概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の21回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
第21章 1979年モンバサ
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第21章 1979年モンバサ
コースの理論的な部分が終わり、私は今、「ケニアの倫理と淋病とトレポネーマ症の疫学に及ぼすその影響」という仮論文のデータ収集と執筆に追われていました。このコースのために、時間を取ってナイロビ、モンバサ、ナクル、キスム、エルドレット、キタレ、ニエリ、ナニュキの有名な売春宿や淫売屋を訪ねて回りました。淫売屋は殆んどが、ナクルのシャバブ、ナイロビのマサレ、エルドレットのキフガスクエアー、モンバサのムウェンベタヤリのようなマジェンゴ型のスラムにありました。目立たないように、私は帽子を被り、よれよれのジーパンを穿き、時には町のどこにでもいる労働者の振りをしてオーバーコートを羽織りました。違法ビールを飲む客や店主たちに入り交じってチャンガーやブッサを飲みました。時々はバングという麻薬を吸い、通常の宿泊客を装って短時間セックス専門の土壁の安宿や売春婦がたむろするワコリヌのようなたくさんの簡易宿泊所に潜り込みました。男女のあらゆる人たちがそこにいました。ギクユ、ルオ、カレンジン、マサイ、ルヒヤ、キシル、カンバ、ソマリ、バジュニ、ギリアマ、色々な種類の人たちが最古の売春という職業の中に顔を出していました。インド人やヨーロッパ人もウェストランヅやパークランヅに、金持ち客専用の宿を持っていました。シチズンとヤードスティックやシティ・タイムズの日刊紙が、売春を「エスコーツ」という名前で宣伝して米国人や英国人の真似をし始めたのはその頃でした。政府は「エスコートをする」と改名された売春の偽装を見抜いていたようで、何とかその広告は止めさせました。しかし、このような町での売春は観光客の間でますます盛んになり、年齢や容姿や背丈に関わりなく、読み書きの出来る女や出来ない女、失業中の女や恵まれない女たちには、ナイロビやモンバサやキスムのような町が約束の地になりました。
客と売春婦の間ではペニシリンやテトラサイクリンのような抗生物質を飲むのがかなり一般的でしたが、多くの人は淋病やトレポネーマ症から自分の身を守ることにあまり気を配っていないようでした。警察が売買に監視の目を光らせているにも関わらず、特に人気のある「スータ」と呼ばれるサルフォンアミド剤が通りで売られていました。セックスの悦びという点では多くのケニア人が「体と体」が一番だと考えているので、コンドームは滅多に売られていないのに気が付きました。ナイロビ市議会(NCC)は、自分から名乗り出る売春婦には門戸を開けておくという決定を下しました。その決定によって、一次感染と二次感染の報告を求められる人たちとは違って、性感染症の診療が受け易くなりました。私にはどうして性感染症の予防対策がこれほど手薄になっているのかを解明する必要がありました。
ある日の午後、パムワニのディゴ通りの一軒に入りました。若い娘が私を暖かく迎え、自分の部室に案内しました。部屋の隅では炭火が燃え、何かを料理していました。そのせいで部屋がかなり暑苦しく、居心地悪く感じられました。部屋には小さな窓の隣に大小二つのベッドがありました。シーツをかけていない手術台のような小さなベッドに座ると、女は右の手を私の方に差し出し、反対の手で自分のショーツを脱ぎました。ショーツや服を脱ぐ前に金の受け渡しをした記憶がなかったので、金の請求の仕方は、イバダンの方が少し控えめだったと感じました。デュレクス社製のコンドームを実際に使ってみると私は心に決めていましたが、不意に背中に冷たいものを感じました。
「お金を出しなさいよ。ただではないわ。」と、女は甲高い声で言いました。
「ちょっと待っててくれよ。」
「5シリング、大事な時間を無駄にしないでよね。」と、女は叫びました。
「頼むから戸を開けてくれよ。」と、頼んで私はベッドの上に5シリングを投げました。金を受け取ると女はにやりと笑って窓を開け、それから悪態をつきました。
「出てってよ!」と女はドアの方を指差して言いながら、私を部屋の外に追い出しました。
「ただだと思ったのかい?」
「ちくしょう!」と、危機を脱したと分かった時に私は叫び返すと、同業の売春婦が何人か戸を開け、平穏を乱す客に視線を注ぎました。
「あんた、金がないのかい?」と、角の部屋の女が冷やかしました。
「ああ、ないんだ。」と、危険の少ない大通りまで急いで歩きながら私は言いました。このパムワニでの経験を話したとき、友人は笑ってから、売春宿で起こったもっとひどい事件について話をしました。部屋が複数ある所では、客が毛布の下で女に優しく抱き締められて自分がいい男だと感じさせられている最中に、別の売春婦がそっと部屋に忍び込んで財布を抜き取って出て行き、財布がよく丸ごと消えました。靴やコートや腕時計など、様々な貴重品が消えました!多くのケニアの売春婦には貧困が最優先の要因で、性病は充分に強力な抑止力ではありませんでした。男にしてみれば、全般に友だちのいない町で妻以外の女と性的な関係を持つのは、たとえかりそめのものでもいくらかの慰めが得られました。
ナイロビ市街
性感染症から身を守ってくれると言われても、女たちはコンドームを使うのを嫌がりました。特に売春婦たちは、コンドームは男のオルガズムを遅らせるので時間の無駄だと言いました。もしコンドームが膣に残ってしまったら、取り出す手術が必要になると言う者もいました。しかし、私にはどれも説得力のある理由には思えませんでした。もっといい説明は、たぶん、自然は人工的なものをひどく嫌うので、男女が一番親密な状態になりたいときにコンドームを使うのは、当然ながら反感を買ってしまうということでした。ケニアの売春婦は、コンドームの問題を通して自分たちには親密ではないその場限りの性的な関係しかないという意識したくなかった明白な現実に気付きました。一般的に、男がコンドームを着けるべきだと女性の方から言い出すことは実際にはないというのが分かってきました。客がコンドームを着けたいと言ったとき、女が「私には病気はないわ。毎週診療所に行って検査を受けてるわ。」と部屋で言っているのがよく聞こえてきました。売春の世界では、ローマ法王もコンドーム論争に関してはほぼ問題はないと思われました。
1979年11月、私はモンバサを訪ねて行くことに決めました。ムンビには前もって知らせませんでしたが、私はムンビに会うつもりでした。サンシャインデイアンドナイトクラブのウェイターなら誰でもムンビの居場所を知っていると本人から以前に聞かされていました。ムンビの他に、メトロポリタン海岸病院の医者をしているワホメというタラ高校時代以来の旧友の所にも行くつもりでした。ワホメは1973年にマケレレ大学を卒業してすぐモンバサに行き、そこでずっと働いていました。現在、ケニア医師会(KMA)で上の方の役職に着いていました。国内を幅広く動き回って、高い評価を受けている医師でした。そのワホメに会って、これから私がしたいと思っていることについてしゃべるのもいいだろうと思いました。
モンバサ周辺地図
タラにいる時に高校生として、一度だけモンバサに行ったことがありました。一番古い町のジーサス要塞やゲティ遺跡や他の史跡を歴史クラブで見学に行きました。その時のことで私が覚えているのは、厳しい暑と黒い衣装の女性たち、カンズと呼ばれる長いスカートや、アラブやポルトガルやインやアフリカ系のたくさんの肌の色の淡い人たちくらいでした。私はシチズン新聞本社近くのバス停から夜の8時にアカンババスに乗りました。乗客が軽い食事を取った30分のムチト・アンディでの休憩を入れて、バスはきれいな舗装道路を九時間も走りました。木曜日朝五時にモンバサに着き、私たちはイバダンと同じ熱帯地方の暑さの出迎えを受けました。ナイロビと違って、モンバサは眠らない町でした。人々が往来し、パブで酒を飲み、手押し車を引く人間の活動は決して止みませんでした。
モンバサ市街
私たちはトノノカのドックワーカーズクラブで下車しました。モンバサにビールを飲みに来る客のための24時間営業のクラブでした。私は片手にリュックサックを持って混雑した店に入って行き、朝食用にホワイトキャップを二本注文しました。奥の席に座り、港も人もイバダンによく似たモンバサでの三日間の滞在予定を立てました。似た気候のこういった場所を内心期待していたのかもしれないと思いました。汗、扇風機、魚の臭い、ココナツの木、ヤム芋、米、バナナ、すべてが学生時代と結びついて、私はダンボ教授の大学病院の時代に戻ったような気分になりました。
「一年が終わったのに、私は何をしてきたのだろう?」と、私はハミング(声は出しませんでしたが)を始めました。私は4人の女性の蜘蛛の巣に引っかかり、そのうちの1人はこの町で体を売っています、私はそう考えて自分を呪ってからビールを飲み干しました。
ホワイトキャップ
時刻は7時で、先ずは泊まる所を捜さなくてはいけませんでした。私はリュックを背負って店を出て、宿泊場所を探しに行きました。500メートルほど行くと、なかなか良さそうな建物が目に留まりました。二階建ての近代風の建物に大きな字で「アストラホテル、町一番の低料金」と書かれていて、何となくそのホテルに親しみを覚えました。「完備型」(シャワーとトイレ付き)の部屋は60シリング、「非完備型」は40シリングでした。私は完備型の部屋に決めて料金を払い、朝七時という非常識な時間にも関わらず部屋を準備してもらいました。ワホメ医師とムンビを探し出し、仮論文用の資料を更に集める前に、体を休めておく必要がありました。
11時頃、汗びっしょりになって目が覚め、シャワーを浴び、長い間着てなかった少し古いテニス用の半パンとゴム製の靴と、イバダンで最後に着た半そでのシャツを身につけました。それから私はメトロポリタン海岸病院に電話を入れましたが、ワホメ医師が電話口に出た時には神の手に守られているような気がしました。私は、ジョゼフ・ムングチでケニア中央病院の医師であること、モンバサに着いたところで、もし可能ならタラ高校時代に「ロング」ワホメとして知られていたワホメに会いたいのだが、という話をしました。「おお!ガイ神父のジョセフか!どうしてた?」ワホメ医師はクラスで一番背が高かったので、「ロングワホメ」と呼ばれていました。私が校長と親しくしていたので、タラではみんなが私を「ガイ神父の子」と呼んでいたのを私はすっかり忘れていました。
「わかった。じゃ、メイナーで6時で会おう。」
電話はメイナーがどこにあるかをワホメ医師に聞く前に切れてしまいましたが、昔からワホメは口数が少なく、とても謙虚で自分の仕事に真面目取り組む男だったのを思い出しました。きっと、電話を切ってすぐに患者の所に戻っていったのでしょう。
モンバサを調査して売春という世界で最古の職業についての知識を増やすのに、6、7時間はありました。どこを探せばよいかは分かっていました。女が煙草を吸ったり、髪を編んだり、ただぼんやりと空を見上げたりして退屈そうに座っているスラム街の狭い通りでした。アストラホテルの真裏の通りに、紛れもなくそのような女たちが、戸を少し開けた状態にして座っていました。お馴染みの誘い方で手を掴まれたとき、私は太った年配の女を踏みつけないように右足を上げるところでした。
「お茶はどう?」と、その女は黒ずんだ歯を見せながら言いました。
「ああもらうよ、で、いくらなの?」と、私は聞きました。
「中にお入りよ。」私はそのまま女の言葉に従い、スラムにしてはかなりきれいなベッドが置いてある暗い土壁の家に入って行きました。部屋の隅から香の匂いがしていました。
「たった5シリングだよ。」と女は言うと、腰に巻いていたものを外し始めました。ただ取材をするよりも、私はこの先どうなるのかを試したい気持ちになりましたが、これほど唐突に売春婦と出会えるとは思わなかったので心の準備が出来ていませんでした。私はベッドに腰を掛け、シャツのポケットから5シリング紙幣を取り出して女に渡しました。女が今度はスカートを脱ぎました。
「コンドームはあるかい?」と、私は尋ねました。
「私は病気じゃないよ。病気だと思ってる?」
「いや。」
女は太い腿を持ち上げてスカートを脱ぎ、いらいらしながら私の返答を待っていました。家から遥か遠くにいる私に、誘惑に負けないようにと何かが警告してくれました。
「明日また来るよ。その5シリングは明日用に取っておいてくれ。」と、私は女の背中を軽くたたきながら、精一杯なだめるような笑顔を作りました。
「また5シリングが要るね。」
「またね。」と、私は言って歩いて出て行きました。
スラムを歩いて出たとき、ムウェンベタヤリの本体に行き当たりました。状況は前のスラムと変わらず、様々な体型や体格や肌の色の女たちが列を作り、男と部屋に入って手短かにセックスを済ませては部屋から出て来ていました。
モンバサ市街
レバノンというホテルで山羊肉と米の昼食を食べてから、3時頃にアストラホテルに戻り、しばらく休んでメイナーの場所を調べ、それから「ロング」ワホメ医師との待ち合わせの場所へ向かいました。ワホメは相変わらず真面目な人懐っこい男で、この男が誰かに反感を抱くのだろうかとよく思ったものです。私たちと同じようにワホメも年を取っていて、幾分肉付きもよくなり、昔よりも喋るようになっていました。思っていたよりも、ずっと話をしやすいと感じました。二人で酒を飲み、ワホメの注文したフライドポテトとステーキを食べ、タラを出てから何をしてきたかを話しました。私は、イバダンとケニア中央病院、ンデルやリバーロード診療所や今取り組んでいる淋病とトレポネーマ症の疫学研究の話をしました。ワホメは、マケレレを出たあとオックスフォードとパースに行き、キャンベラで、専門にしたいと思っている呼吸器系疾患の短かい課程を取ってから帰ってきたところだと言いました。二人は倫理と性感染症の話に戻りました。
マジェンゴにあるパムワニのディゴ通りで受けた扱いについて私が文句を言うと、ワホメ医師は笑い転げました。
「ロンドンのソーホーでは、娼婦に2ポンド支払うと、まず受付に連れて行かれ、フランス式のサービスを提供すると宣伝されている女の所に案内してもらう前に受付でもう2ドルを払わされたよ。」と、ワホメ医師が言ったので、私は先進国でワホメが体験したことを是非知りたいという気持ちになりました。
「西オーストラリアのカルグーリーでは、警察の嫌がらせにあっても、売春婦たちは炭鉱町を絶対離れないんだよ。ランプの灯りを点け、部屋の戸を開け、ここムワンデタヤリと同じように列になって座っているんだ。一度、10分25ドルと言われたんだが、頭で計算すると300シリングじゃないか!そのまま部屋から飛び出して来たよ。」
遥か遠いオーストラリアの売春宿から飛び出してくるワホメ医師の姿を想像して、私は腹がよじれるほど笑いました。ワホメはアムステルダムとパリについての話を続けました。アムステルダムの話では裸に近い格好の女たちが、透けたガラスの向こうにあだっぽく座っていたことを、パリの話では街灯の辺りをうろつく女たちがナイロビの女たちと似ているという話をしました。セックスが人間を搾取する方法を提供する限り、資本主義社会が売春に対して出来ることは何もない、とワホメは語気を強めました。映画や、メイフェアや爆発的に売れているプレイボーイのような雑誌にダンスや歌など、どれも性に対する人間の基本的な欲望を利用して人から搾取しました。パリやロンドンでは、男たちはストリップショーやポルノ映画に大金を払い、ヌード写真や性欲を満たすためのあらゆる種類の道具を買いました。
「そして性が買われれば買われるほど、梅毒トレポネーマや淋菌、膣トリコモナスや軟性下疳菌がますます増える……。」
「それに、単純ヘルペス、マイコプラズマ・ホミニス、カンジダ菌も……。」と、ワホメ医師が付け足したので、二人は笑ってしまいました。私は更に、性感染症を隠し立てしないという考え方が感染の拡大を阻止するのに役に立つという自分の論文の話を続けました。
「英国ではもう実施されているよ。1916年の性感染症条例では、性感染症の診断と治療を内々に無料で受けられるような診療所を提供するように地方保健局に指示している。」と、ワホメは言いました。
「僕たちがクロス・ロード診療所でやっている特別治療も、同じような方針で創られたと思うよ。」と、私は言いました。
「そうだけど、ケニアではいつもそうだが医療用品や医薬品が不十分で、もし適切な治療を受けたいなら賄賂が要るという問題に繋がっているな。」と、ワホメ医師が呻くように言いました。
「本当に無料の性感染症の診療所を創りたいんだよ。」と、私は打ち明けました。
「資金はどうするんだ?」
「ああ、援助金を考えている。世界保健機構(WHO)、性感染症・トレポネーマ症撲滅国際機構(IVDT)、ナイロビ市議会(NCC)とケニア医(療教)師会(KMA)。」
「提案自体は面白いと思うが、援助が得られるかどうかはかなり怪しいな。道徳主義者はフリーセックスを煽ると反対するだろうし、自分たちの儲けが少なくなると思う医者もいるだろう。市議会も予算に対する不要な圧力と見なすかも知れないしな。」
「それでも僕は、性感染症を減らすことが国家のコスト削減につながることを、自分の論文で証明してみせるつもりだ。」
「上手くいけばいいのにな。」
こうして専門的な話をした後、また2人で体験談に戻りました。ワホメは結婚して6年になっていました。二人の娘と愛らしい妻もいましたが、ワホメの秘書が生活に深く関わってきていて、現在は秘書が妻同然のようになっていました。
「12月にナイロビに行くときは、地元の売春婦から身を守るためにいっしょに秘書を連れて行くよ。」と、ワホメは笑いながら言い、私はすぐに、この男は女と遊び回るタイプというより、少し多重婚の気があるマインバ氏のタイプだなと思いました。私はまだ独身だが、モンバサの女性とナイロビの秘書とかなりしっかりと付き合っていると言うと、ワホメがどの町にも好きな女がいる旅する男の古い歌が確かあったなと言いました。ワホメがこの話はもうよそうと言ったあと、二人はいっしょにハミングでその歌を歌いました。オーストラリアに行く途中のスリランカで、ワホメは町の外れに車で案内され(街中では売春は厳しく禁じられていましたから)、客を見込んで連れて来られて囲いの中に入れられた女たちに男が群がっている光景を目にしました。客は女を1人か2人か選び、女が男にベッドを見せて案内しました。係はストップウォッチとベルを持って、つかの間の生殖行動の監督をし、金を受け取り、人間の肉体の取引に目を光らせます。
モンバサ市街
時間も遅くなり、ワホメもずいぶん疲れてきたようでした。ワホメが、ホテルまで車で送ると言ってくれましたが、私はモンバサの夜を見ないまま寝る気がしませんでした。代わりにサンシャインディアンドナイトクラブで私を降ろしてくれるようにワホメに頼みました。喜んで頼みを聞いてくれた上に、ワホメは私のビール代100シリングも払うと言って聞きませんでした。サンシャインで私を降ろすと、モンバサにいる間何かあったらいつでも連絡するようにと自宅の電話番号を教えてくれました。
私はサンシャインに入り、店の入り口で40シリング払うと階段を上がって、空気が淀んで騒々しく、典型的なケニアのナイトクラブの万華鏡の光の中に入って行きました。
赤い口紅に緑色のマスカラ、赤く塗った爪に最新型のロングヘアーのかつらを付け、アフリカ人とういよりアジア人のように見える相当な厚化粧の若い女二人に挟まれるようにして私はカウンターの席に座りました。1人はミニスカートを穿いて煙草をふかし、もう一人は青いジーパンに後ろ開きのブラウスでした。私は冷えたホワイトキャップを二本注文し、周囲を気にせずに1人で高椅子に座ってSMという煙草を取り出してサンシャインの陽気な賑わいに身を委ねました。ケニアに戻ってからは煙草をやめていましたが、ナイトクラブに入るといつも吸いたい衝動に火が付き、気が付くとSMと呼ばれる薄荷入りの煙草を買っていました。SMはSina Mpenzi(私には恋人がいない)という意味のスワヒリ語の最初の頭文字の二つのSMを取ってシナムペンジとか、Sitaki Malaya(売春婦は嫌いだ)という意味のシタキマラヤというニックネームで呼ばれることもありました。SMを吸いながら私は店内の客を観察しながら、私の場合のSMは、私がいないと言っている恋人のことなのか、私が嫌いだと言っている売春婦のことなのか、とぼんやりと考えました。
私は、店の奥で白人と黒人の男2人と一緒にソファに座っている白い服を着た見慣れた細身のドクターGGの娘に気が付きました。ムンビはワイングラスで何かを少しずつ飲みながら反対の手で煙草を持ち、白人と思われる男に向かって興奮気味にしゃべり続けていました。私が3人を見たくなかったのか、自分が見られたくなかったのか、自分でも分からないまま目を逸らしました。
「お兄さん、お酒飲んでもいい?」と、ミニスカートの女が聞いてきました。
「金がないよ。」と、私は答えました。
「煙草もいいかしら?」と、青いジーンズの女が私の返事も待たずにSMの箱を取って中から一本引き抜き出しました。いつもなら、知らない人からそんなことをされて許す気にはなれないのですが、この店は女たちの縄張りで、私がここのルールに従うのが道理で、私のルールに従わせるべきではないと何となく感じました。
「あんた、新顔でしょ?」と、煙草の火をつけた女が聞いてきました。
「いや、違うよ。」
「どっから来たの?」
「ムウェンベタヤリ。」
私は女たちにも会話にも興味が湧きませんでした。GGの娘の連れの邪魔をするか、鬱陶しい女2人に付き合うかをじっくり考えながら、2つの考えの板挟みになっていました。
「ウェーター、ピルスナー1本、この人につけといて。」と、ミニスカートの女がウェイターに注文しました。私は嫌だと言って自分のグラスとビール瓶を取り、ドクターGGの娘がいる奥の席へ大股で歩き出しました。ムンビは私を見て私だと判り、両腕を広げて近づいてきました。暖かいキスと抱擁でした。大変な歓迎振りでしたが、店の客の前だったので恥ずかしい気もしました。しかし、ムンビの誠実な態度に私は感動していました。
ピルスナー
「可愛いムンビはどうしていたんだい?」と、私は言いました。
「とっても元気よ。私の旦那様はどうしてたの?」と、ムンビはさりげなく言うと、もう一度私の頬にキスをしました。
「元気だったよ。」と、私は答え、自分の命取りになるようなことをまたやってしまったとも思いました。
「来て、この人たちにあなたを紹介するわ。」と、ムンビは言って、私を奥に引っ張って行きました。例の白人と黒人の男が座って酒を飲んでいましたが、半分空になったボトルが真ん中にどーんと置いてあるところを見ると、ウォッカを飲んでいたようです。
「こちら、オルオッチ少佐とブラックマン船長。この人はドクタームングチ、私の夫よ。」
最初に183センチほどもあるブラックマン船長と握手をし、次に168センチくらいのオルオッチ少佐と握手しました。挨拶が済むと私たちは腰を下ろして色々な情報を交換し、お互いの経験を話しました。フィンランドのヘルシンキ出身のブラックマン船長は、現在ザンジバルに停泊中の船の指揮にあたっていました。1年ぶりにまたこの美しい町を見ようと、飛行機でモンバサに来ていました。ケニア海軍のオルオッチ少佐は、「私の妻」ムンビの友人でした。
「480キロもあなたと離れていたら、誰かが私の面倒を見なくちゃね。」
ドクターGGの娘は笑いました。「もしあなたが私を捨てたら、私はヘルシンキに逃げるわ。そうじゃないの?キャプテン。」
「そうだね、ケミ湖を船で行ってね。」と、ブラックマン船長が言いましたが、言葉使いが妙に真剣そうでした。みんなで酒を飲み、鶏肉を食べました。ムンビは3人の男に注目されて特に楽しそうでした。ダンスをしながらブラックマン船長がムンビの体をぴったりと抱き寄せ、ムンビも腕を船長の首に巻きつけたとき、私は少し妬ましい気持ちになりました。私は自分の体をつねり今や形勢は逆転してしまったのと自らに警告しました。私と船長に2人プレイの相手が出来てしまったわけです。オルオッチ少佐がムンビと踊る番になり、少佐はムンビと見事な踊りを見せました。私は長いことダンスをしていませんでしたので、自分の番が来るのをひどく恐れてしまいました。イバダンでは、練習も要らない好き勝手な「ハイライフ」というダンスを踊っていました。幸い、私の順番が来た時には、ボンゴ・ボーイズによるスローワルツのお馴染みの古い曲が流れ、まるでアームストロングが生き返ってきたかのように、トランペットが鳴り響きました。
ルイ・アームストロング
「2人はワルツを踊っていました。」と、ボーカルが歌いました。「知らない男が歩いて近づいて来て、君が歩いて出て行ったとき、夢のようなメロディーに乗って……。」と歌は続き、私は「ムンビ・ワ・ギケレ……。」と付け加えました。気が付くと午前2時になっていて、客は店を出るように言われました。ムンビは渋っていましたが、ブラックマン船長とオルオッチ少佐がそれぞれ今夜の相手を見つけたあと、4人は一緒に店を出ることになりました。
「海賊さん方、あの隅にいる娘たちはどう?」と、言ってムンビは私がさっき逃げ出してきたミニスカートとジーパン姿の女たちを手招きしました。
「こっちは私の夫ドクタームングチ。」と、ムンビは女たちに私を紹介し、「アリスとジュリアよ」と付け加えました。
「オルオッチ少佐に、愛しのキャプテン・ブラックマンよ」
ドクターGGの娘の正直さと屈託のない態度と何事も平然とやってしまうやり方にはいつもびっくりさせられました。ムンビは男2人は自分のものなので貸し出すだけだと2人に言い聞かせて、ブラックマン船長とジュリアを、オルオッチ少佐とアリスを組にすることで何とか話をつけました。
「これで帰れるわね、ジョゼフ・ムングチ先生。」とムンビは言い、私たちはサンシャインデイアンドナイトクラブを後にしました。2人とも酒とダンスと騒音のせいで気持ちが高ぶっていました。私はアストラホテルに部屋を取っていると言ったのですが、ムンビは無視してタクシーを止め、運転手に自宅に行くように言いました。運転手はムンビの家をよく知っていたようでした。二人が乗り込むとすぐに黙って車を出しましたから。私はドクターGGの娘がどこに住んでいるかを知りたくて何も言いませんでした。「ドクタームングチ、今回慎ましいけど豊かな気持ちを楽しんでもらえると思うわ。将来時々は未婚の女の子を思い出すように、すべて無料です。」と、モンバサ島からマリンディに車で行く途中でムンビはからかいました。
1階には店とバーと床屋兼美容室があり、2階はパン屋になっている大きい石造りの建物の3階にムンビの部屋がありました。部屋の戸を開け、ムンビが中に入るよう言ったとき、パンの焼ける甘い香りがいかにも快く出迎えてくれたようでした。とても居心地の良い、設備が行き届いたワンルームで、流し台、オーブン電子レンジ、小型の冷蔵庫、シャワー付きのトイレが一つの部屋にきっちりと収まり、大きなダブルベッドもあってソファーの役目も兼ねていました。ベッドの隣の2つの壁には、ベッドに沿うように姿見があり、寝ている姿がよく見えるようになっていました。私はコップ1杯のジュースを飲んでから服を脱ぎ、枕とシーツに触れたとたんに眠りたいと思いながらベッドに入りました。ムンビはトイレに行ってかなり大きな音を出しておしっこをし、着ていたワンピースとショーツと靴を脱いでベッドに入って来ました。モンバサで明らかになった謎ついて思い出したのは、ムンビにキスをされた時でした。
「ムンビ、僕の宿舎で寝たときのことを覚えてるかい?」と、私は話し始めました。
「もちろんよ、覚えてるわ。」
「病気にかかったね。」
「私もよ。父さんから3回も注射されてしまったわ。」
「何か言うことないのかい?」
「何を言うの?」
「僕に淋病をうつしたことだよ。」
「あなたに何をうつしたって?」と、ムンビは叫んでベッドから飛び起き、コブラのように私と向き合いました。ムンビは私の顔を思いきり叩き、堪え切れずに泣き出しました。
「ドクタームングチ、赤ん坊みたいなことは言わないで。淋病なら、どんな小さな兆候からでも分かるわ。もう何年もかかってなかったわ。あなた以外は、いつも新しいコンドームをつけるように強く言ってきたわ!」
「ごめんね。」と私は言いながら、ムンビが確かに本当のことを言っていると感じていました。300ドルの請求書を持っていた人間が犯人だったに違いありません。2人は中国製のコンドームを何個か使って愛し合い、楽しい夜を過ごしました。翌日ムンビと分かれた時に、不思議なやり方だがムンビの誠実さが大好きなのだと私は思いました。
ケニア地図