つれづれに

つれづれに:2月も2日目に

2月:→「ひなちゃんと山茶花」(SM号)

「私の絵画館13」(→「私の絵画館一覧」(2009/11~2017/1, 81編)、→「私の絵画館一覧」、2018/12/29~連載中)

 昨日は2月に入り、新しいカレンダーになった。

「ひなちゃんと山茶花」の原画

 今日も陽射しが強くて助かる。夜中中うずうずしていたぴのこがさっと降りてきて、日向ぼっこの最中である。南側の窓も大きく、ほぼ全面に陽射しが入り込んでくる。

野菜スープを作って飲んでいる。2日か3日に一度鍋一杯沸かして、ペットボトルに入れて4~5本ほど冷凍したあとは、小さいペットボトルに5本ほど明日の分を取っておく。宮崎に来て最初に住んだ借家の隣の人が教えてくれた。人参、大根、牛蒡のの根菜類に大根葉と乾し椎茸を強火で14~15分間沸騰させたあと弱火で一時間、それで完成である。材料が切れないように、近くの生産者直売所で補充している。今は大根葉だけは庭の畑で獲れる。もうすぐ大根も賄えそうである。去年牛蒡と人参も思いついて種を蒔いた。牛蒡は収穫出来て今も使えるが、人参は葉だけ大きくなった頃に、出られないほどの暑さになって自然消滅した。今年は時期を考えて植えるつもりである。寒い時期に何度か蒔いたが、芽が出なかった。

 今朝は2階にぴのこを迎えに行く前に、外に出て大根葉を間引いた。以前は大根が大きくならないので早い時期に間引いたが、今は大根葉は貴重品なので、ある程度大きくなってから間引いている。今朝も間引いて、洗って持って入って来た。虫がつかないのは、今の時期だけなので有難い。そろそろ希釈した酢を蒔いて、虫に嫌がらせをしておかないと。

今日は昨日ほぐしておいた箇所に肥料を入れて、玉葱とブロッコリーを植え替えて、次の大根の種を蒔こうと思っている。昨日の続きで、室内で蒔く種用のポットに土を入れて、茄子、丸鞘オクラ(↑)と瓢箪南瓜の種を蒔こう。南瓜は大きくなるので、苗ポットは大きめの方がいいだろう。直播の分は植え替えると枯れてしまう場合もあるが、苗ポットだと根も張るので植え替えてもほぼ枯れることはない。陽射しが強いと、根付くまでにやられてしまう。

右奥がとまとの雨除け

 とまとの支えの竹も埋め込んで準備もしたい。とまとはなかなか思うような実をつけてくれないが。2筋竹が定まると、空いてる場所にブロッコリー(ブロッコリー、↓)を植え替えたい。陽が当たりにくい場所で成長が遅いが、2段階、3段階で収穫が出来る、と最近考えるようになった。ブロッコリーは初めあまり馴染めなかったが、なかなか使い勝手がある。レタス(↓)ととまととキャベツの野菜サラダに彩りを添えてくれる。大きな実を獲ったあとも、次々に脇目が出て、長い間収穫が出来る。ありがたい野菜だ。オクラは粘り気があって、納豆といっしょに食べる。この野菜も最初は馴染めなかったが、あの粘り気も貴重品である。実も生り出すと次々と獲れる。ただ、暑中になると獲るのに出るのが難しくなり、手入れできなくて枯れてしまう可能性が高い。獲れる期間が結構長いので、先のことを考えて、暑中に何とか手入れできればいいんだが。あの暑さを考えると、どうも自信がない。こまごまとした日常の積み重ねだ。月日が過ぎて行く。

 それと、昨日回収できなかった瓢箪南瓜の竹柵の横軸の3本も回収はしたいが。

つれづれに

つれづれに:2月に入り

2月:ひなちゃんと山茶花 (SM号)

 2月に入り、また新しいカレンダーになった。2011年度分の再録である。妻が「私の絵画館13」→「ひなちゃんと山茶花」で解説している。最近は馬場に行けてないが、週に1度は通っていた頃の春に生まれたのが「ひなちゃん」だった。生まれた翌日の、まだ毛がほやほやとしているひなちゃんを描いて、カレンダーに入れた。(→「私の絵画館一覧」(2009/11~2017/1, 81編)、→「私の絵画館一覧」、2018/12/29~連載中)

「ひなちゃんと山茶花」の原画

 「つれづれに」を書き始めても、その日に終わらないこともある。昨日の1月の最終日に書いた(↓)時も終わらずに、今日になってしまった。アメリカ関連で続けて書いていたが、一時中断である。

今日で1月も終わる。毎日同じことの繰り返しだが、歳月が過ぎて行くのを早く感じる。自分の食べる分の準備と猫のぴのこの食事も含めた世話とで一日が終わる。一度にたくさんのことができないので、少しずつ、少しずつの毎日である。それもあって、昨日は瓢箪南瓜の竹柵の縦軸の竹1本を採ってきた。横軸の3本の枝を發って近くに置いてあるので、明日はそれを回収にと思っているが。

晴れの日が続いて助かる。寒いが11時から2時くらいまでの陽射しは強い。南の窓辺に毛布を敷いてあるので、その上で日向ぼっこをするのがぴのこの日課だ。今日はその陽射しがあまり強くないので、満を持して降りて来たぴのこも長くはおれなかったようで、そそくさと2階の居場所に戻ってしまった。書いている間に陽射しが少し強くなって来たので、今度降りて来た時は、もう少し長く日向ぼっこが出来そうである。→<ぴのこのお話>

私の絵画館2→「水仙」(No. 18:2010年1月)

ここからは今日の分である。

今日は陽射しが強くて有難かった。陽射しが強いと、ぴのこの日向ぼっこの時間も増える。3日ほど畑に出られなかったが、今日は少し作業をした。2個あるうちの片方の溜枡の整備と、家のすぐ南の通路の整備を少々、それに関連して植えてある葱を採り入れて、違う場所に植え替えた。それと、肥料を入れられるように大根の畝の土をほぐした。溜枡近くに植えた玉葱の苗を植え替えられるように、大根の畝の南側の土をほぐして、肥料が入れられるようにした。まだ植え替えが済んでいないブロッココリー用の準備もした。最後に、今年初めて室内で苗を作ろうと思っているので、ビニールの苗ポットに土を入れ、室内に運んだ。そう多くは準備出来なかったので、トマトと胡瓜とピーマンと獅子唐を各4個ずつ種を蒔いた。うまく芽を出してくれるといいが。

つれづれに

つれづれに:トランプ2

 現アメリカ大統領のトランプ(↓)の話である。前回の→「トランプ1」の続編と言うよりは、その前の4回(→「ソウル」、→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)のアメリカ関連の続編である。

 トランプがなぜ大統領に選ばれたのかが長いあいだ釈然としなかった。どう考えてみても、あの人格で大統領はないだろうという思いが先に立ったからかも知れない。ところが、最近なんだかわかるような気がしてきたのである。目にとまった新聞記事がきっかけだが、そうか、選挙とは政治家と政党同士の駆け引きなんだから、どんな人物であれ、過半数を取れば選ばれるんだと改めて思い直した。制度的に日本とは違うので、州ごとの得票数で決まる。ヒラリー・クリントン(↓)のように全体の得票数が過半数を超えていても、負ける場合もある。政党の戦略と、何よりも金持ち層の動きを考えれば、元々理解できていたかも知れない。持たない者が絞り取られ、持つものが好き勝手する、その構図は永遠に変わらない。先ず、そのことを考えるべきだった。

 政治家と党の戦略を見極める目が必要となる。政治家も当選しなければただの人だから、議員になるにはどうすればいいかを最優先し、党はどの層を多く取り込めるかを考える。その流れからすると、取り込む層の経済面も大きな要素になる。

例えば、赤狩りに遭った民主党が巻き返すには、どの層を狙うかが最大の課題だった。南北戦争後に加速していた産業化と第2次大戦の好景気でより加速された産業社会が、どのように変化して具体的に人々の毎日の生活にどう反映されていたのか?

南北戦争が終わったあとしばらくして、産業社会化への動きは激しさを増したので、実際の生活で体感した人も多かっただろう。実際に生活がどう変わったかは想像の域を出ないが、産業革命で基本構図が大きく変わったのは確かである。今まで手でやってたものを機械でするのだから。出来る範囲も広がるし、ある意味便利になる。鍬で耕していところを耕運機が耕してくれる。手で洗っていた洗濯物を洗濯機が洗ってくれる。歩いて行っていたところに、自転車や車で早く行ける。薪で沸かしていた風呂も、電気やガスで沸かせる。少し考えただけでも想像は広がる。鉄鋼、造船、トラックやバスや列車など、あらゆる面で基本構図が変わったはずである。経済的に豊かになった人たち、特に都会の住人には恩恵が大きかったと思われる。

ドイツは1886年にガソリン・エンジンの車を実用化し、アメリカは1909年に大量生産を開始、1913年にはベルトコンベア方式を導入して低価格化に成功、自動車の大衆化を実現している。自動車の大衆化で、鉄工業や機械工業に石油産業、タイヤのゴムや窓ガラスなどの技術革新や生産の合理化が進んだ。自動車の普及は道路網の整備や物流や通信など、あらゆる分野に影響を及ぼし、現代社会の人間生活を一変させた。大量生産・大量消費時代に突入して行く。

20世紀の自動車ブームに加えて、18世紀後半のイギリスの運河開削ブームと、1830年代がピークの鉄道ブームも大きかった。アメリカで鉄道建設が始まったのは1827年で、1840年代後半に急速に発展した。カリフォルニアのゴールド=ラッシュで西部開拓が推進され、西に向かって人が押し寄せた。大量に、そして短時間に人と物資を運べる鉄道は脚光をあびた。1869年には大陸横断鉄道が開通し、広大な国土の東西をむすぶ大動脈となった。

赤狩りにあったあと民主党が巻き返すためには、産業化の恩恵を一番に受けている人たち、特に人口も多い都市部に住む層の票と、公民権運動の参加者、南部の黒人の票を取り込む工夫も必要だった。民主党が政権を奪い返せたのは、産業化の恩恵を受けている都会の人たちと、公民権運動で勢いに乗るアフリカ系アメリカ人たちの票を、共和党より多く獲得出来たということである。大統領候補のケネディ(↓)の若さも有利に働いて、南部の黒人票の取り込みに成功した。

 マルコム(↓)が回教団を離れる前に街頭演説で「大量の黒人票のおかげで大統領になったケネディは、黒人に対する警察の暴力を野放しにしている』と批判している。1963年にケネディが暗殺されたあと、副大統領のジョンソンが大統領になり、北部共和党議員の一部の協力を得た超党派で公民権法を成立させている。元々民主党は南部の寡頭勢力、奴隷主の代弁者としてワシントンに送り込まれたのに、その民主党が公民権の成立に尽力して元奴隷を解放する側に回ると誰が思ったか?政治家や党の戦略次第では、党も変質するわけである。

小島けい挿画(玉田吉行著英文『アフリカとその末裔たち』)

 その後も、2大政党の政権交代が続いき、民主党のビル・クリントンと黒人初のオバマに続いて、ヒラリー・クリントンが出馬した時、初の女性大統領誕生になりそうな勢いだった。しかし、共和党のトランプが勝った。得票数ではトランプよりヒラリーの方が多かったのだから、ある意味、民主党の戦略次第では結果も変わっていた可能性もある。では、トランプがどの層を取り込んだのか?続きは「トランプ3」である

つれづれに

つれづれに:トランプ1

遊ぶトランプの話である。リモートで毎月集まっている時のテーマがアフリカ系アメリカの歴史だし、その関連で前の4回は(→「ソウル」「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)を書いた。その流れで大統領トランプについて書こうと思ったが、その前に、遊ぶトランプについて書いてみるかと考えただけである。ただ、小説の修作で「つれづれに」を書き始めてみると、どうしても過去の検証とやらも必要になって、同じようなことを何度も書いているので、二番煎じになるとは思うが。

前世紀の終わり頃に宮崎医科大学(↑)の職にありついて、医学生に英語の授業を始めた。自分自身は授業にも出ないで単位をもらった口なので、そのお返しにという気持ちもあって、落とさないことに決めていた。しかし、1年だけ落としたことがある。その時に女子学生が出した課題の一つのタイトルが「トランプの遊び方」だった。

最初に赴任した年は、同僚の次年度の在外研究の期間にその人の分の授業をする関連もあって、普段の1年生に加えて2年生の授業も担当した。留年する学生も多かったが、英語で落とす人はいなかったので、毎年新入生の100人を4つに割って1クラス25人で授業をやっていた。1コマが100分で、通年30回の授業だった。その時の2年生2人がよく研究室に来た。授業が終わってからも卒業まで、定期的に研究室に顔を出し、家にも来るようになっていた。その2人とは、その後も遣り取りが続いている。片方は家族の写真入りの年賀状や自筆の手紙をくれる。ものも送られてくる。もう片方は印刷した年賀状を送ってくるだけだったが、今年は珍しく、手紙が来た。その人は研究室に来ると必ず「たまさん、落とさないと駄目ですよ。奴ら、わかっててやってるんですから。舐められますよ」と言っていた。

所属は医学科一般教育英語科、担当は英語学科目で、それが正式名称だった。ずっと、中高での試験のための英語が嫌だったから、一般教養の英語は僕には都合がよかった。自分で何をするかを決められたからである。英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては他の人の教科書を使い、一時間ほどで成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽だが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の研究者や医者が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていた。

 映像を使う人があまりいなかったからだろう。プロジェクターの画質が今ほどよくなかったので、分厚い暗幕が必要だった。きっちり黒いカーテンを引いて、真っ暗な中で映像を観てもらった。普段は長い映画などを見る時以外は、大きな画面のテレビを台車に載せて、毎回教室に運んだ。25人授業だったので、学生との距離も近くて学生の顔も見やすかった。テレビを録画したテープやビデオショップで借りて来たテープを編集した。当時は台数が多くなかったので、編集用のビデオデッキは20万円以上もした。まだベータ(↑)があった時代で、私はVHS(↓)と半々で使っていたので、どちらのビデオデッキも必要だった。大学の豊かな時間の中で教養科目の英語の時間が、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観を再認識するための機会になればと願っていた。2年間非常勤で行った大阪の私大では授業そのものが成り立たなかったので「授業が出来る!」だけで十分あった。もちろん、授業を始めた時は、である。しかし、やり始めてみると実際は、1年目からいろいろあった。

 ある日、1年生の授業に行ってみると、やけに来ている人が少なかった。「どうしたんやろ?」と来ている人に聞いてみたが「どうなんでしょうね?」と言われた。そんなことが続いて「大丈夫やろか?」と思ったとき、何だか既卒組の2人に学年全体が顔色をうかがっている気配がした。2人は自己紹介に京大卒と東大院卒と書いてあった気がする。僕は短気なので、推論で京大院卒の人を部屋に呼んで「奨学金停めたろか?」と一言だけ言った。関西弁、特に播州弁は充分にきつい。そのあと落とせと説き続けてくれた人に事情を話したら「2人で仕切ってるみたいですね。既卒者が仕切りたがる学年はうまく行ってないです。東大院卒の方は学部からではないそうですから、劣等感の裏返しじゃないですか?」と涼しそうな顔をして言っていた。何年かして「医学生嫌やな」と感じ始めた思いは、この時の既卒組の幼稚さとは別物のようだった。

落とすように説いてくれたとき、僕は「まあな。授業に出ずに単位を取った方やし、自分が出来んかったことを学生に強要すんのも気が引けるし。それで出席も取らへんし、誰もよう落とせんのやけど。それに今の周りの教員も酷いのが多いやろ?何人かの箍の外れた馬鹿教師の噂もしょっちゅう聞かされるし。この前部屋で面接したら、10人が10人とも『入る前にこんな酷いと知ってたら受験しなかったのに‥‥』と言ってたで。異常やろ?そんな状況で、僕まで落とせるか?」と答えていた。

しかし、相手が落とさないと見ると、医学生は相手に容赦しなかった。「この頃、顔見ぃひんなあ」、「そんなに顔見せんで、大丈夫か?」とやんわり言っても、言うことそのものに意味がなかったらしい。提出物も出さないで単位が出るとわかると、出さないのである。「出さんでええんか?」と聞いても、大丈夫と踏むんだろう。何年かそんな状態が続いたが、落とせずに、最後の日に目をつぶって60を記入した。

1度落としたのは、「医学生、嫌やなあ」という思いがだんだん強くなったころである。

「これはなんぼなんでもあかんやろ」

そう感じて、基準を決めて落としたら、5人になった。そのうち4人は他の教科でも4つか5つ落としていたから、僕の教科が1つ加わっただけだったが、あと一人は僕の教科だけだった。しかし、3教科までは大丈夫だったので進級し、その次の年に何もなかったかのように平気な顔で課題を出した。僕も何も言わずに単位を出した。授業中ずっと、前の学生を壁にして隠れたつもりで毎時間漫画を読んでいたことを注意すべきだったのか?「トランプの遊び方」などの人を馬鹿にした内容の課題が「評価の対象外」だったことをその女子学生に言うべきだったのか?

しかし、現実にはその前の年まで歯止めのなかった勢いが急変した。課題は期日に全員が出すし、きっちりと計算して欠席はするし。しかし、互いの信頼は微塵もないので、1年でやめた。医師になるためには教養は要らない、英語は必要なら自分で出来ると考える水平方向と、素養を培う大切な空間で自分について考える機会に欲しいと願う鉛直方向が、永遠に交わることはなかったのである。

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