つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「遠い夜明け」

 1987年の7月にエイブラハムズさんを訪ねたり、年末に「MLA」(8月3日)で「ラ・グーマ」(7月27日)の発表をしたり、南アフリカに関わる時間が増えていた。年明けに「遠い夜明け」の試写会があった。「こむらど委員会」(8月5日)の会報で知って前売り券(↑)を買い、三宮の映画館に一人で出かけた。結構な人の入りだった。直前に大阪府高槻市にUDF(United Democratic Front)のアラン・ブーサックさんがゲストの集会に参加した。ブーサック師と紹介があったので、牧師のようだった。マンデラなどANCの指導者は投獄されていたが、聖職者は逮捕されていなかったということか。開始時間直後に、緊急事態が発生してブーサックさんが来られないので、急遽楠原さんに話をしてもらうことになったと司会者が説明した。『アパルトヘイトと日本』(↓)の著者が壇上にいた。どんな話をしたか忘れてしまったが、南アフリカの事態がかなり緊迫しているのは伝わって来た。1988年の年明けの話である。

 「遠い夜明け」は1987年に製作・公開された2時間37分の長いイギリス映画である。7月にエイブラハムズさんを訪ねる前にニューヨークにでVHS版を買っているので、日本ではその前に映画が上映されていたわけである。監督は「ガンジー」や「コーラスライン」でヒットを飛ばし続けていたリチャード・アッテンボローで、デンゼル・ワシントンとケヴィン・クラインが主演だった。当時南アフリカでは映画の撮影が禁止されていたので、ジンバブエでロケが行われた。ウッズとビコが最初に会う美しい場面の近くを、1992年にでジンバブエ大学に在外研究に行き、首都のハラレで家族で暮らしたときに、自転車で通ったことがある。南アフリカのジョハネスバーグをモデルにして街が作られので、街並みが似通っているらしく、ロケには都合がよかったようである。南アフリカの日刊紙デイリー・ディスパッチの記者ドナルド・ウッズがスティーブ・ビコに感化を受けて書いたCry Freedomが原作で、イギリスに亡命したのちに出版されている。ワシントン(↓)がビコを、クラインがウッズを演じている。

 ウッズ(↓)はビコの死因についての査問会を要請して政府の罪を追求したが逆に罪を問われた。家族も警察に嫌がらせを受け、亡命を決意した。友人の助けを借りてボツワナ経由でロンドンに原稿を持ち出し、出版に成功している。1988年のメーデーにウッズも労働組合員といっしょに大阪の中之島でのデモ行進に参加するとこむらど委員会の会報で連絡が来たが、宮崎医科大学に着任した直後で、残念ながら参加出来なかった。ウッズはマンデラが大統領になったあと、一時帰国し、その後はロンドンと南アフリカを行き来していたようである。2001年にがんでロンドンで亡くなっている。67歳の若さだった。

 ウッズがビコの本を書いて亡命しても出版したかったのは、ビコが南アフリカを救える数少ない一人だと信じたからである。1960年のシャープヴィルの虐殺を機にアフリカ人側は武力闘争を始めたが、政府は締め付けを強化、欧米諸国と日本の力を借りてアフリカ勢力の抑え込みに成功した。その結果、地上には指導者がいなくなり、暗黒の時代が始まった。その暗黒時代に立ち上がったのが、まだ警察の手が伸びていなかった学生である。その指導者の一人がビコだった。この新しい世代は、自己意識の大切さを人々に語った。

 映画の中でビコがウッズに白人リベラルの実態と意識を批判した時、ウッズが「仕事もあって、ベンツもあったら、あんたならどんなリベラルに?」と遣り返して握手する二人の出会いの場面は美しい。ビコが白人とは関わりなく、劣悪な環境の中で作られた劣等の意識を払拭し、自分に誇りを持てと黒人意識の大切さを説く裁判の場面には、ぐっと人の心に迫ってくるものがある。ウッズの国外脱出の場面を見ると、同じように亡命を余儀なくされた「ラ・グーマ」(7月27日)やエイブラハムズさん(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」、7月30日~31日)を思い出す。長いこと、英語や教養の授業で「遠い夜明け」を学生にみてもらった。
 次は、工大教授会、か。

殴られた警官を殴り返した直後の場面

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:こむらど委員会

 「MLA(Modern Language Association of America)」の発表を「ラ・グーマ」(7月27日)ですると決めて準備しているとき、政治的な構図がぼんやりと浮かんで来るようになっていた。『アフリカは遠いか』(↑)を書いた楠原彰さんではないが、日頃意識しない限りアフリカは遠い存在である。新聞でも雑誌でもテレビでもごく僅かしか報道されない、ように見える。私の場合、新聞も雑誌もテレビもほとんど見なかったから尚更である。1980年代の初めにエチオピアで今世紀最大の旱魃で大勢の死者が出たことも、イギリスではバンドを組んでライブエイド(↓)で募金活動をしたり、マイケル・ジャクソンが曲を書いた「ウィアーザワールド」(7月16日)を大スターが集まって歌ったことも知らなかった。

 しかし、ラ・グーマの作品を理解するために歴史に関する本を読み始めてみると、嫌でも南アフリカと日本の関係を考えるようになっていた。1960年の初めに日本は高度経済成長期に突入して目に見えて日頃の生活が豊かになっていくのを体験していたが、南アフリカが同じ時期に暗黒時代に突入したのは知らなかった。主にオランダとイギリスからの入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安い賃金で鉱山や大農園や召使として白人家庭で扱き使った。つまり、南部一帯(↓)に極めて安価な賃金で扱き使える非正規短期契約労働者を無尽蔵生み出す一大搾取機構をうち立てていたのである。選挙権も含め基本的人権を完全に無視する白人政府にアフリカ人が抗議して立ち上がったとき、その一大搾取機構を守るために、軍事と警察の予算を増強して全面的にアフリカ人を押さえ込みにかかった。僅か15パーセント足らずの白人側が多数派のアフリカ人を抑え込めないのは誰にでもわかる。抑え込めたのは、白人政府の一大搾取機構に群がって莫大な利益を貪り続けていたアメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などの良きパートナーによる全面的協力があったからある。世界的にも第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ諸国から独立しようとアフリカ大陸には「変革の嵐」(The Wind of Change)が激しく吹き荒れていた。南アフリカでも「変革の嵐」に乗ってアフリカ人側は白人政府に果敢に挑んだが、結局抑え込まれてしまった。

 1960年のシャープヴィルの虐殺(↓)を機にアフリカ人側は武力闘争を始めたが、結局南アフリカを救えるソブクエやマンデラなどの指導者は殺されるか、逮捕されるか、国外逃亡するかで、地上には指導者がいなくなり、暗黒の時代が始まった。「ラ・グーマ」(7月27日)やエイブラハムズさん(→「1」、→「2」、7月30日~31日)もこの時期に亡命を余儀なくされている。アフリカ人には、白人政府と良きパートナーの欧米諸国と日本は同罪だった。富国強兵で産業化を目指し、欧米諸国に追い付き追い越せの国策を取る日本にとって、豊かな資源を持つ南アフリカの安価な原材料は不可欠である。国民には政治的実態に気づかせない政策も必要である。アフリカの情報が少ないのは、そういった国策の結果で、大半の人はそれに気づくことはない。豊かになって行く生活を享受しながら「アフリカは貧しい、ODAで援助して助けてやっている」、と考えている日本人が実際には多い。自分が加害者の側にいるなどと、考えたこともない。

 こむらど委員会は反アパルトヘイト委員会の大阪支部だった。「ライトシンポジウム」(7月22日)のあとファーブルさんから届くようになったAFRICAN NEWS LETTER (仏文) の中に1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在していたラ・グーマのインタビュー記事(1987年1月24号)が載っていので、雑誌に日本語訳を紹介した。(→「MLA」、8月3日)同時期にアリューシャの会議に出席していた野間寛二郎さんはラ・グーマに「日本のインテリはアパルトヘイト体制に何をしていますか?黙っているとしたら、加害者と同じです」と厳しく問われて何も言えず、戻ってから後の反アパルトヘイト委員会の人たちと活動を始めたと述懐していた。野間さんは南アフリカに関しても『差別と叛逆の原点』(1969)を書いているし、アフリカで最初に独立したガーナの首相になったクワメ・エンクルマ(↓、小島けい画)の本をたくさん日本語訳している。一つのアフリカを夢見て祖国を独立に導いたものの毛沢東とベトナム戦争終結に向けて話し合っている時にクーデターが起こり失脚、その後ガーナに戻れないで1972年にルーマニアで死んでいる。私も出ている本はほとんど集めたが、膨大な量である。その本を何冊も日本語訳して理論社からシリーズで出版されている。歴史的な宝物である。あとがきに、わからないところはガーナの大使館に通って教えてもらったと書いている。その姿勢が後の反アパルトヘイト委員会を生んだような気がする。私は手紙を書いて会員になり、担当の人から毎月会報のようなものを受け取るようになった。いろいろな案内もあり、集会に出かけた。1980年代後半なので、アパルトヘイト政権の終わり頃のことである。
次は、「遠い夜明け」、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:MLAのあと

 発表が終わって暫く雑談をしたあと、部屋に戻った。まだ寝ていたら起こすと悪いなあと思いながらドアを開けたら、「あら、発表は終わったん?」と妻が聞いた。「ホテル(↑)の近くの日本食レストラン(↓)で食べたら、おいしかったあ。カード使ったよ。」と満ち足りた様子だった。英語を使わなくてもいい日本レストランが近くにあったんだ。前の晩は3人が寝てる間に廊下で少し読む練習をして、そっとベッドにもぐりこみ、朝は起こさないようにそっと出て、発表を終えて帰って来たら、3人の満足そうな顔、すべて順調である。少なくとも三人には言葉の問題はなさそうだった。

 「サンフランシスコ」(6月19日)の街に出発である。最初はゴールデンゲイトブリッジ(↓)だった。タクシーに乗り、橋の下辺りで降ろしてもらった。運転手さんにも入ってもらって3人の写真も撮った。広い公園を歩きながら、みんなで下から橋を見た。最初に来たときは45分かけて橋を渡り、「霧のサンフランシスコ」が背景に流れる映画を思い出したが、4回目なのでその意識もずいぶんと薄れた感じだった。二人の子供は「なんでわざわざ橋を見に来たんやろ?」と思ったかも知れない。

 帰りの坂ではケーブルカー(↓)に乗った。坂が多いので作られたようだが、実際に乗ったのはきつい坂ではなく、人も多かったように思う。いくらか支払って乗ったと思うが、料金は思い出せない。その時は何も調べなかったが、漁夫の波止場(フィッシャーマンズウォーフ)やアルカトラズ島などの観光地にも行ってたようだ。開業は1873年で世界最古の手動運転の循環式ケーブルカーらしい。市が運営して公共交通網の一部で一定の通勤客も利用するようだが、私たちのような観光客の名所的な存在のようである。鋼鉄線をより合わせて作られたケーブルで時速9マイルの速度で移動するらしい。乗った時も、ゆっくりと走っていた。

 漁夫の波止場(フィッシャーマンズワォーフ、↓)にも行った。タクシーで行ったが、知っていたらケーブルカーを利用したと思う。どこに行くのも行き当たりばったりである。その日はどこかに夕食に行こうと、いつもの調子でフィッシャーマンズワォーフに出かけたたら、どの店も人で一杯だった。クリスマスシーズンの観光地、予約して行くものらしい。「ここ人がいなくて空いてるよ」と息子が言うので、そこに入ることにした。空いていたわけだ。飛び切り辛いメキシコ料理の店だった。全員、ひーひー言いながらの夕食を顔を引きつらせながら「堪能」した。地下鉄にも乗った。I Love NYキャンペーンの前にもニューヨークの地下鉄に乗っていたので、きれいやなあという印象が強かった。

 一日目の夜に、エイブラハムズさん夫妻(↓)も部屋まで来てくれたし、初めての英語での発表も出来たし、4人で街をうろうろ出来たし、誘ってくれた伯谷さんに感謝である。
 次は、こむらど委員会、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:MLA

 初めての英語での発表だった(↑)。伯谷さん(↓、左側)が担当していたのはEnglish Literature Other Than British and Americanという小さなセッションだった。日本では英語による文学と言えば英語を母国語とする人たちのイギリス文学とアメリカ文学が主流だが、この500年以上のアングロ・サクソン系を中心にした西欧諸国に侵略された人たちのうち、英語を強要されて使うようになった人たちは数限りなくいる。最初は英語を強いられたその人たちやその子孫はやがては日常でも英語を使うようになり、英語で小説なども書くようになった。その人たちが英語で書いた文学がEnglish Literature Other Than British and Americanである。南アフリカのラ・グーマもその分類の中に入る。

 私はラ・グーマの初期の2作を中心にして“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”を読んだ。発表は大抵15~20分程度、そのあと質疑応答である。伯谷さんから誘われてから2年足らず、その間にエイブラハムズさんのAlex La Gumaをはじめいろいろ読んだし、エイブラハムズさんを訪ねてラ・グーマについてもいろいろ直接聞かせてもらい、質問にも答えてもらった。

 

一作目(ナイジェリア版、神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

しかし、今回の内容で書いたのは、ファーブルさん(Michel Fabre)が送ってくれた雑誌に載っていたサマンさん(Richard Samin)のラ・グーマへのインタビューの次の一節がきっかけだった。

– “What do you think of symbolism as a literary device?"
– “I have no objection as long as the reader knows how to interpret it correctly. In my novels there is a combination of realism and of transparent symbolism."1
– 文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。
– 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

二作目(東ドイツ版、神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

 「ライトシンポジウム」(7月22日)のあとファーブルさんからAFRICAN NEWS LETTER (仏文) が届くようになった。フランスのソルボンヌ大学が定期的に発行している研究誌で、1987年1月24号に学者サミンさんが1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在していたラ・グーマに行なったインタビューが載っていた。雑誌に日本語訳を紹介したくてファーブルさんに住所を聞きコートジボワールに手紙を書いて承諾をもらい、日本語訳をして雑誌に載せてもらった。ラ・グーマは1976年の1月から2月まで客員作家として滞在していたようで、日本から来ていた野間寛二郎さんに「日本のインテリはアパルトヘイト体制に何をしていますか?黙っているとしたら、加害者と同じです」と言われて何も言えず、戻ってから後の反アパルトヘイト委員会の人たちと活動を始めたと述懐していた。その中の「写実的表現と平明な象徴的表現」がエイブラハムズさんのAlex La Gumaの中の指摘と重なったので、初期の二つの作品の中の「写実的表現と平明な象徴的表現」に絞ってまとめたわけである。

 ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘いながら、作家は「歴史を記録する」、「南アフリカで起こっていることを伝える」必要があると感じていたので、ラ・グーマは「読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。」と言ったわけである。そのラ・グーマの思いが、初期の二つの作品でどう表現されているのかを発表用にまとめた。一つ目『夜の彷徨』の舞台はケープタウンのカラード居住地区(↑)で、アパルトヘイト下でごく普通の青年が職もなく簡単に犯罪に手を染めていく姿の「写実的表現」と、暗い夜という「平明な象徴的表現」を織り交ぜながら物語に仕上げている。二つ目「まして束ねし縄なれば』の舞台はケープタウン郊外のスラム(↓)、貧しい中で肩を寄せ合いながら生きる家族の「写実的表現」と、人々を悩ます雨という「平明な象徴的表現」を織り交ぜながらアパルトヘイト体制の中で南アフリカに何が起きているかを伝えようとしている。そんなラ・グーマの姿勢と文学技法について発表したわけである。

 発表は無事終わったが、質疑応答の時間に発言はなかった。エイブラハムズさんが言うMLAのアフリカ関係のレベルの低さと言ってしまえばそれまでだが、それだけではないような気がした。日本と同じようにアメリカ全般のアフリカへの関心の低さもあるが、MLAでアフリカ関係の発表をするのが業績のためという傾向が強い気がする。誘ってくれた伯谷さんもアメリカの競争社会を生き延びるために他の人がやっていないことに挑戦してみる必要性があったのではないか。元はセオドア・ドライサー(Theodore Dreiser, 1871-1945ドライサー、→「購読」、5月5日)を主にやっていたから、主流の路線だったわけである。日本人がアメリカ人と競ってアメリカ文学の分野で勝ち残るのは相当なものだろう。日本と違って、アメリカの場合定年はなく、結果を残せた人は年がいっても現役でいられる。伯谷さんも80を過ぎた今も現役で、この前44冊目の本を出したと聞く。シンポジウムに誘ってくれた人も同じ部屋の違うセッションで発表していたが、日本からはるばる来た理由も業績のためである。私はシンポジウムにファーブルさんと会うために参加したが、その人はゲストスピーカーの公募に選ばれなかったと言ってたから、MLAでも業績の比重が大きかったはずである。横浜国大から早稲田の博士課程を終え愛知の短大に行ったあと、理事長の独裁で揺れた東京の私学の工学部に異動、元々人間が苦手らしく、「授業では学生が洟もひっかけてくれない」と手紙に書いていたことがある。「ライトの本格的な論文が書けなくて」ともこぼしていたが、アメリカの学会は水があっていたようだ。人の評論を集めたり、ある作家の資料を集めたような書誌と言われる分野も業績として評価されるので、記憶力と忍耐力のあるその人には向いていたと思う。俳句もやっていたようで、ライトの俳句の分野でも評価され、ジャパン・タイムズに連載していたと聞く。

 その後ファーブルさんにソルボンヌで発表するように薦めてもらったのに行けなかったのは、研究に向いていなかったからのようである。それに元々文学の分野での研究そのものに懐疑的で、テーマや表現がどうのと言っても、書く側からすれば、書いている本人も気づかないで書いたかの知れないし、という多いがいつもある。その点、伯谷さんもシンポジウムに誘ってくれた人もファーブルさんも研究者だ。ある日、ニューヨークから古本が二冊届いた。ファーブルさんが古本屋で買って、わざわざ送ってくれたものだ。一冊は友人のバズル・デヴィッドスンのものだった。ファーブルさんにもずいぶんとお世話になった。
 次は、MLAのあと、か。

ラ・グーマ(小島けい画、「ゴンドワナ10号挿画)