つれづれに

県大会

洲本城の近くの公園でみんなといっしょに

 産休の人の代わりに3ケ月早く高校の教員になり、授業も始まって間もなく、またバスケットボールと関わることになった。しばらく運動らしきものと無縁だったので、大学に入ってまたバスケットボールをやり出した。幸い昼間の人といっしょにプレイが楽しめた。(→「運動クラブ」、3月29日)もう少しやりたいと考えて近くの中学校に出かけて思わずコーチの真似事もした。(→「コーチ」、4月15日)
 間借り校舎で体育館はなく外の地面のコートだったが、授業が始まった何日か後の放課後に、外のコートに顔を出してみた。男子のチームはいなかったが、女子のチームが熱心に練習をしているようだった。中学校に顔を出した時と違って、すでに授業で顔を合わせていた生徒もいたので、教師として見られたようである。生徒にとっては非常勤も常勤もない。ただ4月からの新任教員だということは伝わっているらしかった。
 男子チームがいなかったのは今年の試合はすべて終わりオフに入っていたからで、女子チームはまだ試合が残っているらしかった。聞いてみると、新設校は一番下部の4部リーグからで、今年は4部で一位になり、3部と2部と1部の最下位にすべて勝てば県大会に出場できる可能性があるとのことだった。これは、お役に立つしかない、そんな感じで始まった。
 部員は2年生が7人と1年生が5人で、2年生の二人は来ない日もあった。練習をいっしょにしてチーム全体の力は把握したが、試合でメンバーを選ぶのは難しい。勝敗を度外視すれば、練習で努力している生徒を出すのがいいかも知れないが、勝敗を決めるスポーツだし、勝つと嬉しいから、余計に難しい。バスケットは身長がある方が有利だが、150~155センチくらいの人が多く、160以上は3人だけで、それも162センチ、小型のチームだった。いつも試合に出てたのは2年生が3人、1年生が2人だった。うまく止まれない、パスがうまく受けられない、シュートが入らないなど基本的に試合に出るのが難しい人もいたから、このチームでよく勝ち残っていたと感心したくらいである。しかし、勢いとは恐ろしいもので、3部の最下位に勝ち、2部の最下位にも勝ち、最後には1部の最下位まで破ってしまったのである。まさに、青春ドラマという感じだった。当然、3部の最下位との試合が入れ替え戦で、次の年から3部に昇格することも決まった。
 と記憶していたのだが、事実は少し違っていたようである。奇跡的に当時のスコアブックがあり、その中に入れ替え戦と代表決定戦に関するプリントがあった。(↓)

 それによると、C2(3部2位)とB1(新、2部1位)に勝って出場権を得たようだ。前の日に入れ替え戦がありすでに3部昇格を決め、上部の入れ替え戦の結果でC2とB1が決まったらしい。この年、2部2位だけが昇格して、1部から落ちたのがB1だった。B1は一部から落ちて来たチームだから、いずれにしても、4部で1位になり、上位の2チームに勝って出場権を得たことになる。プリントの日付が昭和50年10月とある。1975年で47年も前のことだから、まだよく覚えていた方だというべきか。そのスコアブック、旧校舎の部室の前で誰かから「たまさんが持っといて」と渡されたような気もするが。小説の材料になればと取って置いた手紙の下書きや受け取った手紙や学生が提出した課題など45年分の中に、高校教員の時のものも紛れ込んでいて、いまだに整理中である。
 職員室では初めての県大会だとお祭り騒ぎだった。生物の教員が顧問をしていたが、あまり練習には出てなかったようで、最初試合ではサブコーチの扱いだったが、最後辺りはメンバー表にも顧問と書いてくれていた。対外的には、非常勤でも大丈夫だったようである。その点は中学生のコーチの真似事とは少し違っていた。兵庫県は広いので毎年の県大会の会場は持ち回りで、遠い場合は泊まることもあるらしかった。この年は淡路地区の洲本市が会場だった。今なら瀬戸大橋があって宿泊不可のところだろうが、お祭り騒ぎもあって、全員で宿泊出来ることになった。

洲本市は地図の国道のマークの近く、学校は「兵庫県」の「庫」の南にあった

 県大会では1回戦で簡単に負けてしまった。その当時は夙川や甲子園などの私学は人を集めて強いチームを作っていた。170以上もあって中学校の経験者を集めたチームに勝ちようがない。妻が行ってた高校で2度甲子園に行ったが、どちらも公立校ながら中学で力のあった生徒が集まっていたし、何よりずば抜けた投手が二人ずつ混じっていた。バスケットの場合、ある程度学力の要る公立高校に背も高くて実績もある人が集まる可能性はほとんどない。普通は、県大会以上の大会に出る機会はまずないと言ってよい。県大会に参加した正直な感想である。
 1泊しかできなかったが、みんなで楽しめたと思う。帰る前に洲本城のある公園に行って、みんなで集合写真(最初の写真↑)を撮った。ただ、試合に出たのはいつも出る生徒だけだったので、同じように練習をして来たのにずっとベンチにいた人たちも楽しめたかどうか。顧問の人も、突然現れた非常勤に顧問を譲った形になっても、果たして楽しめたかどうか。いろんなことを味わった出だしだった。

瀬戸大橋がない頃の淡路島への明石ー岩屋フェリー

洲本市

 次回は、新任研修、か。

つれづれに

 

初めての授業

曽山寺浜の橋の上から見る雨に煙る山側

 思いがけず3ケ月早く授業をすることになった。緊張して前の夜は寝にくかった、初めての授業でうまくしゃべれなかった、などは一切なく、百年も授業をしてきたみたいな顔で授業をしたように思う。3年間嫌々授業を受け、教育実習でも散々な思いをしたが、人からあれこれ言われないのが何よりだった、ような気がする。産休に入る人からはよろしくお願いしますと言われただけだったし、校長も何も言わなかったし、英語科の人ともほとんどしゃべらなかった。4月から新採用という立場も、微妙に作用していた可能性もある。それと、後で聞いてわかったことだが、あまり生徒受けがよくなかった人の代わりだったというのもあったかも知れない。
家でも学校でも疎外感を感じ、敗戦や急なアメリカ化への反発が強く受験勉強には馴染めなかったが、購読や英文法が嫌いというわけでもなかった。普通科1年生の教科書は易しいし、量も多くない。家庭教師を頼まれて、複数の高校生や中学生にも高校のテキストを使っていたから、生徒で授業を受けていた時以来というわけでもなかった。採用試験を受けて感触を確かめ(→「教員採用試験」、5月2日))、1年後の教員試験用に購読(→「購読」、5月5日)と英作文(→「英作文2」、5月7日)、院試用に言語学と文学史(→「大学院入試」、5月10日)の準備もしたので、当面の授業には困らなくて済みそうな感触はあった。
定期試験の問題を作って採点もし、入試の手伝いもした感想は、自分のことを棚に上げてという気もするが、英語が受験の主要教科の割には、全般に出来ない人が多いんやなあ、だった。ただ、小、中、高は同じテキストを使うので教師が工夫する範囲が限られている感じがして、きっと高校の教員は長くは続かないだろうなという予感はした。それに、生きても30くらいまでという感覚はずっと引き摺っていたし、この先どうなるかは全くわからなかった。
一つだけ予想していなかった展開があった。授業に行っている生徒が二人が頻繁に職員室に質問にやって来た。どちらもその学校の中では英語が一番出来る部類の生徒で、ほんの僅かな休み時間ごとによく来れるもんやなという感じがした。教師のところに質問に行くということ自体考えたこともしなかったので、尚更だった。しかし、二人は4月から非常勤でなくなったあとも、よく職員室に来た。卒業したあとも関係は続いた。その後、大学でも同じような展開になるとは、その時は思いもしなかった。
次は、県大会、か。

きのうに続いて今のとろこ雨が降っていないので、地面がさらに乾いてくれそうである。一昨日は一日じゅうの雨で、午後からはかなり荒れるという予報が出ていたが、風もなく雨だけでほんとうに助かった。それまで一年半の間マッサージに通う金曜日には一日も雨の日がなかったが、昨日は2回続きの雨だった。たまに降るなら雨の風情も悪くないと思うが(↓)、長雨が続くと、じめじめとして気が滅入る。雨風の前には、無力である。

曽山寺浜の橋の上から見る雨に煙る海側、幽かに青島が見える

つれづれに

 

3ケ月早めに

 長く続く雨の日が少し途切れた。地面も少しは乾いてくれそうで有難い。気持ちも軽くなる。旧暦では今年は20日まで立夏の時期で、畑はすでに夏野菜の世界である。胡瓜も花をつけ、蔓が伸びて勢いが出始めて来た。(↓)実が生りだすと、二人では食べきれない。お裾分けの心配が出来るのは有難い限りである。オクラも茄子もピーマンも、そろそろ花が咲き出す。今年は、とまとの出来が気になりそうである。

花が咲き始めた胡瓜、次々に実がなりそうである

 産前休暇を取る人の代わりだったが、3ケ月早めに高校の教員になった。卒業していたから経験した思わぬ展開である。土曜日の午前中もまだ授業があった頃で、その女性は1コマ50分の授業を週に15コマ、一日に3コマ弱、一年生の購読と英文法を担当していた。

 高校では授業とホームルーム運営と課外活動が中心らしいが、産休の代わりの非常勤教諭だったので、授業だけだった。煩わしい職員会議や他の会議にも出る必要がないのが何よりだった。

 2年前に出来たばかりの新設高で、4月に新校舎に移転するまで、空いていた近くの県立高校の旧校舎を使っていたようである。全国的に学校の校舎を順次建て替えていた時期で、それまでの2階建ての木造校舎が消えて、同じ様式の4階建てのコンクリート校舎が増えていた。私が高校に入学した時はすでにコンクリートの建物だったと思うが、在学中に木造の講堂が体育館に建て替えられた。講堂は式や集会や体育館にも使われていた。実際にも暗かったが、整列させられて話を聞かされたうえ、冬の寒い時期に朝早くから無理やり裸足で剣道を強いられたので、余計に暗いイメージが付き纏う。前時代を象徴するような遺物に思えた。大学では下駄を履いて学舎の廊下を大きな音を立てながら歩いたりしていたが、木造校舎にはコンクリート製にはないぬくもりがあったような気がする。(→「髭と下駄」、4月19日)宮崎に来た春先に、秋から農学部で非常勤を頼まれていたので、お世話になる英語科の人に会うために教育学部に行ったが、まだ木造校舎だった。そのあとすぐに、コンクリート7階建ての校舎のある今のキャンパスに移転した。

 間借りをしていた校舎と移転予定の新校舎は、私が通った高校の両隣の町にあって、少し距離があった。当時住んでいた家は二つの学校のちょうど真ん中にあって、どちらへも自転車で一時間弱の距離にあった。当時はその辺り一帯が同じ校区で、その学区の生徒はその新設高校にも進学が出来た。すでに県立高校があったので、3番目の普通高校が出来たわけである。人口増に合わせて作られたようで、今はもう1校が加わって、隣の市にある県立高と合わせて普通科5校から選ぶことが出来る。山陽本線の複々線が切れる西明石より西は神戸や大阪に通勤が可能な地域で、ずいぶんと家が建った。小学校の時に引っ越しした時には、裏は堤防まで空き地だったが、結婚して家を出る頃には家が建って、空き地がほとんど消えていた。(→「牛乳配達」、3月30日、→「引っ越しのあと」、4月1日)

近くの川の河川敷

 2学年各6クラスと木造校舎、こじんまりとしてなななかの出だしだった。最初の日に、菓子折りを持って、用務員さんの部屋を訪ねた。
 次回は、初めての授業、か。

つれづれに

街でばったり

 阿蘇から戻ってしばらく経ったころ、街でばったりある人に会った。教育実習の時の教頭である。2週間の教育実習では、担当の元担任からは一週間授業を見ておくように言われ、その後教案も含めて散散嫌な思いをさせられたあと、最後に教頭の強烈な2時間の説教があった。締め括りに少しでも意思表示はしておかないと気が済まなかったし、元々説教されるのは大嫌いで、その時説教をされる謂れもなかったので、一番前に座り顔の真下から、2時間のあいだじっと睨みつけた。(→「教育実習」、5月4日)もう会うこともない、と思っていたが、ある日、ばったりと出逢ってしまったのである。列車から降りて駅前通り(↑)を歩いている時だった。高校は歩いて15分ほどの位置にあり、相手は駅に向かって歩いて来ていたようだ。普段は、知っている人を遠くで見かけると必ず避(よ)ける工夫をするのだが、その時は、まさに真正面からばったりで、避(よ)ける暇がなかった。

「あんた、いまどうしてるねん?」

「今ですか?歩いてますけど。」

「そやないやろ、これからどうすんねん?」

「大学院と高校の採用試験を受けて、採用試験は通ってますけど」

「わし今、校長してんねん。出来たばかりの新設やけど、うち、来(き)ぃ。ええか?ほな、また」

「はあ」

そんな会話だった。顔は覚えてくれていたらしい。咄嗟のことで、「?」と思ったが、どうやら面接だったようである。ちょうど来年度の新採用の教員を探しているところに、たまたま私が視界に飛び込んで来たということだろう。実習で「面倒見た学生」やし、同じ「同窓会」やし、というところだったのか。

12月に入ったある日、その人から電話がかかってきた。

「ひとり英語で産休に入る人がいるんで、あんた、代わりに来てくれるか?」

「産休の代わり、ですか?」

「そや、大丈夫?頼めるか?」

「大丈夫、ですけど」

「頼んだで。ほな」

その人の頭の中では、すでに新年度に採用する教員の一人だったようである。履歴書を見たら既卒になっていたから、産休の代用が可能、そう判断して電話がかかって来たということだろう。一月から産休の人の代わりに、三か月早く高校に行くことになった。

高校のホームページから

 長雨の前に、苦戦して組み立てていたとまとの柵に屋根の部分に透明のビニールシートかぶせ、周りは色付きのシートで囲み、虫よけの網を何とかかぶせた。台風が来ると丸ごと吹き飛ばされてしまう可能性が高いので、杭で補強しとこうと思う。買って来た十本ほどの苗と種からの苗がどれくらい実をつけるか。去年間に合わせの覆いを被せて十数個の実がなったが、温室栽培ではない味がするねと妻が言っていた。今年は、露地の実がどれくらい生るんだろうか。

とまとの柵のつもりが雨よけのミニ温室になってしまった

 次回は、3ケ月早めに、か。