つれづれに

つれづれに:日本語訳

 日本語訳をして、出版された。奥付けには発行日●平成4年10月16日とある。西暦では1992年の話で、発行日には、家族4人でジンバブエの首都ハラレにいた。編集者の人から電話があったとき、それまでの流れの続きで作業を始めた。大学生の頃は、テキストと翻訳はしたくないとぼんやりと考えていたが、出版社の人から繰り返し出版事情を聞いているうちに、テキストを2冊出して学生に本を買ってもらうようになっていた。アメリカの学会で発表し、テキストの編註書(↓)を出した作品である。

表紙絵はまた妻に頼んだ。衛星放送の場面を見て、今度は水彩でさっと描いて色をつけてくれた。その時はまだアフリカに行ったことはなかったが、日本語訳が出版された年に家族で住んだときにみたのとよく似た南部アフリカ特有の光景だった。ニュースかドキュメンタリーを見て、その雰囲気を感じ取ったのか?私には絵が描けないので、その感性は不可思議である。こともなげに雰囲気を嗅(か)ぎ取って、さっと描いてしまう。その絵が、編集者の手にかかって、また見事な表紙絵(↑)に変身したのである。

 歴史的に見れば、南アフリカのアパルトヘイト政権にアフリカ人が武力闘争を開始した頃の話で、著者も指導者の一人として闘っている最中に作品は生まれている。逮捕直前に夫人に郵便局に1年間留め置くように頼んだ草稿を出版社の白人が持ち出しナイジェリアで出版された奇跡の作品が第1作(「A Walk in the Night」)なら、1作目の評判を聞いて今度は東ベルリンから来て獄中にいる作者に最も南アフリカ的な作品をと依頼して出版された奇跡の物語(→「テキスト編纂2」)である。

ナイジェリアで出版された1作目(神戸外大黒人文庫)

東ベルリンで出版された2作目(神戸外大黒人文庫)

 作者は主人公と、娘と暮らすシングルマザーとの恋物語にしたかったと友人の伝記家には話していたそうだが、ケープタウンのスラムの日常を描くことを優先して、最も南アフリカ的な物語に仕上げた。世界に南アフリカのことを知ってもらいたい、アパルトヘイトがなくなったあとの世代のために書き残しておきたいという作者の気持ちが優先された。英文を丹念に日本語にしているとき、行間に溢(あふ)れる作者の温かさを常に感じていた。

表紙絵:ケープタウンのスラム(イギリス版)

 翻訳の90パーセント以上はだめです、と出版社の人が常々言っていたが、出ている翻訳本を調べてみてその惨状を思い知った。この本に関しては、東京の有名私立大学の教授という人が日本語訳をつけて、大手の出版社の全集の中に入っていた。読んでみたが、知らない言葉をカタカナ表記しているのを見て、この人、ひょっとしたらその言葉がアフリカーンス語だと知らないだけではなく、アフリカーンス語自体を知らないのではないかと感じた。1作目の日本語訳は更にひどかった。清廉潔白な革新系の党の機関誌で、新しい文学の特集号だった。南アフリカのことをやっている人なら誰でも知っている1976年のソウェト蜂起のソウェトをソウェト族と訳者は日本語訳をつけていた。地名を民族集団と信じて疑わなかったのだろう。

翻訳がほとんどだめなら、ロシア文学だけでなくドイツ文学は?フランス文学はどうする?と聞かれそうである。翻訳とはそんなものと諦めて、その範囲で期待しないで読むしかないか。

アメリカの学会(→「 MLA」)に誘ってくれた人(↓)が、友人と出した『方丈記』(→「英語版方丈記」、↓)の英語訳を送ってくれた。アストンの英語臭さも漱石の日本語臭さもなく、文章が自然に流れていた。著者紹介を見て、合点がいった。永年英語圏で暮らしている日本人と、永年日本で暮らしていたアメリカ人との共訳だった。

 永年英語圏で暮らしている日本人と永年日本で暮らしていたアメリカ人の共訳がすべていいとは思えないので、最後は翻訳に携わる人の感性によるもののかも知れない。

 本の献辞は妻のブランシさんになっている。ラ・グーマは1985年にキューバで亡くなっているので会えなかったが、3年後にカナダで夫人に会い、その4年後にまた亡命先のロンドンで家族といっしょに会った。その後しばらくしてケープタウンに戻ったあとも、何度か手紙の遣り取りをした。テキストを編集するときはすでにブランシさんと会っていたが、日本語訳をしている時はまだ会っていなかった。完成原稿を出版社に送ったあと、細かい字で読者代表で訂正をお願いしますと付箋(せん)紙がたくさん、綴じたコピーの冊子に貼ってあった。夫婦で時間をかけて点検したと言っていた。全体の1割ほどは、出版社の人と夫人の力を借りたわけである。

ロンドンの住まいを訪ねたときに分けてもらったロシアで撮った写真

 日本語訳をしながら、改めて日本語と英語の違いについて気付くことが多かった。たとえば、日本語はほとんど主語を言わないが、英語は必ず主語をつける。そのまま言葉を置き換えれば、まさにクラスルームイングリッシュである。本は課題図書に入れて学生に買ってもらったが、強制はしていないので、定年退職の時に50冊の束が何個か残っていた。在庫がなくなったのは、再任されてまた教養の大きなクラスを持ってからである。新しい研究室に運んで、生協に置いてもらった。1割五分の手数料を取られた。出版事情を直に感じながら、何とか最後の束もなくなった。手元に、何冊かが残っているだけである。

つれづれに

つれづれに:読む

薊(あざみ)がだいぶ咲き始めた

 英語の話の続きである。たくさん喋(しゃべ)って、聞いているとき、今まで読んで馴染(なじ)んだことが意外と役立った。喋ったり聞いたりすることに慣れてくると、これまで読んだ蓄積みたいなものが互いに繋(つな)がって、感覚的になるほどなあと感心する場面が増えてくる。書き言葉と話し言葉の語彙(い)は違うが、両者が有機的に繋がってくると喋られている含意や、書かれたものの背後に潜む意味みたいなものがじわーっと感じられるようになる気がする。

イリスが枯れだした

 敗戦直後に生まれたこともあったし、何よりあまり恵まれた環境ではなかったので、生きること自体がきつかったせいもあるが、戦争相手のアメリカ人が使う英語に反発を感じたし、住んでいた地域社会にもいつも疎外感を感じていた。だから、受験に馴染めなかったとはいえ、→「夜間課程」を選ぶしかなかったとき、英米学科に入るとは考えても見なかった。しかし、英米学科には語学・文学コースと法経商コースがあって、ま、文学もやれるか、という都合のいい解釈をして願書を出した。日本文学の夜間は大阪市大しかなく、地理的に家から通える範囲を越えていた。

だからという訳ではないが、大学では単位を取れる範囲を越えて英語はしなかった。当然だが、学割を使えるんならと受けた大学院(→「大学院入試」)で26人中飛び抜けて一番だったそうである。採点した人も呆(あき)れたと思う。それでも英語をしようと思わなかったが、母親の借金で定職に就くために教員採用試験を受けて、英語をすることになったのである。

キャンパス全景(同窓会HPから)

 しかし、今から思うと、敗戦でアメリカ化を強要されたために英語関連の就職口は多かった。一つの言葉なのに、中高でも英語の時間数は多くて必修だったから、それだけ教員も必要だったわけだ。他の教科なら、1年では間に合わなかったかも知れない。→「運動クラブ」の先輩で神戸の一番手の高校からスペイン学科を出た人が、卒業後に他の大学で補足単位を取って採用試験を受けたが受からなかった。社会の枠が少なかったのが大きかったようである。その点、英語の募集人員は多かった。

一年目に受けるだけ受けてみて、→「購読」と→「英作文」(→「英作文2」)で行けると感じ、準備を始めた。要は読んで書ければよかったわけである。そのために読んだ。購読は好きなアメリカ文学の人の研究室で本の名前を聞き、図書館で借りて読んだ。英作文も言語学の専門家の研究室で本をあげてもらい、→「古本屋」で手に入れて読んで、書いた。

紹介してもらった英作文の本の1冊

 最初に読んだ本は1026ページあり、辞書を使って3ケ月ほどかかった。これでは間に合わないと意識を変え、辞書を引かずに一気に読んだ。分厚い本も、余りわからないまま取り敢えず読み通した。1ほどしかなかったが、わかる言葉を手掛かりに時間をかけずに想像して読むようになっていた。いわゆる文脈を読むというやつである。聞くことも話すこともそうだが完璧にはいかない。何割かの知った言葉や雰囲気や文脈をてがかりに、理解するのである。

結果的に、1026ページを辞書を使って3ケ月で読んだ時より、短時間で理解の深さも増すように思えた。たくさん読めば語彙も増えるが、それよりも短い時間にいかに内容を把握して理解するかを身体(からだ)で覚えるのだろう。同じ1時間が前とは違うわけである。このときのやり方が、雑誌の記事や学術論文を書く時に役に立った。あるまとまりを仕上げるには、書くためのばねのようなものが要る。何冊か関連の本を並べて、短期間に一気に読めばそのばねのようなものが湧いてくる。あとは、必要な部分は、時いんは辞書やウェブを使って丁寧に調べて補足する、そんな風に書くようになった。

セオドア・ドライサー(『アメリカの悲劇』、1925)

つれづれに

つれづれに:ニュアンス

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 医学科に赴任以来、英語の授業を利用させてもらって英語を喋(しゃべ)ることと聞くことにはだいぶ慣れた。元々英語も言葉の一つなので、実際には、話す、聞く、読む、書くという4つの技能を複雑に絡(から)めながら様々な場面で言葉を使う。私自身は好きな人に英語で自分の思いを伝えたいと願って英語を喋ろうと思ったが、自分の思いを伝えるためには、その場その場で、細かいニュアンスも理解したり感じ取ったりする必要がある。たくさん喋って、たくさん聞くにつれて、たくさん読んだことが、意外とニュアンスを理解するのに役立っているのを知った。

 授業では、主にアフリカ、南アフリカ、アフリカ系アメリカの歴史を題材にしたが、授業で話す内容は、ラングストン・ヒューズの『黒人史の栄光』(↑)やリチャード・ライトの『1200万の黒人の声』(↓)、スウェーデンの市民グループが編集した『アフリカの闘い』、マルコムX『マルコムXの歴史』などの、歴史学者以外の書いた本や、アフリカを誰よりも知るイギリス人バズル・デヴィドスンの映像や書物から得たものである。

 元々あまり歴史に関心があるわけではなかったが、作家の書いた小説や物語を理解するためにはその背景の歴史の理解は不可欠だった。言葉も馴染の(なじみ)のないものが多かったが、使ううちに何となく理解するようになった。たとえば植民地(colony)がよく出てくるが、ここ500年余りのヨーロッパのやってきたことを辿(たど)っていると、よくわかる。そこでは、植民地を獲得する行為を植民地化(colonization)という言葉を使っていた。日本は植民地にされた経験がない(Japan has never been colonized)と動詞でも使える。奴隷貿易の蓄積資本で可能になった産業革命後に、ヨーロッパ諸国が原料と市場を求めて争ってアフリカでの植民地獲得に躍起(やっき)になったのを植民地争奪戦(scramble for Africa)という。言葉だけでは、その細かなニュアンスは理解できない。大きな歴史の文脈のなかで、理解できるようだ。

デヴィドスン、ケニアのポコト人の村で

 旅番組でサンフランシスコ(SF)が観光地として有名で、毎年たくさんの人が訪れるのを案内役がEach day sees an invasionと紹介していた。歴史などではinvasionは侵略だが、この場合、外からの観光客、いわゆる最近よく使われるインバウンド(訪日外国人観光客)のSF版である。映像を見ればたくさんの観光客が訪れている様子はわかるが、invasionに外国からの観光客のニュアンスを感じ取れるかどうか、聞き手は聴く力を問われる、教室英語、よくいわれるクラスルーム・イングリッシュでは解決しない。オーストラリア製作の番組で、デイがダァイと聞こえる。

SFの漁夫の波止場、臨床実習に行った6年生から

 NBAの試合も録画して繰り返し聞いて、マイケル・ジョーダンの華麗なプレイを楽しんだが、当然よく使う言い回しも自然に覚えた。解説者の喋り方は結構早いし、観客の声で聞こえない時もある。解説者が二人なら、更にスピードがあがるし、プレイとは関係のない世間話も結構する。ジョーダンがフリースローレーンの上辺りから放ったジャンプショットが試合を決めるブザービーター(buzzer beater)になった場面を、解説役はJordan squared himself at the top of the keyと絶叫していた。まっすぐ上にジャンプして、とフリースローレーンの上辺りからというニュアンスを理解するには、squareとkeyの意味を知る必要がある。90度の位置に(まっすぐに)、昔フリースローレーンが鍵穴の形で線が引かれていた、を知っていないとわからない言葉だろう。

 ジョーダンの出た試合は次の日の英字新聞で読んでいたので、そのニュアンスに気づいたと思う。考えれば当たり前のことだが、言葉である限り、話す、聞く、読む、書くという4つが微妙に絡む。それを、身体(からだ)のどこで捌(さば)くのかは知らないが、理解するのだから、人間の言語能力も大したものである。

 昔届いた分厚い手紙の一節に「・・・闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます」とあったが‥‥。

つれづれに

つれづれに:想像力

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 医学生の英語の授業で、→「独り言」で準備したり面接をさせてもらって喋(しゃべ)ることに慣れたあと、→「衛星放送」を利用してたくさん英語を聞いた。英語を使う環境で長く暮らせば一番いいのだろうが、現実にはそうもいかない。英語を使う環境を作り出して、使えるようにするしかない。

NHKBS1:BBCニュース

 その点では、事務室も臨床や基礎の講座が持てあます国費留学生を、英語が苦手な事務と忙しすぎて構う時間のない医者から、英語科だという理由だけでたらい回しされたのは、実際に英語を使いたかった私には歓迎すべきことだった。国費留学生は優秀である。経済的にも恵まれている。臨床でも基礎でも国費留学生を受け入れれば、大学は高く評価してくれる。化学の教授が退官した時、補充しないという意見もあったが中国人の教授を採用した。中国からの留学生を毎年たくさん受け入れるので、執行部の評価は高かった。それで引き受ける講座も多いのだが、留学生の面倒を見る積極的な気持ちと時間の余裕がない、それが現実のようだ。私にはお互いに英語が第2外国語というのもよかった。気楽に話が出来た。電話は身振りや雰囲気を読めないので、対応が難しくて苦手だったが、何度も電話で話をして苦手意識が薄くなった。珈琲を淹(い)れながら、留学生とは、いろいろ話をした。

 英語をよく使うようになって、聴きながら自然と相手のことを理解する術(すべ)に慣れて来た。日本人同士の会話でもそうだが、全部を完璧に聞かなくても、流れで大体はわかる。分かり難いときは、聞けばいい。英語を修得する過程で、その当たり前のことが英語では基軸というか、根底に流れる意識というか、その辺りがどうも違うような気がして来た。

表層の言葉から即座に判断して、真意を理解するための想像力が要る。書かれたものは何度も読み返して吟味(ぎんみ)できるが、話はその場で消えるのでその範囲で理解するためには雰囲気や相手の表情や、その場の状況を理解するのは不可欠である。いくら聞いても、その想像力が身につかなければ、実際に使いこなせるようにはならない。

その原点は→「サンフランシスコ」とメンフィスでの経験だろう。1981年に初めてアメリカに行ったとき、電話をかけるのが億劫(おっくう)だった。携帯電話の時代ではなかったので、サンフランシスコ空港から公衆電話でホテルに電話したかった。しかし出てきたのはたぶん交換手、向こうで早口で何かを言っている。慌ててしまった。あとから考えれば、空港は市外にあって公衆電話の料金が足りずにあと何ドル足して下さい、と言っていたようだ。制度に不慣れだっただけだが、状況からコイン不足が予測出来れば、数字だけを集中して聴けばよかったわけである。

歩いたメンフィスの通り

 メンフィスでは、背の高い黒人から通りすがりに、突然話しかけられた。私にはペーパーに聞こえたから「ペーパー?」と聞き返したら、怒り出して口に指をいれて上から「あぃむはんぐり」と言われた。咄嗟(とっさ)のことで訳がわかわからなかったが、→「ミシシッピ」の線路脇であからさまに聞かれた「ぎぶみーまね」と同じだと、感じた。メンフィスは大きな街である。その大通りで昼間に初対面の相手に金をくれと言われるとは思っていなかったからわからなかったのだが、それでも紙はないだろう。ちょっと考えればわかるはずだ。想像力の欠如というところか。

州都ジャクソンからプロペラ機でミシシッピナチェズ空港へ