2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の18回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(18)第18章 ナイセリア菌

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第18章 ナイセリア菌

私は朝の生理的要求を満たすためにしゅっとズボンのチャックを開けました。最初はその感触に何となくはっきりとは確信が持てませんでしたが、すぐに間違いないと思いました。症状として間違いなく現われるひりひりとした特有な痛みが襲って来ました。イバダンで学生だった五年ほど前に、淋病にかかったことがありました。当時は、尿道に割礼を施されるまでは一人前の男ではないと自慢までしたものです。しかしながら、売春婦と遊びまわらず、素敵な女の子とデートをするだけの素敵な男なので、私は性感染症に感染するわけがないと信じるようになっていたので、今回の発病は訳が違いました。

ナイジェリアのイバダン市街

私が医者にかかる場合は、医療義務として治療のためにセックスをしている相手を連れて来ることが求められました。今の病気にはンデュクかムンビのどちらかが関わっていました。さらに悪いことには、もし二人のうちのどちらかが病気でなかったとしても、私が病気の仲介役をしたわけですから、二人ともおそらく既に感染しているでしょう。ムンビがモンバサに戻る前に、私は動かなければなりませんでした。

私はかなりのスピードを出してフォードエスコートKML721を走らせ、30分でンデルに着きました。顔を見れば昨日の晩もたくさん飲んだのだと分かりましたが、珍しくドクターGGは素面でした。

「やあ、ドクタームングチ。近頃ンデルはお忘れかな?」
「いいえ、ドクターGG。決してそんなことないですよ。」
「さあ、入りたまえ。嬉しい来客だな。おめでとう、今じゃ登録医師で、運伝までしてるとムンビが言ってたな。」
「そうなんです、ドクター。」私は娘の名前を聞いて、汗が噴き出て来ました。ムンビが父親とどれほどおおっぴらに私について話すかはわかりませんが、私とムンビには既に隠しごとができていました。」
「大丈夫かね?『床屋は自分の後ろ髪は切れない』というギクユの古い諺があるだろう?」と、その老人は、熱があるのではないかと私の額に手を当てながら聞いてきました。

「諺は知っています。だからこうして診てもらいに来たんですよ。どうも淋病みたいで。」
「おやおや、ドクタームングチ。淋病でこんなに大量の汗をかくんかね?戦時中の朝鮮やビルマ、ソマリアでも、セックスしたらすぐに感染したそうだ。ズボンを下ろしたまえ。」

両方の尻に相当痛い注射をし、これで何日かすれば元のしゃんとした体に戻ると保証し、容器半分ほどのアンピシリンを出してくれた年老いた医者の言葉に私は従いました。

ムンビが私と一緒にいたことをドクターGGるのが心配でしたが、私はムンビについては尋ねませんでした。自分の娘が私に性病を感染させたと知ったら、父親のドクターGGはどう思うのだろうか思いました。

「娘を治療した後だから、残ったのはこれだけだったんだよ。」

私はひどく腹を立てるところでした。と言うことは、この老人は私が治療に来た病気に自分の最愛の娘ムンビが関係していることを知っていたわけです。以降、二人はこの問題について二度と口にしませんでした。

運転して家に帰りながら、今回起こったことにとても恥ずかしい思いを感じていました。自分の性器が以前はなんとも無かったことを考えると、ナイセリア菌はムンビから来たものに違いありません。一番最近の女性との出逢いの場面がより鮮明に思い出されました。ムンビだけでなく、あの場にはンデュクもいたのです!

「ああ、なんてことだよ。医学研究生の偽善者ドクター・ムングチ、お前は一体何をやってるんだ?」と、私は声に出して罵りました。つい先日、性感染症の脅威という闘いに勝つために、マジェンゴの公衆トイレにコンドームの販売機を設置するという主張を強く支持したところです。

「ドクタージョゼフ・ムングチ、お前は自分の体のことを考えなかっただけでなく、鼠かハマダラカか他の危険な媒介動物のように二人の女性の病気の仲介役になってしまったのだ!」
私は独りで叫び声を上げ、こんなことは二度と起きないようにと願いました。これからはコンドームの使い方をきっちりと説明して使うように奨めたいと思います。

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ンデュクはがかんかんに怒りながら私の宿舎に入って来ました。あの二人プレーをしてから10日後、私がGGの診察を受けてから一週間後のことでした。ンデュクは文字には出来ない卑猥な言葉で私を罵りながら300シリングの請求書を私に投げつけました。

「ジョゼフ、あんた汚いわね?」
「何、どうして?」
「よくも性病をうつしてくれたわね。」
「ンデュク、聞いてほしいんだ……。」
「先ず300シリングの返金をしてもらいたいわ。」
「何のだい?」
「わかるでしょ、医者が淋病の原因はあんただと言ってるわ。」
「どうして僕が原因だと判断するのさ?」
「ジョゼフ、私はあんたを訴えるわ。」

訴えると脅されても、300ドルを返せと言われても私は)心配しませんでした。特に腹立たしいのはンデュクが向けた非難の矛先でした。

「しかし、君は肌の白い愛人と遊び回ってるよね?」と、私はンデュクがひどく嫌う話題を持ち出しました。
「白人には性感染はないわ。」
「何を言ってるんだよ?」
「ブラウンさんは素敵で、売春婦は買わないわ。」
「性感染症が白か黒かをどうやって知るんだい?」

二人は終わりのない遣り取りを始めました。私はお互いに矛先を向け合うことが二人に取ってどれほど無意味なものかを証明しようとしました。性病を私にうつしたのは君だと思ったが、もしそうでないとすれば残るのは一人だよ、と私はンデュクに説いて聞かせました。

「そう、あのモンバサの売春婦だったの?」と、ンデュクは叫んで、座ったり起き上がったりする度にいつもぎいぎいと音を立てるソファから立ち上がり、そのまま寝室に行きました。「性病がうつった人の服をここに置いとかないでよ!」と、ンデュクが言いました。あっという間に、ムンビのショーツとブラジャーとユーニスが置いて行ったワンピースを選び取って、ンデュクは暖炉の火の中に投げ込みました。

「だめだ、ンデュク、やめてくれ。」と、私はンデュクに頼みましたが、間に合いませんでした。絹の布地は既に縮み始め、私が暖炉から取り出した時には、ユーニスのワンピースには三つほどもう繕えないほどの穴が開き、ムンビの下着も半ば焼けてしまっていました。

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ある日、私はンデュクとムンビの比較をし始めました。恐ろしいことに、秘書のンデュクよりも売春婦のムンビの方に魅力を感じていました。ンデュクはわがままで、自己中心的で、口喧しい女でした。自分の世界だけが大切でした。それに引き換え、ムンビは素直で、愛らしく、聡明なうえに決して私をなじったりしませんでした。独特の言い方で、私を好きだと言ってくれました。ンデュクは私を大切には思っていませんでした。ンデュクにはイアン・ブラウンとその金が大事だったと思います!ムンビはひどく魅力的で、ベッドの中でも外でも一緒にいて心が安らぎました。反対に、ンデュクは場所によっては苦痛を感じました。うわべは堂々と服を着こなし香水の芳香を漂わせていましたが、ンデュクは下品で虚栄心に満ちていました。物質的にも精神的にも、過剰なほど私に期待を寄せ、私が期待に添えたことは一度もありませんでした。不思議なもので、ンデュクの愚痴や口喧しさが私にある効果をもたらしました。ンデュクに釣り合うように、更に高価な服を着るようになり、家具も年代ものを買うようになっていました。いつもブラウンの金のことを考え、金持ちへの憧れがじわじわと心の中に入り込んできていました。

ある日、そんな事に深く思いを巡らせている時に、ユーニスがドアを叩きました。会員になっているナイロビ・クラブに車を置き、そこから2, 300メートル南にある医師用宿舎まで、ユーニスは歩いてきました。
私はワンピースが燃えてしまった経緯を説明しました。ユーニスは落ち着いて事実を受け止めてくれましたが、原因も考えず服のような無生物に怒りをぶつける単純な女とは付き合わないほうがいいと、私に警告しました。ユーニスは本当に物分りの良い人でした。私を大切に思っていると言い、いつかそのことに気が付いて欲しいとも言いましたが、私は返事をしませんでした。

私の愛情はどこか他にあるはずでしたが、どこにあるかは分かりませんでした。ムンビといっしょでも、ンデュクといっしょでも、マインバの妻といっしょでもありませんでした。アイリーンは妹のような存在で、悩みを打ち明けられる唯一の人間でしたから、アイリーンといっしょでもありませんでした。かわいそうに、アイリーンは仕事にすべてを捧げ、心が寛く、人生に満足していましたし、父親の愛情と私との友情に幸せを感じていましたが、それでも、何が原因だか本人にも分からない満たされない性欲に苦しんでいました。信じられません。

ケニア周辺地図

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登録医師としてケニア中央病院に入った半年後に、ギルバートが死にました。希望もなく治療をして苦しんできた看護師や医師の間では、密かに祝杯が挙げられました。その時第20病棟で担当に当たっていたのはギチンガ医師で、四年半もの長い間ギルバートが懸命に病気と闘ってきたせいでしょうか、結果的にはとうとうギチンガ医師が手を出してしまったようです。安楽死や中絶とピポクラテスの誓いに関するギチンガの異論を理由に、病院の中央委員会はギチンガが不正行為をはたらいたのではないかという嫌疑を掛けました。ギチンガ医師は謹慎させられましたが、その後、調査で嫌疑を立証出来なかったために復職を許可されました。ギチンガ医師は、リバーロード診療所を担当しながら医療の日々をまた送ることが出来たので、謹慎中はこれまでに無く充実した時間だったよ、と私に言いました。KCHの登録医師として働いていたので、約束していたのに、ギチンガ医師のために働くことが出来ていませんでした。

アイリーンは、ギルバートが死んだ日に病棟を出たとき、ギルバートは非常に陽気で元気だったので、ギチンガ医師がギルバートを毒殺したと確信していました。アイリーンが訴えると、ギチンガ医師は目を丸くしてから、アイリーンに微笑みかけました。アイリーンの好きな、特別な温もりと感謝の気持ちが伝わって来る微笑みでした。ギルバートがランガタ墓地に埋葬されたあと、アイリーンは何日か泣きました。

ナイロビ市街

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執筆年

  2010年6月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 23

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(18)第18章 ナイセリア菌

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の17回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(17)第17章 医師用宿舎B10

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第17章 医師用宿舎B10

 私は性感染症の専門医になろうと決めていました。リバーロード診療所ではすでにあまりにもたくさんの事が起きていたので、私はもっと多くの知識を得たいと思い始めていました。政府は公立病院で働く医師に個人の診療所を経営するのを止める命令を出しました。ギチンガ医師から私に政府の職を辞める依頼がありましたが、私は断りました。ギチンガ医師自身、政府の職も辞めないし、診療所を二つも持っていました。ギチンガが犠牲にしたかったのは自分の雇ったムングチ医師でした。

私は性感染症に関する本を読み漁りました。どの本も性感染症の原因が道徳にあると考える傾向にあり、その話題については、すべての著者が病気の蔓延の主な原因は性の乱れと道徳の欠如であると書いていました。予防策として一夫一婦制の安定した関係が健全だと推奨され、売春は声高に非難されていました。この問題をじっくり考えれば考えるほど、性感染症対策がうまくいかないのは、道徳のせいにする姿勢と、治療とは切り離せない費用の問題が原因であると確信するようになりました。私たちが性に関する問題をもっと公にし、例えば淋病を普通の風邪のようなごくありふれた病気と見なすようになれば、感染した人もためらわずに医療の助けを求めるでしょう。公立の保健所や病院がもっと速く薬が手に入るようにすれば、両機関が治療の妨げになることもなくなるでしょう。性感染症の患者は差別され、軽蔑され、恥ずかしい思いを強いられて、結果的に、意識をしてもしなくても、感染したまま病気を広げてしまっている、と私は感じていました。

性感染症への社会的な偏見と戦うために建てられたので取り組み姿勢も違うだろうと期待して、クロスロード沿いの特別治療診療所を訪ねましたが、事態が更に悪くなっているのがわかっただけでした。患者は、セックスの相手を一緒に連れて来るように言われていました。私が診療所の経営をするなら、誓って、患者に相方を連れて来るように言ったりはしないでしょう。むしろ私なら、性感染症は医師が患者に相談を受けるごく普通の病気であることを明らかに出来るように努力するでしょう。道徳的な束縛から如何に性を解き放すかが、今後の私の最大の課題になりそうです。人間は男も女も、牛や犬や鶏や山羊のように、どうしてみんなの前でセックスをしないのだろうかという別の考えが、ふと頭を横切りました。

ケニアでは、人前で愛撫やキスをすれば人は眉をひそめていましたし、ミニスカートも一時は流行りましたが、すぐに廃れました。今では、女性の脚を見せるスリット入りのスカートに人気が集中し、セックスと道徳に関しては、ケニアも間違いなく世間は開放の方向へ向かって進んでいました。

人間の脳は極めて強力な器官で、男女が性の問題で公然と張り合うようにしてしまう働きがあると書いたデズモンド・モリスの著書『裸の猿』を読んだことがありました。これが、結果的には一夫一婦制の関係や、セックスの相手を選ぶ際の年齢の範疇化に結びつくものの実態です。母親と息子、父親と娘、兄弟姉妹間のセックスに対する反対意見も書かれていました。しかし、誰もがやっていて、一日おきにでも誰かとしたいと思うセックスの謎めいた秘密については説明がありませんでした。

私は医師用宿舎の一階にあるB10号室に引っ越しました。駐車場、台所、トイレ、風呂、暖炉つきの広々とした居間と、ゆったりした寝室付きの部屋でした。ここでこれからの二年間を過ごすことになりました。以前のウッドリィキベラやイーストレイの住まいはこことはまったく違っていました。ウッドリィキベラのワンルームは、キッチンと風呂と居間と寝室だけでした。インド式の共用トイレだけが部屋の外にありました。イーストレイの部屋には、台所兼居間と寝室が一間ずつと、臭いが鼻につくいつも汚れたトイレがありました。メアリ・ンデュクはその場所を豚小屋に譬えていましたから、医師用の宿舎を訪ねて来た時に宿舎を大いに気に入ったのも不思議ではありませんでした。

「私の家には暖炉は無いわ。ここなら火を熾せるのね。」と、ンデュクがソファの上に脚を投げ出し、背筋を伸ばしながら大きな声で言い、古いソファがぎぃーぎぃーと大きな音をたてました。

「ソファを壊してしまうよ。」と、私は注意をしました。
「新しいのを買えばいいでしょ。」と、ンデュクはさらに大きなぎぃーぎぃーという音をたてながら文句を言いました。
「きっとブラウンさんは、豪華な暖炉を持ってるんだろ。」と、私は嘲けるように言い、ンデュクと距離を置きたい時にいつも使う話題を持ち出しました。その日は一日中、かなりきついテーマである神経梅毒にかかりきりでした。そんな時にンデュクが訪ねて来て、口喧しくあれこれ言って私をうんざりさせました。それにその時、医師用宿舎に引っ越しをしたと言った時に、宿舎を見ることに大いに興味を示したドクターGGの娘ムンビが来るのを、私は待っていました。

大抵の大学院生(医師)が住んでいたために、そこに住んでいる人たちは「登録医師用」と呼ばれ、先輩の医師、外科医や内科医、その他の分野の医師の監督の下で、ケニア中央病院を運営していました。臨床検査や医療相談、比較的簡単な手術、産科や整形外科や小児科が出す殆んどの処方箋は登録医師の責任でした。年輩の医師は私たちを管理、監督しながら、町のあちこちでたくさんの診療所を運営していました。難しい手術や込み入った問題が発生すると、ギチンガのような医師に相談しました。これは実に効果的で、私たちには何の不満もありませんでしたが、そのような診療所の存在は、時として政府の反感を買いました。診療所があるために、政府は殆んどの専門家を奪われたうえ、診療所があるために生じる薬局や医薬品の不足を解消するために混ぜものの入った薬が出回る機会を提供していました。

**********************************

 「引越しのお祝いをしましょうよ。最新の設備がすべて整っている宿舎よ。二人でセレナに行きましょう。」と、ンデュクは私がそれとなく白人の愛人について触れたことを無視して叫びました。
「今は祝杯をあげる気分じゃないよ。」と、私は不機嫌そうに言いました。ンデュクと一緒に居たくありませんでしたし、セレナに行く気分にもなれませんでした。ンデュク一人だけで私の一週間分の酒代くらいの酒を飲みますから、セレナにンデュクを連れて行くには財布の中身が少なすぎました。
「じゃ、マサンデュクニにしましょうよ。」
マサンデュクニは、その手の酒場の椅子としてよく使われたビール瓶の木箱から名前が付けられた無認可の安酒場でした。
「今日は一日ほんとに大変だったんだよ。」
「ジョゼフ、一体どうしたのよ?」
「どうもしないさ、ただ疲れてるんだ。」
「そう!私に疲れたってことなのね?」
「いや、何もかもに疲れたんだよ。」
話し合ってもどうにもならず、私はだんだんと苛々し始めました。時刻はもう6時で、道を間違えてなければムンビがいつ来てもおかしくない時間になっていました。
「なあンデュク、どうだろう、お祝いはまた別の日にしよう。そう、明日はどうかな、その気になるかもしれないし。今は、金持ちの色男にセレナに連れて行ってもらっても気にしないよ、俺は。」
イアン・ブラウンの金回りの良さに触れると、ンデュクはいつも怒り出しました。
「嫌よ、今夜はあの人にヒルトンに連れてってもらうわ。今すぐここから電話させてもらうわよ。」と、ンデュクは恨めしそうに言い、急いで電話口に行って電話を取り上げました。
「それは内線電話だ。病院の外には通じないよ。」もし外部に電話をしたければ、病院の交換手を使えばいいので、半分は嘘の話でした。

お金のために愛人を大事にしているのが今では私には分かっていましたが、イアン・ブラウンのことを私に言われて、ンデュクは傷つきました。その男がどれほど素敵で、私がブラウンのようにメアリに洋服を買う余裕がないので、ある意味では如何に私がブラウンに援助されているかをンデュクはまくし立てました。パリ製の香水、マニキュア、マスカラ、口紅、ブラウンがロンドンから買ってきた下着や衣類はすべて、ンデュクにとっては、私がその銀行屋に感謝すべきものでした。ンデュクの考え方は私には受け入れられませんでしたが、メアリはしつこく、私のような医者には上品に服を着こなす女性が必要だと言い張りました。それは本当かも知れませんが、この特別な金曜日には、ドクターGGの娘のようなもっと普通の人間がそばに必要でした。私はンデュクにさようならを言い、どさっとベッドに腰を下ろして、ムンビと過ごす今夜のことをあれこれと考えました。

戸を叩く大きな音で目が覚めました。ムンビがとうとう医師用宿舎のB10号室までやって来たのは、7時を少し回った頃だったと思います。すらりとしたきれいな体の線を際立たせる青いデニムのジーンズをはき、米国の映画女優のように見える黄色のブラウスと赤いバンダナを身につけていました。踵の尖った靴は黒い色で、ンデュクなら自慢しそうな見るからに高価な輸入品でした。
「そうね、これでパパが言ってたスーパードクターが作られるのね。」と、ムンビは叫ぶと、古いソファに腰掛け、蹴って靴を脱ぎ捨てました。
「そうだよ、ここが登録医師たちの村だよ。」
「ここに一年住むのね。」
「いや、2年だよ。」
「じゃ、1980年までは結婚しないということね。」
「そうじゃないよ。結婚はいつでも出来るさ。明日でも、1980年でも、1990年でも、 2000年でも、ね。」
「私はここでは結婚しないわ。」
まだ誰とも結婚する気はないとムンビに言おうとした時、なぜか「言わないほうがいい」と誰かに警告されたような気がしました。私はムンビに見るように写真のアルバムを渡し、冷蔵庫にピルスナーがあるから自由に飲むように言いました。私はシャワーを浴びてジーンズに着替え、古いケニア警察犬養成所の向かいにあるマサンデュクニにムンビを連れて行きました。その店はケニア中央病院から歩いていける距離にあり、近いだけではなく、ビールも非常に安いので仲間の間ではかなり人気がありました。国内では極めて値段の高いワインやリキュールやウィスキーなどは出ないので、実際、財布の中身に容赦のないンデュクのようなタイプの女性から男を救ってくれました。

ピルスナー

店は混雑していて、病院の職員や看護師や臨床系の助手たちが、タスカーやピルスナーやホワイトキャップなどのビールで喉の渇きを癒しているのが見えました。店内のあちこちから賑やかな話し声が聞こえ、店の色んな所で客がグループを作っていました。私たちはジュークボックスの隣の空いたベンチ椅子に腰を下ろして、私はそれで足りるといいのにと思いながら、ホワイトキャップとピルスナーを4本ずつ注文しました。二人は飲み始めましたが、今回はムンビがかなり飲めるようでした。

ホワイトキャップ

「お酒は一週間振りね。ずっと下痢してたのよ。」と、ムンビが言いました。
「モンバサはどうだい?」
「そうね、相変わらずね。アメリカの水兵さんたち、もう帰っちゃったわ。」
「どういう意味だい?」
「アメリカ海兵の季節のこと、聞いたことないの?」
「いや、聞いたことないよ。」
「みんなって言ったでしょ。男だっているわ。」と、ムンビは素っ気なく言いましたが、私は無理にその話を続けたくありませんでした。ムンビが1957年に生まれて、4段階のC評価というあまりよくない成績で高校を卒業したこと以外にはあまり多くを知らないのに気が付きました。ムンビはすべり込んだ秘書コースの学校に通うためにモンバサに行っていました。
「タイプライター、いまだに恐ろしい機械ね。見ると毎回、嫌な気分になるわ。」と、ムンビが言いました。
「これからどんな仕事をしようと思ってるの?」と、私はムンビが現在何をやっているのかという話題を避けながら聞きました。
「そうね、結婚して子供を10人つくることかしら。」
「そんなにたくさん?」
「お医者様の給料とただの治療代、私が欲しいのはそれだけね。」
「なるほど、ね。」

ムンビはどんな運命が待ちうけているかについては疑いを持たず、たとえ男が浮気をするものだと分かっていても、父親よりも金持ちの医者と結婚をして十人の子供を設け、父親に対しても誠実に生きようと考えていました。当面は、モンバサで出来ることをやって暮らしていました。
「あと2年ってことでしょ?」と、ムンビは私が恐れていた話題をまた持ち出しました。
「そうだね。」と、私は自分の寿命を縮めているとは知らずに素っ気なく言いました。

私たちはしばらく飲み続け、10時になろうとしかけた頃に、洩れ聞こえて来た会話の内容を聞いて私は身震いしました。
「トムの殺人以来、あの人が一度もキスムに来ていないなんて想像出来ますか?」と、背の高いルオ人の助手が言いました。
「ギクユ人に支配権があったとは言え、やはり、あの人は優れた指導者だったよ。」と、医師が付け足して言いましたので、私はますます聞き耳を立てました。
「あの人たちは一体何を話しているんだよ?」と、私はムンビに聞きました。
「ケニヤッタが死んだ話よ。」
「ケニヤッタがどうしたって?」
私はいきなり拳で殴られたようでした。
「一体、あなた一日中どこにいたの?昼の一時から、ずっとニュースでやってるわ。」

15年ほどケニアを支配してきた老人が死んでいたとは知りませんでした。ムンビの話では、ケニヤッタが数日前に、モンバサの家族全員と海外の外交団全員に電話をかけ、その週の出来事で自分が死ぬことがはっきりするだろうと言ったそうです。
「老衰で死ぬたくさんの人が自分の死期がわかるんだよ。」と、私はムンビに言いました。「犬の溜まり場」と呼ばれている店の中では、何組かの客のグループが1978年8月20日の話題で遠慮なく言い合っていました。
「コイナンジェとギチュルが後を継がなくてよかったね。二人とも危険だからな。」と、カンバ訛りの言葉を話す細身の男が言いました。
「モイが政府内の民族間バランスをうまく取って、景気も良くしてくれるといいんだけどな。」
「二人がモイにやらせると思うか?」
「もちろんさ。二人が誰を出馬させることが出来ると思う?ギチュルはコイナンジェを、コイナンジェはギチュルを出馬させたりはしないからな。」

ダニエル・アラップ・モイ

いつもなら、「犬の溜まり場」は最後の客が帰る朝の4時か5時まで開いているのですが、今夜は11時に店が閉まりました。外部から人が病院に入りこまないように建ててある二つの門を通って、私とムンビはすっかり酔いながら自宅に向かって歩きました。警備員が居眠りをしているのが見えたので、ムンビは起こして中に入れてもらえるように、赤い靴で警備員の詰め所を何度も蹴らざるを得ませんでした。
「何号室ですか?」と、厚手の黒いレインコートを着た年配の警備員が聞きました。
「B10ですよ。引っ越してきたばかりです。」と、私が言うと、欠伸をしながら、当然寝る時間だから寝る必要があるんだと強調しました。中に入れてもらい、何も口にしないで、二人はそのままベッドに直行しました。

ムンビを怒らせるようなセックスをしてしまったに違いありません。後になって気が付きましたが、私の体をぐいっと押しやって、ムンビが寝ぼけた酔っ払いと私のことを呼んだのを思い出しましたから。目を覚ましたとき、私はまだ夢を見ているようでした。玄関の戸の前で、ものすごく大きなどすんという音がしました。
「ジョゼフ、ジョゼフ、ムングチ先生、起きなさいよ。」というンデュクの神経質な声がしました。鍵穴から覗くと、ピンクのプジョーが止まっているのが見えました。
「ちょっと待っててくれ。」と、私は叫び、そのあとタオルを掴み取って腰に巻くと、ムンビが起きないよう祈りながら戸を開けました。
「何か用かい?」と、私はンデュクに聞きました。こんな遅い時間にンデュクを中に入れたくありませんでした。
「凍えてしまうわ。」と、ンデュクは文句を言うと、私を戸口の方に押しやりました。寝室の方に歩いて行きそうだったので、思わずンデュクの左手を掴んで自分の方に引っ張りました。
「だめだよ。入らないでくれ。」と、私は何故ンデュクが寝室に入れないかを隠し通せたらと祈りながら頼みました。しかし、思ってもみないような速さと力で私から手を引き離し、ンデュクは悪態をつきながら寝室に歩いて入りました。

グループセックスのことは聞いたことがありましたし、学生時代に一度、ルームメイトとイバダンの売春婦二人と寝たこともありましたが、医師用宿舎B10にいる女友だち二人を相手にすることになるとは思ってもみませんでした。
「あら、ここには誰がいるの?だから私を中に入れないようにしたわけ?」
と、ンデュクは嘲笑い、ムンビの顔にかかった毛布を剥ぎ取りました。ムンビは目を醒まして明かりに両目をしばたかせながら、ようやく目を開けました。
「ムングチ先生、これは一体なんなの?」と、ムンビは叫びながら、毛布を引っ張りあげて尖った乳首を隠しました。

二人の女の違いに気が付いたのはこの瞬間でした。ムンビは締まってすらりとした乳房で、お腹も平らでしたが、メアリはとても大きな乳房で、お腹も太めで少し突き出ていました。混乱しながらも、一つ屋根の下で同時に二人の女と向き合う、そういったことでも起きなければ、医学部で読んだ本の内容がすべて、実際の役に立つことなど無いだろうなと考えていました。
「ンデュク、二人はすごく眠いんだよ。」と言って、私はベッドに飛びこみました。ベッドはンデュクに邪魔をされたと言わんばかりに、きーっと大きな音を立てて軋みました。
「私だって眠いわよ。」とンデュクは毛布を引っ張って、服も脱がずにベッドに潜り込んできました。ベッドは大人三人の重みで一層大きくぎーっと軋みました。メアリのベルトが私の背中を突付くので、寝たければベルトを取ってくれよ、と私は文句を言いました。メアリは服を脱ぎ、気が付くと私は、体の隅々まで知っている二人の女に挟まれていました。

半時間ほど経った頃、ムンビは私がそわそわしているのに気づきました。
「その女を相手にしたら?私はもう済んだから。モンバサでは、二人を相手にするのをツーサムって言うのよ。」と、ムンビは不機嫌そうに言うと私に背を向けました。ツーサムも悪くないなと思い始めながら、私は寝た振りをして両方の二の腕をしっかりと押さえていました。私は眠れず、メアリが私の体を触り始めたとき、肉体の本能に屈してしまいました。ムンビもメアリも私に気に入られようとし、私も競争相手としてその夜が始まった二人を相手にしようという気持ちになってきました。

ンデュクは新しい女とうまくやるように私に言うと、翌朝かなり早い時間に出て行きました。今のところ私は誰のものでもなかったので、罪の意識は感じませんでした。メアリ・ンデュクにはイアン・ブラウンがいて、ムンビにはたくさん話を聞かされるモンバサの男たちがいました。しかし、モンバサでのツーサムという言葉がムンビの口から出たとき、私は動揺し、ムンビはモンバサで生きるために何をしているのかを知りたくなりました。なるべく早いうちにその話題を持ち出そうと心に誓いました。

モンバサ

**********************************

 ベッドの隣の本棚の上に置いてある時計を見ると、7時半でした。ムンビはかすかに鼾を立ててすやすやと眠っていて、私は起こしたい気持ちになりました。昨夜のビールと寝不足で頭が痛み、こんな状態で授業に出ても何かに集中出来るのだろうかと思いました。

ベッドから飛び起き、シャワー室までよろよろと歩き、水に打たれれば素面に戻って目も覚めないだろうかと思いながら、蛇口を一杯に回しました。思い出したのは、水に背中を打たれた瞬間でした。今日は午後まで授業はありませんでした。しかし、自分の部屋で待機しておく必要はありました。私はシャワーを止め、背中にかかった水を拭い去ってベッドに戻りました。
「夕べは素晴らしかったわ。」
ムンビが目を覚ましました。
「何だって?」
「素晴らしかった、って言ったのよ。」
「よく分からないね。」
「夕べは、あなたすごく良かったってことよ。」
「僕が?」
「そう、ツーサムは誰にでも動物的本能を呼び覚ますのね。だから、普通よりずっといいわけよ。」
「どうして分かるんだよ?」
「モンバサで私が何をしてると思ってるの?水兵は特に好きなのよね。」
私は体に稲妻が走ったような衝撃を感じました。
「じゃ、君はアメリカの水兵を相手にしてるの?」と、私は聞かなくてもいい質問をしてしまいました。
「そうよ。アメリカ人に、韓国人、パキスタン人、日本人、シンガポールの水兵だってね。みんな田舎ものよりはるかに気前がいいわ。」と、ムンビはきっぱりと率直に答えました。
「生活のために何をしてるんだい?」
耐え難くても、ありのままを知る必要がありました。
「特に何も。日中は着飾って、水兵が町にいて暮らしている間、相手をするわ。」
「売春婦みたいに自分の体を売っているのかい?」
「女はみんな体を売ってるんじゃないかしら?」
「みんなじゃないさ。」
「ほんと?」
「本当だよ。」
「夕べはあなた、私を買ったじゃないの。」
「買ってないよ。」
「ンデルでいっしょだった日は?」
「買ってないよ。」
「見えてないようね。私はンデルであなたのお金でピルスナーを10本飲んだのよ。夕べは7本くらいね。おまけにあなたのベッドで寝て、お茶を飲んであなたの食べものを食べて……。」
「それは『買った』とは言わないよ。」
「あなたを共有したあの女性はどうなの?プジョー304に乗って、ロンドン製の服と靴を身につけて、ケニア王妃のような化粧をしていたあの女性は誰なの?」
「秘書をしている。」
「自分の体を売らない女がいるかしら?」
「僕には分からないよ。」
「体を売るのと、ただで与えるのと一体どこが違うの?」
「少し眠りたい。」
私はムンビと遣り合うのを諦めました。ムンビもそうでした。私は、どんな風に言われても充分に自分を正当化出来そうな機転のきく気性を認めるしかありませんでした。売春についてのムンビの話の中には明らかに正しいこともあると認めざるを得ませんでした。

目が覚めた時は太陽の光がふんだんに差し込み、時計が11時を指していましたから、私はいつの間にか寝てしまっていたのでしょう。ショーツとブラジャーを浴室のタオル掛けにぶら下げたまま、ムンビはずっと前に帰ったようです。混乱したまま思いはぐるぐると頭の中を回っていましたが、意識はだんだんとはっきりして来ていました。シャワーを浴び、カーキ色の事務服の上に、赤文字でムングチ医師と書かれた名札のついた白衣を羽織り、聴診器をぶら下げて第20病棟に向かいました。第20病棟はもう私の担当病棟ではありませんでしたが、頭が混乱するといつも私はアイリーンを訪ねて行きました。アイリーンは思い遣りがありましたから、私の周りで起きる様々な出来事についてかなりよく知るようになっていました。
「シスター・アイリーン、調子はどう?」
私とアイリーンは病院では兄妹のように親しくなっていて、私は血縁関係に近い感じでアイリーンのことを見ていました。
「大丈夫ですよ。ムングチ先生は?」
「売春婦と寝て来たよ。」
「まあ!それで、調子が悪いんですね。」
「いや、そうではないけど。」
「昔レオナルドが私にしたように、その売春婦が先生に危害を加えたりしなければ、何も問題などないわ。」
ほぼ4年も前に起こった出来事を思い出したので、私は驚きました。
「いや、問題なのは、その娘が売春婦だってことに僕が気付いてなかったことだよ。」
私は、少しだけ知っているドクターGGの娘のこととその娘を私が如何に素敵な娘だと見なしていたかを話し続けました。ムンビが売春婦と分かった今となっては、ムンビの世界にいる米国や韓国やシンガポールの水兵とは、とても付き合えそうにありません。
「かわいそうに、ムングチ先生。でも、先生はとっても素敵な人よ。」
こういう反応は、アイリーンと私の間に育まれてきたある種の喜びの表現でした。明らかにお互いが癒され、慰められるような効果があるように思えました。そういう言葉が交わされる度ごとに、苦しみが体からすべて滲み出て行くような感じがしました。私がアイリーンから聞きたかったのはまさにこういう言葉で、アイリーンの言葉を聞いて、私は日常に戻って行けると信じるようになっていました。私はアイリーンに礼を言って、食堂に向かいました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年5月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 22

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(17)第17章 医師用宿舎B10

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の16回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(16)第16章 豚野郎フィル

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(16)第16章 豚野郎フィル

フィル・オグンヤはカベテ大学を卒業した獣医で、今は地方管轄の獣医係官でした。リバーロード診療所までドクターGGの苦情を言いに来た朝に、私はその人に一度会ったことがありました。ンデルで1年前に治療を受けてあなたのことを知っていますと言うことでしたが、私の方は髭を生やしたその人の顔をまったく覚えていませんでした。ドクターGGは、獣医用の大きな注射針を使っていたにも関わらず、治療の効果は出ていませんでした。大きな注射針で15ccのペニシリンを筋肉内に注射したために、危うくフィルを死なせてしまうところでした。老医師の注射のせいで腫れ上がったフィルの臀部を調べて、大きな陰茎に梅毒性の初期の潰瘍があると診断し、ちょうど市場に出たばかりの新薬を試せば治るのではないかと勧めて、3日置きに通院するように言いました。4日後、フィルはみすぼらしい身なりの女性と一緒に現われ、私に妻だと紹介し、妻には病名を言わないで治療してくれませんかと言いました。

フィル夫人は夫が出て行くと嫌だと言い出しました。二人とも病気だから病院に行こうとしか夫は言わなかったので、どこが悪いのかを教えてもらわなければ困りますと訴えました。どうするのがいいのか迷いましたが、取り敢えず血液と尿の検査をして、2日後にもう一度来るよう伝えました。合計すると200シリングにもなる診察費と治療費を翌日診療所に持って来る約束をしていたのですが、結局フィルは来ませんでした。妻の検査結果が木曜に出ましたが、血液検査からはトレポネーマの兆候は見られませんでした。性器を調べたり大陰唇の生体検査をしても私には何の利益にもなりませんでしたが、フィルが妻に病気をうつした可能性は調べられたかもしれません。診療所のお金を使わなければ、夫人に高価な薬を提供するのは無理でした。そのために私は非常に厄介な立場に立たされました。私は夫人に、あなたにはどこも悪いところはないと思いますが、出来るだけ早く主人に会って話しをしたい、と正直に言いました。フィルが現われたのは1週間後でした。私は治療費は受け取りましたが、夫人の治療の手付金は受け取りませんでした。

「奥さんの同意がなければ治療が出来ません。奥さんの状態がどの程度なのか、深刻なのか深刻でないのかを判断するためには、性器を調べる必要があります。」と、私は言いました。

「だめです、妻には知らせないで下さい。」
「では、奥さんには、潰瘍の検査だと伝えましょう。」
「だめです。それは出来ません。」
「あなたには、事態がどの程度深刻なのかをお分かりでないようですね。梅毒を治療しなければ、奥さんを死なせるだけではなく、あなた自身にも再感染するんですよ!」と、私は警告しました。

獣医とは言え大学まで出た人間が、病気の診断や治療のことになると、どうしてこうも世間知らずになれるのかが私には分かりませんでした。しかし、何とかうまくこの問題を処理しなくてはなりませんでした。考えるまでもなく患者を治療しなければならないという職業上の縛りもありましたし、患者の秘密も守った上で、雇い主の利益も確保する必要がありましたから。私は金と医療倫理の板挟みで、身動きが取れませんでした。

「わかりました、奥さんの治療に200シリング払って下さい。何とか様子を見てみましょう。」と私が言うと、金が要ると言うが妻は病気ではないと言ったじゃないか、とフィルは激しく言い張りました。

オグンヤ夫婦を何日か治療したあと、二人の体内から梅毒トレポネーマがすっかり消えているのを確認しました。2週間後に、今度はマインバ夫人と同じ年格好の女性と一緒にフィルが再び診療所にやって来ました。

「ナオミと言います。妻にしたように治療してやって下さい。」
そう言って、フィルは出て行きました。

ナオミは5人の子供の母親で、一人はケニア中央病院の看護師をしており、フィルは夫の友人とのことでした。性器のまわりの苦痛が激しく、夫が病気を知れば鞭で打たれそうなので、友人に相談するしかなかったようです。大方、私とマインバ夫人の関係と似たようなものだろうと思ったので、フィルとどんな関係にあるのかを敢えて聞き出そうとは思いませんでした。ナオミはフィルと違って淋病で、診療所に3回来ただけで、簡単に治りました。

フィルとはその後も会い続けて、二人の間に親しい気持ちが生まれたと思います。人間の医者が犬の医者と一緒に飲まないかとフィルがよく電話をかけて来て、私も喜んで付き合いました。フィルは愉快な話をする愉快な人物でした。一風変わった逸話の持ち主で、愛らしい女性や花や合成物や服に、きらきらするものがすべて苦手でした。

「光るものが必ずしも金とは限らないよ。このきれいな金を見ろよ。汚い金と同じくらい邪悪なものだよ。女も簡単に買えるんだからな。」
と、フィルは時折私を諭すように言いました。ある意味では、フィルは変わり者で、二流なものが大好きでした。シャツの襟もよれよれでないと気が済みませんでした。コートは清潔でしたが、いつも色の褪せたものでした。正当な理由のある金以外は信じませんでしたし、必要か正当なものでなければ最小限の努力しかしませんでした。

「例えば、ナオミだよ。俺みたいに結婚してるだろ。旦那は俺みたいにあいつを満足させてやれないんだ。これが俺の女房の話なら、大変だな。フィル夫人よりナオミが好きだったらどうしていけないんだ?」

それからフィルは、2人の女の秘密を打ち明けました。特に大きなフィルの体は、性癖が底なしであることを秘密にしていたナオミに気に入られました。フィルの結婚した妻は、最初から夫のセックスの仕方に馴染めず、最近では夫を拒むようになっていました。

「カベテ大学じゃ、女の子らがよく俺の噂をしてたって想像が出来るかい?例えば、アメリカ人の彼女がいたんだが、よく教室から引っ張り出されたよ。女房は俺が近づくのも嫌がるけどね。」と、フィルは自慢そうに言いました。

「最近、奥さんとセックスしようとしたことはあるのかい?」

私は尋ねました。

「ああ、そしたら、俺のアソコが入り込む隙もなかったよ。」
「ナオミとはどうなんだよ?」
「順調だよ。」

刺し傷による大量出血の患者の処置を手伝って欲しいとギチンガからケニア中央病院の第20病棟にかかって来た1本の電話で、フィルとナオミの関係は劇的な展開を迎えました。アイリーンは狂ったように叫び声を上げ、ギチンガ医師はアイリーンに縫合糸をしっかりと持っておけとすごい剣幕で言いました。それは今まで見てきた中でも一番不思議な運命のいたずらでした。臀部に深い傷を負った男は私の友人のフィル・オグンヤ、つまりアイリーンの母親のナオミの愛人で、傷はサウスBの自宅のベッドで二人を目撃したアイリーンの父親カマンジャに負わされたものでした。

「母親がここに来て、自分のせいでフィルが血を流していて、決して側を離れないわと私に大声で叫ぶなんて想像できます?このことは警察には言わないでほしいです。」と、アイリーンはすすり泣きながら言いました。

「巡回中の警官ではないんだよ。たとえ相手が悪事を働いていても、私たちの仕事は病人を助けることだよ。」と、ギチンガは何度も強調してきた事実を言いました。

私が後に「豚野郎」と呼ぶようになるフィルは、すっかり回復するのに1ヶ月もかかりました。フィルを刺したことで父親が母親から殴られたと聞いた時は、フィルの昼食に一服盛りたい気分になったとアイリーンは私に漏らしましたが、フィルの看護はしっかりとやっていました。

「まずは、ギルバートの装置にシアンを入れなければ。」と、いつか誰かがやってくれないだろうかと半ば期待しながら、私は嘲るように言いました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 21

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(16)第16章 豚野郎フィル

2000~09年の執筆物

<解説>

* 横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)に連載したワムグンダ・ゲテリア著『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。日本語訳のタイトル一覧のあとに表紙絵の画像を添え、作品の解説と<1>「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」を載せています。

<一覧>

<1>→「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」No. 5(2008/12/10)
<2>→「(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所」 No. 6(2009/1/10)
<3>→「(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」No. 8(2009/3/10)
<4>→「(4)第5章 ベネディクト神父」No. 9(2009/4/10)
<5>→「(5)第6章 メアリ・ンデュク」No. 10(2009/5/10)
<6>→「(6)第7章 イアン・ブラウン」No. 11(2009/6/10)
<7>→「(7)第8章 ハリマ」No. 12(2009/7/10)
<8>→「(8)第9章 マインバ家」No. 13(2009/8/10)
<9>→「(9)第10章 ンデル警察署」No. 14(2009/9/10)
<10>→「(10)第11章 リバーロード診療所」No. 15(2009/10/10)
<11>→「(11)第12章 初めてのX線機器」 No. 16(2009/11/10)
<12>→「(12)第13章 行方不明者」No. 17(2009/12/10)
<13>→「(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」No. 18(2010/1/10)
<14>→「(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」No. 19(2010/2/10)
<15>→「(15) 第15章 ユーニス」No. 20(2010/3/10)
<16>→「(16) 第16章 豚野郎フィル」 No. 21(2010/4/10)
<17>→「(17) 第17章 医師用宿舎B10」No. 22(2010/5/10)
<18>→「(18) 第18章 ナイセリア菌」No. 23(2010/6/10)
<19>→「(19) 第19章 花婿の値段」No. 24(2010/7/10)
<20>→「(20) 第20章 四十年間の投獄」No. 25(2010/8/10)
<21>→「(21) 第21章 一九七九年モンバサ」No. 26(2010/910)
<22>→「(22) 第22章 仮論文」No. 27(2010/10/10)
<23>→「(23)第23章 一匹狼の医者」No. 28(2010/11/10)
<24>→「(24)第24章 一九八二年」No. 29(2010/12/10)
<25>→「(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」No. 30(2011/1/10)
<26>→「(26)第27章 男の赤ん坊」No. 31(2011/2/10)
<27>→「(27)第28章 カナーンホスピス」No. 32(2011/3/10)
<28>→「(28) 第29章 カナーン証明書」No.33(2011/4/10)
<29>→「(29) 第30章 タラで過ごした一週間」No.34(2011/5/10)
<30>→「(30) 最終章」No.35(2011/6/10)


<『ナイスピープル』の解説>

『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが81年、ケニアでは84年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。
著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(92年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。
医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

『ナイスピープル』の表紙(表)

『ナイスピープル』の表紙(裏)

 

<1>



<1>「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」「モンド通信」No. 5(2008年12月10日)

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―① 著者の覚え書き・序章・第1章

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

「エイズにやられる危険性は殆んどないという危険な思い込みが富裕層に蔓延していることもあり、今や世界で15万人近くもいると言われているエイズ患者は、きっと今年中に倍になると思います・・・・」
1988年           世界保健機構医師    ジョナサン・マン

著者の覚え書き

『ナイスピープル』の中で、どうしても書いておきたかったことがあります。1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙の切り抜きです。3年後に今その記事を再現することになりました。

「アフリカのエイズ、未曾有の大惨事となった危機」(ハーデン・ブレイン報告)
(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。
この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。
アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。
病気がますます広がって、既に深刻な専門性の高い職業人の不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的・政治的・社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。
世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では研究者が「驚くべき割合」と記述するような確率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。
第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味では、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」
世界の多くの国では、基本的に同性愛者間の性交渉や静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきましたが、アフリカでは主に異性間の性交渉を通して病気が広がっています。
アフリカでは、70年代後半から80年代前半に病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。
アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。
WHOのエイズ特別計画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1. 75米国ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをして教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。

序章

ムンビの葬式にはたくさんの参列者がありました。ドクターGGには友人が多数いて、それも生存中のンデル出身の友人が多数いると誰もが信じていました。これまでドクターGGは、数多くの出産と少年の割礼に立ち会ってきました。咳や淋病熱の患者もたくさん診てきましたし、最近では、「スリム病」という独りよがりの診断を信じ切っている患者も助けてきました。
私は敢えてドクターGGを見ませんでした。ずっと耐えてきた苦しみがわかっていたからです。父娘の絆が他の誰よりもずっと深いのを、長年身近にいた私はよく知っていました。娘を心から大切に思い、ムンビもまた父親をとても大事に思っていました。一度ムンビに、父親と同じくらい大切に思えた人はあなただけよ、と言われたことがあります。しかし私がムンビの思いに応えることが出来なかったのですから、私への思いが枯れても仕方のないことでした。私が与えられなかった温かい家庭と家族を求めて、ムンビは私のもとを去り、ヘルシンキへ発ってしまったのです。
ムンビは私にはずっと特別な人で、聡明で勇気もあり、決断力もありました。また、本当に素直な人で、メアリ・ンデュクのように偏見を持ったり、人に厳しい態度を取ったりすることもありませんでした。自分の感情に素直で、自分の感じることや信じることを隠さなかったのです。そうした正直さゆえに居ても立ってもいられずに、生まれて来た男の子の父親であるブラックマン船長に忠実であれと信じながら外国に渡ったのです。
辺りを見回すと、ムンビの母親が何事もなかったかのような顔をして立っているのが見えました。とても死者を悲しんでいるようには見えませんでした。私に気がついて微笑みましたが、私はとても笑える状況ではありませんでしたので視線をそらし、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバが動揺しながらも話し続けるのを見つめていました。なぜ性格のまるで違う二人が一緒にいるのだろう、と私は不思議に思い、その時、自分がそれまで見てきた、人と人とが織り成してきた出来事に思いを巡らせました。アイリーンがドクターGGの隣に立って、自分の職場の同僚を慰めようとしているのがはっきりと分かりました。自分の娘が遠く離れたフィンランドで死んだと聞かされた時に、ドクターGGが心に受けた打撃の大きさを思わずにはいられませんでした。
いよいよ、持っていた花を棺に投げる私の番になりました。たくさんの参列者がムンビに最後のお別れをして遺体から離れて行くのを、私はずっと見ないようにしていました。花が棺に落ちたその時、それまで必死に堪えていた涙が溢れてきました。最後に泣いたのは何時だったかは思い出せませんでしたが、私はその温かい液体が流れるままにしていました。ここに横たわるムンビ、愛おしく、素直で、決して争わず競争相手にも道を譲るような素敵な人だったと私は思い返しました。ムンビは、私とメアリ・ンデュクとの仲が原因でモンバサを離れましたが、自分の産んだ男の赤ん坊が私の迷惑になると考えてカナンホスピスを去り、馴染みの人たちと気楽に暮せるようにと願って、帰郷したブラックマン船長の後を追ってこの国を去ったのです。
ガイ神父は30年以上も前に、ラザラスという名の男性の病気をイエス様がお癒しになったという説教をされたことがあります。神父は、民に神の偉大さを信じさせようとしてその男は病気になったのだ、と言われました。ムンビも同じ理由で死んだのだろうか、と私はふと思いました。タラ高校で何度も言い聞かされた愛の神は、ムンビに死をもたらし、私の医者としての資格を奪いそうになった疫病を引き起こした神と同じだったのでしょうか。ディン・シン医師は同じ神を信じていました。ワウェル・ギチンガもそうです。ディン・シン医師は辛うじて逃亡できましたが、ギチンガ医師は逃げ切れませんでした。神とは、ある者には与え、ある者には与えないという差別をする神だったのでしょうか?メアリ・ンデュクが生き残っているのに、ムンビのような聖人を殺した同じ神・・・。こんなことを考えながら、私の心はすっかり混乱していました。
ドクターGGの娘の亡骸を納めた棺に背を向けて、私はその場から立ち去りました。その時誰かが、私が倒れないように腕を掴んできたのを感じました。シスター・アイリーンでした。仕事に忠実なこの看護師が、私にどんな過酷な出来事が起きても、いつも傍にいてくれたことを私は思い出していました。そうです。病める者や悩める者が心安らかにいられるように、アイリーンのような聖人をも神様は遣わして下さっているのだという事実にも気が付きました。私はアイリーンを見つめ、私のことを気遣ってくれる人が本当に必要だとしたら、アイリーンこそが喜んで私を大事にしてくれるだろうと思いました。

第一章 イバダン大学

大学生活は快適なものでした。卒業後は本当に特別な人間、人類を苦しめる色んなもの治す、神に近い人間になるのだ、という大きな野心をもって医学書を読み漁りました。私たちは、犬や猫や馬を扱う獣医よりも当然、優位であったはずです。何しろ私たちは、より優れた種、すべての生きものの中でも最も偉大なホモサピエンスを治療することになるのですから。結核、マラリア、淋病、梅毒など、人間が患らうようになった色々な病気。私たちは本当に天からの授かりものではなかったのでしょうか?
大学は「UCI」と呼ばれていましたが、そのUCIから退学者が出ました。どうもその学生は、マーティン医師の心臓の標本を盗んだということで、クラス全体に回された標本を最後に手に取ったのが、その学生だったというわけです。標本が消えて無くなり、次の週の月曜の朝に、アデンクレが切れ切れの調理済みの肉を持って授業に現れ、「心臓を料理したんだ」と得意気に言い放ったのです。マーティン医師は怒り狂ってこれでもかとアデンクレを罵りましたが、アデンクレは医師を見てにやっとするだけでしたので、マーティン医師はますます怒り狂うのでした。
そんなとき、私はマラリアにかかってしまいました。どうにか体が持ちこたえますように、と皮肉まじりに祈りました。最終試験が1週間後に迫っていて、今度ばかりは神に裏をかかれたと思いました。頭は煮えたぎるように熱く、背中じゅうに細かい針が刺さっている感じです。苦痛ですっかり弱っていたところへ、あのアデンクレが、ジャジャ診療所のベットに横たわる私に会いにやって来ました。
「おい、マラリアなんかで死ぬなよ。マーティン先生が俺の退学にこだわらなきゃ、あんたを治してやれたかも知れないのにな。」とアデンクレはピジン訛りの英語で冗談めかして言いました。そこへ、180センチもある変わり者の英国人医師ウィリアム・ボイドが部屋に入って来て私に口を開けるように言うと、無造作に体温計を口に入れました。何だかとても嫌な感じがしました。
国じゅうを巻き込んだ凄まじいビアフラ戦争の猛威にも耐え、神に見捨てられたナイジェリアの泥沼の五年間を何とか生き永らえはしましたが、今や私は何とも哀れな肉の固まりになり果てていました。
普段は見かけない医師が信じられないといった顔つきで私を一瞥したあと、「たしかに、相当ひどいな。」と言いました。それから、記録用紙に何かを書きつけて、そのまま部屋を出て行きました。
医師が出て行くと、アデンクレが記録用紙を手に取りました。そして注意深くそれを調べてから、私は死にかけだと言うのです。熱が40度ありました。私はその日を決して忘れません。相変わらず頭はがんがんしていました。身をよじって、何も口に出来ず、目が眩み、とうとう気絶してしまいました。私は意識を失なったのです。
司祭が私を起こしたに違いありません。目の前に平服を着たその司祭が立っていて、神のご加護に与りますか、と聞くのです。
「出て行ってください。あんたらは、頭がぼんやりしてものも言えなくなった時だけやって来るんだな。元気な時に来てくれと、あんたの神に言っといてくれ。」
「何て不遜なことを。本当に、今、神のご慈悲が要らないのですか?」
「それどころか、神が僕を病気にしたのなら、治してくれ、と言いたいですよ。僕は何も悪いことはしていない。むしろこの世の中から、神が創り給うた病気を消滅させようと人生の5年間を犠牲にしてきたんです。それなのに、その神様の思し召しの結果が、この態ですよ。」
イバダン診療所のベッドの中で、まさにその瞬間、私の中で何かがぷちんと切れたんだと思います。もはや、神の慈悲も愛も美徳も信じることが出来ませんでした。何百万という物乞いや売春婦、目や手足の不自由な人やその他社会の底辺で暮らす人たちはどうなのか?司祭は、そういう人たちもすべて神の子だと見なしていますが、では何故、来る日も来る日もある病気を治療するためにと、製薬実験室で何億という大金が使われているのか。
アデンクレは医学科課程を修了出来ませんでした。コーラ・ダンボ教授が署名して、アデンクレの退学の文書を議会に提出したのです。
私たちは学位を取得する前に、ダンボ教授が学生全員に読みあげた嫌な書類の内容をひとりひとりが確認して、署名をしました。

「わたくし、ジョゼフ・ムングチは、人に奉仕するために我が身を捧げることをここに固く誓います。患者の健康を第一に考え、守秘義務を守ります。危機的な状況にあっても、受胎したその時から、人の命を最大限に尊重します。人道に反して、医学知識を使うことはありません。」

医学士、化学士(イバダン大学) 署名 ジョゼフ・ムングチ

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翌朝、イバダン発ラゴス行きナイジェリア航空の8席セスナ機に搭乗しました。それから、ラゴス時間でちょうど午後七時に、新しい人生を始めるべき、愛しの故郷ケニア行きのパンナム機ボーイング707便に乗りました。
朝8時に、飛行機はナイロビに到着しました。1974年、6月28日の翌日の金曜のことです。弟のムセンビが、ナイロビ空港に私を迎えに来ていて、タラまでまっすぐ車を走らせました。我が故郷です。村中が歓喜の声で沸き立っていました。自分たちの医者の到着だと、全員が分かっているのです。しかし、私が独立して患者を診るには、ケニア中央病院でまだインターンとして働かなくてはいけないということは、皆殆んど知らないようでした。
「ジョゼフ、こっちへ来ておくれよ。」と母親が部屋から私を呼びました。
「うん、母さん。」
「おじいさんとこに行くんだよ。お前のでなきゃ、他の者の薬は嫌だと言ってきかないんだからね。」
「そうなんだ、母さん。でも、どうして?」
「マチャコスの医者は、医療費稼ぎに水で薄めた薬を出してるぞって、きかないんだよ。」
「そんなことが出来るのかい、母さん?」
「お前が出て行った頃のケニヤとは、今は違うんだよ。警察は、賄賂欲しさに、もっと犯罪者が増えるように祈ってるし、判事は、拘置所を犯罪者で一杯にしたがってるし、看守だって同じだよ。弁護士が、犯罪の片棒を担いでるっていうのも聞いたことがあるね。そのほうが儲かるんだってさ。お前のような医者だって、淋病や梅毒、ヘルペス患者がもっと増えてほしいのさ。結局仕事は増えるし、もっと儲かるからね。皆そう言ってるよ。」
「じいさんが社会の仕組みをそんな風に見てるんなら、僕のことはどう思ってるんだろうね。」
「ここの地区判事が、先日ある男から5000シリングを受け取ってから、2人の取引についてしゃべれないようにと、その男に死刑を言い渡したらしいよ。」
母親は相変わらずでした。永年タラの噂話には強く、この小さな町の最新情報を聞き逃すことはありませんでした。それにタラでは、情報を伝えるのにマスメディアなど必要ありません。噂がその役割を果たすのですから。しかも大抵の場合は、大袈裟に伝わりました。