続モンド通信30(2021/5/20)

2021年5月30日続モンド通信・モンド通信

続モンド通信30(2021/5/20)

私の絵画館:アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night(玉田吉行)

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1 私の絵画館:

アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

 私が乗馬で通う牧場の犬たちは、代々<アイリッシュ・セッター>という犬種です。賢くて人なつっこく、走るのが大好きな犬たちです、

通い始めて間もない頃、レイチェルという犬が子供を産みました。全部で何匹だったか、6~7匹もいたでしょうか。レイチェルは一生懸命にお乳をあげましたが、とても追いつきません。

すると、いつも横にいるお婆ちゃんにあたるルーシーのお乳が、突然出始めました。それからは毎日、交替で子供たちにお乳を飲ませる日々となりました。

そんなことが実際に起きるのだ!?と、生き物の不思議にびっくりしたのを覚えています。

「レイチェルと子供たち」

 お婆ちゃんのルーシーは、それから長く生きましたが、何年か前に静かに息をひきとりました。

オーナーのメグさんに、これでルーシーを描いてほしいと渡された写真は、目を閉じて寝ているルーシーに夕日が射し、毛が黄金色に輝いていました。

その毛の色が描きたくて、少し濃い目の紙を使いました。花は木立ちダリアを選びましたが。カレンダーのこの絵を見たある方が<この世ではないような>と言われました。

<ルーシーと木立ちダリア>

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 意識したわけではありませんが、ルーシーが天国で安らかに眠っていてくれたら……そう見えてもいいかなあ、と思いました。

いつのまにか年を重ねたお母さんのレイチェルも、ゆったり座っていることが多くなり、次はレイチェルとマーガレットを描きました。牧場にいる猫たち<ジェリー>(上)と<ジャガー>(横)にも登場してもらいました。

<レイチェルとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 牧場の下には日豊本線が通っています。

夕方に解き放たれた犬たちは、大喜びで牧場内を走り回りますが、時には雑木をわけ入り線路まで行ってしまうことがあります。

ずっと牧場で暮らしている犬たちはそのあたりのことがわかっているのでしょうが。やってきて間もないシェルターは、若くて元気がありすぎたため、ある日、電車にはねられて亡くなってしまいました。

<シェルターとログハウス> No. 54

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 このことがあってから、もう繰り返さないようにと、広馬場の少し上に、がけをけずって細長いドッグランが作られました。今では、みんないつでも自由に走り回っています。

<シェルター>では「モルディブの海」という絵も描きました。

<モルディブの海>

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」8月

 この絵を見たメグさんは、「シェルターを思い切り走らせてあげたくて。たった一度、シェルターだけを連れて海に行ったことがありました。その時のことを思い出します。」と静かに話されました。

シェルターが旅立った後にも、牧場では子犬たちが産まれました。何匹かいるなかで、牧場に残ったのがエリーとメイです。

幼なくて可愛いい二匹を、ラベンダー畑と一緒に描きました。

<エリーとメイとラベンダー畑>

カレンダー「私の散歩道2016~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 そしてこの絵は、レイチェルの子供の<ローラ>。2年前に亡くなった彼女を、オーナーがお好きなマーガレットと描きました。後ろは、牧場に何頭もいる、小さな種類の山羊です。産まれて間もないおぼつかない足どりで、ぴょんぴょん跳ねる子山羊たちです。

<ローラとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」4月

(小島けい)

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

人の世は、一年前よりもさらに、先の見通せない状況になっていますが。季節は、人知れずきちんと少しずつ移っていて、山の黄緑が勢いを増し<山笑う>頃になりました。

そのような自然のなか、鳥たちはいつも通りの営みを続けています。

2年前、アトリエのベランダの庇(ひさし)に鳥が巣を作りました。その時のことを私は<巣立ちの後に>(「ナミブ砂漠」「続モンド通信8」2019年7月20日])という文章で、次のように書きました。

「この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。

2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。

ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。

2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。

鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。

草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。

アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。

鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。

それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。

そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。

ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。

そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。

卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。

その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。

数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが。その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。

もうすぐ、夏です。」

今回も、しばらく前から毎朝ベランダのあたりでしきりに鳥の鳴き声がしていました。猫たちが何か用事ありげに、2階のアトリエに通うところも一緒でした。

それでも、<まさかねえ・・・>と半信半疑だったのですが。先日机にむかっていると、後ろでバタバタと音がします。気づかれないようにそっと外をのぞいてみると、エサをくわえた親鳥が、やはりアンテナに一度止まり、そこから上の巣へと飛びました。2年前よりも小さく、モズを少し細くしたような姿でした。

種類は違うけれど<また鳥が来てくれた!>

気のめいるようなニュースが多いなか、ふあっと心のどこかが明かるくなりました。

このひそかな喜びは<同じ空間に、人間とはちがう生き物が、平穏に暮らしているよ>という鳥からの贈り物のような気がします。

きっとあとひと月もすれば、子供たちも飛び立ってゆくのでしょうが。それまでは今年も、私と猫の楽しみの日々が続きます。

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3 「アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変でアフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、在庫はなくなりました。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Book版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

ダウンロード

A Walk in the Night by Alex La Guma