々みかけた。1年ほどあとに部屋にきて言ったのが印象的だった。

「大体わかるようになりました。株価まで聞き取れます」

卒業後、精神科でバイトしながら基礎系の研究室で博士号を取った。そのあと大学内で何度か通りすがりに会った。研究室に残るような話をしていたが、今はどうしているんやろ?

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

つれづれに

つれづれに:花が咲き

道路脇の植え込みのけし

 今日から4月も中旬に入る。ずいぶんと前になるが、北海道の富良野の映像か何かで、長い雪の季節が過ぎて一斉に花が咲き出すのを感動的だと言っているの見て、凄(すご)いんやろなあと思ったことがある。しかし、残念ながら雪国の経験がないので、その感覚は実際にはわからない。年中花が咲いている南の地域に来て長いこと経つので、別世界の話である。

 それでも、春には一斉に花が咲き出す。花のいのちは、概して短い。花の命は短くて苦しいことのみ多かりき、と言ったのも頷(うなづ)ける。先々週、木花神社で満開を見込んで桜まつりが催されたようだが、桜もすでに散っている。桜まつりを楽しんだ人は、多かったんやろか?

折生迫の県水産試験場のさくら

 ぐずついた天気が続いて気持ちも晴れないが、昨日は朝から久しぶりにきれいに晴れ、今日もいい天気だ。昨日は久しぶりに毛布を干した。あしたからまた下り坂のようなので、今日も干すとしよう。

てっせん

 一斉に咲き出す花の写真を撮り始めて、3週間ほどになる。撮り始めたのは白木蓮が盛りを過ぎる頃で、紫木蓮に勢いがあった。高台の公園や住宅街の何軒かの家でも、紫木蓮の写真を撮った。その近くに、しらんやポピーやけしも咲いていた。こでまりを庭に植えている家も多い。勢いがあった。昨日見かけたこでまりは、すでに盛りを過ぎていた。

しらん

 先週の金曜日も白浜のキャンプ場の近くで→「きんぽうげ」を摘んだ。3週続きである。咲く前の蕾(つぼみ)をたくさん摘めたので、来週には盛りを過ぎていそうである。庭では→「イリスが咲き出した」。今年は今のところブロッコリーを無駄にせずに、せっせと食べている。3回ほど大きな株を何軒かにお裾(すそ)分けをしたあと、脇芽も何回か摘んで食べた。都会では1株500円もすると聞いて、お裾分けするときも気持ちが軽い。ひと茹(ゆ)でして胡瓜(きゅうり)、レタス、キャベツ、とまとといっしょに食べる以外に、味噌汁や饂飩(うどん)にも入れている。チーズをふんだんに使ったブロッコリーグラタン風も何度か食べた。それでも、薄黄いろい花が咲き、そろそろ終わりの株が増えた。

「イリス」

 北側玄関脇の植え込みでは、柿が色鮮やかな葉を一斉につけている。一昨年は生り年で500個以上の実をつけたが、去年は一つの実もつけなかった。そんな年もある。今年はたぶんたくさん実がなって、またしぶ柿を剥(む)いて陽に干す作業に追われそうである。

柿の葉

 先週の白浜行きは、久しぶりに雨がふる中だった。そう大降りにならず、帰りには雨が上がる予報だったので、迎えを頼まずに自転車で行くことにした。行きは雨が降っていて青島付近は人もまばらだったが、帰りは観光バスが駐車場に何台か停まっていて、参道には人が溢れていた。いつもの白浜の海は、いかにも雨の日の海だった。

晴れたときの白浜(下)