つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:UCLA

 「MLA(Modern Language Association of America)」で発表する準備を始めた頃、「ミシシッピ」(7月22日)からラ・グーマの本が届いた。住所を調べて著者のエイブラハムズさん(↑)に手紙を書いたら、ある日「北アメリカに来たら電話して下さい("Come to the North America and call me."という手紙が届いた。北アメリカに行って、電話するしかない。早速、旅行会社で飛行機の予約をした。

 大阪工大(↑)も4年目に入り、「LL教室」(7月12日)で授業に付き合ってくれる学生とも親しくなり、非常勤でいっしょだったケニアのムアンギさんとも仲良くなった。もちろん先輩から紹介されたのだが、先輩自身もムアンギさんと同郷のグギさんとも親しかった。グギさんの『一粒の麦』を翻訳していたし、雑誌や紀要などにもいろいろとグギさんのことについて書いていたようだ。一般教育の事務室で夏に補助員3名を含むESSのメンバーがUCLAでジョイントディスカッションをするという予定を聞いて、私とムアンギさんもちょっとUCLAに寄ってみよか、という話になった。私はエイブラハムズさんに会いに行くので、ロサンジェルス廻りでカナダに行けばよかった。ムアンギさんも何か用事があるようだった。「ライトシンポジウム」(7月22日)から帰って2年足らずでMLA発表の準備を始めていたので、英語を使う人にしゃべってくれるように頼んでいたが、ムアンギさんには「ここは日本やから日本語で」と断られた。同じ非常勤のイギリス人のジョンは「いいですよ」と日本語で答えて、気軽に応じてくれた。

 UCLAはカリフォルニア大学ロサンゼルス校( ↑、University of California, Los Angeles)、日本でも有名な総合州立大学である。学生数も多く、5つの学部と7つの大学院、4万人を超える学生と規模が大きい。図書館(↓)も充実しているようである。

 アメリカも4度目である。今回は①ラ・グーマの伝記家に話を聞くために、先ずは北アメリカに行って電話する、が目標である。②その前にムアンギさんとUCLAにいる大阪工大のESSのメンバーに会いに行く、③出来れば伯谷さんのところにもお邪魔して、④その間に電話で訪問日を決定、大体そんな心づもりだった。
 3回ともサンフランシスコ経由だったので、ロサンジェルスは初めてだった。空港を降りたとたん、ムアンギさんが英語でしゃべり出した。「ここはアメリカやから英語で」ということらしい、はいそうですか。日本語も特有の訛りが抜けないが、英語にも訛りがあるようで、私のジャパニーズイングリッシュといい勝負である。UCLAのキャンパスは広かった。ESSの人たちに挨拶したあと、一人で図書館に行ってみた。実は探している新聞があった。ラ・グーマが「ニュー・エイジ」という白人資本の反体制週刊紙の記者をしている時にコラム欄「街の奥で」("Up My Alley")を5年間ほど担当して、相当な数の記事を書いていた。行く前に調べたら、ニューヨーク公共図書館にマイクロフィルムがあるのでそれで拡大コピーをさせてもらうつもりだった。白人政府の一番のパートナーのアメリカが反体制の新聞を置いておくか、まさか?と思いながら、カウンターで聞いてみたのである。係員が説明を聞いてくれて、中に入って行った。たしか、ありますよ、と言っていた気がするが。暫くすると、大きな新聞の束をカートに載せて係員が戻って来た。何と5年分の新聞の現物である。アパルトヘイト体制が強化されて、反体制の新聞が廃刊になっては、名前を変えてまた新しい新聞を出していたらしいが、ラ・グーマがコラムを書いていた記事がカリフォルニアの図書館に送られて、三十年ほどのちにその時の新聞の実物を見ている、と思うと少し心が高ぶってきた。長い時間かかってコラム欄をコピーして、船便で送り、のちに、印刷して英語の授業で配って紹介した。

 ムアンギさんとはロスで別れた。私はオハイオ州の伯谷さんに電話して、お邪魔することにした。オハイオ州のケントなので、エイブラハムズさんの住むカナダのトロント近郊とは近い。そこから電話させてもらうことにした。伯谷さんご夫妻と子供さん(↓)二人が出迎えてくれた。どちらも男の子で、上の高校生はコンピューター関係、下の中学生は音楽の道に進むと言う。どちらも好青年だった。家では日本語、外では英語なので、完璧なバイリンガルだった。上の人に「大変だった?」と尋ねたら「そんなに苦労せずに、自然とどちらも使えるようになりましたよ」と言っていた。

 さて肝心の電話である。手紙で知らせてもらっていた番号にかけてみたが応答がなかった。考えたらあの時期、出張とか長期休暇とかの可能性は高かった筈である。手紙では人文学部(Humanities)の学部長(Deans)をしていると書いてあったから、当然考えるべきだった。結局、三日ほど電話をかけても同じ状態だったので、ニューヨーク(↓)に移動することにした。伯谷さんご家族には本当にお世話になった。ニューヨークで電話が繋がったのは、一週間のちだった。
 次は、エイブラハムズさん、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゴンドワナ

ゴンドワナ大陸

 2年後のサンフランシスコの「MLA(Modern Language Association of America)」ではラ・グーマで発表することに決め、資料を探し始めた。「ミシシッピ」(7月22日)の本屋さんのリチャーズさんから本Alex La Gumaが届いて急にいろいろと回り始めた。カナダに亡命中の著者のエイブラハムズさん(↓)に手紙を書いた。その頃にはすでに誘われていた出版社の雑誌に記事を送っていたので、まだ南アフリカの歴史もよくわからないのに、同時並行でラ・グーマについても書いていたわけである。

 出版社の人とは先輩に薦められて「横浜」(7月20日)で会ったきりだったが、ある日、先輩から「出版社の人があんたにも書いてくれ言うてるで。貫名さんの追悼号に、あんたも書いてみるか?」と言われた。先輩はすでに出版社の雑誌にも記事を書いて、何本か活字になっているようだった。貫名さんとはゼミの短い間しかいっしょにいなかったので書けるほど知っているわけではなかったが、何とか書いて出版社に送った。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)それがゴンドワナ(↓)だった。

 ゴンドワは大昔の大陸のようで、ウェブで調べれば、約 5 億 5千万年前に、南半球にあった大陸で、今の南アメリカ、アフリカ、インド、南極、 オーストラリアとマダガスカル島などが集合しており、そのうちゴンドワ大陸が浸食して日本列島が出来たらしい。雑誌に書かせてもらうようになって時々横浜の出版社に行くようになったとき「どうしてゴンドワナなんですか?」と聞いてみたが、答えてもらえなかった。他の質問も大概答えてもらえなかったが、自分で考えるようにということだったのか。よく話に出る縄文時代や縄文人やツングースの侵略などと深い関りがありそうなのは確かだが、億単位の歳月の広がりを言われても、私の理解の範疇を越えている。悪い頭では到底処理不可能である。

 知らないことだらけだったので、先ずはラ・グーマの作品と南アフリカの歴史とエイブラハムズさんのAlex La Gumaを読んだ。作品は出ているものはすぐに手に入れて、初版本などは神戸市外国語大学の黒人文庫から借りて来た。作品は『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)、『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord, 1964)、『石の国』(The Stone Country, 1965)、『季節終わりの霧の中で』(In the Fog of the Seasons’ End, 1972)、『百舌鳥のきたる時』(Time of the Butcherbird appeared, 1979)の5冊にさっと目を通した。歴史についてはThe Struggle for Africa(↓、1983)の中の “The Struggle for South Africa"と野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(1969)、吉田賢吉著『南阿聯邦史』(1944)、ラ・グーマについてはエイブラハムズさんのAlex La Gumaを繰り返し読んだ。

 ラ・グーマの本は、本人が意図していたように小説というよりも物語で、イギリス英語にケープカラード(ケープタウンに住む『カラード』ーアパルトヘイト下で4つに分類されていた混血の人たち)特有の表現やオランダ系白人の言葉アフリカーンスなども混じっているので、読むのには難儀した。日本でも翻訳されているものや、ラ・グーマの本や人物について書かれた記事もあったので、色々と資料を集めた。非常勤で行っていた桃山学院大学の図書館や神戸市外国語大学の図書館も利用した。貫名さんが購入したと思われるラ・グーマの初版本は、貴重なものである。黒人文庫に入れられているが、今はなかなか入館するのも難しい。十年ほど前に卒業生枠で入ろうとしたが、すったもんだの末に何とか入れてもらったくらいである。誰にでも気軽に閲覧出来るはずの公共図書館だが、古くて傷みやすいというのが入館を拒む理由だった。調べてみて、改めて先人たちの僅かな痕跡を見たような気がした。もっとも、欧米志向の国でアフリカの資料を集めるのは至難の業である。そもそも集めるための元の資料がほとんどない、というべきか。僅かな手がかりを元にラ・グーマについて書きながら、2年後のMLAの発表の準備を続けた。
次は、UCLA、か。

And a Threefold Cord(神戸市外国語大学の黒人文庫の東ドイツ版)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ラ・グーマ

 「ライトシンポジウム」(↑、7月22日)で伯谷さん(↓)からの「MLA(Modern Language Association of America)」での誘いを引き受けたとき、当然ライトに関してだと思っていた。しかし、しばらくして手紙が届き「もちろんライトでも大丈夫ですが、出来れば、私のEnglish Literature Other Than British and Americanという小さなセッションで発表してもらえるとありがたいです」と書かれてあった。アフリカについては「黒人研究の会」(6月29日)の例会でも話をだいぶ聞いていたし、ライトのイギリス領ゴールドコースト(ガーナ)への紀行文Black Power(↓)を読んで書き始めた(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、1985)ところだったので、英語で作品を書いているアフリカの作家で発表してみるかという気になった。

 歴史も知らないし、作品も読んだことがなかったのっで、先輩に相談することにした。先輩はすでに、南雲堂から『アフリカ文学の世界』(↓)という本の日本語訳をを橋本福夫さんといっしょに出していて、すでに一冊もらっていた。橋本さんはライトの日本語訳でも名前を見かけていた有名人である。編者のコズモ・ピーターサさんにはこのあとカナダの会議で会っている。先輩はケニアや南アフリカについてもいろいろ書いているようだった。少し考えてから「ラ・グーマという南アフリカの作家はどや?」と言った。数日後、資料と1981年の川崎での会議に来日した時に撮った写真(末尾の写真)を一枚渡してくれた。ほとんど知らない分野なので、先輩の助言通りにラ・グーマをやってみることにした。

少し調べてみると、1925に南アフリカのケープタウンに生まれて、六十年代にイギリス経由でソ連に亡命している。最後はキューバのカストロに世話になって、1985年に60代の若さで亡くなっているようだ。亡命前に書いた本が外国で認められて、亡命後も本を出し続けていたようだ。夫人と二人の子供は今も亡命中らしい。日本では最初の作品『夜の彷徨』が大学のテキスト(↓)になり、日本語訳も全集の中に入っている。黒人研究の会でも少し発表した人もいるようだが、本格的にやっている人はいないと先輩が言っていた。先ずは最初の2冊を読んでみるか。先に本を手に入れないと。そんな感じで始まった。

 ある日、ミシシッピ州オクスフォードのリチャーズさんから本が一冊届いた。ずばりタイトルがAlex La Guma(↓)だった。見てみると、結構本格的で、大学の博士論文のような作家論、作品論だった。本人がいない今、この人がラ・グーマのことを一番よく知っているかも知れない。ライトのシンポジウムの翌年に再びミシシッピ大学に行った際、また大学近くのスクウェアブックス(→「ミシシッピ」、7月22日)に寄り、店主のリチャーズさんにこの人に関する本があったら送って下さいとAlex La Gumaと書いたメモを渡していたが、それがラ・グーマの出発点になるとは、人生何が起こるかわからないものである。

 著者を調べたら、南アフリカの人でラ・グーマ(↓)と同じように亡命をして、今はカナダの大学の教員をしていることがわかった。会いに行くしかないだろう。手紙を書いた。
次は、ゴンドワナ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ミシシッピ

 「ライトシンポジウム」(↑、7月22日)でファーブルさんに会えたものの自分の思いが伝えられずに悔しい思いをしたので、英語をしゃべる努力をすることにした。(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、2019)その直後に伯谷さん(↓)から「MLA(Modern Language Association of America)」での発表を誘われて、勢いで引き受けてしまったが、英語での発表を考えると英語に慣れる必然性を感じた。その意味でも、もう一度アメリカに行きたくなった。1981年に初めてアメリカに行った時は、「サンフランシスコ」(6月19日)→「シカゴ」(6月20日)→「ニューヨーク」(6月21日)の後にライトの生まれたミシシッピに行くつもりだった。しかし、ニューヨークの 「古本屋」(6月22日)で本を買い過ぎて、予定を変更せざるを得なくなり、セントルイス経由で帰って来てしまった。前回は資料探しが中心だったのでそれでよかったとは思うが、今度こそはライトの生まれ育ったミシシッピを見ながら英語にも慣れる、それでいくことにした。1986年7月、シンポジウムがあってからまだ一年も経っていなかった。3回目の渡米だった。

 西海岸から東海岸までは遠いので今回もサンフランシスコ経由でニューヨークに行き、そこから深南部の一つルイジアナ州のニューオリンズ(New Orleans)空港に降り立った。その時はまだブラック・ミュージックについてはよくは知らなかったが、デキシーランドジャズで有名なフレンチクォーターにだけは足を延ばした。ニューオリンズから州都ジャクソン(Jackson)に行き、プロペラ機でライトの生まれたナチェズ(Natchez)空港(↓)に飛んだ。そこからはグレイハウンドバスに乗って移動した。ナチェズだったか、鉄道線路のそばを歩いている時に、同じくらいの背の高さの黒人が急にかけ寄ってきて「金をくれ(Give me Money)」と言ったので少しびっくりしたが、ノーと言ったら、何もなかったように離れて行った。概して鉄道線路脇の住まいはみすぼらしかった。

 ナチェズからライトが一時住んだというグリーウッド(Greenwood)にはバスで移動し、ホリデイ・インに泊った。到着したとき、バス停が乗客の乗り降りで混雑していたので、しばらくぶらついて戻ってみたら待合室のシャッターが下りていた。次のバスまでの間は閉まるものらしい。ホテルに電話するにも電話機が見つからないし、少し歩いていたら警察署が見えたので中で聞いてみた。電話機もタクシーもないそうで、結局パトカーで送ってもらった。日本では、風貌が学生運動の過激派に似ていただけの理由でパトカーが止まって職務質問されたことはあるが、乗ったことはない。とにかく、ホテルまでは着いた。真夏の陽射しがきびしかったが、折角なのでミシシッピ川を見たくて、タクシーを呼んでもらうことにした。フロントで頼んだら、タクシーはないそうだった。車社会なので、田舎のホテルにバスで来る人はいないらしい。フロントの人に聞いてみたら、歩ける距離みたいだったので、歩いて行くことにした。ミシシッピ川の堤防(↓)まで小一時間かかったと思う。

 ニューオリンズからこの辺りを遡ってメンフィス(↓)まで奴隷たちが炎天下の大農園で摘まされた綿花が船に乗せられて移動したわけである。この辺りはコトンベルト(cotton belt)と呼ばれたらしい。

 グリーウッドからミシシッピ大学のあるオックスフォードまでバスで移動した。大学ではシンポジウムを主催したメアリエマ・グラハムさんの研究室を訪ねた。シンポジウムの時は主催者で責任もあったので緊張した表情をしていたが、研究室では「あら、また来たの?」という感じで気軽に接してくれた。下の写真はその時もらったものである。翌日の地方紙と一か月後の研究誌の特集号にも載った写真である。真ん中に映っている人(↓)で、私の隣がその人の先輩のマーガレット・ウォーカーだそうだ。大学に推薦してくれた女性(→「女子短大」、7月23日)が喜んでくれるかとお土産にサインを頼んだが、嫌な顔で断られた。頼み方がよくなかったのか、後味の悪さが残った。

 近くのスクウェアブックスという本屋さんにもまた寄ってみた。アメリカの本屋は古本も扱っていて、『千二百万人の黒人の声』(↓)をたしか二万五千円ほどで買った。1941年の初版本だったから高かったと思うが、私の頭の中の円とドルの換算機能が壊れているので、つい買ってしまった。いっしょに行っていた本の虫のような人でも、さすがに買うのをためらっていたが、知らぬが仏である。古本に関心があるわけではないので、その初版本は裁断してデータにした。残っているのはその際の残骸だけだから、古本の価値はない。折角来たので、2年後のMLAの話をして発表予定のラ・グーマに関するいい本があったら送って下さいと頼んでおいた。リチャーズさんという笑顔の素敵な温和な青年だった。

 オックスフォードから今回はバスでテネシー州のメンフィス(↓、Memphis)に寄った。前回はその日のバスがすでになくて、タクシーを捕まえてオックスフォードに行っただけだったので、しばらく街をぶらついた。三時過ぎだったと思うが、向かいから歩いて来ていた2メートル近くある黒人が、上から「ペーパー?」と突然聞いてきた。「ペーパー?」と不思議に思って首を傾げていたら、今度はゆっくりと「あいむはんぐり I’m hungry.」と口に人差し指を入れながら、怒った声で吐き捨てた。Give me a favor、つまり鉄道線路脇で聞いたと同じ「金をくれ」という意味だったようである。大都市のまだ明るい時間に、それもそれなりの身なりの人から、突然「金をくれ」と上から言われるとは思わなかった。アメリカである。f も v も日本語にない音(おん)だから、favorがpaperに聞こえたわけだが、街の真ん中で知らない人に「紙」はないだろう。想像力の欠如の問題で、先が思いやられる。サンフランシスでの発表は大丈夫?
3回目のアメリカも、英語に慣れるという点では成果があったのではないか、そんなことを考えながら帰国した。
次回は、ラ・グーマ、か。