つれづれに

つれづれに:比較編年史①1949私

薊の盛りである

 比較編年史の1回目である。私の生まれた年から1年毎に、同じ年に様々なところで同時代的に起こっていたことを比較してあれこれ書いてみようと思っている。もちろん、私の最初の記憶はたぶん幼稚園に入る前だからずいぶんと前のことで本当にそうだったのかも怪しい。おまけに、戦争帰りの父親はまだマレーシアのジャングルにでもいたのか、怒鳴るばかりで怖いだけの存在だった。まったく話したことがない。だから、母親や住んでいた時に接した人たちから判断したものだから、ある意味、フィクションに近い。その後も、若くにすべてを諦めたつもりで自分から世の中を見ようとしなかったので、当時接した人たちから補足するのも難しい。

薊(小島けい画)

 小説を書くと決めたのは10代の時だが、書きたい気持ちは今もずっとかわらずにある。小説を書く空間を求めて大学に場所を見つけたが、赴任する何年か前に出遭った出版社の人に会っていて書き出せなかった。赴任したとたんに、テキストの編集や雑誌の記事や本や翻訳を次々に言われて、気がつくと定年退職の頃になっていた。退職後再任されたあともしばらく余韻があって、小説を書き出したのは、その人が亡くなったあと数年してからである。

生まれた所の近くの川に架かる橋

 その過程で、自伝的スケッチを書いているとき、同じ頃周りの日本の社会はどうだったんだろうとか、アメリカでは、アフリカではと考えるようになった。大学では研究業績も求められるので研究者のふりをして、外部資金ももらったりしていた。その方が大学でも居心地がよかったからだし、ある程度お金が使えたからである。東京や神戸に行ったりする旅費も、周りの学生に出す謝金も、使うパソコンなどの機器や消耗品にも使えて便利だった。

生まれた家のすぐ南の国道2号線

 ただ、最初の出発点がアフリカ系アメリカの作家だったので、祖先が奴隷として連れて来られたアフリカ、その中でも一番やられた南アフリカやコンゴなどの歴史も追うようになって、外部資金の最後のテーマがアングロ・サクソンの侵略の系譜だった。一応大学の校務もあったし、特に教授になってからはすることも増えた。幸い、最初から研究室に学生もたくさん来てくれていたし、文字通りすることばっかりだった。

南アフリカ地図

 しかし、やれることにも限りがある。歴史と言っても、日本の歴史も少し齧っただけだったし、アメリカやコンゴや南アフリカにしても高々知れている。その範囲の中での、編年史ということになる。

南北戦争直前のアメリカ地図

 今回は、編年史を書こうとした経緯と、1949年に私が生まれたということを書いた。私の記憶の欠片が増える小学校くらいから自伝的スケッチの風景も増えると思うが、それまでは家族や家の周りや住んでいた街について書くことになりそうである。私以外については、ウェブでインプットして昇華させながら、書こうと思う。私のフィクションである。

薊:「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬」5月

→小島けい「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」

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つれづれに:マッサージ

白浜の定位置、晴れた春の日

 比較編年史のシリーズ連載の前に、前回は庭の→「畑4月下旬」の様子を書いた。今回は今の家に引っ越しして来てから見つけた白浜のマッサージについてである。

白浜海岸から北の方向

 去年の今頃に腰を痛めて、余計にマッサージの有難みを実感した。生きても30くらいまでかとすっかり諦めて余生が長いなあと生きていたのに、急に母親の借金で、定収入のために高校に教員になった。英語はまったくしてなかったので、1年間は無理をして、体が悲鳴をあげていた。そのとき世話になたのが、マッサージである。痛かったが、普通に生活できるようにしてもらった。宮崎に来てからも、手入れのために定期的に兵庫まで通っていたが、マッサージをしてくれる人が先に逝ってしまった。こちらでも指まで入れて揉んでくれる人を散々探したが、見つからなかった。

北から見た晴れた日の青島

 見つかる時は、ひょんなことからのようだ。ある日、温泉に行った帰りに、鍼灸整骨院の看板を見て、指まで入れて揉んでくれませんかと言ったら、指まで入れて揉んでもらえた。それから白浜にマッサージをしてもらいに通っているというわけである。予約制で宣伝はしないで口コミだけなので、飛び込みは初めてですよと、後から教えてもらった。白浜にあるホテルサンクマールの日帰り温泉に行っていた頃で、湯の温度が下がってそろそろ行くのを辞めようかな思っていたところだったので、その前に看板が目に入ってよかったとしみじみ思っている。

ホテルサンクマール

 コロナ騒動のときも、週に1度のペースで通えたのはよかった。人ともしゃべる機会が減っていたので、マッサージをしてもらいながら、いろいろ話してもらえたのも幸いである。サーフィンのことや、最近はまっているゴルフのことは、元々関心はなかったが、少し柔軟にみられるようになっている。教えてもらったおかげだろう。

青島を南側から見た光景

 普通のペースで行けば、自転車で45分くらいかかる。急げば35分、ゆっくりなら小1時間である。体にはちょうどいいようだ。腰を痛めてからは、車で送り迎えしてもらう期間もあったが、自分の力で行けるのは何よりである。1時間程度の散歩はまだ十分できていないので、すこし急ぎ気味に自転車をこぐのが今の適度な運動になっているようだ。左の太腿の筋肉も戻ってきている。この前、北に1時間20分ほどの距離を行ったが、後に少し疲れが残った。

白浜海岸から北の方向

 自宅のある高台から出発して、海岸線を走るコースは恵まれている環境だろう。もちろん、沖縄や南太平洋などの海のきれいさとは違うが、見慣れた瀬戸内海に比べれば、きれいな海だ。途中、今は田植えが終わった田圃のあるところを通る。自転車で自力で通える日々が続いてくれることを願うばかりである。

 加江田の山が背景の田圃風景

次回からは、比較編年史を書き出せそうである。

青島海岸、サーフィン初心者用向けの波だそうである

つれづれに

つれづれに:畑4月下旬

庭のイリスも盛りを過ぎている

 比較編年史のシリーズ連載の前に、庭の畑4月下旬の様子と白浜のマッサージのことを書いておきたい。

座わる時間が長く、おまけに腰を痛めて長い時間畑に出られないのでなかなか思うようにいかないが、庭の畑は春から夏の勢いのある時期に入っている。陽の陽射しも強くなり、色も濃くなっている。暑くなって蚊がうようよし始めるまでそう時間はない。ことしは、暑くなるまでに準備出来るか心許ない。

特にレタスと葱の勢いは凄い。半分ほどしか植え替えができていないが虫にもほとんどやられていないので、迫力がある。これから虫にやられ始めるので、酢と焼酎などを希釈して拵えた液を撒く必要があるが、追いつくかどうか。虫に食われ始めると、一気で葉っぱがやられてしまう。時の勢いには勝てないので、多分諦めることになるだろう。

 その頃には、しかし、かぼちゃやオクラの夏野菜がこれも一気に勢いを増して来る。かぼちゃは蔓を延ばして、どこまででも伸びて行く。オクラも大きな薄黄色の花を咲かせて、実をつけていく。

芽が出て少し大きくなったかぼちゃ

 今年はブロッコリーを余さず食べさせてもらっている。最初の大きな塊はお裾分けにまわったが、小振りな塊りと脇芽は花が咲く前に摘んだ。花が咲いた分も先の方をちぎって食べている。何回も脇芽が出るので、摘むのもちぎるのも手間がかかるが、面倒くさがらずに全部食べている。そろそろ第2弾が大きくなりかけている。それも虫にやられ始めると一気に終わるので、時間との勝負になりそうである。希釈した酢をこまめにかければ時期を遅らせそうだが、なにせ畑に出る時間がなかなか取れない。出ても長い時間は、すぐ腰にきてしまう。

芽が出た丸莢オクラ

物価の高騰が軒並みである。このまま収入は増えないのに、やっていけるのかと心配になるくらいの値上がりである。もちろん、種や苗も高くなっている。近くにまだ安い苗を見つけて買っていたが、今は1本が安くても80円はするので、今年は苗を買わずにすべて種からになった。時期がずれるが、仕方ない。

とまとも早く植え替える必要がある

いつも撒く丸莢オクラ、瓢箪かぼちゃ、とまと🍅(↑)は芽が出て大きくなりかけている。

とまと🍅は雨を嫌うので、柵を早くつくる必要がある。去年水が溜まって覆いのビニールが伸びたのと、少し広げて位置をずらすために、作り換えている途中だからである。こっちの作業もしたいのだが、そう思って毎日が過ぎていく。

瓢箪かぼちゃの柵も作る必要がある。何本か杭と竹を埋め込む作業も途中からなかなか進んでいない。蔓が延び始めると、勢いには勝てないので、こちらも時間との勝負だ。

人参、間引きをする必要がある

 野菜スープを2日か3日お気に作っているので、玉葱と人参と牛蒡の種も撒いた。人参と牛蒡は一度作ったことはあるが、たぶん半年ほどかかる息の長い野菜だ。先は長そうである。気長に行くしかない。

胡瓜も一部植え替えられないでいる。胡瓜は収穫までの期間が極めて短いので、目に見えて成長が確かめられる野菜だ。温室物より、やっぱり棘が多いし、臭いも濃い。

 絹莢豌豆は、植え替えたが南側で金木犀の樹で陽が当たり難い場所だったので、あまり大きくなっていない。時間があれば、また植え替えて大きくなるとは思うんだが。退職するとすることがなくて困ると言う人がいるらしいが、することなかりだ。その点は、今までと同じだ。

3月締めのを仕上げたあと、9月締めと10月締めのも仕上がってしまった。400字詰原稿用紙で150枚と250枚で、どちらもどちらかと言えば自伝的スケッチである。一番長かった医学科と、医学科に行く前までを扱った作品である。読んでもらえる見せ場をいくつも工夫したが、出版社が売れると判断するかどうかだ。私が選ぶわけでないのは、教授選も同じだった。ただ、今回は残された時間を考えると、間に合うかどうかのようである。生きても30くらいまでかと思いながら生き存えしまった私が言うせりふでは、少なくともないようだ。

冬野菜の大根、この時期勢いがあるがすぐに薹が立ち、花が咲く

つれづれに

つれづれに:永谷園俳句

カレンダー4月 子犬とチューリップ

(小島けい画、休載中で紹介出来なかったので)

 3月末の原稿を書いている時に、娘が応募してみたらと応募要領のリンク先を送ってくれていた永谷園が主催する俳句大会に、俳句を送った。元々詩心は遺伝子の中に組み込まれてはいないようだし、一時は俳句も詠んではいたが、最近はあまり句が出てくる気がしなかった。それでも2月28日の締め切り日に、4句送った。50万円が賞金だそうだ。原稿を送っている新人賞の賞金も50万円が多い。17文字と40×30×80=96000字の賞金が同額、ま、そんなものなのかも知れない。

ブロッコリ 哀れ葉をほぼ 鳥に食われて

鳥が来て ブロッコリーの 葉を食って

鳥が来て 大根の芽も あっと消え

鳥たちよ 来ては欲しいんだが やや微妙

カレンダー4月元 子犬とチューリップ(3号)

 妻も娘も送ったらしく、妻には1次で選ばれたと種類が届いていた。背景を説明して送って欲しいということらしい。修論が山之内獏だし、卒業後は詩の出版社で働いていたらしいから、元々筋金入りである。社長と合わなくて辞めてなかったら、私との接点は、たぶんなかっただろう。

今回はその頃一人でツアーに参加したモンゴルで見たゴビの砂漠の空を詠んだらしいが、私は宇宙の分が選ばれると思っていたけどね、と妻は言っていた。当時は、モンゴルは共産主義バリバリで、日本から行くのも難しい国だったらしい。シベリア鉄道の列車の中で、妻が新潟港で描いた船のスケッチを見た憲兵の顔色が変わり、別室に連れて行かれたという。港や船も軍事施設が理由だったと聞く。たまたまNHKのお偉いさんがいて、事なきを得たらしい。

カレンダー3月きいちゃんとクリスマスローズ

(小島けい画、休載中で紹介出来なかったので)

 妻も娘も、詩のセンスは抜群である。私にはその手の遺伝子が組み込まれていないらしい。

50万円が送られてくるといいんだが。50万円は3月締めで送った新人賞と同じ額である。17文字と40×30×80=96000字と。

カレンダー3月元 きいちゃんとクリスマスローズ(SM)