HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:再び広島から
MLA会場のサンフランシスコゴールデンゲイトブリッジ
「MLA」に行く前の12月の半ば頃に、再び「広島から」電話があった。「宮崎、決まりましたよ。よかったですね」ということだった。1987年9月の教授会でだめだった同じ人事を再び教授会に出して過半数を取ったそうである。「ありがとうございます」だけでよかったのに「ほんとに遠いとこにいくんですね」とつい口から出てしまった。「そりゃあないでしょ。私が頼んだ教授は『前回は過半数を取れなかったから、一人一人教授のところを回りました』と言ってましたよ。それでやっと過半数が取れたんですから、遠い所はないでしょう。もっと喜びなさいよ」と少し怒り気味に付け加えた。もっともである。元いた大学に私を推薦しようとしたら元上司からその人事をこっちに寄越せと横槍を入れられ、それを断って推薦したのだから、「もっと喜びなさいよ」、と思うのも当然である。教授会の仕組みは知らないが、一度否決された人事を三か月後にもう一度教授会に出して過半数を取るというのは普段ではあり得ないことらしいので、尚更である。
大阪工大(大学HPより)
「ほんとに遠いとこにいくんですね」とつい口に出てしまったのには、もちろん伏線がある。人事がだめになった(→「女子短大」、→「二つ目の大学」、→「工大教授会」)あと、また声をかけてもらったが、今回もどうせだめやろなという諦めの方が強かった。書く空間が欲しくて大学の職を思いついたが、方向転換は簡単ではなかった。自分の出た大学の大学院(→「大学院入試」)に行く準備をするには、高校教員は忙し過ぎた。(→「教室で」、→「担任」、→「顧問」)教員歴5年で応募できる「大学院大学」にと思ったが、推薦書を頼んだ相手が悪かった。その制度を潰す筆頭で、一喝の下に追い返され、受験当日には校門前(↓)でマイク片手に怒鳴る本人を見て諦めて帰るところだった。途中で受験生に道を聞かれ、車に便乗したものの校門前で降ろされた。群衆に罵られてもみくちゃにされ、勢いで突き飛ばされて、気づけば学内にいた。そのまま受験、漫画のような展開でした。(→「分かれ目」)
日教組が陣取っていた甲南女子大の正門前
予定通り修了はしたものの(→「修了と退職」)、外から博士課程には入れてもらえぬ構造問題の前に(→「大学院入試3」)、途方に暮れた。開き直って、教歴と業績を少しずつを継続、やっと話があったものの、一つ目は、たぶん身上調査ではじかれた。自分の借金でもないのにと思っても、夜逃げした母親には勝てなかったわけである。(→「揺れ」)二つ目は教授会では選ばれたものの理事会側の人事が強行されて、だめだった。三つ目は、教歴と業績で散散世話になっている先輩の大学、採用枠二名でもだめだった。普段は夏休み前に終わる人事をその年に限って先輩がアフリカ出張でいない2月に教授会が開かれ学長側の人事になり、最後の砦もだめだった、「嘱託講師」を続けていた2年目に宮崎の話が来たが、やっぱりだめだった。散々だったが、感謝こそすれ憾んだことは一度もない。どの場合も、世話をして下さる方への申し訳なさが先に立った。見たこともない人にどうしても一言お礼が言いたくなったのはそのためである。妻といっしょに「宮崎に」出かけて、直接お礼を言って来た。それで終わったと思っていたところに、「宮崎、決まりましたよ。よかったですね」という電話だった。つい「ほんとに遠いとこにいくんですね」と、口から出てしまったのである。
宮崎空港
高校の時に受験勉強をしなかっただけなのに、その後の方向転換も難しいらしい。しかし、宮崎医科大学(↓)に決まって、生活は一変した。妻は商業高校に異動して大変な思いをしたあと、新設の普通科に異動、子供が小さかったので毎日が時間との闘い、気を遣いながらのタクシー通勤だった。その後やっと家の近くの自分の出た高校に異動、ずいぶんと時間的にも楽になっていた。娘は近くの小学校に通い、仲良しも出来、家では大好きなおじちゃんとずっといっしょに過ごせて大満足だった、息子は幼稚園に慣れ始めていた。3人で転がり込んだ中朝霧丘で息子も出来、妻の父親とも何とか折り合いをつけて、生活のリズムが出来始めてきたところだった。そこへある日、宮崎の話が舞い込んだわけである。5人には一大事件で、生活は一変した。
次は、お別れ、か。
宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)