つれづれに

つれづれに:大西洋

大きくなっている西条柿、今年は300個くらいか?

 →「7月も半ばを過ぎ」の中で

空間が欲しくて大学を探したのに出版社の人と出遭って息つく暇もなく、気がつけば退職していた。医学生の授業の工夫と部屋に来てくれた人たちと話をしている間に、定年になってしまったというところだ。ならば、それを題材にするしかない、そんな思いが強くなった頃に腰をやられた。最後辺りはアングロ・サクソンの侵略の系譜を追っていたが、考えてみれば1949年以降は、私もこの世の中にいたわけである。コンゴや南アフカと思わず生き存(ながら)えてしまった日本と対比して書いてみるか、たくさん書きながらそんなことを思いついた。次回は手始めに、1995である。少し更新まで時間がかかるかも知れない。

と書いたが、日本と比較する南アフリカについてはまだ改めて書いていないことに気がついた。しばらくは、南アフリカについて書くことになると思う。南アフリカはコンゴより年季が入っているので、時間はかかるだろう。南アフリカについて書く前に、大西洋に触れておきたい。

小さい頃から日本が真ん中に位置する地図に慣れてきたせいか、英仏が真ん中に来て大西洋を挟(はさ)んでアメリカ大陸とが一括(くく)りの地図は、新鮮である。欧州が中心で、日本はあくまで極東の小さな国に過ぎない。

 →エボラ・コンゴ関連について書いているときに、親にかまってもらえなくて寂しい日々を送っていたレオポルド2世が毎日地球儀を眺めて暮らしていたと『レオポルド王の亡霊』」に書かれていたのが、なぜか印象に残っている。当時の地球儀では、中央アメリカのメキシコとアフリカのコンゴが白地だったとも書かかれていた。どこの植民地でもなかったという意味である。

 小さなこどもが植民地を持ちたいという夢を持つという発想自体が湧いてこないが、王子は植民地を持ちたいと考えていたそうである。身近な叔父がメキシコを植民地にしようと軍隊を連れて乗り込んだが、殺害されたらしい。大西洋を隔てたアメリカ大陸もすぐ下のアフリカ大陸も、意識の中ではそう遠くなかったのか?まさか、のちに地球儀を眺めていた王子の夢が1885年のベルリン会議で現実のものとなり、のちのちコンゴの住民が→「『悪夢』」を見ることになろうとは誰も予想できなかっただろう。

 最初に大西洋に乗り出したのは、ポルトガルとスペインで、渡った先のアメリカ大陸で好き放題をして、インカやアステカなどの文明の発達していた地域から金銀財宝を持ち帰ったようだ。文明の程度の低かったポルトガルやスペインに鉱山術はなかったために、鉱山技師として連れていかれた西アフリカの人たちは不運だったとしか言いようがない。西フリカでは純度の高い金が精製されていて、鉱山技術は高かった。ポルトガルとスペインが大西洋に乗り出せたのは、帆船技術と火縄銃の技術が発達していたおかげだろう。東アフリカにはダウと呼ばれる今も使われている帆船があるので、その技術を借用したか、奪い取ったのも知れない。大学で非常勤を始めたときに最初に英語の授業で使ったヒューズの『黒人史の栄光』の冒頭に、黒人の水夫が大地が見える!と叫ぶ場面があるが、ヒューズはアメリカ大陸にきた最初の黒人は奴隷ではなかったと紹介している。当時、ポルトガルにはアフリカから連れて来られたり自分で来た黒人がたくさん住んでいたようである。水先案内人としてコロンブスの船に乗っていたペドロ・アロンゾ・ニーニョも、そんな黒人の一人だったらしい。

『ルーツ』の帆船ロード・リゴニア号

ヒューズが朗読した『黒人史の栄光』も入っているLPのカバー

『黒人史の栄光』

 ポルトガル人はアフリカ大陸の南端の喜望峰を回ってインドや中国にも出向いた。植民地経営をするほど国力はなかったので、ポルトガルは中継基地建設を主眼に置いたようである。中国船に乗ったポルトガル人が種子島に来たのは1543年である。船が難破したらしい。お礼に火縄銃を置いていった。砂鉄での製鉄技術のあった当地でも、製鉄技術のあった島根や三重でも銃を作るようになった。1年後には、1万丁も銃が作られているたと言う。1575年には信長が堺商人に銃を集めさせて、長篠の戦いで勝利している。当時では世界一の銃撃戦だったらしい。世界有数の武器保有国だったということだろう。

 ポルトガルとスペインに遅れて植民地争奪戦に参戦したのはオランダである。現在のアンゴラの首都ルアンダに拠点を確保していたポルトガルを避けて南下し、今のケープタウンにオランダ人は入植した。アジアに進出していた東インド会社に水や野菜を補給する中継地だった。それが、オランダ人が南アフリカに入植したきっかけである。その後フランスに先駆けてイギリスが大軍を送り、ケープ植民地を作った。そして、アフリカ人から土地を奪い、オランダ人とイギリス人は南部一帯にアフリカ人を労働力とした搾取機構を打ち立て、連合政権を作っている。南アフリカ連邦である。1800年代後半に金とダイヤモンドが発見されてから一挙に南アフリカの重要性が増した。当然のように鉱山権を巡って殺し合いをしたが、どちらも銃を持っているので殲滅(せんめつ)には至らず、共倒れするよりは連合政権を選んだだけである。南アフリカの人は、まさか入植して来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、安価な労働力として扱(こ)き使われるようになるとは、誰も思わなかっただろう。1980年代に長崎に来た南アフリカの詩人マジシ・クネーネが日本人が出島にオランダ人を閉じ込めていたのは賢明だったと言ったのは侵略された側の本音だろう。

南アフリカの初回である。しばらく南アフリカが続く。

つれづれに

つれづれに:どくだみ

 一昨年(おととし)、どくだみ液を作った。娘から、知り合いにいろんな野草を工夫して生活に生かしている人がいるよと聞いて、どくだみ?いっちょ、僕も真似(まね)て作ってみるかという気になった。今はインターネットで検索すれば、大抵のことはわかる。検索してみると、肌にいい液が作れると書いてあった。それまで雑草としてしか見ていなかった。北側の庭一面に生えて、夏には中に踏み込めないほどだった。電気メーターの検針に来てくれる人に、申し訳ないなあと何度も思ったことがある。それくらい、生い茂る印象があった。

 したがって、材料は家の庭で難なく調達できるわけである。採ったどくたみをきれいに洗い、2~3日陰干ししてから大き目の瓶の中で日本酒に浸けるらしい。中くらいの瓶にほどよいどくだみ液が完成した。去年は噴霧用の小さな瓶にいれて、あせもらしきものが出来るとよく塗ったが、今年はあまり使っていない。粘り気があって、少し特有の臭いがするせいかも知れない。

 どくだみは多年草で、本州、四国、九州、沖縄,台湾、中国、ヒマラヤ、ジャワに分布しているらしい。山野や庭などで普通に見られ、淡黄色の花が咲く。花は白い花弁状のもので保護されている。
日本三大民間薬の一つで、解毒薬として有名らしい。生の葉を腫れ物に外用するとよく効き、蓄膿(ちくのう)症には葉の汁を鼻に挿入するといいと言われる。傷には煎液で洗浄し、洗眼薬にも使われる。乾燥すると解毒作用は失なわれるが、通便、降圧、利尿用にドクダミ茶を飲んでいる人も多く、ティーバックも市販されている。皮膚病や痔にもいいらしいので、私は肌に使う液を作ったわけである。
てんぷらにして食べるところもあるらしい、東南アジアの一部では、生の葉をサラダにいれて食べるという。煎液で茄子(なす)の種子を処理すると、発芽が促進できるとあったので、試してみるか?
江戸時代の「大和本草」には、「10種類の効果を有しているから十薬」と書かれ、中医学では解毒・消腫(浮腫をとる)・清熱(身体の余分な熱をとる)・利水(水分代謝をよくする)の効果があるとされる。民間では面皰(にきび)・鼻炎・湿疹・便秘などに煎じた茶を飲用したり、生の葉が外用で使用されてきている。独特の香りはデカノイルアセトアルデヒドという物質によるものらしい。乾燥すると香りは消える。生葉に含まれる精油成分のアルデヒド類による抗菌作用や、乾燥葉にも含まれるフラボノイドによる抗菌・抗炎症・利尿・毛細血管強化作用などの研究が進んでいるらしい。

 土の中に茎や根が残っていると再び生えてきてしまうほど生命力が強い植物で、雑草と思われる傾向が強い。除草剤や防草シートなどを使わずできるどくだみ対策を紹介している人がいた。その人は、ほぐした土やどくだみの茎や根に腐葉土をかけて混ぜ込む作業を複数回行っている。蚯蚓(みみず)や微生物が食べたり、分解したりしてくれるらしい。かつては地面を覆わんばかりに繁殖していたどくだみに代わって他の植物が元気に生えてくるらしい。その動画が紹介されている。蚯蚓の力は偉大である。庭の畑でも、できるだけ蚯蚓が住めるように苦心している。

最近は、風呂にどくだみを浮かべている。3月の半ばから11月くらいまでは何とか調達できる。20本前後を摘んで来て、きれいに洗い湯船に放り込むだけである。慣れると、ないと寂しい感じがする。きっと、肌にいいんだろう。どくだみを摘んでも、誰にも文句を言われないのがいい。毎日のどくだみ風呂は、快適である。

つれづれに

つれづれに:7月も半ばを過ぎ

<犬(つむぎちゃん)とひまわり> (3号)

 腰を痛めて大変な思いをしている間に、7月も半ばを過ぎている。だいぶ普段通りの生活が出来るようになった。痛みも左の太腿(ふともも)と下半身に感じるだけとなっている。自転車に乗ったり、しばらく歩いたりすると痺(しび)れの感じがやや強くなるが、生活にさほど支障は出ない。俯(うつぶ)せにも仰向けにも、左向きにも右向きにもなれず、寝られなかった状態からすれば、奇跡の復活である。今日は初めて、生産者市を覗(のぞ)いた帰りに、木花神社に自転車をとめて、階段の登り降りをした。99段あるが、下の20段ほどを何回か上り下りした。東側にあって3時過ぎだったので日影の部分も多く、陽射しを気にせずに登り降りが出来た。

 カレンダーも7月になっている。絵は東京の人が注文して下さったつむぎちゃんである。今年は是非とも本人が個展に行けるように、娘も準備をしてくれている。コロナの患者がまた増えているので心配だが、3年も本人が行けてないので、何とか行けるのを祈るばかりである。個展にも行けてないのに、注文してもらえるのは有難いことである。何よりの励みにもなる。今年も、何年か個展に来て下さっている人が、初めて注文をして下さった。すべてメールの遣り取りだった。完成した日に画像は送れたが、絵は個展に出して下さるとのこと、居間の飾る位置まで決めて待って下さっている。有難い限りである。

個展会場のルーマー

 辺りはすっかり真夏である。連日36℃-26℃の猛暑が続く。日中に外に出るのも勇気が要る。超早場米(はやばまい)もうすぐ刈り入れ時である。今年は何だ梅雨の前から雨の日が多く、日照時間が短かったから、可能な限り刈り入れ時期を延ばしたいはずである。台風が来たら、倒れて水浸しになるので、その前に刈り入れを済ます必要がある。最近は本業農家が少なくなっているので、土日の作業が多い。去年も台風の前に刈り入れが出来なくて、実った稲が倒れて水浸しになり、そのままになっていた田んぼがあった。折角田起こし、田植え、草刈りをして収穫するはずだったのに、台風の前に人出が手配できなかったのか?刈り入れが無事に終わるまでは、台風との勝負である。

木花神社展望所からの稲田

 腰をやられて今年は駄目かと思っていたが、何とか少しずつ竹を運んで、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく、↓)は出来た。すでに地に這(は)っていた蔓(つる)を、柵に絡(から)ませた。だいぶ勢いづいている。濃い黄色い花も咲き出した。あとは実に生(な)るのを待つばかりである。2年続きで台風の時に傾いてしまったが、今年は木の杭で補強している所もあるので、強風に耐えてくれたら嬉しい。

柵が出来る前の春先

台風で傾いた柵

 オクラも、遅ればせながら大きな葉をつけて、実も生り始めている。油断すると、虫にやられて粘液で丸くなって枯れてしまう。虫にやられた箇所はちぎらないと、葉全体がやられてしまうので、こまめに取り除く必要がある。炎天下の作業は無理なので、夕方西陽(にしび)が建物に遮られて陰になる2時間ほどの間に手入れが必要である。続けるのは、なかなか難しい。胃の壁を守ってくれるねばねばした食べ物の一つで、臭いもなく食べやすい。納豆と山芋に加えて、この時期自前で賄(まかな)える貴重な野菜である。

 渋柿も大きくなっている。一昨年は500個前後、去年はゼロ、極端な2年間だった。今年は300個足らずくらいか、たくさん実をつけている。台風でやられなければ、また干し柿の作業で忙しくなりそうである。

春先の柿

 腰が少し楽になり、椅子に座れるようになって「つれづれに」を再開したが、元のようにはいかず、また書けないままだったが、何とか書いてまた続けるつもりでいる。70代半ばの→「オーバーワーク」の一つの原因は、座ったまま書き詰めだったから、今度はこまめに休憩を取り、妻がしきりに勧めてくれるラジオ体操をしながら書くとしよう。空間が欲しくて大学を探したのに出版社の人と出遭って息つく暇もなく、気がつけば退職していた。医学生の授業の工夫と部屋に来てくれた人たちと話をしている間に、定年になってしまったというところだ。ならば、それを題材にするしかない、そんな思いが強くなった頃に腰をやられた。最後辺りはアングロ・サクソンの侵略の系譜を追っていたが、考えてみれば1949年以降は、私もこの世の中にいたわけである。コンゴや南アフカと思わず生き存(ながら)えてしまった日本と対比して書いてみるか、たくさん書きながらそんなことを思いついた。次回は手始めに、1995である。少し更新まで時間がかかるかも知れない。

<犬(つむぎちゃん)とひまわり>の原画 (3号)