つれづれに

ホームルーム

散歩の途中で摘んで来た紫陽花

 ホームルーム、学級運営は授業と課外活動と合わせて教師の役割で大事なことだそうだ。担任もなく、実質的に課外活動に関係しなければ、授業が中心になるわけである。2年目に担任が解禁になって、ホームルームが人ごとではなくなった。自分が生徒の時は、鬱陶しいと思っても、何もしないでいさえすればよかったので、何もしなかった。元々集団で何かをするのは苦手だ。教務の人が1年次と2年次とも担任だったので、その点ではわりと楽だった。理想とか希望に燃えるタイプではなかったので、干渉もしなかったし、理強いもしなかったからだ。3年の時も、後に指導主事になったらしいので上昇志向はあったみたいだが、踏み込んで来るタイプではなかったので助かった。男女共学なのに男女ともクラスは別々で、普段は話す機会もないので女子クラスと合同で何かしようという時間があった。普段話もしないのですぐに打ち解けるわけもなく、何だかきごちない時間だった。話をした相手が、校長と出逢った辺りのうどん屋さんの娘さんだった。(→「街でばったり」、5月13日)時たま大学の帰りに寄ったりしていたので見かけていたかも知れない。卒業後もときたま店で顔を合わせることがあった。

駅前通り、商店街の右側にうどん屋があった

管理職や学年から学級運営に関して何か言われたことはない。その関連の研修も受けたことはない。週に一度のホームルームは100パーセント担任まかせだった。ホームルームには2種類あった。毎朝始業前に十分ほど出席の確認と連絡事項の伝達などをやるショートホームルームと週に一度のホームルームである。ほとんどの担任は律儀に毎日ショートホームルームのために教室に出かけていたようだが、私は最初だけしか行かず、余程のことがない限り行かなかった。教務の人が担任の時もほとんど朝は顔を出さなかったので、その点は気が楽だった。

週に一度のホームルームは、一年目可もなく不可もなくで終わった。無理強いしたわけではないが、リーダー格の生徒がいなかったので、盛り上がりにかけていたように思う。何かについての話し合いもあったが、あまり意見を言う生徒もいなかった。ただ、自分がホームルーム自体に懐疑的で、無理に時間を取らなくてもいいと思っていたので、私の方から積極的には動くことはなかった。2年生と3年生でクラスが変わり、リーダー格が率先して仕切ってくれたので、ホームルームがあってもええなと思えたのは幸いである。詳細はホームルームの続編で、か。

家の庭の南東に咲き始めている紫陽花

 次は、金芝河(きむじは)さん、か。最近、新聞で訃報を読んだ。グギさんが評論『作家、その政治とのかかわり』で英語訳しているその人の詩を日本語訳したことがあるくらいで、詳しくはないが、詩を理解出来ればと歴史の本も読んだりしたので、書いてみたい。時間がかかって、明日に間に合わないかも知れない。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』の表紙絵

つれづれに

 

学年の方針

移転先の新校舎

 主任、担任10名、学年補佐の12人で、学年の方針を決めた。学年補佐は担任が休暇などでいない時にホームルームに行ったり、会議で議事録を取ったりする役目で、私もよくお世話になった。国語科の女性で、新任か2、3年目だった気がする。当たり前にあることだと思うが、最初に学年の方針を決めるとは考えたこともなかった。学年主任以外は20代か30代の前半で、かなり若い人たちの集団である。若い分、圧倒されるほどの熱気があった。自分からは聞くことはないので本人からか、聞こえて来た範囲内でしかわからないが、ほとんど地元では一番の進学校を出て、それなりの大学に進学しているようだった。さすがに東大、京大はいなかったが、阪大の院が二人、広島が二人、そこまでは本人から聞いた。どうして阪大の院を出て高校の教師なんやろと思ったが、担当の教授と折り合いが悪くて、と言っていたような気がする。他の学年には名大もいた。組合に入って精力的な人で、生徒にも評判がよく、丁寧な言葉遣いだった。管理職には煙たがられて、工業高校に飛ばされたと聞く。工業高校は組合に熱心な人、出来ない人、逆らう人の吹き溜まりです、と同じように飛ばされて「同僚」だった人からのたよりに書いてあった。高校に長くいたら、管理職に従わない私は真っ先に飛ばされていたのは確実である。短い間ながら飛ばされずに済んだのは、校長「てっちゃん」のおかげである。後に共産党から神戸市長選に出ているのをウェブで見かけた。当選しなかったが、公用車やコロナ騒動で不評を買った知事に比べたら、月とすっぽん、県民のためになったと思うが、雁字搦めの地盤を崩すのは難しいらしい。一人国語の人が山梨だと言っていた。ほっそりとしてひょろひょろで、風貌が太宰に似ていて、斜に構えていた。一番わかり合えそうな気がしたが、なぜか深く話したことはない。学年の方針を決めるときも、多数派の優等生の流れに沿って動いていたように思う。受験勉強もしなかった、大学で英語もせずに卒業した、母親の借金が採用試験の直接の動機、そんな私とは大違いである。
高校は地元で3番目に出来た進学校、すでに卒業生の進学先、就職先の結果も出ている。詳しくは知らなかったが、会議ではこの学校は地方の国立大学に一人、関学に一人くらいのレベルだから、と誰かが言っていた。それが出発点、ほとんどが地元の進学校出身、会議の行き着いた先は「関学に10人、どう?」だった。私には私学は範疇外だったが、まわりがたくさん行っていたので、配点くらいは聞いていた。文系で英語200、国語150、社会一教科100だったらしい。「英語で決まりそうやから、英語に力を入れたらどうやろ」、そんな流れになった。「普通にやったら、関学に一人しか入れないんやから、英語の出来るのを集めてがんがんやれば、10人くらいは関学に行けるんちゃうやろか。学校にも生徒にも悪い話やないんやない?」そんな発言が続く。若いだけのことはある、体力も熱意もあって、会議は延々と続いた。疲れ知らずである。学年主任に疲れの色が滲んでいたが、水を差せる立場でもない。最後に、私の方に矛先が回ってきた。「入学試験の英語の点数でクラス分けをして、成績のいいクラスをたまさんが持ってがんがんやる、それでどうやろ?」どうやろと言われても、大体、受験勉強してへんしなあ。関学は私学やろ、大体考えたこともあらへんし。しかし、そのかすかな声は、進学校の優等生の集団には届かなかったようである。多勢に無勢、押し切られてしまった。「関学に10人」、という希望の星になってしまったのである。どないすんねん。
小満の時期を象徴する言葉として、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)、てんとう虫や辣韮(らっきょう)、桜坊(さくらんぼう)潮干狩り(しおひがり)などがあるらしいが、野菜を作るようになって、てんとう虫の見方が変わってしまった。茄子の天敵だった。かわいらしいてんとう虫がつくと、数日で茄子の葉っぱが筋だけになって、枯れたような茶色に変わり果ててしまう。希釈した酢を撒いても、いなくなってくれない。茄子かてんとう虫かの選択を迫られるとは思ってもみなかった。

すでにてんとう虫は食われた形跡がある茄子

 次は、ホームルーム、か。

つれづれに

担任

移転先の新校舎

 2年目に担任が解禁になった。校長と教務の人に、あいつ、そろそろ大丈夫ちゃうやろか、と思えてもらえたのか。最初から担任があるものと考えていたので当初は少しもやもやとしていたが、一年間じっくりと学校運営の要である教務の立場から全体を見るようになったのは、結果的には校長の思惑通りだったかも知れない。
担任を決めるのは名目上は校長と教頭の役目だが、実際に人を集めて学年団を作るのは校長が承認した学年主任の役割のようだった。3年生は英語の人、2年生は化学の人、1年生はもう一人の英語の人が学年主任だった。国語と英語と数学が主要教科なので、最初にその教科の人を取り合うらしい。あの人はそっちに譲るから、この人は是非こっちにくれ、という具合である。学生数に応じて教員数が決まるから、英数国は大体学年専用に二人は必要なようだった。一人15コマくらいだったので、その二人が10クラスを半々に持つのが普通だった。購読、英作文、英文法のどの科目を持つかは、最初に英語科全員が集まって決めていた。1年と3年は学年主任が英語だから、私の学年もあと一人が要るらしかった。3年の英語は中堅の人、2年は新任研修にいっしょに行った人が持ち上がりで、あとは私ということになったようである。2年の学年主任が私を途中からでも強引入れたかったと聞く。その人は野球に熱心で顧問もやり、県大会が決まった時は真っ先に嬉しそうに喜んでくれた。生徒からの声も聴いていたようだ。しかしすでにその学年には一人いたし、1年の学年主任の声が大きかったのだろう。その学年主任は一度職員室で大声で怒鳴り返したことがある人で、学年でも学科でも顔を合わせるはめになった。(→「懇親会」、5月19日)管理職や学年主任が担任を決める、考えたら当たり前のことだが、考えたこともなかったことの一つである。
生徒とは一人一人と向き合うようにするのだが、学年という一つの塊としての傾向があるようだ。しっくりくるかどうかなのだが、いっしょにいて楽しい、授業に楽しく行ける、廊下などで会った時に自然に笑顔が出るなど、どうもこちらの行動に対しての反応と大きく関係しているらしい。
非常勤3ヶ月の時の3年生、新任一年目の2年生と担任を持つ1年生と担当したわけだが、創立4年目なので、すでに卒業生も出し、4期生の担任だったということになる。何故か学年との相性というものがある。まるで学年が一つの人格を持っているかのようだ。担任を持った一つ上の学年とは相性がよかった気がする。英作文の時間に授業を早く済ませて和歌を詠んで発表してもらったことがある。私も楽しかったが、みんなも楽しんでいるようだった。作った歌を進んで次々に詠んでくれた。45年ほど経った今でも、覚えている歌があるくらいだ。

「学校の帰りを急ぐ足元になでしこ一輪ふと足を止め」

「小島けい2004年私製花カレンダー」9月

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

発表してもらったとき、ええなあと感心してしまった。細やかな感性が伝わって来て、嬉しくなった。
英作文とは関わりないのだが、いっしょに何かをするのは楽しかった。最初に先生とは呼ばんといてや、と言ったから、たまさんと呼ばれるようになっていた。四階の窓から「たまさ~~~ん」と何人かに大声で呼ばれたり、職員会議の時に帰りの自転車の上から投げキッスをされたこともある。立って、返すしかなかった。
今日はきれいに晴れて、地面も乾いてくれそうでありがたい。旧暦では昨日21日から小満の時期に入り、 6月6日の芒種 まで期間が続く。あらゆる生命が満ち満ちて、太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節らしい。夏野菜も勢いをまして来た。(↓)

初生りがまじかの胡瓜

 着物が主流の時は絹織物用に養蚕が盛んだったので、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)という言葉もこの時期を象徴する言葉として生きていたようである。てんとう虫や辣韮(らっきょう)、桜坊(さくらんぼう)潮干狩り(しおひがり)などもこの時期を指す言葉らしい。そう言えば、小学校の時に高砂の浜に潮干狩りに行ったかすかな記憶がある。その後、鐘化、鐘紡、三菱製紙など、工業化の流れのなかで浜がどろどろになって、潮干狩りどころではなくなってしまった。今はヘドロを浚渫して、少し海水がきれいになって海浜公園まで出来ているらしい。

高砂海浜公園

 次は、学年の方針、か。

つれづれに

教室で

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 教室で過ごす時間が中心の生活になった。生徒として座って授業を受けていた時も、教育実習で授業の見学を言われて見ていた時も、教室にいるのが嫌で堪らなかったが、教壇で授業をするのは結構楽しかった。誰からもあれこれ言われないのが一番だったが、どうも性(しょう)にあっていたようである。職員室を見ていると、どうも授業や生徒といっしょにやって行くのに向いていないと思われる人が多かった。一番欠けていたと思えるのは、横柄なのである。自分が人に何かを教えられると信じて疑わない人が多かった。人が人に何を教えられるのか、そんなことを意識したこともないような人もいた。そういうが、生徒を大人として見ていない場合が多かったように思う。生徒指導の人などは、特にひどかった。私が生徒の時に感じたのと同じ種類の違和感を教師になっても感じているように思えた。それまでそれほど何かをしたわけでもないが、何かをし始めるとやればやるほど自分の無力を知る。英語を少し齧っただけだが、それくらいで人に何かが教えられるとは思えない。しかし、教員になってみると勘違いでもしたように、大きな顔をして、教えてる気になっている人が多いように思えた。そんな人が教師だと、接する時間が多いだけに、生徒には災難である。この思いは自分が生徒の時も教師になってからも、その後数十年授業をした来ても、基本的にはかわっていないと思う。
 生徒に大人として接することが出来ない人は、相手は生徒の中の一人で、その人として見ていないのではないか。教室にいて教壇側から見るとよくわかる、自分と生徒全体という構図で考えがちになる。しかしこちらは一人でも、相手は人によって違う。反応もそれぞれである。もちろん一人一人に対応するのは時間的に難しいが、出来る限り一人一人と向き合う姿勢は持ち続けないといけない。一対多で接すれば、立場が元々教師の側の方が強いのだから、楽には決まっているが、その姿勢を忘れたら、一番大事なことを見落としてしまう。抽象的な羅列になっているが、一対多の中でも可能な限り一対一に持ち込む可能性を追い続けなければいけないと常に自分に言い聞かせ続けるしかない。一年目、二年目辺りに感じたかこの感覚は、その後もずっと心の真ん中あたりに居座り続けた。

 柿の小さな実がたくさん落ちている。150~200個近くありそうである。(↓)去年生ったのが7つ、干し柿に出来たのが6つと大違いだ。隔年の生り年に実際を、まざまざと見せつけられているようだ。樹にはまだ数百個も残っていて、台風や雨風でやられても、百個くらいは残りそうである。一時取り入れるのも洗うのも剥くのもきつく感じられて気持ちも重たかったが、今年は大丈夫そうである。干して少しは保存が可能とはいえ、妻はたくさん食べられないし、一人では食べきれないので、お裾分けするだけだが、好きな人もいるので、送る気持ちは保てそうである。
 次は、担任、か。