つれづれに

つれづれに:アフリカ小史関連(2024年10月17日~)

2024年12月

10:→「つれづれに:宣教師」(2024年12月18日)

2024年11月

9:→「つれづれに:探検家」(2024年11月22日)

8:→「つれづれに:グレートジンバブエ」(2024年11月16日)

7:→「つれづれに:ルーツ」(2024年11月12日)

6:→「つれづれに:『アフリカのための闘い』」(2024年11月8日)

5:→「つれづれに:エジプト文明」(2024年11月6日)

4:→「つれづれに:アフリカシリーズ」(2024年11月5日)

3:→「つれづれに:1980年頃」(2024年11月1日)

2024年10月

2:→「つれづれに:アフリカ人」(2024年10月30日)

1:→「つれづれに:アフリカ小史」(2024年10月17日)

つれづれに

つれづれに:山茶花(さざんか)

12月:<犬(武蔵くん)とポインセチア>(SM号)

 宣教師に時間がかかっている。早く仕上がってくれるといいが。昨日から12月である。今年は暑中の暑さも半端ではなかったし、長かった。おまけに雨の日が続いた。300個近く柿がなったのに、干しても乾かず、黴(かび)だらけになってしまった。やっと晴れの日が続くようになったが、ちょっとトラウマのようになって、すでに千切っていた分は熟してしまい、まだ樹に生っている柿もそのままである。百舌鳥(もず)とか口にくわえて移動するときに、舗道の上に落としていく。散る葉も熟した柿の後処理も、結構大変だ。辛うじて干せた80個ほども、うまく処理できずに乾きすぎ、とてもお裾(すそ)分けする状態ではない。陽の力と自分の無力と思い込みの傲慢(ごうまん)さを思い知る秋の暮れだった。すっかり、冬である。

メリーちゃんとクリスくん6号:2025年カレンダー表紙、12月

 旧暦では冬の始まりの立冬(りっとう、11月7日-22日)が過ぎ、小雪(しょうせつ、11月22日-12月6日木々の葉が落ち、遠くの山々には初雪が降り始める頃)の只中、12月7日には大雪(たいせつ、寒さもだんだん厳しくなり、雪が多くなる頃、-20日)が始まる。そして冬至(とうじ、12月21日-1月5日、一年で夜の長さがもっとも長くなる頃)。日が暮れるのがやたら早いわけである。本格的に寒くなる 。小寒(しょうかん、1月6日-19日、本格的な寒さを迎える頃)、大寒(だいかん、1月20日2月3日、一年でもっとも寒さの厳しい頃)と続く。そして、また春である。

山茶花(小島けい画)

 妻は11月の個展でメリーちゃんとクリスくんに会っている。注文して下さったご夫妻が連れて来て下さってご対面となった。描いた時の感じより、ずっと小さかったそうである。クリスマスの頃に生まれたそうで、是非クリスマス仕様に、12月でということだった。絵を何枚か注文してくれた友人夫妻と、個展会場に来て下さったらしい。コロナで本人が行けない間も個展には行って下さって、何年か後、去年メールで注文があった。友人夫妻に個展を知らせたのは高校の後輩で、私が非常勤で行った先の獣医学科の学生だった人である。卒業後もやり取りをして何枚か犬の絵を注文してくれた。北九州で開業している。医院にカレンダーやカードを置いてくれて、売り上げは動物愛護のボランティアの組織に送っている。宮崎に来たときは、家にも立ち寄ってくれる。1年生の教養枠の英語の授業で会ったのが1990年前後だから、もうずいぶんになる。

送られてきた写真

 今週の白浜行きは月曜日に変更になり、また自転車で行く予定である。月曜日やったよなあと思い、昨日電話で確認したら、今大阪で、飛行機が遅れるかも知れないので、そのときはまた連絡しますということだった。長いことコロナ騒動で移動も難しかったので、まだその感覚を引きずったままである。科学研究費で旅費にだいぶ予算を割いていたが、最後の2年の2020年、21年度はまったく使えなかった。それまでは年に何回かは吉祥寺か神戸に2泊か3泊していたののだが、遠い昔のような感じがする。

広告の会社からカレンダーの誘いを受け、1年だけカレンダーが全国ネットで販売された。そのあと何年か、花カレンダーを地元の長崎の企業に売り込んでくれた。そのとき、11月と12月の花が意外と少ないのに気がついた。その意味では、11月の山茶花は貴重だった。

長崎の企業が採用してくれたカレンダーの11月

 妻が好きなのは、白の一重である。八重の花は暑苦しいらしい。非常勤で宮崎駅から自転車を使っている途中の銀行の駐車場の脇に、その一重の花を見つけた。何年かその花のお世話になった。高台に越してきてからは、散歩の途中に大きな樹を見つけた。毎年この時期になると、白い一重の花が咲きこぼれる。目立つ花ではないが、清楚で可憐、である。

(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:日曜日

 昨日は日曜日、先週に続いて、白浜に自転車で出かた。久しぶりに、途中から海岸道路に入り、みらい橋(↑)の定位置で写真を撮った。晴れて空気が澄んで、晩秋のきれいな海だった。連休でもあったから、車も人もずいぶんと多い気がした。マッサージには大体金曜日に出かけていたから、車も人も普段はそう多くなかった。春先のキャンプ時期に練習試合などがあって、急に車が多い日があったりはしたが。マッサージは送り迎えをしてもらうのが日曜日の場合が多かったので、日曜日に車が多いのは知っていた。特に連休にかかると、青島近辺を避けて、加江田の山裾の小道を通ったり、旧道を通らずにトンネルで内海までの距離を縮めたバイパスを通って、青島を避けたりしていた。しかし、自転車で走ると、車とは違った景色が見える。

 総合運動公園の前のラーメン屋に16台も車が停まっていた。過去、最高ではないか?車では通りすぎるのも早いので、駐車場を見ない時が多かった。話をしながらだと、ラーメン屋自体にも気づかなかった。いつ辞めるとか要らぬ心配をしているので、ようさん入ってよかったなと思いながら通り過ぎた。途中から入った海岸道路も久しぶりだった。海岸に入る西側にあるレストランも人が多かった。隠れた人気スポットである。多い時は、外に溢れている。サーファーが隣で体を洗っていたり、大賑わいである。曽山寺浜にかかるみらい橋から見る海は、いつ見てもいい。橋は曲線をいい具合に曲がって行くので、途中から青島(↑)が大きくなって行き、日向灘が広がる。

 少し前方に、右手に子供の国とホテル、左側に青島の砂浜が見える。夫婦連れ(↑)や家族連れが多い。普段は、時折総合公園からのランナーを見かけるくらいだ。青島の人出も多く、橋を渡って青島神社に行く。参詣客ということだろう。

 参道に続く店並みを歩く人も多かった。欧米の観光客もいる。青島近辺には、住み着いた欧米人と日本の人とのカップルも多い。よくスーパーにも来ている。最近は、東京資本が進出して、別荘やおしゃれな店が増えている。すべての値段が上がってはいるが、どこも都会並みの値段である。

南側から見た青島、尾鈴山系がかすんで見える

 青島の観光客の大半は、海に囲まれた神社に橋を渡って行く。青島神社があるだけである。参道目当ての店もたくさん並んでいる。たくさんの人(↓)が歩いていた。いつも思うのだが、紙切れのお札を拝みに行くのか?神頼みをしにいくのか?コロナの時は別にして、観光客は、途切れない。南側の公営駐車場はいつ通っても一杯である。旧パームビーチ横の北側の駐車場も一杯だ。サーファーが着替えたり、水で洗ったりしている。ビーチが近いからだろう。

 昨日は白浜まで自転車で50分ほど、往復するとちょうどいい加減だ。一昨日は小1時間歩くことができたが、毎日1時間ほど歩ければいい感じだ。暑中の昼間は暑くて出られなかったが、気温が下がって来ると、陽を探して座りながら畑作業をする。腰で痛い目に遭ったので、休み休みに作業をするしかない。それでも、ほぼ晴れの天気が続くので、少しずつ少しずつ冬野菜の準備が進んでいる。日常が少しずつ戻っているようで、有難い。

先週の曇り空の白浜

つれづれに

つれづれに:歩く

高台の公園の東側の登り口から見える加江田の山

 今日もきれいに晴れている。普段の生活が何とか出来るようになって、日常と陽の光の有難さを感じている。週に1度のマッサージに白浜に自転車で出かけ、庭を潰(つぶ)した畑で作業をし、家の近くを1時間ほど歩ければ、大体元通りである。

高台公園の大きな広場、桜の季節には家族連れでにぎわう

 その合間に、今は小説の元材料をブログの「つれづれに」に書き溜めている。そろそろ、5作目を書き上げて、どこかの出版社に送るつもりだ。構想はだいぶ前に思いついたものを、書きながら今回は400字×400枚くらいの形にする、どうも、それが自分のスタイルらしい。1980年代にミシシッピのシンポジウムに参加したとき、2年後の→「サンフランシスコ」の学会に誘われた。先輩に相談して薦められた南アフリカの作家アレックス・→「ラ・グーマ」(1924-1985)の物語を読んだ。

サンフランシスコのチャイナタウン

 ラ・グーマは亡命中にインタビューを受け、作品が仕上がると、タイプライターの前に座り、頭の中のものタイプ打ちし、少し修正を加えるだけ、と答えていた。頭の構造が違うんや、ひとそれぞれ、生まれる場所も自分の才能も、自分では選べへんもんなあ、しゃーない。

小島けい挿画

 自転車はだいぶ前から乗るようになって、やっと白浜も自転車で行くことが出来たが、5日前から、歩き始めている。まだ1日小1時間とはいかないが、このまま行けそうである。5日前は、夜中に郵便ポストに投函するついでに、高台の公園の階段を上った。147段で、コンクリート製である。下から33×3=99段、24×2=48段で、上の方が1段の幅が広い。同じ調子で登ると、上の段と歩調が合わないのに気づく。少し息切れがしたが、大丈夫だった。公園内の草の上を歩いたら、夜露で濡れていた。

 次の日も階段を上り、草の上を歩いた。20分ほどである。ちょうど作業員が何人かで、草刈りの作業をしているところだった。東側の小さな広場の草は刈られたあと、まだ片づけてられていなかった。一度、夕方作業を中断して刈られた草がそのままになっているときに草を集めて持ち帰り、畑で使ったことがある。

 小さな広場からは、木々の間から東側の日向灘に浮かぶ青島が見える。手前に芒(すすき)が揺れていた。

 3日前は、階段横の高台公園の土手を登った。久しぶりだった。きれいに下草が刈り取られて歩き易かった。

 公園を抜けて、木花神社まで行った。展望所から見える加江田の山と田圃(たんぼ)の組み合わせは、いつ見てもいい。写真には出ていないが、右側は山また山また山、左側は木崎浜である。

 階段を下りて、上って来た。98段で、石で出来ている。さすがに、古い神社である。廃仏毀釈運動が起きるまでは、隣に寺があったそうで、石塔が残っている。そう言えば、母方の祖父は大理石職人で、岐阜に出稼ぎに行っていると母親が言っていたなあ、と思い出した。名古屋駅の大理石を自慢していたと聞かされていたので、前回名古屋に行ったとき、名古屋駅でそれらしい場所を探したがわからなかった。祖父には会ったことはない。年末に出稼ぎから戻ってきたとき、火鉢を抱えて倒れたらしい。脳卒中でそのまま死んで、葬式に連れて行かれた。ちょび髭をたくわえた遺影を見たとき、なかなかいい顔してるやん、と思った記憶がかすかにある。葬式が済んだあと、祖父が住んでいた家に引っ越しをした。母親が相続したということだろう。6畳と4畳半2間は変わらなかったが、スラムのような場所から、川を隔てた元市営住宅に移った。小さな庭があり、南側は川の土手まで見晴らしのいい畑だった。陽当たりもよく、明るかった。小学校の3年生だったと思う。

当時とあまり変わっていない引っ越しの時に渡った橋

 神社の階段は高台の公園の階段よりは少ないが、傾斜は急である。真ん中に手すりがある。秋祭りのときは、青年団の人が近くの竹を切って、その手すりに幟を何本も立てる。無人だが、仮社務所が少し離れた下の部落にあり、宮司も世話人もいるようである。帰りに、どくだみを摘んで帰ったりしたので、小1時間かかった。昨日も同じように、小1時間ほどかけて歩いた。だいぶ、戻ってきている。今日はこれから、先週に続いて、白浜に自転車で出かけ予定である。行きは久しぶりに、途中から海岸道路に入り、みらい橋の定位置で写真を撮るつもりである。天気予報では晴れなので、きれいな写真が撮れるだろう。晴れた日が続いて、有難い限りである。