つれづれに

つれづれに:彼岸花を

(小島けい画)

 金曜日に白浜に行ったとき、途中で何個所か彼岸花を見つけてたくさん採ってきた。彼岸花はこの頃に咲く花で、突然にょきと姿をあらわす。「つれづれに」でも何度か書いているが、定年退職の頃にも書いている。→「彼岸花が咲き出しました。」(2015年9月10日)

その中では、時々見かけていた蛍についても書いた。本学の正門を通って医学部に行く途中の左手に県の農業高校の実習林があって、その辺りを自転車で行き来している時にみかけた。暗くなってからその辺りを通っていたということだろう。

まだ蛍が飛んでいます。例年梅雨に入る前に見かけるのですが、今年は梅雨がやたらと長く、梅雨が明けたころには蛍も終わりかと思ってました。しかし、梅雨明けにたくさんの蛍が飛んでいるのを見かけて嬉しくなりました。それでもお盆も過ぎれば見かけなくなるだろうと思っていましたら、数は少なくなってはいますが、九月の今時分まで飛んでいるのを目にするのは予想外でした。いつくらいまで、生きていられるものなんでしょうか。
 宮崎に来て二十八年目になりますが、医大が出来たころは周りは蛍が一杯やったと、医大に紹介して下さった人に聞いたことがあります。出来たての官舎に住んではったようです。

実習林の近くには小さな川が流れているので、それが水源かも知れない。医大から沖電気を通って赤江に抜ける道の最初の交差点辺りで蛍を見つけて家に持って帰ったことがある。子供二人はまだ小さくて、そのころ使っていた蚊帳の中に入れて暗くしたら、一晩じゅう幽玄な感じで光っていた。ずいぶん前のことなので、ぼんやりとしたイメージしか残っていないが。

まだ小さな川底がコンクリート打ちされていなかったから、毎年帰りに光を見かけたが、工事があってコンクリートの川底になってからは見なくなった。県立看護大が出来て、歩道もだいぶ整備されている。それまでは歩道が狭いかないかで、自転車で行き来するときは、いつも車が近くを通るので、気を遣った。

木花に越してからは、無人の木花神社の近くでも見かけた。近くに小さな池があるので、それが水源かも知れない。家の畑でも何回か見かけた。近くに小川はないので、庭の溜枡と下水の間の水が水源かも知れないとは考えたことはあるが、怪しい。

彼岸花を見ると、やっぱり山頭火の「移り来て お彼岸花の花盛り」の句を思い出す。→「お彼岸花が」(2010年10月14日)

いつものように朝歩いていたら、彼岸花が咲いているのに気がつきました、そう書こうと思ってからもうすでに何日か過ぎました。日中はまだ猛烈に暑いですが、彼岸が近いから咲いて当たり前と言えば当たり前。山頭火が定住を決めて其中庵と名付けた農家に移り住んだとき、

 移り来て お彼岸花の花盛り

 と詠んだようですが、(長いこと読んでないので、正確には、ちょっとあやしい)、こんな時期に定住を決めて、住みだしたんやなあ、と思いました。

散歩の時に高台の公園近くの墓の横で写真を撮って来た

 自殺未遂のあと得度して堂守をしていたが、そこにも安住できずに行乞の旅に出て、長いこと歩き回った。佐賀の嬉野温泉に落ち着こうとしたが、乞食同然のえせ坊主呼ばわりされて定住を拒まれたからである。今頃になって、山頭火ブームに乗り嬉野温泉の宣伝に山頭火を使っているのを見たが、山頭火が生きていたら苦笑するかも知れない。

何とか生まれた山口の農家の一軒家を借りて、定住を果たした。借家に其中庵と名づけて住み始めた頃の句である。人のいい農業高校に勤める俳友が手厚く世話を焼いてくれたようである。

飯塚の木村緑平や広島の大山澄太の助けもあって生き延びてきたが、この頃から死に場所を探し始めた。旅先で書いた日記は頭陀袋に入れて持ち歩いたものもあるが、燃やしたものや散逸したものもある。溜まって日記を旅先から木村緑平や大山澄太に送っていたようだ。後に大山澄太が整理して、春陽堂から出版されたものもある。その人たちのおかげで、今山頭火の句が読めるわけである。駄作も多いが、なぜか人の心に響くものも多い。意識下の原言語に響き、人の意識にのぼって現象化するんだろう。

その「つれづれに」を書いた頃は、統合後木花で共通教育の科目として南アフリカ概論とかアフリカ文化論とかアフロアフリカの歴史と音楽などを毎年何コマか持っていた。2学部が登録出来たようだが、いつも希望者が多く、各クラス150人で勘弁してもらっていた。英語の授業で英文の伝記を使って何回か山頭火も取り上げたことがあった。句の英訳などもやった。そのこともあって、いつか山頭火についても全学の共通教育で1コマやってみようと思っていたので、継続的に行乞記や其中日記なども読んでいた。だから、彼岸花の句が浮かんで来たんだろう。

厳しい暑さの峠を越した処暑(しょしょ、8月23日~ 9月7日)の期間が過ぎ、白露(はくろ、9月8日~ 22日)の期間に入っている。まだまだ暑い日が続き、台風の影響で雨もよく降っているが、何とか朝晩は秋の気配が感じられる。夕方なら、何とか畑にも出られるようになった。大根とレタスと豌豆の種を少し蒔いた。その作業を続けながら、他に葱とブロッコリーの種を蒔こうと思っているが。

白露は「夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿りはじめる頃」らしい。昼と夜の長さが同じになる秋分(9月23日~ 10月7日)辺りまで作業を続けられれば、冬野菜も目途がつきそうだが。

つれづれに

つれづれに:畑を始め‥‥

家の近くの百日紅(さるすべり)

 畑を始め‥‥ようと、蚊取り線香を6つ用意して、溜まった生ごみを持って外に出て、東の端の胡瓜(きゅうり)と茄子(なす)を片づけて、蔓(つる)を登らせるために立てていた竹を片づけ始めたら、急に暗くなって突然大粒の雨が降り出した。こりゃだめだ、と糞切りがついて作業を切り上げて入って来た。荒れ放題の畑で、絹莢(さや)豌豆(えんどう)の畝(うね)と大根の畝をつくる予定の場所(↓)である。

 今年は9月の初めに畑を再開したが、去年は十月の半ば(→「畑も始めたが」、2022年10月19日)だった。作業もし易い10月の半ばに蒔(ま)いたレタスと葱(ねぎ)2袋ずつがほとんど芽を出し、植え替えたら、野菜スープに使うために冷凍している葉っぱはまだ残っているし、刻んで冷凍して置いた葱もつい先日までもった。今年も来年用までつくっておくとしよう。大根の芽が出た頃に、去年は近くの家の白い猫が畝をトイレ代わりに使っていた。

 一昨年はわりと早い時期に(→「大根の芽も」、2021年9月6日)ブロッコリーの種を蒔いている。この年は、最後の苗まで植え替えて、大きいのがたくさん生った。

 2020年はこの頃の記述はなく、2019年は十月(→「2019年の後期が始まりました。」、2019年10月8日)に入ってからだ。早めに蒔(ま)いた大根の芽が虫に見事にやられている。授業が始まって1週間くらいのことで、後期の準備で畑に出る時間も少なく、希釈した酢も撒(ま)けなったということである。

2018年の記述はなく、2017年は9月1日(→「9月になりました。……」、2017年9月1日)に「つれづれに」を更新している。

蚊の大群にやられる覚悟で、陽射しの強い畑に出る勇気が持てず、一面のかぼちゃ畑にしたものの、葉っぱばかりが生い茂り、肝心のかぼちゃの収穫は、大きなのが一つ。
 元々荒れ地にでも出来るかぼちゃ、肥料をやったのがいけなかったのか。そろそろレタスや大根の下準備もしないといけなし、と、かぼちゃの葉っぱを切り始めることに。十月になってまた授業が始まると、畑をする余裕も、たぶんなくなりそうなので。

 生い茂る葉の中に、かぼちゃがぶらり    我鬼子

とあるところを見ると、授業にだいぶ時間を取られていたようである。

授業が終わる前から始めて一月半、ようやく8クラス、七百数十人の成績が終わり、しばらくぼーっとしてたら、九月になってしまいました。

教養の大きなクラスの成績にかなりの時間を取られていた時期である。

「久し振りの更新です。」(2016年9月28日)が示すように、あまり「つれづれに」も書けなかった。この頃はまだホームページなので写真はなく、文字が並んでいるばかりだった。

「彼岸花が咲き出しました。」(2015年9月10日)は定年退職の年で、→「サーバーが復旧しました。」(2014年10月6日)、→「猛烈な暑さも和らいで少し秋らしくなって来ました。」(2013年9月18日)→「1日が始まるのだろう、」(2012年10月3日)、→「お彼岸花が」(2010年10月14日)、→「通草に吾亦紅、」(2009年10月25日)、→「肌寒き朝、飯田高原にいる」(2008年10月15日)は、海外実習でタイやアメリカと学生交換をやっていた頃で、外部資金や全学や学部から常に予算が出ていたので、国内の医者や提携校の臨床医に来てもらったケーススタディなどを休みごとにやってもらっていた。来た人の接待は自腹で、時間もお金もかかって大変だった。卒業生に来てもらえたのは有難かった。卒業生で、コロナでテレビに露出した研究者を何回か誘ったが、大学によほど嫌な思いしかなかったのか、来てもらえなかった。

農産物店を開いた人が会社の前に育てている黄色いハイビスカス、今年も咲いている

つれづれに

つれづれに:9月になって

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」9月<サルーキー犬と子犬と猫>(サントリーニ島)

 9月になった。旧暦の立秋の期間(8月7日~22日)が過ぎ、23日には処暑(しょしょ)の期間が始まっているが、今年は次から次に台風が発生するので、まだ雨が多く、蒸し暑いままである。「厳しい暑さの峠を越し、朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてくる」処暑の期間とは言い難い。

今日から土日と雨は降らないようなので、明日と明後日は意を決して荒れ放題の庭の畑に出ようという気になっている。先ずは、東の方の畝(うね)と畝の間の通路に大根の畝を拵(こしら)えて、去年採った種を蒔(ま)くとしよう。通路には生ごみや雑草を埋めたので、その上に何層か肥料を入れて高い畝を拵えるつもりである。一番東の端は狭い畝になるが、絹莢(さや)豌豆(えんどう)を一層だけ植えよう。連作を嫌うので、今年は植えても大丈夫である。豌豆の種も充分である。どちらも大抵は芽を出してくれる。9月はまだ虫の季節なので、今年はしっかりと希釈した酢を撒(ま)こう。一応、そう思ってはいるが、実際にその通りに行くかどうかは怪しい。

今日も白浜(↓)に行って、手入れをしてもらって来た。最近はマッサージのほかに、鍼(はり)と電気の灸(きゅう)も同時にやってもらっている。自転車をこいで、自力で行けるのは有難いことである。前立腺癌(がん)の疑いを言われて検査をしたが、今のところ癌細胞は見つかっておらず、腫瘍マーカーの数値も少しだが下がっているので経過観察でいいと言われている。食べることや寝ること歩くことで出来ることはやっているので、数値に変化が見られるのは素直に嬉しい。

行きは南東の風が強く、木崎浜、曽山寺浜、青島の浜辺(↓)はけっこう波が高かった。木崎と曽山寺にはサーファーはいなかったが、青島にはたくさんの人が波に乗っていた。木崎は強い風で沖に流されて波に乗りにくいらしく、青島は初心者向けにはいい波だったようである。

先週の火曜日に橘通りのめがね屋(↓)に行ったら、定休日だった。何十年間か前を通っているが店が閉まっているのを見たことがなかったので、まさか開店していないとは思っていなかった。予め、定休日を調べて行けということだろう。バスや車で行くのと少し訳が違う。どちらかというと、年齢や体力や快復力から考えて、今の北限に近い距離にある店である。ま、運動にはなったが。帰りに加納から高台を通って帰ったが、その途中で百日紅(さるすべり)を採って来た。坂道の両脇にたくさん植わっていて、すでに盛りを過ぎている中から咲く前の蕾を選んで持って帰ってきた。

白露(はくろ)の期間が始まる9月8日まであと1週間、いくぶんか過ごし易くなるのか、一気に秋になるのか。そろそろ5作目を書き始めるつもりである。4作目まではどちらかと言えば、自伝的な色彩が強かったが、次は違う形のものを書いてみたい気がしている。意識下にほんの点ほどの個所があって、そこを探って行けば、何かが形になりそうな気が、ある時からし始めている。今までといっしょで、出て来て形になるまで何かはわからないが。