つれづれに

つれづれに:日曜日

 昨日は日曜日、先週に続いて、白浜に自転車で出かた。久しぶりに、途中から海岸道路に入り、みらい橋(↑)の定位置で写真を撮った。晴れて空気が澄んで、晩秋のきれいな海だった。連休でもあったから、車も人もずいぶんと多い気がした。マッサージには大体金曜日に出かけていたから、車も人も普段はそう多くなかった。春先のキャンプ時期に練習試合などがあって、急に車が多い日があったりはしたが。マッサージは送り迎えをしてもらうのが日曜日の場合が多かったので、日曜日に車が多いのは知っていた。特に連休にかかると、青島近辺を避けて、加江田の山裾の小道を通ったり、旧道を通らずにトンネルで内海までの距離を縮めたバイパスを通って、青島を避けたりしていた。しかし、自転車で走ると、車とは違った景色が見える。

 総合運動公園の前のラーメン屋に16台も車が停まっていた。過去、最高ではないか?車では通りすぎるのも早いので、駐車場を見ない時が多かった。話をしながらだと、ラーメン屋自体にも気づかなかった。いつ辞めるとか要らぬ心配をしているので、ようさん入ってよかったなと思いながら通り過ぎた。途中から入った海岸道路も久しぶりだった。海岸に入る西側にあるレストランも人が多かった。隠れた人気スポットである。多い時は、外に溢れている。サーファーが隣で体を洗っていたり、大賑わいである。曽山寺浜にかかるみらい橋から見る海は、いつ見てもいい。橋は曲線をいい具合に曲がって行くので、途中から青島(↑)が大きくなって行き、日向灘が広がる。

 少し前方に、右手に子供の国とホテル、左側に青島の砂浜が見える。夫婦連れ(↑)や家族連れが多い。普段は、時折総合公園からのランナーを見かけるくらいだ。青島の人出も多く、橋を渡って青島神社に行く。参詣客ということだろう。

 参道に続く店並みを歩く人も多かった。欧米の観光客もいる。青島近辺には、住み着いた欧米人と日本の人とのカップルも多い。よくスーパーにも来ている。最近は、東京資本が進出して、別荘やおしゃれな店が増えている。すべての値段が上がってはいるが、どこも都会並みの値段である。

南側から見た青島、尾鈴山系がかすんで見える

 青島の観光客の大半は、海に囲まれた神社に橋を渡って行く。青島神社があるだけである。参道目当ての店もたくさん並んでいる。たくさんの人(↓)が歩いていた。いつも思うのだが、紙切れのお札を拝みに行くのか?神頼みをしにいくのか?コロナの時は別にして、観光客は、途切れない。南側の公営駐車場はいつ通っても一杯である。旧パームビーチ横の北側の駐車場も一杯だ。サーファーが着替えたり、水で洗ったりしている。ビーチが近いからだろう。

 昨日は白浜まで自転車で50分ほど、往復するとちょうどいい加減だ。一昨日は小1時間歩くことができたが、毎日1時間ほど歩ければいい感じだ。暑中の昼間は暑くて出られなかったが、気温が下がって来ると、陽を探して座りながら畑作業をする。腰で痛い目に遭ったので、休み休みに作業をするしかない。それでも、ほぼ晴れの天気が続くので、少しずつ少しずつ冬野菜の準備が進んでいる。日常が少しずつ戻っているようで、有難い。

先週の曇り空の白浜

つれづれに

つれづれに:歩く

高台の公園の東側の登り口から見える加江田の山

 今日もきれいに晴れている。普段の生活が何とか出来るようになって、日常と陽の光の有難さを感じている。週に1度のマッサージに白浜に自転車で出かけ、庭を潰(つぶ)した畑で作業をし、家の近くを1時間ほど歩ければ、大体元通りである。

高台公園の大きな広場、桜の季節には家族連れでにぎわう

 その合間に、今は小説の元材料をブログの「つれづれに」に書き溜めている。そろそろ、5作目を書き上げて、どこかの出版社に送るつもりだ。構想はだいぶ前に思いついたものを、書きながら今回は400字×400枚くらいの形にする、どうも、それが自分のスタイルらしい。1980年代にミシシッピのシンポジウムに参加したとき、2年後の→「サンフランシスコ」の学会に誘われた。先輩に相談して薦められた南アフリカの作家アレックス・→「ラ・グーマ」(1924-1985)の物語を読んだ。

サンフランシスコのチャイナタウン

 ラ・グーマは亡命中にインタビューを受け、作品が仕上がると、タイプライターの前に座り、頭の中のものタイプ打ちし、少し修正を加えるだけ、と答えていた。頭の構造が違うんや、ひとそれぞれ、生まれる場所も自分の才能も、自分では選べへんもんなあ、しゃーない。

小島けい挿画

 自転車はだいぶ前から乗るようになって、やっと白浜も自転車で行くことが出来たが、5日前から、歩き始めている。まだ1日小1時間とはいかないが、このまま行けそうである。5日前は、夜中に郵便ポストに投函するついでに、高台の公園の階段を上った。147段で、コンクリート製である。下から33×3=99段、24×2=48段で、上の方が1段の幅が広い。同じ調子で登ると、上の段と歩調が合わないのに気づく。少し息切れがしたが、大丈夫だった。公園内の草の上を歩いたら、夜露で濡れていた。

 次の日も階段を上り、草の上を歩いた。20分ほどである。ちょうど作業員が何人かで、草刈りの作業をしているところだった。東側の小さな広場の草は刈られたあと、まだ片づけてられていなかった。一度、夕方作業を中断して刈られた草がそのままになっているときに草を集めて持ち帰り、畑で使ったことがある。

 小さな広場からは、木々の間から東側の日向灘に浮かぶ青島が見える。手前に芒(すすき)が揺れていた。

 3日前は、階段横の高台公園の土手を登った。久しぶりだった。きれいに下草が刈り取られて歩き易かった。

 公園を抜けて、木花神社まで行った。展望所から見える加江田の山と田圃(たんぼ)の組み合わせは、いつ見てもいい。写真には出ていないが、右側は山また山また山、左側は木崎浜である。

 階段を下りて、上って来た。98段で、石で出来ている。さすがに、古い神社である。廃仏毀釈運動が起きるまでは、隣に寺があったそうで、石塔が残っている。そう言えば、母方の祖父は大理石職人で、岐阜に出稼ぎに行っていると母親が言っていたなあ、と思い出した。名古屋駅の大理石を自慢していたと聞かされていたので、前回名古屋に行ったとき、名古屋駅でそれらしい場所を探したがわからなかった。祖父には会ったことはない。年末に出稼ぎから戻ってきたとき、火鉢を抱えて倒れたらしい。脳卒中でそのまま死んで、葬式に連れて行かれた。ちょび髭をたくわえた遺影を見たとき、なかなかいい顔してるやん、と思った記憶がかすかにある。葬式が済んだあと、祖父が住んでいた家に引っ越しをした。母親が相続したということだろう。6畳と4畳半2間は変わらなかったが、スラムのような場所から、川を隔てた元市営住宅に移った。小さな庭があり、南側は川の土手まで見晴らしのいい畑だった。陽当たりもよく、明るかった。小学校の3年生だったと思う。

当時とあまり変わっていない引っ越しの時に渡った橋

 神社の階段は高台の公園の階段よりは少ないが、傾斜は急である。真ん中に手すりがある。秋祭りのときは、青年団の人が近くの竹を切って、その手すりに幟を何本も立てる。無人だが、仮社務所が少し離れた下の部落にあり、宮司も世話人もいるようである。帰りに、どくだみを摘んで帰ったりしたので、小1時間かかった。昨日も同じように、小1時間ほどかけて歩いた。だいぶ、戻ってきている。今日はこれから、先週に続いて、白浜に自転車で出かけ予定である。行きは久しぶりに、途中から海岸道路に入り、みらい橋の定位置で写真を撮るつもりである。天気予報では晴れなので、きれいな写真が撮れるだろう。晴れた日が続いて、有難い限りである。

つれづれに

つれづれに:瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)

 毎年、瓢箪南瓜を作っている。種を買ったのか苗を見つけたかは覚えていないが、それまで余り見かけなかったのと、作ってみると、甘みもあって実も柔らかい、が作り続ける理由かも知れない。お裾分けにも手頃でいい。吉祥寺(きちじょうじ)駅下のデパートで2300円の値札を見て驚いたが、神戸の元町や戻って近くの生産者直売所で確かめたら400~500円程度だった。それがコロナの前だから、作り始めてから7~8年くらいだろうか?

 竹の柵(さく)を拵(こしら)えて蔓(つる)を登らせて這(は)わせるのを思いついてから、少し大がかりになった。竹取の翁(おきな)をして、太い竹を何本も自転車で運ぶことになるからである。柵を造った一年目、台風でぐーっと傾いてしまった。それで、その次の年から器具で掘った穴に太い竹を入れて、横に樹の太い杭を支えに埋め込んだのである。自分ですることを増やしてしまった。今年は柵を8分目くらいまで作ったところで、暑中に入り、とても畑には出られない暑さになってしまった。順調にぐんぐんと大きくなり、3つほどかなりの大きさになった。3つはお裾分けにまわったが、そのあとすぐに台風が来て、柵が少し傾き、勢いのあった葉が叩かれて勢いを殺がれてしまった。

 しかし、そのあと台風が来なかったのは有難かった。葉も勢いを取り戻し、実も大きくなった。10個ほどはまたお裾分け、それでもあと10個ほど大きい実が残っている。胡瓜(きゅうり)の苗が日陰になるので、柵はほぼ片づけた。枝から実を切り取ってしまうと、そう長くはもたないので、枝は地面に残して、地面に接して腐らないように枝の上に実を置いている。それが6個、あとは金木犀(もくせい)の樹の上を這った分で、枝から金木犀の葉の間にぶら下がっている。それも、個展に来てくれた人に送って終わりそうである。

 ひょうたんかぼちゃ、でウェブ検索すると、各地で売られているようである。種や実をネット販売している人が、南瓜について解説をしている。実際の真偽はわからないが、特に害はなさそうなので、その解説を元に大体のところをまとめてみることにした。

ネット販売している和歌山の人によれば、「ひょうたんかぼちゃ」とは品種名ではなく、該当する形の品種をひっくるめた別名(総称)だそうである。普通のスーパーではなかなか目にしないが、幅広く取り扱う青果店や直売所などではたまに見かける。黒皮かぼちゃはけっこう値段が高いが、ひょうたんかぼちゃは割と手頃な値段で買える、とも書いてあった。

 下関の販売者によれば、甘味が強くて美味しい瓢箪南瓜は全国の南瓜生産流通量のうちの5%未満の日本南瓜の1種で、恐らく1%も無いほどの貴重な南瓜。生産地域は西日本が主で、その中でも一部地域でしか栽培されていないそうである。春(5月~6月上旬頃)に植え付けをして、10月中旬頃から11月中旬頃までが収穫時期。自家採種した種子を使っているので、種子農薬の付着はなしとのこと。

沖縄の人によれば、沖縄で古くから栽培されている在来の蔓あり南瓜で、ウドンコ病などの病気や害虫に極めて強い抵抗性があり、作りやすい。ツルの整枝や摘心、そして追肥は必要なく、元肥だけで収穫まで放任栽培が可能。1株から4~6個収穫でき収量も多い。肉質は粘質で甘みがあり肉色は橙黄色。暑さに強く、高温期でも着果する。収穫時期は丸型で開花後約45日、ひょうたん型で40日で収穫。(実際に作っている感じはこれに一番近い)

今住んでいる地域の少し南西の都城の人は「南九州の風土に合うのか、このひょうたんカボチャはシーズンになるとドバッと出てきます。県外出荷しているという話は聞いた事はないので、案外知らない人は知らないかもしれないですね。これが安くておいしいのです!!地元のお年寄りにはとても人気があって毎年この時期を楽しみにしている方もおられます」と書いてあった。

 来年の春にまた、柵を拵えて、瓢箪南瓜を作る日常が来れば嬉しい限りである。

今残っている中では一番大きい、金木犀の葉の間にぶら下がっている

つれづれに

つれづれに:探検家

 中国でも韓国でも日本でも、アフリカの国々でも、人が集まり富が蓄積されるようになると諍(いさか)いを繰り返して来た。そして、殺し合いをする。中国で敗者を見せしめにするために刑罰として与えた骨殺ぎの刑は、極めて残酷である。斬首(ざんしゅ)刑はたくさんの人が見ている前で、首切り人が大きな刀で首を落とす。今の日本で、眼の前で人が殺される光景を見ることはそう多くない。しかし、この500年余りのアングロサクソン系の侵略では、ヨーロッパ人はアフリカ人から土地を奪い課税して絞り取り続けた。たくさんの人が魂を蹂躙(じゅうりん)され、辱(はずかし)めを受けた。そして、殺された。飢餓(きが、↓)に貧困は日常である。民族紛争、地域紛争では武器製造を基幹産業にする国々から武器を送られ、同胞が資源を巡って殺し合いをする。子ども兵が育てられて、殺し合いに参加する。昔の諍(いさか)いの時代が霞(かす)んでしまうほど、過酷な時代になってしまった。開発や援助と言いながら、多国籍企業貿易と資本投資で制度的に搾取し続ける資本主義社会では、先進国と手を結ぶ少数のエリートが搾り取る側に回る。遣(や)る瀬無い思いが募(つの)る。

1980年代前半のエチオピア飢餓キャンペーンで使われた写真

 奴隷貿易で荒稼ぎした莫大な資本が蓄積されて産業革命が可能になり、それまでの社会が根底から覆(くつがえ)されてしまった。生産と消費の規模が格段に増加して、社会自体が拡大し、肥大する一方である。資本主義は、拡大しないと生き残れないシステムなので、このまま突っ走るしかない。制御不能の原子力爆弾で凄惨(せいさん)な光景をみても、原子力発電所(↓)の破壊威力を目(ま)の当たりにしても、核兵器も原子力発電所も諦めきれない。それどころか、危険極まりない老朽化した原子力発電所を法律を変えてでも再稼働し、発展途上国に原子力発電所を輸出しようとしている。核開発も軍需産業でも、関わって働く人たちを養う巨大産業にもなっている。核も、元々は拡大し続ける資本主義社会を維持するために開発された武器である。侵略者は狡猾(こうかつ)で、ありとあらゆる手段を利用して、その侵略を正当化するのに努力も惜しまなかった。侵略した相手に自分たちの言葉をしゃべらせ、自分たちの侵略がより容易(たやす)くするために利用して来た。今や英語は国際語である。白人優位・黒人蔑視の意識は、世界のすみずみにまで浸透している。前回のグレート・ジンバブエも、白人優位・黒人蔑視を具体化したものの一つに過ぎない。探検家もその一つだろう。

九電原発

 「アフリカシリーズ」の冒頭で、バズル・デヴィドスン(Basil Davidson, 1914–2010)はヨーロッパ人に発見された当初に偏見の対象になったジンバブエの遺跡の他に、探検家の例をあげている。デヴィドスンは先ず奴隷貿易について前置きする。

「アフリカ最大の不幸は16世紀初めに始まります。ヨーロッパ人が次々と入ってくるようになったのです。目当ては奴隷でした。西アフリカの海岸にはヨーロッパ7か国が50近くも城砦を築き、そこを奴隷貿易の拠点としました。奴隷貿易はヨーロッパ人のアメリカ大陸進出と深い関係があります。新大陸発見後、彼らはそこに根を下ろし、鉱山や大農園をどんどんと開発しましたが、労働力が足りませんでした。そこで目をつけたのがアフリカ大陸だったのです。何とも恐ろしい話です。何千万という黒人が女子供まで有無を言わせず、力ずくで連れ去られたのです。しかも、です。問題は膨大な人間が奪われただけではないんです。400年にも渡って、アフリカ大陸を支えて来た農民や職人など、大事な働き手が、毎年何万、何十万という単位で売り飛ばされていったのです。それがどれほどアフリカを荒廃させたか、計り知れません。奴隷貿易は19世紀半ばまで続きます。少なく見積もっても1500万の人間が新大陸に運ばれました。途中で死んだ数は、その3倍とも5倍とも言います。奴隷船の船長はできるだけ多く運ぼうとしました。身動きできないほどびっしり詰め込んだ者もいます。アフリカの王や首長の中には、奴隷貿易が自分たちの社会を破壊すると抗議をしたものもいます。しかし、その抗議は利益に目の眩(くら)んだヨーロッパ列強に圧(お)し潰(つぶ)されました。奴隷として大量に売買されるにつれ、黒人は人間以下と見做(な)されていきます。人種差別の根源です。ここガーナのケープ・コーストの城砦(↓)には礼拝堂が建っています。その下は嘗(かつ)て奴隷倉庫でした。1度に1500人もの奴隷が送り込まれ、船積みを待っていたのです。奴隷貿易の最盛期には聖職者もこれに反対はしませんでした」

 そして、この時期から来るようになった新しい人たち、宣教師と探検家について話し始める。

 「ヨーロッパで奴隷貿易反対の声が強くなったのは18世紀末からです。この頃になると、アフリカには全く新しい人々がやって来るようになります。マンゴ・パーク、リチャード・バートンといった探検家です。かれらは未踏の奥地をめざしました。19世紀はまさにアフリカ探検の世紀となります。しかし、ヘンリー・スタンリーのようにアフリカ侵略をめざしあ人は別として、まさか自分たちが切り拓いた道が、間もなく別の目的で使われ、50年もしないうちにアフリカ大陸を変えてしまうとは夢にも思わなかったでしょう。

まあ、何とも残念な話ですが、こうした探検家はほんの僅(わず)かの例外を除いて、みんな黄金だの、象牙だの、地理上の謎を解き明かすことしか頭にありませんでした。アフリカ人の生活や文化には関心を持たなかったのです。ただ、デビッド・リビングストン(David Livingston, 1813-1873)などは例外と言えるかも知れません。リビングストンは伝導者からアフリカ人の生活や環境に関心を寄せる探検家に変わっていきました。

1852年、伝導ルートを求めて奥地に入り、ザンベジ川を発見すると、そこから大西洋に到達、次いでザンベジ川を下り、インド洋まで出ようとします。1855年、旅の途中で、彼は世界有数の滝を発見、当時のイギリス女王の名を取ってビクトリアの滝と名付けます。滝の下流では、激しい流れや鰐(わに)や河馬(かば)など、アフリカならではの障害にぶつかり、舟を岸に上げて川を迂回(うかい)しています。

現在、ビクトリアの滝の脇には滝を見下ろすようにしてリビングストンの銅像が建っています。「デビッド・リビングストン博士、1855年、この滝を発見」しかし、です。この滝は元々現地の言葉で「音を立てる煙」と呼ばれていました。リビングストンも土地の人に教えられて、ここまで見物に来たようです。現に、リビングストンは心の広い人でしたから、自分を案内してくれたこの親切なアフリカ人のことをちゃんと日記に書いています。でも、あの銅像を建てた人には、現地の黒人がリビングストンを案内したなど、無視して当然でした。それが白人の一般の考えだったのです。

ビクトリアの滝発見の報せは、彼が属していたロンドンの伝導教会にも届きます。しかし教会の人は、それを苦々しい思いで聞いたようです。彼らにはその発見は、伝導の務めを怠っているとしか見えませんでした。大事なのはアフリカ人をキリスト教徒にすることだったのです。リビングストンはこういう心の狭さに嫌気がさし、伝導教会を辞めます。自分の使命は未開の土地を切り拓くことにある、そうすれば文明の2つの先駆者、キリスト教と商業があとに続く。そう考えたのです。その通りでした。間もなく、色んな国から大ぜいの人々が次々とやって来るようになりました。異教の地に神の福音を伝えるためでした」

 産業社会になったヨーロッパ社会は更なる生産のための安い原材料と製品を売り捌くための市場を求めてアフリカやアジアの植民地化を始めた。侵略の前の下見をしたのが探検家と宣教師である。ヨーロッパの金持ちたちは冒険心にはやる探検家を雇ってアフリカを探らせた。宣教師も金持ち層に協力した。デヴィドスンがあげるヨーロッパの探検家を批判するのは、本人の意識とは別に、結果的にヨーロッパ諸国の金持ちが目論(もくろ)む商業主義・資本主義をに加担して、多くの人が大変な目に遭(あ)ったからである。ただ、本人が自覚しているかどうかにかかわらず、結果が問題だ。その行為がもたらす結果がたくさんの人に被害を与えるなら別問題である。

伝導教会の伝導所

 探検も冒険も本人の自由で、何の問題もない。結婚してからずっと後に、妻から大学のとき友だちと穴もぐりしてたよ、狭所恐怖症なのによう行くよね、服もびしょぬれで、中が崩れて死にそうになるし、若いからもったんやろね、と聞かされたことがある。大学で入っていた洞窟探検同好会とは別行動で友人の出身地の高知の地図にない洞窟に2人で行ったときの話らしい。スポンサーもないし、人に迷惑もかけていなし、問題なしだろう。しかし、スポンサーがついたらどうか?探検家として教科書にも載(の)っている間宮林蔵(↓、1775-1844)は江戸幕府の役人だった。今でいう国家公務員だから、国がスポンサー?という気もするが、職務を果たし、作った地図が後世の役に立ったから教科書にも載り、探検家と言われるんだろう。蝦夷(えぞ)地・樺太探検に役に立ったということだろう。しかし、厳密に言えば、江戸幕府の薩摩藩が琉球王国を滅ぼしたのは、明らかに領土拡大を狙(ねら)った侵略行為である。蝦夷地開発も同じだ。元々、ツングースの侵略で追われた縄文人の末裔(まつえい)が逃げのびた地が沖縄と北海道である。1万年以上、日本列島に平和に暮らしていた縄文人の末裔(まつえい)である。

そういう意味で言えば、蝦夷地も琉球王国も元の持主アイヌの人や琉球の人に返還すべきである。1980年代に黒人研究の会で、間宮林蔵のお孫さんと知り合いになった。アメリカに行った時には泊めてもらい、奥さんや奥さんの妹さんやお母さんに大変世話になった。マミヤさんは→「ニューヨーク」市(↓)から北に電車で1時間ほどの閑静な街の小さな大学の教授で、日本語は話せなかった。身近なところに教科書に載る人物のお孫さんがいたんや、と感心した。

国がスポンサーの話では、私にも関わりがある。私の専任が決まったのは、原子力村の1員だった人の推薦があったからである。見ず知らずの私を取るために教授会で奮闘したと聞く。国にすり寄る研究者が研究費が欲しくて原子力村に群がっていた。原子力の安全神話を強化するためだった。しかし、チェルノブイリ(↓)の歴史に学ばず、フクシマが現実の問題となった。御用学者は、それでも安全だと言い張って再稼働に協力している。歴史から学ぶという概念が欠落しているのだろう。痛し痒(かゆ)しである。

最近では、兵器製造に関わる基礎研究での助成金は大学の人には身近な問題である。国立大では、特に地方大学(↓)では運営交付金が毎年減らされ続けて研究費不足は常態化している。それに付け込んで、国が理系の研究者に向けて助成金募集をかけたのである。大学では教育、研究、社会貢献が問われる。最近は外部の批判を気にして評価も厳しくなり、研究者には甘い誘いである。工学部にも知り合いがいるので、人ごとでもない。組合員の同僚も、募集に強く反対していたし、学内の掲示板に貼られた研究資金募集の広告も見た。観方次第だが、結構身近に問題はころがっている、そんな感じがしている。

次回は、宣教師である。