つれづれに

つれづれに:若い力

 第2次大戦でヨーロッパを舞台に殺し合いをしたために、戦後世界の構図が大きく変わっていった。アフリカやアジアについて言えば、それまで武力によって植民地支配を受け続けていたが、宗主国の総体的な力の低下で、それまでもの言わなかった人たちが声を出し始めたのである。宗主国側は全体を相手にするよりは、アフリカ人の支配者層を抱き込める方が植民地経営の上では都合がいいので、南アフリカの場合も、金持ち層の子弟は優遇して、イギリス式の高等教育機関フォートヘア大学を設置してそこに通わせたり、欧米に留学させたりしていた。声をあげたのはその子弟や取り巻きの若者たちだった。欧米の大学で学びながら、自分たちの置かれて来た位置を確かめる機会を与えられていたわけである。

ライトがパリにいる時に書いたバンドン会議報告記

 戦争後10年目にアジア・アフリカ諸国がインドネシアのバンドンに集まって会議を開いた。この頃から変革の嵐(The Wind of Change)が世界に吹き始めた。1957年にはゴールドコーストが独立した。イギリスの模範的な植民地だった。アメリカから逃げるようにパリに移り住んでいた作家リチャード・ライトはいち早く独立の胎動を嗅ぎつけてゴールドコーストを訪れ訪問記『ブラック・パワー』(1954)を書いた。そのあと、バンドン会議の報告記『カラー・カーテン』(1956)を出した。

ガーナの初代首相クワメ・エンクルマ(小島けい挿画)

 1960年には多くのアフリカ諸国が独立した。戦争後15年が経っていた。第2次大戦で一人勝ちしたアメリカでは、1954年に実質的な奴隷解放宣言とも言える公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決が出た。その後、アーカンソー州のセントラル高校(↓)では州が最高裁の判決に抵抗して、最後は大統領命令まで出して事態の収拾に乗り出した。大学が黒人学生を受け入れるのに最後まで抵抗したのはミシシッピ大学、アラバマ大学だった。アラバマ州のフォーバス知事は最後まで抵抗して反動の象徴として悪名を轟(とどろ)かした。

映画化された「アーカンソー物語」

 南アフリカでは、アパルトヘイト政権への抵抗運動が激化して、1955年には4人種による国民会議が開かれた。1960年には抗議する市民に白人警官が無差別に発砲をして、世界中に大きな衝撃を与えた。国連は非難決議を出して経済制裁を始めた。抵抗組織を非合法化して弾圧を強める白人政府に、アフリカ人側は武力闘争を開始して、情勢は緊迫の度を増した。

シャープヴィルの虐殺

 1950~60年代は国内外で大きく動いた時期だったが、時代を突き動かしたのは若い力である。南アフリカでも、具体的な行動に出たのは40年代の初め頃である。1910年に南アフリカ連邦が出来るのを察知したアフリカ人側は、抵抗運動の準備を始め、2年後にアフリカ民族会議(Afircan National Congress)を設立している。今の与党である。しかし、ANCがやったことと言えば、壇上から大衆に反対の演説をし、ロンドンに陳情の代表団を派遣しただけだった。非暴力の闘いは聞こえはいいが、わざわざロンドンに陳情に行く神経がわからん、陳情を聞き入れるくらいなら最初から国など創らんやろ、といいたくなる。傍目でもそう思うんだから、ANCの若ものたちが年寄りの戯言(ざれごと)にしびれを切らしたのも頷(うなづ)ける。1943年にANC内に青年同盟(Youth League、↓)を創って、旧態然とした年寄り連中を、お前らどいとけやと蹴散らして、積極行動に出た。

青年同盟のメンバー(『抵抗の世代』から)

 アメリカが第2次大戦で一人勝ちしたのは、アメリカ本土が戦場にはならずヨーロッパに軍需物資や生活必需品を送っていたからである。戦争景気にわいて、産業は大きく伸びた。もちろん武器を製造する重工業は飛躍的な伸びを示し、規模も格段に飛躍した。南アフリカの白人政権もいい思いをしている。ヨーロッパに物資を送ったので、国内産業は伸び続け、アフリカ人労働者の需要も高まった。青年同盟が積極行動に出られたのも、アフリカ人労働者の需要が高いという状況を把握していたからである。壇上から演説するのではなく、労働者を結束して職場を放棄してゼネラルストライキ(↓)を打った。それだけ勢いがあったということだろう。

ゼネストを起こした鉱山(『抵抗の世代』から)

 闘争でストライキなどの積極行動を率いたのはネルソン・マンデラやオリバー・タンボやゴバン・ムベキ(↓)などのフォートヘア組である。白人側が優秀なアフリカ人を味方につけるべくフォートヘアに入れて教育して来たアフリカ人たちである。オリバー・タンボは非合法化されてルサカに本部を置かざるを得なかったANCの議長を長年担った人である。1987年に日本にも来ている。ゴバン・ムベキはリボニアの裁判でマンデラとともに被告席に立った人で、理路整然とした答弁に一介の農民がどうしてと話題になった。一介の農民は欧米によくある偏見で、超大物で、超優秀なインテリだったのである。のちの大統領、ゴバン・ムベキの父親である。

 そういった大物が先導して、大多数のアフリカ人労働者をまとめて闘ったが、アメリカ、イギリス、日本などの同盟国にまもられた白人政権の砦は頑健だった。抵抗組織は非合法化され、指導者は殺されるか、投獄されるか、亡命を余儀なくされた。非暴力を捨てて、武力闘争を開始したが、マンデラ(↓)などは白人政府の法律で合法的に終身刑を言い渡されて、ロベン島に送られた。1964年のことである。1990年2月11日に、同じ法律で無条件で釈放されるまで、アパルトヘイト政権はマンデラを獄中に閉じ込めた。時代が少しずれていたら、事態も変わっていたかも知れない。1955年には第2次大戦から10年が経過し、64年には20年近くが経とうとしていた。大戦で疲弊したヨーロッパや日本が復興を果たし、巻き返しを始めていたのである。南アフリカは指導者を失い暗黒時代に、日本はオリンピックも誘致し、新幹線も走り、高度経済成長の時代に入って行く。

つれづれに

つれづれに:セシル・ローズ

 セシル・ローズである。目先が効いて、入植者として成り上がったから、実業家としては成功した人なのかも知れないが、アフリカ人にとっては悪魔のような人である。

デヴィッドスンは「アフリカシリーズ」の中で、セシル・ローズが描いた夢と足跡(そくせき)を、舞台となったマショナランドとマタベレランドの地を歩きながら、詳しく紹介している。映像が助けになって、非常にわかり易く、説得力がある。かなり長くなるが、今回はきちんと聞き取って、紹介してみたい。

 1870年頃のことです。南アフリカのキンバリーでダイヤモンドの大鉱脈(↓)が発見されました。一攫(いっかく)千金を夢見るヨーロッパ人が、たちまちこの地方に押し寄せます。その中に、後にケープ植民地の首相となる17歳のイギリス人青年がいました。セシル・ローズ(↑)です。10代の若さでローズは富が権力に繋(つな)がることを知っていました。彼はダイヤモンド産業の独占に乗り出し、見事やってのけます。秘訣は駆け引きがうまかったこと、資金不足の相手からどんどん採掘権を買い取ったこと、そして情け容赦(ようしゃ)がなかったことです。ダイヤモンド王となったローズには大きな野心がありました。イギリスの旗の下に彼の王国を築くことです。彼はこう書いています。「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」

 この頃には億万長者になっていたセシル・ローズはいよいよカイロからケープタウンまでをイギリスの支配下に置こうと企てます。彼が先ず目をつけたのがリンポポ川の北の広大な高原です。そこは気候がよく、牧畜に適した土地がいくらでもあったうえ、地下には鉱物資源、特に金が眠っていました。ただ一つ大きな障害がありました。ズールー人から分かれたマタベレ人が北に移り、この辺りに軍事王国を築いていたのです。マタベレ人は先住民のショナ人からここを奪いました。今は寂(さび)れたこの場所は100年前にはマタベレ王国の心臓部でした。ここに王が住んでいたのです。ロベングラ王はマタベレ王国の二代目の王でした。そして、最後の王でした。

 最初に入って来た白人は宣教師でした。ロベングラ王は宣教師に伝道所を建てることを許します。都と川を隔てたこの建物は英国国教会の伝道所(↓)でした。宣教師たちはすぐに避けることの出来ないジレンマに陥りました。自分たちを受け入れてくれたアフリカ人と自分の同胞、そのどちらに忠誠を尽くすべきかと。この伝道所のチャールズ・ヘルム宣教師もその辛い選択を迫られました。彼はロベングラ王の信頼を得ながら、その裏で密かにローズのため働き始めます。そうなんです。宣教師たちの記録にも残っていますが、彼らはこんな風に考えていたんです。マタベレ人をキリスト教徒に改宗させるには、国王の力を奪い、マタベレ文化と独立の基盤を崩すしかない。これが出来るのはローズだと言うわけです。

ローズは着実にロベングラ王の力を切り崩して行きました。ヴィクトリア女王に抗議した王は、協定を結ぶよう勧められます。宣教師の仲立ちでいくつも協定が結ばれましたが、それがまた曲者でした。ヘルム宣教師はここに埋葬されています。墓には同僚の宣教師たちによりマタベレ人の友と刻まれました。

 1890年、ローズはいよいよ実力行使に出ます。金の採掘を口実に、軍隊さながらの遠征隊を編成し、北のマショナランドに向かったのです。ロベングラ王の兵は16,000、敗北を恐れ、はやる兵を抑えて攻撃を加えませんでした。遠征隊はマタベレ人との衝突を避け、もっとおとなしいショナ人の土地を通って進みました。隊員にはそれぞれ目的地に着いた暁には1,000ヘクタールを超える土地と15の金鉱採掘権を与えることが約束されていました。当時の人がこう書いています。「こんな集団は見たことがない。貴族から宿無しまであらゆる類の人間のごった煮だ」隊員の中にはケープ植民地の有力者の子弟もいました。もし途中で戦闘となり敗れたら、家族がイギリス政府に圧力をかけ援軍を寄越すに違いない、そういうローズの配慮からです。

 6ケ月後、フォート・ソールズベリにユニオン・ジャックが翻(ひるが)える瞬間です。アフリカをイギリスのものにというローズの夢が実現に近づいた瞬間、ローズ神話のクライマックスです。

 ここに街を開いたのは地理的にどうこうという理由はありません。ここは後のローデシアの首都ソールズベリーとなり、今はジンバブエのハラレ(↓)と名を変えています。アフリカの都市はどこでもアフリカらしい趣や生活が多少とも見られるものですが、ここは例外です。60年ほどの間に、ここは完璧な白人の街になってしまったんです。あそこに記念碑が建ってますが、実はあそこからこの街が始まりました。

 これがまだあるなんて驚きです。こう書いてあります。マショナランド最初の市民遠征隊員に捧げる。しかし、どうなんでしょう?彼らが来るずっと前からマショナランドに住んでいたショナ人と、あとから来て土地を取り上げた白人、どっちがここの市民と言えたか?こんなきついことは今だから言えるのかも知れません。それでもやはりこれは野蛮な行為でした。ショナ人はここで何世紀も前から、牛を飼い、畑を作っていた。それがすべてを奪われ、追い立てられてしまったのです。遠征隊の中にはローズの親友で、腹心でもあった、後のケープ植民地の首相ジェームソン博士(↓)がいました。ローズは彼に新しい領土の支配を任せます。

 マショナランド(↓)の南西マタベレランドにはまだマタベレ王国が健在でした。1892年、ジェームソンは決着を着ける時が来たと判断します。「何があろうと恐るるに足らず、こちらは機関銃がついている」当時、イギリスの反帝国主義の詩人は、こう風刺している。

 マタベレの老人(↓)「ヨーロッパ人は機関銃と大砲を持っていた。マタベレも銃を持っていたが、本の少しだ。ヨーロッパ人の銃の前で何ができる?マタベレの連中は槍(やり)しかなかったんだ」

 勝ち戦(いくさ)のあとは略奪(↓)です。農地と25万頭の家畜がほとんどすべてローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者に没収されました。1893年、マタベレ王国は一時的に壊滅しました。ロンドン伝道協会はローズに祝辞を送りました。「我々は宣教としてマタベレ王国に同情は寄せられません。またその滅亡を憐れむことも出来ません」

 白人に触れられるくらいなら、広大な草原の中に埋もれた一本の針のように消えてなくなった方がいい、ロベングラ王はその言葉の通りに北方に向かって脱出し、やがて病死したと言います。こうしてリンポポ川とザンベジ川にはさまれた土地マショナランドとマタベレランドは併合され、ローズの帝国ローデシアとなります。

 リビングストンがザンベジ川流域を彷徨(さまよ)い歩いてから僅(わず)か20年ほど後のことでした。3年後、マタベレ人14,000人が凄(すさま)まじい反乱(↓)を起こしました。重い税と強制労働に腹を立てたショナ人もこれに加わりました。ネハンダとカグリという司祭に導かれたこの抵抗運動は何ヶ月にも渡ってゲリラ戦を繰り広げます。鎮圧されたのは1897年になってからです。この地方の初期民族運動の歴史に残る大反乱でした。

「白人は何もかも奪った。牛までだ。お前たちは降伏したのだ。税をおさめろと。子どもの数しか牛を飼わせなかった」

ローズの軍隊も戦いでかなりの被害を受けました。入植者も100人以上虐殺され、制裁は厳しいものとなります。反逆者狩りが行われ、捕まった者は極悪人として扱われました。鎖でひと繋ぎにされて、簡易裁判所に引き出され、大勢がそのまま、手近の樹に吊(つ)るされました。ネハンダとカグリも最後には捕らえられ、絞首刑(↓)となりました。

 ローズは1902年、ケープタウンで世を去りました。遺体はローデシアに運ばれ、別荘のあったマポト・ヒルズに埋葬されました。夏の夕暮れ、ローズがよく岩によく腰を掛け、彼の帝国に沈む夕日を眺めた(↓)と言う場所です。死後、ローズに対する評価は二つに分かれました。富める世界では同胞を愛する英雄です。しかし、貧しい世界では今も略奪者、泥棒男爵と見ています。ローズと彼に続く人々はアフリカに物質的進歩を持ち込みました。確かに19世紀のアフリカにはそれは必要なものだったかも知れません。しかし、その恩恵はアフリカ人の上を素通りして行ったのです。結局、聖書と銃の伝導はアフリカ人を救うどころか、まったく逆の結果、つまりアフリカをヨーロッパ列強の奴隷としました。リビングストンのような人々が描いたような夢は無に帰し、アフリカは植民地支配の舞台となったのです。

 「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送されたデヴィドスンの労作だが、1992年にジンバブエで暮らしたとき、この歴史映像の延長上で生きる人たちとしばらくでも過ごして、何とも言えない気持ちになった。戻ってから半年ほどは、誰にも会いたくない、何も書きたくないという気持ちが強かった。「今しか書けませんから」と出版社の人に薦められて一年ほどでその時の滞在記をまとめたが、結局は本にはならなかった。いずれ出版するとして、先ずメールマガジンに連載しませんかと言われて、2年ほどかけて連載を続けた。

ハラレの白人街

つれづれに

つれづれに:暑中の畑模様

家の近くの百日紅、今が一番勢いがある

 猛暑が続く。百日紅(さるすべり)やハイビスカスなどは、この暑い最中に勢いがある。畑もそうだ。夏野菜はかんかん照りの中で、元気に育つ。とまとのように、雨が多いと実がならないのもある。もちろん雑草の勢いも半端ではない。去年は暑中に畑に出る気にならず、9月になってようやく畑に出てみたら、草に覆われて踏み込めないほどだった。肥料がよく効いているので、雑草の繁り方も尋常でない。瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)を辛うじて作って安心していたが、台風で傾いてしまった。

春先、柵を拵(こしら)える前

台風のあと

 去年の二の舞にはなるまいと、可能な限り朝晩ホースでたっぷり水をやり、陽が陰ってからしばらく酢と焼酎を20倍ほどに希釈した液を如露(じょろ)で丁寧にかけたりしている。大根もある程度まで生き残っていたが、液をまき続けられないこともあって、枯れてしまった。元々冬野菜を真夏の気温の中で作ること自体に無理があるようだ。お蔭で、草茫々(ぼうぼう)で畑に出られないという事態は避けられている。今のところ、普通に畑に出られるのはありがたい。

 瓢箪南瓜も勢いが増してきて、何個か実がなっている。実(↑)を見ると、何だか嬉しくなる。柵ができ始めたころに撮った写真(↓)とくらべれば、勢いがわかる。他に金木犀(もくせい)の樹にも蔓(つる)を這(は)わせているので、秋には実を見込めそうである。柔らかくて包丁も入れやすいし、味もまろやかである。

蔓が少し登り出した頃

 何枚か犬の絵を注文して下さった方に、今年も実を贈れそうである。犬(↓)が南瓜をすきなので、いっしょに描いて下さいと言われて以来のご縁である。絵の中に描いた南瓜とは種類は違うが、味は保証する。

 丸莢(さや)オクラも勢いがある。例年、虫による粘液で葉が丸くなってしまうが、今年は何回か酢と焼酎(しょうちゅう)を希釈(きしゃく)して液をかけたから、葉が生き生きしている。2日も実を採り入れないと、硬くなって食べられない。包丁の刃が入らないのである。大きいうえに、実も柔らかい。ねばねばした野菜なので、貴重である。納豆や山芋なども、胃の壁を守ってくれる。野菜を食べた後、ねばねばした納豆と山芋を食べて、甘酒を飲む。食事の前に食べるようにしているが、毎日続けるのは難しい。しかし、普通に暮らせるかどうかは、その食事と適度な睡眠と運動にかかっているので、毎日手を抜けない。

 暑中(7/6-8/6)をやり過ごせれば、立秋(8/7-21)、朝晩は幾分か過ごしやすくなるだろう。それから、暑さが和らぎ、台風シーズンの処暑(8/22-9/6)になるが、台風の被害が最小限に済んでくれると有難い。 去年は1つもならなかった西条柿が、今年は250~300個くらいなっているようだ。台風の大風にも落ちずに色づけば、また干し柿の季節だ。

つれづれに

つれづれに:8月

<オオカミ> (3号)

 8月である。カレンダーもプードルのつむぎちゃんから狼(↑)に変わった。狼はずっと描きたかったようで、去年はシベリア狼の画像を探していた。今年はイベリア狼を描いている。イベリア半島はヨーロッパ大陸南西部にあり、そこのピレネー山脈に棲む岩山の上で吠える狼の画像を探し出したようである。半島は地中海と大西洋に面し、そこにはスペインとポルトガルがある。狼は眼が鋭い。如何にも狼という感じである。絵も眼が描けるかどうかだろう。

 暑い日が続いている。36-26℃辺りでも、百日紅(↑)は勢いがある。高台から降りる坂の手前の家の庭から、こぼれるように咲いている。咲いている期間も長い。その家の横を通って、加江田の山を見ながら南に坂を下りる。

新聞で「温暖化により海水温が上昇したことで、赤道寄りの暖かい空気と北極よりの冷たい空気が境界に吹く偏西風が例年に比べて北上。その結果、日本や欧米など北半球中緯度に位置する国で猛暑になった」と専門家が書いていた。マッサージをしてもらいながら、(サーフィンで)海に入っても水がぬるいですもんね、という話を聞いた。

1年に2回、宮崎に来た時に会う人がいる。今日も夕食をしながら2時間ほど話をして来た。今は鹿児島への帰り途だろう。月曜日には福岡から卒業生が来る。宮崎にいる時は、よく会って食事をしていたが、久しぶりである。福岡に行って、2年目である。

 先週からそろそろ稲の刈り入れ(↓)が始まっている。2割か3割か(↓、下は春先の同じ位置)が、すでに刈り入れが終わっている。今年は梅雨前も雨の日が多くて、日照時間、大丈夫やったんやろかと心配していたが、刈り入れは例年通りのようである。兼業農家が多いらしいので、明日からの土日か、次の週の土日かで作業をするところが多いだろう。ただし、台風が来なければである。

同じ当たりの春先の様子

先週の稲刈り前の様子、木花神社の展望所から

 旧暦の暑中も6日で終わり、秋が始まる。秋が立つ、立秋である。朝夕は、何とか過ごせるくらいにはなりそうである。大暑(7/22-8/6、夏の暑さが本格的になる頃)が終われば、立秋(8/7-21)が終われば、処暑( しょしょ、8/22-9/6、 暑さが和らぎ、台風シーズンになる頃。今年もうまく台風をまともに受けなくて済むことを願うばかりである。

カレンダーの原画