つれづれに

つれづれに:衛星放送

 2冊目の編註テキスト(↑)の装画は衛星放送BS2のニュースの場面を見て妻に描いてもらったが、衛星放送にはずいぶんと世話になった。医学科の授業で映像や音声をたくさん使っていたからである。当時、研究費で定期購読していたアフリカ系アメリカに関するエボニー(Ebony)という雑誌や、日刊英字新聞Daily Yomiuriや南アフリカの週刊紙Daily Mailなどの活字以外に、衛星放送の音声と画像はことの他役にたった。

1995年のエボラ出血熱の特集記事

 1988年に赴任した当初はまだビデオテープやカセットテープの時代で、画質もよくなかった。ビデオテープもまだVHSとβが半々の時代である。両方のテープがあったので、編集にはデッキが2台ずつ必要だった。世話になった大阪工大のLL教室には音声機器と、教室付き補助員3人の予算も先輩がつけていた。テープの複製や編集を頼んだ。次回には出来ていたので有難かった。専任になってからの授業でも使わせてもらった。私は深くその恩恵にあずかっていたわけである。

大学に来た当初、研究費は出てはいたが、それぞれ2台を購入するだけの予算はなかった。旧宮崎大学と統合して教授180万が一気に40万ほどに減って、医学部の予算が多かったのを知ったが、赴任当初は配分されたものを使うだけだった。多いとか少ないとかは考えたことがなかった。外部資金も世話してくれた理系の人に言われて締め切り間際に慌てて出しただけで、本当に研究費が出るとは思ってもいなかった。実際に単年で100円出ると通知があったとき、ほんまに出るもんなんやというのが正直な感想だった。その予算でも、一年ではデッキ4台は買えなかった。助教授は120万で講師はそれより少なめ、それになぜか語学の教官は他の教官の半分だと言われた。大学内の力関係で決まっていたのだろう。教授会には教授しか参加しない中で、新任の教師が内実を知る術はない。デッキはまだ20万以上する高級品だった。

 授業用に大きなテレビも購入した。大きな講義室にはビデオを拡大して白いスクリーンに映すプロジェクターがあったが、まだ映像の性能はよくなかったので、分厚い暗幕をきっちりと閉めてもそれほど鮮明な映像にはならなかった。従って、1クラス25人の教室には、台車にテレビとビデオデッキを乗せて運んだ。できるだけ前に座ってもらって授業をすれば、顔もよくわかるし、マイクを使わなくて済む、と考えたのだろう。

研究室で衛星放送が見られるように工事をしてもらった。録画も編集も謝金を出して手伝ってもらうようになったのはずっとあとのことで、その頃は録画も編集も自分でやっていた。衛星放送で一番世話になったのはニュース番組で、マンデラの釈放前後にはBBCやABC、その後エボラ出血熱騒動やエイズではCNNなどをよく録画した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 ニュース番組のほか、NBAのマイケル・ジャクソン(↓)やMLBの野茂や、アフリカ系アメリカ史の公民権運動やブラックミュージックや医療に関するドキュメンタリーもたくさん録画して編集した。のちに、パソコンを使うようになったとき、ビデオテープの映像や音声をファイルにして、授業で使えるように編集をした。研究費を充分に使わせてもらえたのは有難かった。

1997年NBAファイナルズ第1戦

つれづれに

つれづれに:テキスト編纂2

(セブンシィーズ社初版本、神戸外大黒人文庫)

 最初のテキストがでたあとすぐに、2冊目の編註を言われた。文字起こしからするらしく、ワープロで本文を打って校正をした。編集室でも何回も校正をしたと言っていたが、出来上がったテキスト(↓)には何個所か校正ミスがあった。その個所の小さなエラター(誤字一覧)を拵(こしら)えて、本の扉に1冊1冊挟(はさ)んだ。

 大学のゼミの発表の時に手動のタイプライター(↓)を使った記憶がある。元町の高架下で買ってきたものである。たしか、1万五千円ほどだったと思う。その後高校の英語の教員になった。高校の授業の題材はすべて手書きかガリ版刷りだったので、タイプライターは使わなかった。

 大学院で→「修士論文」を仕上げたときは、当時出始めていた電動タイプライター(↓)だった。間違った個所を修正テープを使って修正した記憶がある。見ないで打てれば早いんやないかと考えて、asdf~とブラインドタッチの練習をやろうとしたが、すぐに向いてないと諦めた。パソコンを頻繁(ひんぱん)に使うようになっても、ブラインドタッチとは無縁のままである。

 本はラ・グーマの2冊目で東ベルリンのセンブンシィーズという出版社から出ていた。イギリスでもアメリカでも出版されていた。1960年にアフリカ人側が武力闘争を開始してから、南アフリカから亡命した人たちは東側諸国に受け入れられた。ラ・グーマもソ連とキューバに正式に外交官として迎えられている。ソ連では人気作家だった。

イギリス版、この本を見ながらタイプを打った

 1冊目は作家が逮捕前に夫人に1年間郵便局に留め置くように指示し、その草稿を南アフリカを訪れた白人編集者がナイジェリアに持ち帰ってムバリ出版社から世に送り出した奇跡の作品である。1作目も2作目も初版本を神戸外大の黒人文庫から借りだした。ゼミの担当者が研究費で買ったものを退官した時に文庫に入れたのである。

 表紙絵は再び出版社の人の依頼で妻に描いてもらった。当時、春は近くの市民の森に自転車で出かけて花菖蒲(しょうぶ)を描いていたし、秋は道草(あけび)を描くのに忙しかった。しかし、いいよと言って当時映るようになっていた衛星放送BS2の海外ニュースのアンゴラの風景を見てシャシャッと描いてくれた。雑だが勢いがあった。注文をしてもらうようになって丁寧に丁寧に時間をかけて描くようになったが、一気に描く絵には勢いがある。妻の絵と講演会で知り合った南アフリカの女性の助けを借りて、2冊目の編註テキストが出来上がった。また人の力を借りでである。1冊目もそうだが、お気に入りの犬を放している。描く人の遊び心である。

つれづれに

つれづれに:イリスが咲き出した

 庭の→「イリス」が咲き出した。植え替えた次の年に花が咲かなかったので、もう咲かないのかなあと諦めていたが、その次の年にはまた一斉に花が咲き出して、ほっとした。

 植え替え前のイリス(↑)

 咲き始めるのが3月の終わりだと思い込んでいたが、4月の半ばだったようである。7年前にも、その3年前にもブログに書いている。その頃はまだ週に8コマほど授業があって、3月の終わりと4月の初めは畑に出る時間もなかったが、ブログの「つれづれに」もなかなか書けなかった。各クラスにブログの授業のページがあって、授業が終わったら書き込んでいた。遅れることもあったが、忘備録として役に立った。その中に、そのときどきの思いを綴ることが多かった。従って、その書いたもののタイトルはない。

  • 2017/04/16   庭に植えたイリスが一斉に……

畑の南側は金木犀の垣根だし、東側の三分の一くらいは南側の平屋の陰になって日が当たらない。それで植え付けられる場所を少しでも広げようと、家の敷地の南側に新たに土を入れてレタスと葱(ねぎ)を植えることにした。その結果、→「牡丹」とイリスに引っ越してもらったというわけである。

 植え替え前に白の牡丹が枯れた。臙脂(えんじ)とピンクの花(↑)が見事で、妻が絵に描いて残している。植え替えたあと、ピンクの花も枯れた。もうしわけないことをしてしまった。そのあと、毎年春と秋に開かれる宮崎神宮の植木市で2本、牡丹を買ってきた。植木の影など、直接陽が当たらないところがいいですよと教えてもらたのに、2本とも枯らしてしまった。

 英語ではirisというらしい。妻のブログを見る人のほとんどが外国人のようなので、少し英訳を始めた時に花の名前も少し調べた。アヤメ科の植物で、原産地はイタリア、フランス、モロッコなどらしい。日本ではイリスとかアイリスと呼ばれているようである。厳密には、発音はアイァリスか。ギリシャ神話に登場する虹の女神の名前らしい。余りにも鮮やかなので、妻に描いてもらった。

 たまたま決まったのが医科大学だったので、教授になった時から医学英語も担当するようになった。そのうち、6年生での海外臨床実習のための準備のために、医学英語も本格的にやるようになった。1年生の授業でも取り入れた。ギリシャ語とラテン語由来の用語が9割なので、慣れるまでに少々時間はかかるが、医学生には必須である。病理診断などが英語で書かれるので、読めないと仕事にならない。医学用語では、耳と目の感覚器官(Sense Organs)の項目(↓)でやったときに、iris(虹彩、こうさい)が出てきた。「眼球の水晶体の前面にあって瞳孔をかこむ輪状の膜。脈絡膜がのびてできたもので、放射状に瞳孔散大筋、輪状に瞳孔括約筋が並ぶ。目にはいる光に対して反射的に働き、瞳孔の開閉や明暗調節を行なう。含まれる色素の多少によって茶眼、青眼などになる」ということらしい。光の量を調節して網膜に届けるこの器官を、虹の女神から借用して呼んだようである。

 カレンダーにも入れた。長崎の広告会社が東京の展示会に出品しているのを見つけてくれて、カレンダーの依頼が来た。全国網で紀伊国屋とか東急ハンズなどに出品されたが、利益が出ずに1年だけに終わった。しかし、その後何年間かは、地元長崎の企業に売り込んでくれた。その中の6月の絵にこの時のイリスの絵を使った。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬」6月(企業採用分)

つれづれに

つれづれに:テキスト編纂(さん)1

 最初の本(↑)は→「共著」で、出たのは正規の職が決まる直前だった、気がする。非常勤が5年と長かったので、急遽(きょ)決まって赴任した→「宮崎医科大学 」では初めて経験することが多かった。(→「大阪工大非常勤」、→「二つの学院大学」)自分だけの研究室も有難かった。研究室が講義棟から学生食堂に行く途中にあったこともあるし、髭(ひげ)生(は)やして先生らしからぬ言動もあって、学生がたくさん立ち寄ってくれた。親しみやすかったのかも知れない。授業が終わったあとも定期的に来てくれる学生も各学年とも増えていった。科学研究費も考えたことがなかったものの一つである。締め切り間際に殴り書きして提出するはめになったが、次の年に単年で100万円が交付された。(→「 科学研究費 1」)7年間の学術的な業績に加えて、雑誌の記事もよかったのかも知れない。かなりの数があったし、なぜか大学の業績には出版社から出たものの評価が高い。(→「ゴンドワナ (3~11号)」、→「 ゴンドワナ (12~19号)」

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 →「 MLA(Modern Language Association of America)」で発表するのに南アフリカの歴史も辿(たど)り始めて、たくさん記事を書いていたし、→「LL教室」を使った英語の授業でも→「『ルーツ』」の他に→「『アフリカシリーズ』」を使ってアフリカについても映像を紹介し始めていた。

サンフランシスコの発表会場で、座長の伯谷嘉伸さんと

 自分が使う教科書を出してもらうのも初めてだった。テキストを編集しませんかと連絡が来るまで、その発想すらなかった。高校では教科書が決められていたし、非常勤の時も大学の生協から使うテキストの冊数を聞かれて返事はしたものの、深く考えたことはなかった。(→「黒人史の栄光」)従って、テキストに註をつけて出しませんかと連絡が来たとき、へえーという感じが強かった。電話のあと、テキストが送られて来た。東京の私大の人が編註をつけたテキストで、再版するらしかった。出版事情をきかされたのはずいぶんと後になってからである。

作品は→「A Walk in the Night」(↓)だった。初めてであったし、舞台の南アフリカのカラード居住地区第6区はまったく知らなかったし、イギリス英語でもあったので、少し手こずった。しかし、講演会で知り合ったケープタウン生まれの女性に助けてもらい、初めての学生である2年生の何人かに校正を手伝ってもらって、何とか出来上がった。表紙絵は出版社の人の依頼もあって、妻に描いてもらった。当時日本でも上映されていた南アフリカ映画「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」の一場面を使ってくれた。

次の年から、英語の授業で使い始めた。(→「註釈書1」、→「アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」