つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑦ケニア

宮崎市民の森花菖蒲園

 妻が宮崎に来た時に、最初に描いた花が花菖蒲である。宮明神宮の北辺りにに借家があったので、市民の森公園(↑)が近くで自転車で行ける距離だった。引っ越ししてしばらくはばたばたしていたが、落ち着いた頃に家族4人が自転車で行ったのが市民の森公園で、花菖蒲が盛りだった。そのまま妻は毎日通い出した。その頃、私が雑誌に書かせてもらったいた出版社の人から装画を描いてみませんかと誘われた。そして、花菖蒲が表紙絵になった。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 比較編年史6回目、ケニアの1949年である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを、6回目→「つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ」はコンゴについて書いた。今回は1949年の最終回である。

コンゴと同様にケニアについては、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は大雑把なケニアの歴史について書いておきたい。

 ケニアの独立は1963年だが、ヨーロッパ人と戦った歴史は長い。1921年にギクユ青年協会が設立され、政治運動が始まっている。その後も政治運動が続き、50年代にケニア土地自由軍が植民地政府に対してイギリスへの抵抗運動を始めたが敗北して、ケニヤッタも投獄されている。しかし、その運動を契機に独立の機運が高まり、1963年に英連邦王国として独立、翌1964年に共和制へ移行してケニア共和国が成立した。従って、ケニアの1948年はケニア土地自由軍が抵抗運動を始める前の年だったわけである。

 ヨーロッパ人の侵略が始まる前のケニアの歴史である。

アフリカ東海岸には豊かな港町がいくつもあった。古くからギリシャやローマやアラビアとも行き来があり、高度な航海術などの影響も受けていた。

西アフリカの黄金を通貨にアフリカ大陸には黄金の交易網張り巡らされていた。交易網はアフリカ内陸部をカバーして、大西洋から中国沿岸部にまで及んでいた。その一大交易網の中心がエジプトの旧カイロである。8世紀半ばにイスラム教徒に征服されたエジプトは、君主の下でイスラム世界の中心になっていった。10世紀にファーティマ朝がカイロを都にしてからは、目覚ましい繁栄ぶりを見せた。繁栄の元は交易で、世界の半分を取り仕切り、国際都市となっていった。北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥンは14世紀末のカイロを『カイロは全宇宙の都、世界の園、イスラムの入り口、王者の玉座だ。学識という月の光に照らされた城と王宮の都市、それがカイロだ』と讃えている。

 商取引を支え、繁栄を支えたのは、極めて質の高い硬貨で、アフリカの黄金で出来ていた。北西アフリカで造られたベルベル人の高価ディナールは600年もの間、最も信用度の高だった。そのうち、ヨーロッパも暗黒時代を抜け出し、アフリカから黄金を輸入できるようになり、貨幣価値は安定した。それとともに、ヨーロッパは通称時代の基礎を固めて行く。

当時のカイロには世界中の交易品が集まった。アフリカ東海岸や南部の奥地とカイロを繋いだのは、ペルシャ人とアフリカ人の混血のスワヒリ商人である。元々東海岸には紀元前から、古代ギリシャ人やローマ人、アラブ人が切り拓いた海上ルートがあり、インドや中国にまで延びていた。アラブ人はアフリカ人の中に溶け込み、独自のスワヒリ人とスワヒリ都市が生まれた。

 スワヒリ都市でもモンバサやラム島、ソファラやキルワ島などは特に活気があった。モンバサは今も有名なケニアの港町で、ソファラはキルワ島の対岸にある港町である。ソファラは南部アフリカの入り口で、ジンバブエなどの内陸部から黄金が集まっていた。キルワ島には遠くから商人が集まって、大層賑わっていた。1980年代の初めに島に渡り、今は廃墟になっている宮殿への階段を上りながら、デヴィドソンが当時の様子を語っている。

 「キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。彼らも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その10世紀末から16世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登っていったんです。そして、一番てっぺんに達したとき、眼の前に広がったのは活気と華やかさに溢れた、それはもう夢のような美しい街でした」

10世紀に歴史家アル・マスーディーがきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。マスーディーはインド洋の様子を次のように書き残している。
「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです」

高い航海術は、高度な航海術を持ったギリシャやローマから学んだものを、アフリカ東海岸の人たちが更に改良したものだろう。

 しかし、その豊かな街はポルトガルによって破壊されて行く。

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ

花菖蒲の季節となった(小島けい画)

 比較編年史6回目である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを書いた。今回はコンゴについてである。

コンゴについて、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は植民地争奪戦に巻き込まれる前の状況について書いておきたい。

 アフリカで最初に独立したガーナに比べて、コンゴの独立への動きは遅かった。動き始めたのは1950年代後半である。その頃に、2つのグループが活動を始めている。1つはベルギーが来る前まで権力を持っていた指導者層のグループで、もう1つは民衆を中心にしたグループである。最初コンゴはベルギーのレオポルド2世個人の植民地だった。嘘のような話だが、アフリカ争奪戦で世界大戦を避けるために開かれたベルリン会議で米仏にアメリカまで加わって決議した。その後、ベルギーの植民地になった。私が生まれた1949年はベルギー領だったわけである。ただ、独立へ動き出したのが1950年代後半なので、それまでは比較して書くほどの大きな出来事はあまりない。従ってその期間は、その後のコンゴの状況を理解し易いように、植民地時代と独立への動きなどを分けて書こうと思う。

 レオポルゴ2世は生涯アフリカの地を踏んでいない。実際にアフリカで動いたのは王の傭兵である。王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵で軍隊を組織した。王室から多くの予算を拠出したので、傭兵は中央アフリカでは最強の軍隊となった

「アフリカシリーズ」から

 奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こしたヨーロッパ社会の産業化は急速に進んだ。原材料と市場の需要が高まって、各国は一番近いアフリカで植民地争奪戦を始めた。争奪戦は熾烈を極め、世界大戦の懸念が高まった。それで、植民地の取り分を決めるために主催したのは、1884年11月から翌年の2月までドイツ帝国の首都べルリンで会議を開いた。参加したのは欧米諸国とオスマン帝国を含む14ケ国である。すでに植民地化は進んでいたわけだから、取り分の再確認の色彩が強かった。地図上で国境線を引いたので、後の紛争の元にもなったが、手付かずのコンゴをどうするかを決める必要があった。

 ここでしゃしゃり出て来たのがアメリカである。イギリスはこれ以上植民地を増やす余裕はないが、競争相手のフランスには取られたくない。ベルギーは歴史の浅い経済力のない小国、イギリスもフランスもベルギーに譲るならお互いに安全と計算した。アメリカは増え続けるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返せという声が強くなっていて、その解決策としてコンゴに目をつけた。下院議長がコンゴに牧師2名を送り込んで、本格的に候補地探しをする法案を通して、ベルリン会議でベルギー支持の条件として提出した。イギリスとフランスと米の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が承認された、というわけである。

アメリカはアフリカ人を送り返す候補地として、プレスビテリアン教会から黒人と白人の牧師を2名、コンゴに派遣した。派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記している。まだ王の傭兵が本格的に活動をし始める前の様子である。

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから4つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……」

アメリカ人の書いた『レオポルド王の亡霊』

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑤南アフリカ

薊(小島けい)

 比較編年史5回目である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを書いた。今回は南アフリカについてである。

南アフリカについては書くことがたくさんある。予期せず時間をかけてしまったということもあるが、人種差別をスローガンにしたアパルトヘイト政権が1948年に出来てしまったからでもある。1949年はその次の年だから、どこまで書くかだろう。

デヴィドスン(↓)は「アフリカシリーズ」の中で「アフリカはどこより酷い目に遭ってきた」と言っていたが、その中でも南アフリカとコンゴは酷い目にあってきた。鉱物資源が豊富だったからだ。最初に来たオランダ人と次に来たイギリス人だけでなく、第2次大戦後はアメリカと、そのアメリカの腰巾着としてくっついて来た日本などのせいで、アパルトヘイト政権は延命した。表向きはアフリカ人政権だが、搾取の基本構図はほぼ温存されている。東西両側から武器を供与されて闘う戦争を避けて、アフリカ人に政権を移譲するのが被害を最小限にする選択だと、アメリカとイギリスが主導して既得権益に群がる国々が賛成したからだ。

 1度目の大きな出来事は、オランダ人の到来と入植、2度目はイギリス軍の大量派遣と入植、3度目はオランダ人とイギリス人の連合政権総説とオランダ人のアパルトヘイト政権誕生、4度目は戦後のアメリカ主導の資本投資と貿易による多国籍企業の参入だろう。

私の生まれた1949年から同時代的に比較して書いているので、それ以前はそう書けないが、これからのことを理解するために、掻い摘んで経緯を書いておこうと思う。

オランダ人が初めて南アフリカ南部のケープに来たのは1652年、日本が鎖国を始めて半世紀ほど経った頃である。すでに南米で好き放題をして荒らし回ってきたポルトガルやスペインのあとにオランダが、そしてイギリスやフランスがアフリカに行き始めていた頃である。すぐ北のアンゴラのルアンダにポルトガルが拠点を作っていたので、オランダはそこを避けて南に下ったわけである。南端の喜望峰の先は海の難所らしいので、その前にどこかで物資を補給する必要があったんだろう。

ケープタウン:アパルトヘイト時代に東京の南アフリカ観光局のパンフレット

オランダは東インド会社が貧乏人を連れてやって来て、後にアフリカ人から土地を奪い、ケープ地方に定着して、主に大農園を経営してそこでアフリカ人を働かせて搾り取った。小さなグループでたくさんの人が住んでいた南アフリカの最初の不幸だった。

イギリス人が来たのはずっと後の1795年、日本では江戸時代も後半のことである。南アフリカ自体はまだそれほど重要な地域ではなかったが、植民地争奪戦のライバルフランスにインドへ航路への要衝を取られたくなかったからである。ケープに大軍を送った。当然すでに入植して根を下ろしていたオランダ系アフリカーナーと衝突をするが、イギリス帝国の大軍に勝てるわけはなく、敗れたアフリカーナーの富裕層は内陸部に移動した。またアフリカ人と衝突した。今回はケープのように簡単には行かなかった。イサンドルワナの闘いではイギリス軍の1個中隊がズールー軍夜襲を受けて全滅している。槍と盾という武器ながら統制の取れたズールー軍に大敗したわけである。アフリカーナーもアフリカ人の抵抗に遭ったが、19世紀半ばには肥沃な海岸部2州をイギリスが領有し、内陸部の2州をアフリカーナーが領有することをイギリスが認めて落ち着いた。

しかし、内陸部の2州で金とダイヤモンドが発見されて、南アフリカの重要性は一変した。採掘権を巡ってイギリス人とアフカーナーは2度戦った。武器の多かったイギリスが勝ったものの、多数のアフリカ人に囲まれているのを自覚して戦いの途中で妥協点を見い出し、国を創ってしまった。1910年の南アフリカ連邦でる。互いに過半数を取れない連合政権だった。

1867年に発見されたキンバリーのダイヤモンド鉱山の採掘現場

 アフリカ人も黙っていたわけではないが、集団としては動きは鈍かった。白人が国を創り連合政権を始めて、すでに出来上がったものを成文化する動きを察知して1912年にやっと今の与党アフリカ民族会議ANCを作った。白人入植者がアフリカ人から奪って自分たちのものにしていた土地が白人のもので売買してはならないと成文化しただけである。翌1913年の原住民土地法だった。

土地を奪うだけでなく、白人はこの時すでにアフリカ人から末永く搾り取る大規模な搾取体制をほぼ作り上げていた。土地を奪い課税することで大量の安価な労働者を生み続ける体制である。税金を課せられた田舎のアフリカ人は仕事のある都会に出稼ぎに行く。税金が厳しければ厳しいほど、労働者は無尽蔵に使い放題である。契約労働と言えば聞こえはいいが、賃金を抑えるためのパートタイマーの量産である。その安価な労働者を、鉱山や大農園で扱き使っただけでなく、白人家庭の家内労働をさせた。洗濯や育児や台所仕事をメイドに力仕事や庭の手入れや使い走りなどをボーイにやらせた。家内労働者と呼ばれる実質的な召使である。豊かな鉱物資源を低賃金で掘らせて価格を抑え、先進工業国に売って莫大な利潤を得たのである。先進国にとって南アフリカは安価な鉱物資源を確保して、車や家電製品を売りつける格好の市場でもあった。日本がトヨタやニッサンや家電の市場を拡大し、安価な鉱物資源、最近はIT産業に不可欠なレアメタルを手に入れて、白人政権と暴利を分かち合ったという構図である。

 ANCは初期の年寄りたちの生ぬるい戦い方と決別して、1943年に創設された青年同盟を軸に、ゼネストなどの積極的な行動に出たので、白人政府はその勢いに恐れを感じ始めていた。そんな状況で、1948年の総選挙が行われた。総選挙と言っても人口の4分の3のアフリカ人には投票権はなかった人口の13%の白人の6割を占めるアフリカーナーの貧乏白人の大半が人種差別をスローガンに掲げた国民党に投票した。本来はアフリカ人と貧乏白人が協力すべき事態だったが、分断支配を目論んだ国民党は人種隔離政策で貧乏なアフリカーナーにアフリカ人より優遇すると約束したわけである。そして、1948年にアパルトヘイト政権が誕生した。

その政権が異人種間の結婚を禁止する法律を成立させたのが1949年だった。私が生まれた年である。日本から遠く離れた南アフリカでは人種差別を標榜する政権が誕生し、その法律に次いで人種隔離政策を推進するための法律を次々と成立させ、反対する勢力は警察力と軍事力を強化して押さえ込みにかかった。

ANC青年同盟を率いた当時のマンデラ

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949④アフリカ

薊と萌ちゃん(小島けい画)

 連休の只中らしい、と思ったら、今朝「地獄の「カンヅメ渋滞」多発! Uターンラッシュ本格化 最大40km【5月5日の渋滞予測】」の記事がウェブに出ていた。もうすぐ終わるらしい。人の動きがいつもと違うので、なんだろうと思ったら、連休だった、というわけである。普段夜の時間に歩く人はいないのに、人が歩いている、ある時間に普段は混むのに人がいない、など限られた自分の目に見える範囲だけのことではあるが。昔から人混みが苦手なので、連休や年末年始に移動することはなかったので、実際の人混みはメディアからの受け売りだが。薊がそろそろ盛りを過ぎる辺りである。近くでは清武川や加江田川の堤防に大きな薊がたくさん咲いている。

あざみ あざやかに あさの あめあがり

山頭火の薊の句も今頃に九州南部で詠まれたもののようだ。

薊(小島けい)

 比較編年史4回目である。1回目→「①1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「②1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「③1949アメリカ」はアメリカについてを書いた。今回はアフリカについてである。

アフリカについては、南アフリカ、コンゴ、ケニアについても書くので、アフリカ全般についてということになる。60年に多くのアフリカ諸国が独立したが、40年代にその動きが出始めている。1949年はまだその胎動の時期なので大きな歴史的な出来事はない。最初にガーナとして独立した当時のイギリス領ゴールド・コーストで、独立を導いたエンクルマ(↓)が会議人民党を結成したのが1949年である。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち1』)

 今回は初代首相になったエンクルマを中心にその動きを書いてみたい。

1909年生まれのエンクルマは幼少より成績優秀で、1935年に親族に借金をして渡米、リンカーン大学に入学した。奨学金を取りながら苦学し、1942年にペンシルベニア大学大学で教育学の修士号を、翌年には哲学の修士号を取得している。その間、北米に滞在するアフリカ人留学生の組織化に努め、ガーベイやデュボイスの影響で、パン・アフリカニストになった。
1945年5月にイギリスに渡り、ロンドンで宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートやパン・アフリカ会議と関わるようになった。パドモアやケニヤッタとも知り合い、パンアフリカニズムの中心となるきっかけとなった。
1902年生まれでトリニダード出身のパドモアは、1924年医学を学ぶためフィスク大に留学、その後ハワード大学に転校し、そこでアメリカ共産党に入党している。フィスクもハワードも元黒人大学である。1929年にソ連に移住し、労働組合で活動後ロンドンへ移住した。そこで知り合ったエンクルマやケニヤッタとともにアフリカの独立についての指針を討議した。ガーナ独立後の1957年に政治顧問としてエンクルマに招かれ、以後ガーナに定住し、1959年に死亡している。トリニダード島を訪れた最初のヨーロッパ人はコロンブス一行で、1498年の第3回航海時である。
ケニヤッタはケニアの初代首相だが、国民と共にイギリスと戦いながら、独立後は利権に群がる取り巻きと徒党を組み、アメリカや日本などの西側諸国と手を結んでしまった。国民を裏切り、後のモイの独裁政権の体制を作り出した張本人である。独裁政権は反体制の人たちを徹底的に締め上げて、容赦なく排除した。

 1947年に植民地エリートや伝統首長を中心に連合ゴールドコースト会議が結成され、エンクルマは招請され帰国して、党の事務局長に就任した。

1948年に物価高騰などによる不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始めて暴動に発展した。この時、植民地当局は同党が煽動したとしてエンクルマを含め党の首脳部を逮捕したが、却って党の人気は高まった。

イギリスは調査団を派遣し、自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。富裕層中心で穏健だった党は賛成したが、エンクルマは即時自治の要求を掲げて党首脳部と対立し、1949年に脱党して新党を作った。それが会議人民党である。ストライキやボイコットといった強硬な政策を打ち出して下層住民の支持を受けた。そのまま独立へと進んで行くわけである。
エンクルマが袂をわかった植民地エリートや伝統首長は、かつて奴隷をヨーロッパ人に売り飛ばして権力を維持し、独立後は欧米の傀儡となって権力にしがみついた輩である。

 エンクルマは理想主義的な人だったので、独立後もアフリカをまとめるパンアフリカニズムを貫きとした。自伝的スケッチを2冊残している。1冊は独立まで、もう1冊は独立以降について書いたものである。エンクルマはたくさんの著書を残しているが、どれも民衆に寄り添った理想主義的なものである。そのために、欧米に欺かれて、毛沢東とベトナム戦争終結に向けての話し合いをしている時にクーデターを起こされて、それ以降は祖国を踏むことなく、1972年にルーマニアで客死した。言いたいことがあり過ぎて本に収まり切れなかったのだろう。ほとんどの著書を買い求めたが、どれも分厚い本である。

1冊目の自伝『アフリカは統一する』の中の1節を読めば、エンクルマの人々への思いと、欧米諸国に対する主張も理解できるだろう。

「統治期間に植民地政庁が農村の水開発をまともにしたことはない。これが何を意味するのか?栓をひねるだけで当然良質の飲料水が出て来るものと思っている読者に伝えるのは、難しい。

暑くて湿気の多い畑での辛い一日の仕事が終わると、男も女も村に帰り、手桶か水甕を持って2時間も歩く。行き着いて沼と変わらない所から、塩気がありばい菌だらけの水を桶や甕に汲めたら、まだ幸運である。また、長い道のりを戻る。洗ったり飲んだりする僅かの水、病気の元になる水を手に入れるのに、一日に4時間!

国中のほとんどが、本当にそんな状態だったのである」