つれづれに

つれづれに:今日もまた

今日もまた、歩くことが出来たのは有難いことである。やはり明け方に起きてしまい、原稿のチェックを始めたら、終わるまでやめられなかった。おかげで、やりかけのチェックは終わり、訂正箇所を清書して、また新たに始める準備まで出来た。

今日は朝ごはんを食べ、お風呂の湯をかえて、入った。もちろん、どくだみを湯に浮かべた。熱い湯にしばらく浸かっていたので、汗がなかなか引かず、その間に清書を終えた。清書といっても、原稿を修正して印刷するのだが。用紙の表と裏を使い、ページによって後トレイから印刷するのかカセットからなのかを選択してから印刷するので、結構手間と時間がかかる。汗が引いた頃に、でかけた。

幸い曇り空だったので助かった。昨日とほぼ同じコースで、昨日は撮れなかったどくだみの写真など何枚かを撮って来た。同じように散歩をしている人から「いい写真がとれましたか?」と聞かれて「ええ、まあ‥‥」と答えた。加江田の山の写真(↑)を道路の中央線辺りから撮ろうとして、車に気を遣いながら何度も道路に入ったので、少し離れた所にいた人に追いつかれてしまったのである。出来れば会うのを避けようと、素早く階段をのぼりかけたが「そや、今日は階段の数を数えるんやった」と思い出して、登った場所から階段(↓)を下りる時に、下からのぼって来る人に聞かれたというわけである。すんなり顔を合わせれば済むだけの話だが、生来、人と会いそうになると避ける癖がある。学生紛争があった時は、全共闘の人たちと無精髭に下駄履きという風貌が似通っているというだけで、警官から何度も職務質問を受けた。通り過ぎたパトカーが戻って来て質問されたこともある。もちろん、警官は避けるが、そういう意味ではなくて、人がいると、本能的に避(よ)けようとするのである。今回のことは、その結果である。

「しかし、今はそう後ろめたいこともないのに、なぜ、避(よ)けようとするんやろ?」

 家の北側の通路のどくだみ、半分ほどに減ってしまった

 昨日見つけた木花神社のどくだみの写真を撮った。戦没者を祀ってある石塔群の西側の空き地に生えている。他の場所は草を刈りこんでいるところが多いので、残っているのがこの辺だけというのもある。

高台の公園には長い階段が2箇所あって、一つは南西の入り口にある。声を掛けられた階段である。もう一つは木花神社にある。今日数えてみたら、公園のは146段(↑)だった。木花神社の階段は99段(↓)、同じ高台でも公園の方が高いということになる。木花神社、法満寺跡、木花中学跡、民家などが元からあって、大学用の学園木花台を造成したときに、元の高台より高い位置に公園を作ったということだろう。

20何段目かで止まって写真を撮った

 昨日見つけた空き地(↓)のどくだみを今日も採った。2日分である。切られた樹を移動させている時に、左手に木片が突き刺さって痛い思いをした。Tシャツの上にYシャツを着て、手袋をはめて作業をしたが、怪我をしてしまった。

昨日撮った黄色いハイビスカスの蕾が咲いていた。「一日で咲くんやなあ」と感心しながらシャッターを切った。

昨日の写真

 どくだみを見つけた空き地はいつもの散歩道より少し東側にあるので、全体としては普段の散歩よりも時間がかかった。今日もまた歩くことができた。有難いことである。どくだみの空き地からは木花駅を通って戻ったが、駅が工事中だった。昨日は屋根のスレートを剥がす作業をしていたが、今日はスレートを敷く準備が出来たようだった。

「採算の取れない無人駅を改装して費用対効果が見込めるんかいな?ま、僕が心配することやあらへんけど。これで讀賣巨人軍の派手な宣伝を見なくて済むな」

つれづれに

つれづれに:今日も歩けた

高台の公園に咲いている百日紅

 明け方に雨が降り始めた。少し事情があって、ずいぶんと不規則な生活になっているので、その時間に、降り始めた音が聞えたというわけである。無理をしているわけではないが、無理やり寝ても眠れないときは、原稿のチェックをすることもある。大抵はしばらくすると、自然に眠くなってくる。何回も見直したが、あと5回ほど見直してから出そう思っている。20日過ぎに出せればいいが、何事も予定通りにはいかない。400字詰原稿用紙で400枚近い原稿なので、一日で一気に読めたためしがない。

この雨は有難かった。今の暑さだと一日で畑もからからになってしまうからである。「そろそろ水を撒(ま)かないと‥‥」と思っていたところだったので、余計に有難かった。

今日は歩けた。これだけ暑いと、→「暑中」の昼間に出歩くのは考えもので、体調がよくなければ、熱中症にやられる確率が高い。行くとしても、陽射しが強くなる前か、夕方陽が沈み始める頃である。

普段通りに歩けるのはほんとうに有難い。血液が充分な栄養を体のすみずみまで運ぶためには、色々な種類をバランスよく食べる必要がある。酸素を充分に送るためには、鼻や口から十分に空気を吸い、毛細血管が作られるように運動をする必要もある。おそらくちゃんとしたリズムで寝ている時に酸素が最も効率よく取り込まれていると感じるので、充分に寝る必要もある。若い時は少々運動をやり過ぎても、寝不足でも何とかなったのだが、年を取るとそうも行かない。走るのが好きでも、走るよりも歩くのを優先している。運動量が多すぎると、却って体に負担がかかり過ぎて恢復しなくなる。年々その塩梅(あんばい)を加減するのも難しくなってきている。それだけに、今日、一日でも歩けたのは有難い。歩けたことに感謝する。

高台の公園北出口

 今朝は朝食前に、スポーツドリンクを持って出かけた。公園から木花神社のコースを1時間ほど歩いた。雨雲レーダーを見てみたら、しばらく雨は降らないみたいだったので、傘を持って出かけた。途中で陽が出て来たので、雨傘を日傘にして歩いた。途中、帰ってから湯に浮かべるためのどくだみも摘んできた。予想通り、木花神社(↓)の境内にもどくだみの群生を見つけた。あそこなら気にしないで摘んで持って帰れそうである。

高台の公園の出口近くの百日紅が、咲き始めの時機の勢いがあった。

 農産物店ですっかり馴染(なじみ)みになった建設会社の会長さんが丹精込めて育てている黄色いハイビスカスも咲き始めた。この前「僕24年生まれですけど‥‥」と言ったら「23年です」と言っていた。団塊の世代である。去年花が散ってからだいぶ刈り込んだようだ。その分、新芽が延びて、ずいぶんたくさん蕾(↓)をつけている。霜の降りる頃まで、次から次へと咲き続ける。

 赤の→「ハイビスカス」は去年咲いていた場所を何個所か確かめたが、まだのようである。

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 買い物があったので、昼からカメラを持って百日紅と黄色いハイビスカス(↓)の写真を撮って来た。また別の場所でどくだみを見つけて、明日のお風呂用の分を取って来た。今まで気づかなかった空き地で、切った樹の下敷きになっているどくだみもあった。わりとたくさんあったので、道路近くの分で、切られた樹の側や間から伸びている分を20本ほど摘んだ。比較的きれいだった。水洗いして、冷蔵庫に入れておくとしよう。

つれづれに

つれづれに:暑い最中に

 すっかり諦めて生きても30くらいまでだろうと考える身には、余生は永過ぎた。小さい頃から食べるのも自分で何とかしないといけない毎日が続くと、食べること自体も億劫になる。体にいいものをという選択肢は元より持てなかった。考えたこともない。食べるだけで精一杯だったからである。きちんと大学に通い、卒業して就職すると考えたこともなかった。もちろん、結婚も考えたことがなかった。

当時は木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)の1年生の母親に頼まれた

 受験勉強は出来なかったが、大学に行かないという選択肢はなかった。大学の学費が月1000円だったから通えたのだが、生きていると何が起こるかわからないものである。受験に馴染(なじ)めず行き先も選べなかった私が→「家庭教師」を頼まれた(↑)のだから。前期も後期も地方の国立大を受けたのは、無意識に家を出るつもりだったんだろう。しかし、どの教科もしないで受けても、通るはずもなかった。間違って英語でもしていれば、話は変わったかも知れない。結局、それでも→「夜間課程」なら入れる所(↓)があった。

キャンパス全景(大学HPから)

 家庭教師を頼まれて少し経済的に余裕が出たのは確かである。毎日朝早く決まった時間に起きる必要がある→「牛乳配達」に比べれば、楽なものである。何より、時間的に融通が利く。大学では時間だけはあるのだから、その意味ではだいぶ気が楽になったのかも知れない。讀賣新聞の夕刊に連載されていた立原正秋の『冬の旅』を読んでから→「古本屋」で手当たり次第に本を買って読み始めた。自分の中に書きたい衝動があるのを意識するようになった。

よく通った古本屋のあった神戸元町の高架下

 突然出かけるようにもなった。意識にはのぼらないが、芯辺りに熱がこもって、その衝動を抑えられない感じだった。諦めが強くなって、それまでの常識の殻が破れて行くにつれて、その衝動を抑えきれなくなって行ったのかも知れない。→「暑中」に風も通らないトタン屋根の6畳にいると、なぜか一番暑い8月の初旬に遠くまで自転車で行きたくなった。計画もなく、取り敢えず中国山脈の真ん中辺りにある→「生野峠」(↓)を自転車で越えることにした。瀬戸内海側に住んでいたので、本州を南北に縦断して、日本海側に行ったわけである。

夏の暑い最中に、自転車で生野峠を越えた。それだけのことだった。ずいぶんと前のことなので、詳細は覚えていないが、足の裏全体で踏ん張れるように桐下駄を履いて、自転車から一度も降りずに生野峠を越えた、鳥取砂丘で寝袋の中で寝たとき、一晩中一匹の蚊に悩まされた、山陰側の海岸沿いの坂道はきつかったが、そこでも降りずに大声を出しながらペダルを踏んだ。印象に残っているのは、それくらいである。

もうすぐすると、何十年か前のその時と同じ季節になる。あの暑い最中に、よく熱中症にやられなかったものである。

香住海岸

つれづれに

つれづれに:暑中

「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」8月

 →「のうぜん葛」を今年初めて見かけてから3週間ほどになる。去年初めて「この暑い最中(さなか)に咲く花もあるんやなあ」としみじみ感じた花の一つである。もう一つが百日紅(さるすべり)で、淡いピンクか濃い目のピンクの花をつける。去年のお盆頃に暑い中で咲く花を意識したときは、百日紅とハイビスカスがたくさん咲いていた。去年は気づかなかったが、→「ハイビスカス」(↓)が咲き出すのはもう少しあとのようだ。去年見かけた場所には、どこもまだ咲いていない。のうぜん葛は早くに花が終わってしまうが、百日紅とハイビスカスは結構遅くまで咲いている。霜が降りる頃に枯れて葉も落ちるようだ。

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 「暑中見舞い」などで暑中という言葉はよく聞いていたが、今年初めて旧暦の小暑と大暑の期間を指す言葉だと知った。一年で一番暑い季節である。だから、暑中お見舞い申し上げますと葉書を書いてご機嫌伺いをするわけだ。今年は夜と昼の長さが同じになる夏至(げし)を過ぎてから15日目に小暑(しょうしょ)が始まった。小暑は24節気の第12節で、夏の節気の5番目である。そのあと、第12節の大暑(たいしょ、7月23日~8月7日)と続く。あと3週間ほどで暑中が終わることになる。その頃には、少なくとも朝晩は過ごし易くなるだろう。

一昨年と去年で1階の1台と2階の3台のエアコンを新しくした。業者に来てもらうのは気も遣うし億劫だが、工事をしてもらってよかったと毎日しみじみと感じている。年を取った私たちもそうだが、15歳と16歳(↓)の3匹の猫にも、猛暑は生き死にに関わるからである。

結婚を機に家を出たが、それまで住んでいた家は夏は暑く、冬は寒かった。6畳と4畳半2間の元市営住宅に家族6人で引っ越しをした。それまではトタン屋根の同じく6畳と4畳半2間に6人で暮らしていた。小学校の3年生の時だったから、弟2人はまだ幼稚園にも行ってなかった。周りの長屋に父方の親戚が集まって住んでいたようで、暗い、穢い、狭いイメージのスラムのようなところだった。貧乏な人たちは自分たちが貧しいという自覚がない。それが一番嫌だった。いい思い出がない。

その家の近くの川の河川敷(ウェブから)

 スラムのような家に比べて、南と東側に少し庭もあり、狭かったが風通しはよく、明るかった。親戚の姿が視界から消えたのも大きかったかも知れない。裏は少し離れた川の堤防まで畑か空き地で、開放感があった。しばらくして姉と一回り違いの妹が生まれて、兄弟が5人になった。その頃には、すでに両親の関係は壊れていて、どちらもあまり家にいなかった。6畳と4畳半2間は7人には、さすがに狭すぎた。中学校の頃に建て増しされて、ブロックや粗末な建材で、6畳の倉庫と4畳半を先に拵(こしら)え、その上に6畳2部屋と4畳半の部屋を継ぎ足した。私は倉庫の上の6畳に住んだ。北と東に大きな窓はあったが、南側が倉庫からの2階への階段で入り口部分が狭く、風通しが悪かった。風が通らずトタン屋根だったので、夏は暑く、冬は寒かったのである。

家から見えた紡績工場(ウェブから)

 ことに暑中の暑さはこたえた。頼まれて何軒かの→「家庭教師」に出かけていたが、家庭教師にお金を割ける家には、エアコンがついている。その快適さと、自分の部屋の暑さとの間を往復すると、余計に暑さがこたえた。台風で一度、屋根が飛んだ。激しかった雨風が急に止んだと思ったら、急に明るくた。台風の目に入って、トタン屋根が飛んだのである。それあといばらくしてまた雨風が激しくなった。もちろん、部屋は水浸しだった。すべてを諦めたつもりで、生きても30くらいまでやろと思いながら生きてはいたが、毎日生きるだけでも大変だった。

30くらいまでやろ、どころかすでに70をとうに過ぎている。碌(ろく)なこともせずに、生き在(ながら)えてしまった。

引っ越しの時はこの橋を渡っている(ウェブから)