会議
移転先の新校舎
新校舎に移転して3学年が揃い、新学期が始まった。各学年10クラス、1クラス45人、総数1350人の規模だった。1クラス55人だった私の高校の時に比べて、1クラス10人が減っていたわけである。3番目に作られた高校にも就職クラスはなかったから、ずいぶんと進学する人が増えていたわけである。ただ、理系の女子は数えるほどでほとんどが文系だった。就職する人も少しいたが、短大への進学が一番多かった。通える範囲内の神戸や西宮には短大がたくさんあった。新任研修から戻って職員室に入ったとたんに、この先長くなさそう、もって2年かなとは思ったが、授業が始まると毎日がバタバタで、なかなか辞める踏ん切りもつかないまま、月日が経っていった。非常勤の3ヶ月は授業と好きなバスケットの練習に付き合うだけでよかったが、授業、ホームルーム、課外活動の三つが中心の教諭の毎日が始まった、もっとも、いきなり担任を持たせると危険と判断されたようでホームルームはなかったが、代わりに教務の中で、校務の全体をながめることになった。
新たに加わったのは会議である。と言っても月に一回水曜日にある定例職員会議と英語科の会議くらいだった。職員会議の前に議案を練る校務運営委員会があるのを知ったのはずいぶん後のことである。学校自体に余り関心がなかったからだろう。幸い、出来る教務の人のお陰で、毎月の会議は短くて済んだ。朝晩一便だが、近くの駅と学校を結ぶバスが毎日出ており、それを利用しているので、5時発のバスの時間に合わせて職員会議もそれまでに終わっていたからである。今から思えば、大抵は文書を回せば済むような内容が多かったから、年に数回、入試の合否判定、成績の承認、退学や停学の議決など、どうしても全員の承認が要る項目だけを審議して決を取ればよかったと思う。せいぜい年に数回で済む話である。英語科の会議は必要な時だけだったが、一度だけ大声で怒鳴り返した人が主任だったので、腹を立てることが多かった。退職したあと「あの頃、たまさん、会議が終わって部屋から出て来て、そこらじゅうを蹴りまくっていましたよねえ」と言われたことがあるから、血気盛んだったようである。
ラ・グーマ(小島けい画):
最初の科研費はこの人でもらった→「 科学研究費 1」(2020年)
科学研究費の最終報告書を書いた。20日が締め切りで、ウェブで報告しないといけないので気が重かったが研究協力課の人の助けを借りて何とか完了した。定年退職後の科研費の申請は書類が面倒で渋っていたが、研究協力課の人任せで書類を出した。個人の場合は最高500万でその7掛け程度が交付される場合が多いのだが、申請額などを決めてもらって効果てきめん、4年で400万を超えたのは初めてである。応募枠は文学。人件費と旅費が大半で、運営交付金が削られて、削られて、今や研究費が雀の涙ほどだったので大いに助かった。ただ、最後の2年間はコロナ騒動で移動が出来ずに旅費を使えなかった。授業は去年の4月からやっていないが、この3月まで科研費が残っていたので、研究室にはときたま出かけていた。今は研究室がずいぶんと遠くなった。学術振興会から修正依頼が来なければ、一件落着のようである。名古屋の医療専門職大学に内定していたので、あと2回ほど、エイズの小説と奴隷体験記を軸に科研費が取れると思っていたが、忖度政治のあおりを受けて風向きが変わり、機会は来ないかも知れない。戦争の時ほどではないが、いつも国の決定に右往左往である。国家公務員とはそういうものだろう。書類を書くのも、ウェブで申請するのも、しなくて済むのが何より有難い。この先、売れると出版社が判断するかどうかだが、書き溜めておくモードに入っているので、授業も、科研費の申請も億劫になって来ている。こちらも、先行きが極めて不透明である。
修士論文はこの人(小島けい画)で書いた→
“Richard Wright and His World”
次は、教室で、か。