2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の11回目で、エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

 2000年7月、南アフリカのダーバンで国際エイズ会議が開かれました。開発途上国では初めての会議でもあり、世界中の人々が注目しました。国連合同エイズ計画のピーター・ピオット事務局長は「それまで国際エイズ会議が発展途上国で開かれたこととはありませんでした。私たちは是非ともアフリカで開催したいと思っていました。難しい問題が山積みでしたが、歴史の残る会議となりました。」と振り返っています。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

ピーター・ピオット

前回の「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)でも書きましたが、南アフリカ政府と米国政府や欧米の製薬会社との<コンパルソリーライセンス法>をめぐる論争は南アフリカのエイズの実態が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたるかどうかが争点でしたから、ダーバンでの会議は欧米の医者や科学者には、南アフリカのエイズの実態を自分の目で確かめる絶好の機会でもありました。

会議に参加したマーティン・マコーウィッツ医師(米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所)は「2000年のダーバン会議は私の人生を大きく変えました。私だけでなく、多くの参加者にとってそうだったと思います。初めてアフリカへ行き、現地の様子をこの目で確認しました。実に悲惨な状況でした。それまでも報告書を読んだり、話を聞いたりはしていましたが、実際目にすると背筋が寒くなりました。」と語り、アンソニー・S・ファウチ博士(米国立衛生研究所)は「ベッドからベッドへと見て回りました。でも私たちが患者にしてやれることは何もありませんでした。こんなことをいつまでも続けていてはいけないと強く思いました。人間としてこんな酷い現実から目を背けることは出来ません。」と感想を述べたあと「自分は何をすべきなのだろうと深く考えました。そして、南アフリカの活動家の力強さを見て私は心を決めました。どんなやり方でもいいから、発展途上国の最前線に薬や治療を届ける、それこそが自分のすべきことだと確信しました。」と締めくくっています。(「エイズの時代(3)」)

ムベキや南アフリカ政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家には、会議は事態を打開してくれる一縷の望みで、世界が注目すればムベキも別の反応を示すだろうと考えていました。医者は母子感染を防ぐためのAZTも承認されず、カクテル療法も公的機関では禁止されて、毎日無力感を味わいながら診療に当たっていましたから。

抗HIV製剤

マンデラの後を継いだのは長年副大統領を務めたタボ・ムベキで、エイズへの理解と支援の象徴レッド・リボンをつけて現われました。クワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「ムベキはやるべき仕事は必ず実行するという公約を掲げて大統領に就任しました。私はその言葉に大いに期待しました。」と当時を振り返っています。

AZTは大統領に就任する半年前に、毒性が強いからと公的機関では既に禁止されていました。AZTで母子感染を防ぐことを発見したグレンダ・グレイ医師(ソウェトのパラグワナス病院)は「政府の役人は大統領の言うことを何でも忠実に守る取り巻きのような人ばかりでした。異論を唱えるような人はいません。だから赤ちゃんを救うために妊婦に予防接種を施すことも認めませんでした。」と語っています。(「エイズの時代(3)」)

カクテル療法も公的機関では禁止されました。活動家は政府のエイズ対策に抗議して大規模なデモを行ないました。ザッキー・アハマド氏は「政府が治療費を負担するよう私たちは要求しました。それは私たちにとって死活問題なのです。すべてのエイズ患者にとって生きるか死ぬかの問題でした。」と政府を批判しました。(「エイズの時代(3)」)

エイズ問題を含めアフリカの問題はアフリカで解決するというのがムベキの考え方でした。2000年当初にはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていました。そして、国の内外から専門家を招待して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請しました。ダーバン会議の一週間前の第二回会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言が発表されましたが、欧米のメディアの反応は極めて批判的で、ムベキは厳しい批判を浴びました。

「エイズの時代(3)」の中でも、米保健福祉省長官(1993~2001)のドナ・シャレーラ氏の「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」という否定的な見解が紹介されています。(ただ、コンパルソリーライセンス法をめぐるムベキとゴアの経緯を書いたばかりですので、圧力をかけた当事者と「いっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました」と言われても、傲慢さしか伝わっては来ませんが。)

ムベキが内外の厳しい批判を受けながら、ダーバン会議が開かれたわけです。ムベキはそれまでの主張を次のように繰り返しました。

私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。私がずっと考えて来た疑問の一つは、安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうかということです。

タボ・ムベキ

次回は、ムベキとムベキが伝えようとした真意について書きたいと思います。

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執筆年

  2010年2月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 19

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の10回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴア

前回の「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)紹介した南アフリカ政府と米国副大統領ゴアとのエイズ治療薬をめぐる論争は、「先進国」と製薬会社との関係を鮮明にあぶり出しました。手の届かない抗HIV製剤を何とか安価に手に入れたいと願う南アフリカと、エイズをも利潤の対象にして稼ごうとする「先進国」の製薬会社。それはまさに、第二次世界大戦後に巧妙に「先進国」が再構築した多国籍企業による搾取構造そのものでした。

製薬会社(「エイズの時代」)

エイズ治療元年と言われる1996年以降、エイズは不治の病ではなくなりましたが、カクテル療法に使われる抗HIV製剤は高すぎて、南アフリカの大半の人の手には届きません。欧米諸国や日本が搾取体制を維持するために設立した世界貿易機関が貿易関連知的財産権協定で、開発者の利益を守るために特許権を設定しているからです。南アフリカ政府は薬を安く手に入れるために、1997年、協定が「国家的な危機や特に緊急な場合」に認めているコンパルソリー・ライセンスを使えるようにするための法律を国会に提案してその法律を成立させました。そこにゴアが介入したのです。1999年、当時のエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」には当たらず、コンパルソリー・ライセンス法は特許権を侵害すると主張しました。そんなゴアを英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)は次のように鋭く批判しました。

抗HIV製剤

熱き民主党の大統領候補者オル・ゴアは、エイズ問題に関してそれなりの信念を持ってやってきていましたが、ある緊急のエイズ問題で、製薬会社の言いなりの冷たいおべっか使いという汚名を着せられて、自らを弁護する窮地に立たされています。

この春に行なわれた出産前の臨床調査では、性的に活発な年齢層の22%がHIVに感染しており、2010年までにエイズによって平均寿命が40歳を下回ると予想されています。発症と死の時期を遅らせることが可能になったカクテル療法はごく少数の恵まれた人以外、南アフリカでは誰の手にも届きません。

この事態に直面して、1997年、政府はある法律を通しました。同法の下では、権利の保有者にある一定の特許料を払うだけで国内の製薬会社が特許料を全額は支払わずともより安価な製剤を製造することが出来るという権利、いわゆるコンパルソリー・ライセンスを厚生大臣が保証出来るというものでした。・・・

欧米の製薬会社はそれを違反だとして同法の施行を延期させるように南アフリカを提訴し、ゴアと通商代表部は・・・その法律を改正するか破棄するように求めました。

公平に見て、アメリカの取り組みを記述するその強引な文言は、数々の巨大製薬会社の本拠地であるニュージャージー州から選出された共和党議員の圧力に屈して国務省がでっち上げたものです。・・・

しかしながら、動機がどうであれ、最近のゴアの記録は事実として残ります。南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ2国間委員会の共同議長としての役割を利用して、副大統領は、悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。これまで「良心の価値」を唱え続けて来た人の口から出た言葉であるだけに、その発言は、少し喉元にひっかかりを感じます。

タボ・ムベキ

大統領選挙で、ゴアはブッシュに僅差で敗れました。石油業界や兵器産業界が地盤のブッシュは父親がした湾岸戦争にならって、武器の在庫を一掃するかのようにイラク戦争を強行しました。エイズは、そういった意味でも世界を左右する大きな問題でもあります。

<コンパルソリーライセンス法>を成立させた背景

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)で紹介しましたが、HIVは売春婦や鉱山労働者を介して急激に広がっていきました。ジョハネスバーグ近くの最大のスラムソウェトのような密集したアフリカ人居住地区では特に感染者の数は多く、出産や授乳で乳児にも感染しました。医師や看護師は、目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。ソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師が当時の様子を次のように語っています。

子供のエイズ患者が増え集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子供たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

1990年2月に釈放されたネルソン・マンデラは1994年5月に大統領に就任しました。エイズ予防に奔走した人たちはマンデラに期待しましたが、エイズには何も触れずに、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。大統領だった5年間、マンデラはエイズ問題にほとんど関心を示しませんでした。政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズ問題までは手が回らなかったというのが実情でしょう。1964年のリボニアの裁判でどうして武力闘争を始めたのかを説明するのにアフリカ人の強いられた惨めな毎日の生活状況をとうとうと述べ、その後27年間も獄中にいた人が、アフリカ人の窮状を知らないわけがありません。しかし、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。

クワズールナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「流行を食い止めようといくら努力しても希望の光はまったく見えて来ませんでした。手強い相手と戦うにはすぐれた武器が必要です。でも私たちには、流行を止める有効な手段が何もありませんでした。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

グレイ医師は政府の無策について「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。(「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」)と批判しています。

2000年のダーバン会議は、次回です。

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執筆年

  2010年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 18

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の9回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(1)です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(1)

1996年はエイズ治療元年と言われます。それまで有効な治療の手段がなかったエイズも複数の薬を使って効果的な治療が出来るようになったからです。

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)でも書きましたが、免疫機構(外部から侵入してくる細菌やウィルスなどの異物を排除する仕組み)を調整するCD4陽性T細胞の染色体に組み込まれたHIV(ヒト免疫不全ウィルス)を除去する手立ては今のところありません。しかし、従来の逆転写酵素阻害剤と新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤を組み合わせる多剤療法によって発症を遅らせることが可能になりました。HIVの増殖を抑えて免疫機能を保つために継続的にたくさんの薬を飲まなければなりませんが、HIVに感染してもウィルスを抱えたまま普通の生活が出来るようになったというわけです。


それまではHIVに感染すれば死を覚悟するしかなかったのですが、多剤療法のお陰でエイズは死の病ではなくなったのですから、画期的な変化です。

米国のテレビドラマ「ER緊急救命室」の第2シーズンに、母子感染でHIVに感染した男の子に逆転写酵素阻害剤AZTによる治療を続けるかどうかで悩む母親が登場しています。「ER緊急救命室」は1994年の9月に開始されたシカゴを舞台にしたドラマで、この話は恐らく1990年代前半、多剤療法が始まる以前の状況を描いたもので、今となっては貴重な歴史的な資料だと思います。当時、エイズ治療には有効な薬はなく、辛うじて逆転写酵素阻害剤AZT(アジドジブジン)が使われていましたが、副作用も極めて強かったようです。腰椎から大量に薬を入れる時に伴う苦痛も激しく薬の効果も不確かで、治療に当たった小児科医ロスの薦めで治療を始めたものの、毎回激痛に耐える子どもを見るのが耐え難くなり、グリーン医師から見込みのない治療を続けるよりは残された時間を大切にする方がいいと助言された母親が治療を断念して我が子を家に連れて帰る決断をするという話です。子供にHIVを感染させてしまったという自責の念と、苦痛に耐える子供を見るに忍びない母親の苦悩がひしひしと伝わって来ますが、多剤療法が可能になったもう少し後の時期なら、母親の苦悩も軽減されていたのに、と思わずにはいられませんでした。

1996年がエイズ治療元年になったのにはわけがあります。最大の理由は、当時のクリントン政権が多額の予算を投入して薬の開発がし易くなったからでしょう。治験に応じる患者が多かったことも新薬の開発には有利だったようです。それまでのレーガンとブッシュ政権はほとんどエイズ問題に手をつけませんでしたが、クリントンは1992年の大統領選で、縦割り行政ではなく責任者を決めて国が積極的に包括的な関与をすべきだとするマンハッタン計画をスローガンの一つに掲げました。1993年に大統領になるとさっそく責任者を決めて計画を推し進め、研究予算を3倍に、治療の予算も2倍にしています。

クリントン大統領

臨床治験の参加者ウィリアム・W・ドッジ氏は当時の状況を次のように語っています。

大量の薬を飲みました。3種類の薬を1度に20錠も。もの凄く副作用の強い薬で、かなり具合が悪くなりました。・・・退院するときウィルスが検出出来なくなるまでどれくらいかかるかと聞きました。すると、もう検出出来なくなっている、投与を始めてから5日目にはねという答えが返ってきました。驚きましたよ。でも、喜びを友人と分かち合うことは出来ませんでした。私は病気の発症を免れましたが、友人には発症している人もいるんです。誰でも治療を受けられるわけではありません。自分が歴史の転換点にいるように感じました。私より前のHIVの世界と私より後のHIVの世界はまるで別の世界でした。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所のマーティン・マーコウィッツ氏とデヴィド・ホー氏は、HIVがあまりうまく複製出来ないウィルスで頻繁に突然変異が起こって薬に耐性が出来てしまう点に注目しました。そして、複数の薬で同時にウィルスを追い詰めるとHIVがすべての薬に対して同時に耐性を作ることが極めて難しいことを突き止め、プロテアーゼ阻害剤を含む3種類の薬で臨床治験を行ないました。その結果を1996年のカナダのバンクーバーでの世界エイズ会議で発表しました。複数の薬を同時に処方するこの治療法はカクテル療法(多剤療法)と呼ばれるようになり、HIVの感染が死の宣告だった時代が終わりを告げました。

同じ会議に招待されたエイズ患者のザンビア人の母親が「滞在費を出して下さってありがとうございます。それは私の3年分の家賃と同額です。航空運賃を出していただき感謝します。子どもたちが大人になるまで食べて行ける金額です。ありがとうございました。」と虚ろな表情で謝意を述べました。会議では薬が途方もなく高額なことには触れられませんでしたが、いくら新薬が開発されても薬代を出せない人には何の意味もないと訴えたのです。南アフリカから参加していたクワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「その年のテーマは、一つの世界、一つの希望だったと思います。会議の終わりに私は本当にがっかりしていました。一つの世界なんて夢のような話です。私たちには希望のかけらもありませんでした。南アフリカであんな高価な薬を手に入れられる人はほとんどいません。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と嘆いています。

抗HIV製剤

1997年、南アフリカ政府は急増するHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれていました。)

しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。

HIV

次回は欧米の製薬会社と南アフリカの状況と、2000年のナタール州ダーバンでの世界エイズ会議について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年12月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 17

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の8回目で、南アフリカとエイズです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

南アフリカとエイズ

 前々号の「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)で紹介しましたが、「エイズは、ザイールやウガンダのような中央アフリカの国々からケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエを通る輸送経路を下り始め」、南アフリカでは短期間の間に爆発的に感染が広がりました。最大の原因は、ヨーロッパ人入植者がつくりあげた鉱山などでの短期契約労働です。ホステルやコンパウンドと呼ばれる宿泊施設に暮らす単身の出稼ぎ労働者とその周辺にたむろする売春婦が感染を拡大させました。

南部アフリカの地図

南アフリカに最初に入植したのはオランダ人で、17世紀の半ばのことです。そのあとイギリス人がやって来ました。入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、短期契約の大量のアフリカ人労働者を作り出して、鉱山や農場、工場や白人の家庭でこき使いました。オランダ人とイギリス人は金やダイヤモンドをめぐって争いますが決着はつかず、アフリカ人を搾取するという共通点を見い出して国を作ります。1910年の南アフリカ連邦です。基本は土地政策で、法律を作って奪った土地を「合法的に」自分たちのものしたわけです。経済的に優位なイギリス人と、大半が貧乏な農民のオランダ人による連合政権でした。

キンバリーでのダイヤモンドの採掘(NHK「アフリカシリーズ」、1983年)

第二次世界大戦後、アフリカ人労働者が総人口の僅か15%に過ぎないヨーロッパ人入植者に解放を求めて立ち上がりますが、最終的には人種差別を政治スローガンに掲げるオランダ人中心の政権が誕生します。それがアパルトヘイト政権です。人種によって賃金格差をつけたわけで、目的は大量の短期契約の安価なアフリカ人労働者からの搾取体制を温存することでした。

人種差別をスローガンとする理不尽な政権が何十年も続いたのは、協力者がいたからで、イギリス、アメリカ、西ドイツや日本が主な良きパートナーでした。

その体制も、東側諸国の崩壊や経済制裁、イギリス人主導の経済界の動きやアフリカ人の闘争の激化などで維持するのが難しくなり、アフリカ人の搾取構造は基本的に変えない形でアフリカ人に政権委譲を行ないました。新政権が誕生したのは1994年のことです。

1990年の2月にマンデラが釈放された頃、南アフリカでのHIV感染者は成人のおよそ1%にしか過ぎませんでした。汎アフリカニスト会議の活動家マンドラ・マジョーロさんは当時を思い返して

「まだ、外国の出来事と思われていました。テレビでエイズで死ぬ人の姿を見ても、遠い国の話だとみんな思っていました。人ごとでしたね。」
(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

感染を広げたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山に働きに来ていた外国人労働者でした。

ヨハネスブルグ近郊の鉱山(NHK「アフリカシリーズ」、1983年)

「スティメラ」と呼ばれる列車(1987年の2月中旬にジンバブエの首都ハラレのサッカー競技場で行われた公演で、1960年から亡命生活を強いられていた南アフリカのトランペット奏者ヒュー・マセケラは「スティメラ」で短期契約の出稼ぎ労働者の悲哀を熱唱し、ポール・サイモンの『グレイスランド:アフリカン・コンサート』の中にも収録されています。)がザンビア、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビア、マラウィ、スワジランド、レソト、モザンビークなどの近隣諸国から出稼ぎ労働者を運んで来ました。

『グレイスランド:アフリカン・コンサート』

手がつけられないほどエイズが流行している国から来た人たちで、南アフリカの労働者と共に働き、同じ宿泊施設で暮らしていたのです。鉱山の周りの村には商店があり、金で身を売る女性もいました。HIV予防活動家ゾドーワ・ムザイデュメさんは番組の中で、段ボールの切れ端を持って実際の場面を再現する女性たちを連れて歩きながら、

「鉱山で働く人たちはこの道を通って必要なものを買いに行っていました。女性たちは道の脇の繁みで鉱山労働者を相手に売春をしていたんです。繁みの中に座って宿泊施設から村へ向かう男性を待っていました。このような女性たちはHIVに対して何の知識も持っていませんでした。コンドームも使わずに、次々違う相手と性交渉をしていたんです。」
と解説しています。

ヒュー・マセケラ

南東部のクワズールー・ナタール州ではエイズで死亡する人が現われ始め、鉱山で働く夫や恋人から感染した女性の患者が増えていました。看護師のD・E・ンドワンドゥエさんが

「元々は男性患者の方が多かったのですが、だんだん男性より女性患者の方が多くなりました。その結果、男性用だった病棟を女性用に変更し、スタッフも大勢女性患者の方へ回さなければならなくなりました。」
と当時の状況を語っています。感染者が爆発的に増えて行きますが、政府は何も手を打てませんでした。政権委譲に向けての作業で手一杯で、エイズまで手が回らなかったというのが実情のようです。

ヨハネスブルグ近郊の巨大スラムソウェトのような密集した地域では感染が広がっていました。厳しい現実と向き合うことになったソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師は「目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。子供のエイズ患者が増え、集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。」と当時を振り返っています。

NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」(2002年2月20日)では、

「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」
と報告されています。

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり100万円で、その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからです。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければなりませんでした。

抗HIV製剤

次回は南アフリカでの「エイズ治療薬と欧米の製薬会社」について書きたいと思います。

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html

執筆年

  2009年11月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.16
  

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(8)南アフリカとエイズ