つれづれに

つれづれに:コンゴと南アフリカ

 コンゴと南アフリカにだいぶ時間がかかった。今回はその総括と次の予定である。

 アフリカ系アメリカと南アフリカの作家の小説や物語を理解するために、2つの国とアフリカ全般の歴史を辿(たど)っていたら、退職前辺りに行き着いたのがアングロ・サクソンの侵略の系譜だった。アングロ・サクソンは厳密には違いますという指摘をいっしょにシンポジウムをしたアメリカ人から受けたので、アングロ・サクソン系かサングロ・サクソンの末裔(まつえい)という方が相応(ふさわ)しいかも知れない。ただ、大英帝国から南アフリカのケープタウンに入植し、後にケープ州の首相になったセシル・ローズをデヴィドソン(↓)が「アフリカシリーズ」の中で紹介した中に「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」という場面があった。アングロ・サクソンの使い方や意味合いは立場や時代によって違うと思うが、そのローズの言葉の意味に近いと思う。

 大学では教育と研究業績と社会貢献を求められるので、一応研究者のふりをした。小説を書く空間を求めて職を探したので、少々後ろめたさがあったのと、ふりをする方が過ごしやすかったからでもある。最後辺りは、業績による5年毎の評価も実施されるようになっていたし、執行部から指名されて評価委員会のメンバーにもなっていたという面もある。出版社の人にいろいろやらせてもらって活字になったものが多かったのは有難かった。苦手な学術学会と深く関わらなくて済んだのは何よりだった。それに、大学ではなぜか出版社のものの評価は高い。殊に、本はいい。7冊も出してもらっていた。

医大の講義棟(最初は4階で、あとは3階で授業をやった)

 国立大でまさか退職後に再任用があるとは思わなかったが、本学のキャンパスで研究室も使え、僅(わず)かながら研究費も出た。1年毎の更新で最長10年ですからのびりやって下さいと事務局長に言われた。たまたま医学部の研究課で世話になった人も本学キャンパス(↓)に異動していたので、薦められてそれじゃあと科研費を申請したら、今までの最高額が交付された。その道のプロに出遭(あ)えたのは幸運としか言いようがない。無口な人だが、仕事が出来る。出遭いに感謝している。まさか、退職後に科研費というのも想像もしていなかったが、選んだテーマがアングロ・サクソンの侵略の系譜である。ま、よくも通してくれたものだ。研究助成用の国の機関が国立大の教員に、イギリスやアメリカといっしょに日本も無茶苦茶やって来たやん、という申請テーマに経費を交付したからである。

右側の建物の3階に研究室があった

 コンゴと南アフリカについてはその過程でかなり時間を費やした。医学科で英語の授業を始めたのが1988年である。担当が一般教育の英語学科目だったから、当初は医者には出来ないことをと意識してみたが、どうもしっくりいかなかった。医者や研究者になろうと入って来た人たちだから、やっぱり医学的な側面も取り入れる方が自然な気がして、エイズとエボラ出血熱、しばらくしてから医学用語もやり始めた。本腰を入れ出したのは1990年の半ば、医学科で授業を始めてから7、8年が経った頃である。

1995年エボラ出血熱CNNニュース

 1981年にサンフランシスコ(↓)で初めてエイズ患者が出てから10年余り経ってHIV(Human Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全症候群)の構造や増幅のメカニズムがほぼ解明され、一般向けのタイム誌やニューズウィーク誌などに次々と記事が出始めた。ちょうどその頃、コンゴでは2回目のエボラ出血熱騒動があった。どちらも感染症である。それをきっかけに、新聞や雑誌や、書籍に映像を探して、授業でも使うようになっていった。

 コンゴと南アフリカに共通していたのは、鉱物資源に恵まれていたことと、アメリカが好き勝手したということである。資源に恵まれていたので狙われて大変な目に遭ったのだから、考えてみれば何とも理不尽な話である。もちろん、アフリカやアジアの国々も欧米や日本にやられて来たが、コンゴと南アフリカは資源が豊かだった分、余計にひどい目にあってきた、二つの国の歴史を辿(たど)った正直な感想である。

ペンタゴン(米国防総省)

 第2次大戦のヨーロッパ諸国や日本の殺し合いで、西側諸国の力関係が大きく変わってしまった。敗戦後、殺し合ったヨーロッパや日本が復興に追われるのを尻目に、戦場にならずに軍需や生活物資の供給で景気に湧いたアメリカがそれまでの植民地体制の構造自体を変えた。多国籍企業による資本投資と貿易の時代に突入したのである。その結果、コンゴにも南アフリカにもアメリカは大手を振って参入で来た。殊に、ウランの出る南アフリカは重要だった。広島や長崎に原子力爆弾を使ったので、以降の核使用は難しくなったが、原子力発電所に転換を試みたので、ウランの重要性は増していた。東側諸国との核開発競争も激化して、その度合いはますます強くなってゆく。

 その辺りを、コンゴと南アフリカにわけて詳しく書いた。あとは、エイズについて書けば、私の生きた時代(1949~)、アフリカ系アメリカ、コンゴ、それに南アフリカを年代ごとに対比させながら、何本かの小説になりそうである。次回からはエイズ関連について書きてゆきたい。その後は、プロットも考えながら、それらの要素を交えて書いてみようと、今のところは思っている。

 

エボラ・コンゴ関連(2024年4月22日~)

2024年5月

27:→「つれづれに:混沌」(2024年5月19日)

26:→「つれづれに:デヴィドスン」(2024年5月18日)

25:→「つれづれに:ニエレレ」(2024年5月17日)

24:→「つれづれに:モブツの悪業」(2024年5月16日)

23:→「つれづれに:カビラ」(2024年5月15日)

22:→「つれづれに:紛争」(2024年5月14日)

21:→「つれづれに:いのち」(2024年5月13日)

20:→「つれづれに:銃創」(2024年5月12日)

19:→「つれづれに:診療所」(2024年5月11日)

18:→「つれづれに:エイズハイウエィ」(2024年5月10日)

17:→「つれづれに:『悪夢』」(2024年5月9日)

16:→「つれづれに:深い傷跡」(2024年5月8日)

15:→「つれづれに:残忍」(2024年5月7日)

14:→「つれづれに:レオポルド2世」(2024年5月6日)

13:→「つれづれに:国連軍」(2024年5月5日)

12:→「つれづれに:コンゴ動乱」(2024年5月4日)

11:→「つれづれに:ペンタゴン」(2024年5月2日)

10:→「つれづれに:コンゴあれこれ」(2024年5月1日)

2024年4月

9:→「つれづれに:コンゴの独立」(2024年4月30日)

8:→「つれづれに:映像1976年」(2024年4月29日)

7:→「つれづれに:1976年」(2024年4月28日)

6→「つれづれに:音声『アウトブレイク』」(2024年4月27日)

5:→「つれづれに:『アウトブレイク』」(2024年4月26日)

4:→「つれづれに:ロイター発」(2024年4月25日)

3:→「つれづれに:ロイター」(2024年4月24日)

2:→「つれづれに:CNNニュース」(2024年4月23日)

1:→「つれづれに:エボラ出血熱」(2024年4月22日)

つれづれに:南アフリカ関連(2024年7月22日~)

2024年8月

17:→「つれづれに:マンデラの釈放」(2024年8月24日)

16:→「つれづれに:捏ち上げ」(2024年8月23日)

15:→「つれづれに:ウラン」(2024年8月22日)

14:→「つれづれに:自己意識」(2024年8月21日)

13:→「つれづれに:作家」(2024年8月16日)

12:→「つれづれに:武力闘争」(2024年8月14日)

11:→「つれづれに:アフリカ人女性」(2024年8月13日)

10:→「つれづれに:若い力」(2024年8月12日)

9:→「つれづれに:セシル・ローズ」(2024年8月4日)

2024年7月

8:→「つれづれに:ヒュー・マセケラ」(2024年7月29日)

7:→「つれづれに:ラント金鉱」(2024年7月28日)

6:→「つれづれに:一大搾取機構」(2024年7月27日)

5:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

4:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

3:→「つれづれに:イギリス人」(2024年7月24日)

2:→「つれづれに:オランダ人」(2024年7月23日)

1:→「つれづれに:大西洋」(2024年7月22日)

つれづれに

つれづれに:マンデラの釈放

 1990年2月11日にマンデラは釈放(↑)された。1964年に終身刑を言い渡された時と同じ法律での無条件の釈放である。つまり、法律を変えるまで待てなかった妥協の産物だったわけである。いろいろ複雑に絡(から)まってこれだと断定するのは難しいが、誰もが今まで稼いで来て築き上げた富、つまり既得権益を手放したくなかったのが原因である。covid19で学生をキャンパスから締め出し、マスクを強要しながら、無観客でも東京オリンピックを開催した構図に似ている。既得権益を最後まで離さなかった。南アフリカでも、既得権益をそのままとは行かないが、出来る限り損なわないための妥協の産物を白人政権とアメリカに主導された西側諸国と東側に支援されていたANCが合意したということである。悔しいが、もちろん日本も含まれている。アメリカの腰巾着とは言え、ticadとかいう何とも怪しいばら撒き政策の片棒を担がされている。ひょっとして、外交の目玉にと自らかって出た?官僚に書類を書き直させるより、後腐れがない。開発(development)と援助(aid)が、アメリカ主導の多国籍企業による資本投資と貿易の現体制の必要経費なのだから、胸を張れる。国会で野党の突き上げを我慢しなくていい。

1940年代にANC青年同盟を率いていた頃のマンデラ

 1910年に南アフリカ連邦を創った時と基本構造は同じである。殺し合いをしながら周りを見渡したらアフリカ人ばかりで、お互いに銃を持っているから相手を殲滅(せんめつ)するのも難しいし、このまま共倒れになるよりは、手を結ぼう、アフリカ人を搾取し続けられるならば目もつぶれる、そんな妥協点を見い出した→「オランダ人」「イギリス人」である。今回は第2次大戦後に世界の構造を変えてまで南アフリカに進出してきたアメリカなどの多国籍企業による投資や貿易も絡んでいるから、ずいぶんと複雑になっていた。

ロンドンのBBCから武力闘争開始を宣言するマンデラ

 それに、東西問題も絡んでいた。一番大きかった原因かも知れない。核開発を競っていた米ソが使う→「ウラン」の大半が南部アフリカとソ連で出ていたので、もし当時ソ連とキューバから武器が流れていた隣国ザンビアのルサカに本部を置いていたANCが西側諸国の軍隊の支援を受ける南アフリカ国軍と真っ向から衝突すれば、第2次大戦どころではなかった。核まで使われることになれば、国土は焦土と化し、既得権益は消滅する可能性もある。近くの国、アンゴラやモザンビークやジンバブエまでもが現実に社会主義国家になっているので、南アフリカが東側にまわれば、西側諸国はウランを失いかねない、そんな切羽詰まった事情もあった。

 現状に近いまま政権の顔さえアフリカ人に挿(す)げ替えれば、国内も国外も丸く収まる可能性がある。そこでマンデラを担(かつ)ぎ出したというわけである。ビコやソブクエと違って理想主義者ではないので、黒人にも白人にもいい顔が出来る。アメリカ公民権運動のキング牧師の役割に似ている。しかも、出来れは憲法を変えるのが可能な3分の2以下の得票数がいい。そして、マンデラは妻と手をつなぎながら、ケープタウンでその役割を見事に演じきった。得票数まで60パーセント前半という数字まで完璧な演技だった。元々アフリカ人のものだったからアフリカ人だけでやろうというパンアフリカニストの夢も、完全に消えた。ANCが与党になり、アフリカ人が大統領になったが、他のアフリカ諸国と同じように、権益を得たアフリカ人の白人化は早かった。よかったのか、悪かったのか?

つれづれに

つれづれに:捏(でっ)ち上げ

 南アフリカに最初に来た→「オランダ人」も、次に来た→「イギリス人」もなんでもありの人たちである。アフリカ人から土地を奪って国を創ってしまったのだから、強引、狡猾、傲慢、騙しに捏造、なんでもありで、恥などというものは元からない。大東亜戦争で日本にやられた韓国や中国や台湾を含めた東南アジアの人たちも、きっとに同じ思いを味わったに違いない。

「金とダイヤモンド」で大成功を収めた→「セシル・ローズ」にはケープタウンからカイロを結ぶ自分の帝国を創るという野心があり、そのためなら何でもやってのけた。土地を奪ったアフリカ人を蔑み「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」と豪語していたとデヴィドスン(↓)が「アフリカ・シリーズ」で紹介している。

 友人に依頼してチャールズ・ヘルム宣教師を利用してマタベレ王国のロベングラ王を騙(だま)し、気候がよく、牧畜に適し、地下には鉱物資源、特に金が眠っているリンポポ川の北の広大な高原を手に入れた。銃で制圧したマタベレ戦争のあとは略奪(↓)で、ローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者が農地と25万頭の家畜のほとんどすべてを没収した。

 ローズ自身も第2の→「ラント金鉱」を夢見て資本を募り、南アフリカ会社の私設軍隊を引き連れて、今のハラレに到着している。1890年のことである。豊かな金鉱脈をみこめないという調査結果が届くと、更に投資を募って投資会社を倒産させ、私設軍隊を駐留させて、ショナ人から土地と家畜を奪ったのである。友人がすでに奪っていたマタベレランドと併せて国を作り、その国にローデシアと自分の名前をつけた。現在のザンビアとジンバブエである。その100年余りあとに、私はジンバブエの首都ハラレで家族と暮らしたわけである。ショナ人と仲良くなり、その人たちの暮らしぶりを見、両親の住む小さな村に行って、ローズに土地や家畜を奪われたショナ人の末裔(まつえい)と話をする機会に恵まれた。

 裁判にかけられたビコは「黒人は日々の厳しさに気づいていないわけではないんです。誰もが政府がやることに耐えているんです。黒人意識運動は人々にこういった厳しい現状を受け入れるのやめ、対決しろと言っています。厳しい現実をただ受け入てはいけないと人々に言っているんです。今の厳しい環境の中でも希望を抱き、自分に希望を持ち、自分の国に希望を見出す方法をみつけるべきだと言っているんです。白人とは関係なく、自分自身が人間であるという感覚、世の中での合法的な場所を築くように努力しようというのが黒人意識運動のすべてです」と→「自己意識」の大切さを説いて、陳述した。

 ヨーロッパ人入植者はアフリカを植民地にした人たちと同じように、自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏っち上げた。ビコは裁判を起こした白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人と遣り取りしている。

ウッズ:どこでも尾行するの?

ビコ:尾行してると思わせておくさ。

ウッズ:で、ここがそうなの?

ビコ:そう、ここがそう。黒人の職員と一人の医者が経営している黒人のためのクリニック。

ウッズ:ここのクリニックはその女医さんのアイデア?それともあんたのアイデアだったの?

ビコ:こっちだよ。案内しよう。皆で出したアイデアだったけど、あの人がいてよかった。

ウッズ:リベラルな白人の医者が同じことをしてもきっとあんたらの目的には添わないんだろ?

ビコ:あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる。

ウッズ:教会?

ビコ:そう、ずっと昔からここにあったね。しかし、この劣等の意識はアフリカーナーが俺たちにしてきたことより、もっとはるかに大きな問題だと思い始めてね。黒人は白人と同じように、医者や指導者になる充分な能力があると信じる必要があった、だからこの場所にクリニックを建てたんだ。間違いはその考えを紙に書いたことだったよ。

ウッズ:政府はあんたを活動禁止処分にした。

ビコ:そして、闘うリベラルな編集長は俺を攻撃している。

ウッズ:人種主義者だから攻撃してるんだよ。

ビコ:ウッズ氏、あなたは何歳です?

ウッズ:41、でもそれがなんか関係あるの?

ビコ:そう、白人の南アフリカ人、41歳、新聞記者。黒人居住地区で過ごしたことある?

ウッズ: 何度も‥‥

ビコ:いや、心配しなさんな。警官以外、白人の南アフリカ人は1万に1人も知ってはいないと思うよ。黒人は白人がどう暮らしているかよく知っている。黒人は庭の芝を刈り、食事を作り、汚れ物を片づける。黒人がどう暮らしているか、黒人の同胞の90パーセントが夜の6時に白人の通りから閉め出されている生活をしているのを、実際に自分の目で見てみたいとは思いませんか?

そして、ビコはある日の夕方、ウッズを黒人居住地区に連れて行く。映画の場面は私が一度見た光景(↓)である。ハラレで暮らしたとき、知り合ったジンバブエ大学の学生に頼んで連れて行ってもらった黒人居住区ムバレである。映画が製作されたのはまだアパルトヘイト政権下で、映画のロケを禁止していたので、南アフリカの第5州と言われていたハラレでロケが行われたのである。ムバレはジンバブエ最大のスラムで、白人地区からは工業地帯を挟(はさ)んだ南西の方角にあった。学生といっしょに乗ったET(エマージェンシー・タクシー)と呼ばれていた乗り合いタクシーを降りた辺りが、映画の中に映っていたのである。

 ムバレでは学生の従妹の家に案内してもらった。従妹の娘さん、学生の姪にあたる少女は腰の入ったダンスを踊ってくれた。「初めての外国の人を見て、興奮してるのよ」と従妹が言ってますよ、と学生が耳打ちしてくれた。日本の県住や市住のような集合住宅だったが「電気は通ってますが、実際には使っていません。ローソクを使ってますよ」と学生が言っていた。住人の大半は、田舎から出稼ぎに出て来た働き手とその家族のようだった。借家に雇われていたガーデンボーイのショナ人と仲良くなったが、ひと月の給料が4000円余りで「これでも仕事があるだけましな方ですよ」と哀しそうに言っていた。普段は一人暮らしで、メイドやボーイの狭い部屋(↓)のコンクリートの上に毛布を敷いて寝ていた。私たちが来てからすぐに、田舎から家族を呼び寄せていたが、普段はいっしょには住めないと言っていた。

 親もその人を連れて、田舎から出て来てムバレで暮らしていたと聞いた。押しかけて来たローズに、土地と家畜を奪われたショナ人の末裔だった。今は父親も、ハラレから車で1時間ほどの小さな村に戻って、たくさんの家族(↓)と暮らしていた。歴史を辿(たど)っていただけに、何とも複雑だった。

一番左端が父親、4番目が母親

 ビコは今の苦しい環境をただ受け入れずに立ち向かえと説いたが、現実にはなかなか厳しい問題である。生まれた時から、食うや食わずの生活をして来て、ある日広い白人の邸宅でメイドやボーイをする仕事しかないなかで、劣等の意識を持たずに立ち向かうのは、並大抵のことではない。ラ・グーマ(↓)が書いたケープタウンのスラムの住人の暮らしぶりの中で、劣等の意識を持たずに成長するのは、現実には難しい。スラムの物語を翻訳しながら、私自身が育った環境も狭い、臭い、穢いスラムのようなところだったなあと思ったが、戦後の貧しいスラム同様のところで、劣等の意識を持たないで暮らすのは難しかった。5人も子供がいるのに両親が離婚状態で家には余りいなかったので、精神的にもきつかった。だから、そんななかで育ちながら、同胞に自分に自信を持てと説けるビコはすごい人だと素直に思う。ただ、哀しいかな、影響を与える人が多過ぎたので、体制に合法的に殺されてしまった。獄中での死因が首吊りだと捏っち上げて公表する人たちは、実際にはどんな集団だったのか?

小島けい挿画

つれづれに

つれづれに:ウラン

「金とダイヤモンド」が発見されて、南アフリカは一気に産業社会に突入したが、ウランの発見で更にその流れは加速した。まだ後処理の目途が立たないまま原子爆弾を使ったアメリカは、ウランの価値をどこよりも知っていた。イギリス主導で築かれた植民地体制下では南アフリカへの出番は望めないので、アメリカは第2次大戦を利用して、それまでの西側諸国の体制の基本的構造を変えた。

原爆:広島市公式ホームページより

 戦場にならなかったために一人勝ちしてヨーロッパ諸国にも金貸していたので、ごり押ししてでも体制を変えることが出来た。アメリカ主導の多国籍企業による資本投資と貿易による体制である。体制を変えたことによって、ヨーロッパ諸国が自国の復興に追われているのを尻目に、大手を振って南アフリカにもアメリカ企業が参入出来たのである。原子力爆弾を落とされて無条件降伏を呑(の)んだ日本も、アメリカの核の傘の下、腰巾着のように南アフリカに参入できた。不名誉白人としてである。旧八幡製鉄(↓)が長期の通商条約を復活できたのもそのお陰である。

 第2次大戦後、復興と併行して急速に産業化を進めた日本は南アフリカとの貿易高をその後も急激に伸ばした。1980代の後半には、とうとうアメリカを追い越してしまった。名目だけでも国連(↓)主導に従って経済制裁をしていた各国からは非難を浴びた。日本の財界とアパルトヘイト政権のつなぎ役を任されていた与党自民党は、名目上、一応世界の非難の矛(ほこ)先をかわすために、南アフリカとの貿易高世界第2位を目指して奮闘した。その甲斐(かい)あって、無事目標を達成して、自民党は鼻高々、名誉白人として意気軒高だった。エコノミックアニマルと揶揄(やゆ)される所以(ゆえん)である。

 西側諸国では戦争をする毎に軍需産業を肥大させた。南アフリカでウランを確保したアメリカは核開発に多大な予算をつぎ込み、原子力爆弾を製造した。広島と長崎で使ったあとは、容易には武器としては使えなくなったので、核開発は武器から電子力発電所に転換させた。

九州電力玄海原子力発電所、写真特集:時事ドットコムより

 資本主義のアンチテーゼとして共産主義政策を推し進めた東側諸国でも、西側諸国に対抗するために核開発を進めた。ソ連にもウランが出たから、東西の競争は激化した。チェルノブイリ(↓)と福島の原発で事故を起こし、大変な被害が出たが、それでも利益優先の産業社会は方向転換を図ろうとしない。原発に依存し続けるばかりか、他国に売りつけようとしている。過去から学ぼうとする人が、少なすぎる。

京都大学複合原子力科学研究所より