私の絵画館(2011/11/10)


      「チョビと山茶花」                  小島けい

 チョビは元東京在住で、今は京都に住んでいます。
 今回、チョビの写真を3枚お預かりしました。ほぼ一年前、ピンクの山茶花が手に入った時、このかわいい花と一緒に描いてみようと思いました。そしてちょこんと前足が見えているちょっとおちゃめな横顔の写真を選びました。
 けれど、何度か描きかけてはみましたが、どうしても描けず、そのままになっていました。
 それから半年以上経ち、もう描きあげなければ間にあわない、という段階で、今一度写真を取り出し、しげしげとながめました。
 ご注文をいただくほとんどのモデルさんと同様、チョビも会ったことはありませんので、チョビと親しくなる方法は、ただ一つ。写真をみるしかありません。
 三枚の写真のうち私が迷っていたのは、正面の顔か、最初に描こうと思った横顔かでした。
 うーん、と声にならない声を出しながら、二枚の写真を長い間見くらべていると、ふと正面の顔がかわいらしく思えてきました。
 まったく”他人”だった猫が、その時初めて”お友だち”になりました。チョビ、あなたかわいいねえ、と話しかけることのできた時点で、ようやく筆が動きました。そうしてこの絵が出来ました。
 描く前から知りあいの犬(わん)ちゃんや馬たちなどは、もうすでに”友だち”なので、改めて仲よくなる必要はありません。また、一瞬見ただけで”かわいい、描きたい”と思えたモデルさん(例えば子猫や子犬など)も、それはいりません。
 でもそうでない場合は、仲よくなる時間が必要なのだということを、久しぶりに実感した一枚になりました。
 今では、チョビも、そしてこの絵のなかのチョビも大好きです。


 →小島けいのカレンダー『私の私の散歩道2012~犬・猫・ときどき馬~』の11月に収載しています。



私の絵画館(2011/10/10)


      「ハーシュくんとコスモス」               小島けい

 モデルは宮崎県在住だったハーシュくんです。
 この絵を見ると、昨年の大分県飯田高原の個展を思い出します。宮崎県から絵を見に来て下さった飼い主さんからご依頼を受けた絵だからです。
 今、ちょうど一年がすぎ、その高原の美術館に滞在してこの原稿を書いています。
 今年は初めて、雨ばかりの連休です。晴れた気持ちのよい日にくらべれば、お客様はずいぶん少なめですが、少ない時にはゆっくりお話できるというよい点もあります。
 17日の土曜日の夕方ここに到着しましたが“館内に入っていたお客様が今出られました”とのこと。そのまま誰も入らないで終わるのだろう、と思っていたら、ふらりと女の方がこられました。
 お写真をお預かりして犬(わん)ちゃん猫ちゃんたちを描いています、とご説明すると、“人間は描かないんですか?”と聞かれましたので、“描きますよ。前にもこの美術館の館長さんのお母様を描きましたよ”とお話しました。
 絵を見ていると、どの子もそれぞれに特徴が出ているので、自分の母親も描いてもらいたいなあと思ったのだけど、と言われました。
 74歳のお母様はしばらく前に脳梗塞で倒れて、今はリハビリの最中で、すぐつれてくるのは無理なので、来年本人をつれてきて、それで絵を頼みます、と言って帰られました。
 ところが、翌日の18日、その方がお母様といっしょに再び訪ねて来られました。プロフィールの葉書きにのっていた数枚の小さな絵を見て、この人に絵を描いてもらいたいから、会いに行く、とお母様が言われたそうです。
 確かに杖をついて歩きにくそうでしたのに、来ていただけたこと、それだけで、ほんとうに嬉しいことでした。
 結局、娘さんと二人の絵を描くことに決め、ギャラリーの前で、迷カメラマンの相方が何百枚もの写真を撮りました。
 お好きな写真を選んでいただき、それをもとに絵を描いて、10月から施設に入られるお母様に、クリスマスプレゼントをすることになりました。
 思うように身体が動かなくなって、少し自嘲気味のところもあったお母様が何枚も写真をとっているうちに、髪を整えようかな、口紅もぬった方がいいかな、と言い出し、少しずつおだやかな笑顔になって下さったことが、何よりだったと思います。
 冷たい雨は降り続いていましたが、心がほっと温かくなったひと時でした。

 「モンド通信」→「ハーシュくんとコスモス」(No. 38:2011年10月10日)もどうぞ。
  小島けいのカレンダー『私の私の散歩道2012~犬・猫・ときどき馬~』の10月に収載しています。カレンダーの詳細は追って掲載します。
 



私の絵画館(2011/9/10)


      「レイチェル」                      小島けい

 子犬が見上げているのは、レイチェルです。宮崎県清武町にあるウェスタン乗馬クラブ「COWBOY UP RANCH(カウボーイ アップ ランチ)」の看板犬で、アイリッシュセッターです。
 この犬種はウェーブのかかった長めの毛が特徴ですが、今はあまりの暑さをしのぐため、長い毛を刈り込んでもらったとか。ホームページ(→「COWBOY UP RANCH(カウボーイ アップ ランチ)」の写真をみると、別人(別犬?)のようです。
 このレイチェルが、7年前に子犬を生みました。6匹の子犬にお乳をあげるのは大変なことです。ところが、いっしょに暮らしていたレイチェルのお母さん、ルーシーも、突然、お乳が出るようになりました。それからは2匹で、争うように交替で子犬の世話を始めました。
 お母さんとおはあさんの両方のお乳のおかげで子犬たちは皆すくすく育ち、そのうちの2匹が、今も牧場で馬たちの番犬として活躍しています。

 
 「モンド通信」(No. 37:2011年9月10日)→「レイチェル」もどうぞ。



私の絵画館(2011/8/10)


      「ももちゃんとひまわり」                 小島けい

 ももちゃんは宮崎県に済んでいた、通称キャバリア(正式にはキャバリア・キングチャールズ・スパニエル )という犬ちゃんです。
 飼い主さんのところで小さい頃から育てられたのではなく、何才かのときにもらわれてきました。(正確にはわかりません。)
 ももちゃんは以前飼われていた時に、虐待を受けていたらしく、新しいお家に来てからも、人間に警戒し、誰にもなつきませんでした。
 そんなももちゃんでしたが、今の飼い主さんが何ヶ月も根気強く優しく接し続け、半年以上すぎて、ようやく触れることができるようになったそうです。
 それでも、亡くなる時まで、他の人間にはまったくさわらせませんでした。家族だけに心を許し、その身体に触れることができたのです。
 お預かりした写真の表情は明かるくほがらかで、心の奥底に深く傷ついた部分をかかえていたことなど、想像することもできません。
 ももちゃんが今のお家で、愛情をいっぱいに受けて暮らすことができたこと、ほんとうによかった!と思います。
 ひまわりの花が一番似合う子でした、という飼い主さんのお言葉を聞き、ひまわり畑で楽しそうに遊ぶももちゃんを描きました。

 ひまわりについては、「小島けいの絵のblog: Forget Me Not」の→「向日葵とジョバンニ」と→「向日葵(ひまわり)、私の絵画館の(→「向日葵とジョバンニ」)もご覧下さい。



新作です:まりりんちゃんとぷりんちゃん(2011/11/28)

 愛媛県松山市のまりりんちゃんとぷりんちゃん姉妹です。



新作です:ばら(2011/11/18)

 九月の個展後の新作です。ピンクの薔薇(ばら)で、薔薇は初めて描きました。

 →越地としこ著『いのち芽生えて』



新作です:こすもす(2011/11/18)

 九月の個展後の新作です。コスモスです。

 



新作です:ピースちゃん(2011/11/9)

九月の個展後の新作です。大分に住むトイ・プードルのピースちゃんです。

 

 →「新作です:ばら(2011/11/18)」、→越地としこ著『いのち芽生えて』、→越地としこ著『いのち芽生えて』>(ハードカバー版)もどうぞ。



玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために

小島けいのブログを更新している玉田吉行です。

僕のホームページ→「ノアと三太」に写真入りの「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」を紹介したいと思いますので、この画面をお借りします。

* 横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』をよりよく理解してもらうためのエセイを連載しています。No. 9(2009年4月10日)から始めて、No.41(2012年1月10日)までの21回を書きました。(途中何回か、書けない月もありました。)
エセイのタイトルの一覧のあとに、最新号<21>と初回の<1>を載せています。


<26>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(5)」 No. 46(2012/6/10)
<25>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(4)」 No. 45(2012/5/10)
<24>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(3)」 No. 44(2012/4/10)
<23>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(2)」 No. 43(2012/3/10)
<22>→「シンポジウム「アフリカとエイズを語る」報告(1)」 No. 42(2012/2/10)
<21>→「(21)『ニューアフリカン』:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス」 No. 41(2012/1/10)
<20>→「(20)『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源」 No. 40(2011/12/10)
<19>→「(19)『ニューアフリカン』:エイズの起源(2)アフリカ人の性のあり方 」 No. 39(2011/11/10)
<18>→「(18)『ニューアフリカン』:エイズの起源(1)アフリカ人にとっての起源の問題 」No. 38(2011/10/10)
<17>→「(17)雑誌『ニューアフリカン』」No. 34(2011/6/10)
<16>→「(16)メディアと雑誌『ニューアフリカン』」 No. 33(2011/5/10)
<15>→「(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(四) アパルトヘイト政権の崩壊とその後」 No. 32(2011/4/10)
<14>→「(14)エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(三) アパルトヘイト政権との戦い」No. 31(2011/3/10)
<13>→「(13)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(二)育った時代と社会状況二 アパルトヘイト」No. 21(2010/4/10)
<12>→「(12)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1」 No. 20(2010/3/10)
<11>→「(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」No. 19(2010/2/10)
<10>→「(10) エイズ治療薬と南アフリカ(2)」No. 18(2010/1/10)
<9>→「(9)エイズ治療薬と南アフリカ(1)」No. 17(2009/12/10)
<8>→「(8)南アフリカとエイズ」No. 16(2009/11/10)
<7>→「(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」No. 15(2009/10/10)
<6>→「(6) アフリカでのエイズの広がり」No. 14(2009/9/10)
<5>→「(5) アフリカを起源に広がったエイズ」No. 13(2009/8/10)
<4>→「(4) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(2) 不安の矛先が向けられた先」No. 12(2009/7/10)
<3>→「(3) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(1)」No. 11(2009/6/10)
<2>→「(2) エイズとウィルス」No. 10(2009/5/10)
<1>→「(1) 『ナイスピープル』とケニア」No. 9(2009/4/10)


最新号<21>→「(21)『ニューアフリカン』:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス」 No. 41(2012/1/10)

今回は「エイズの起源」の4回シリーズの最終回で、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」についてです。
編集長のバッフォ・アンコマーは「ニューアフリカン」で早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来ました。信頼のおける科学者に依頼してその根拠を示し、判断は読者に委ねました。原稿を依頼された一人が米国の皮膚科医でエイズと癌の研究者アラン・キャントウェルJrです。キャントウェルは、男性同性愛者に接種されたB型肝炎ワクチンの影響でエイズ患者が生まれ、HIVは癌研究を隠れ蓑に米国政府が継続した生物兵器の開発実験の過程で生み出された人工ウィルスである疑いが濃いと結論づけています。
1978年11月にニューヨーク市で男性同性愛者にB型肝炎ワクチンの接種実験が行なわれたすぐ後に、エイズ患者が大量に出始めたのは事実です。接種実験を実施したのはポーランド系ユダヤ人医師のウォルフ・シュムーニス(Volf Szmuness)で、第二次大戦中、政治犯としてシベリアに連れて行かれた人物です。戦後釈放され、中央ロシアで医学部に入り、1959年にはポーランドへの帰国許可が出て、公衆衛生を専門に肝炎の専門家になりました。1968年に家族でニューヨークに亡命し、1968年にニューヨーク市血液センターに技師として採用されたのち、コロンビア大学に招かれ肝炎の世界的な権威になっています。
性の解放が叫ばれた1970代初期には男性同性愛者の間で性感染症、特にB型肝炎が急速に拡大して当局の懸念が大きくなり、シュムーニスが開発中のワクチンが実験的に接種されたわけです。シュムーニスは治験の対象に高学歴の白人で、性的に活動的な男性同性愛者を選びました。治療費などで優遇しましたので、志願者を難なく集め、CDC(米国疾病予防管理センター)、NIH(米国国立衛生研究所)や大手の製薬会社の協力を得て治験を実施しました。1978年の11月にマンハッタンのニューヨーク市血液センターで第一グループの1083人にワクチンが接種され、翌年の10月まで治験が続きました。96%の成功率を収めましたが、3ヶ月後の一月に若い白人の男性同性愛者が原因不明の病気になりました。1980年の3月には、CDCの監督の下に、サンフランシスコ、デンバー、セントルイス、シカゴで1402人へのワクチン接種が継続され、その秋にサンフランシスコで最初のエイズ患者が出ました。
アフリカ人やアメリカの同性愛者のHIV感染源としてワクチン接種に最初に注目したのは米国人医師ロバート・ストレクターで、「エイズは実験室のウィルスを遺伝子操作して造られた病気で、そのウィルスが故意に、或いはたぶん偶発的に、世界の人口を制御するための殺人因子として人間集団に注入された」と指摘しました。政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑については、前号の→「(20)『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源」 No. 40(2011/12/10)で、「遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能である」と1969年に医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言したこと、国立癌研究所が生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設であったこと、アフリカ起源説を主張するギャロやエセックスが学問的に重大な間違いをおかしたにもかかわらず政府や製薬会社やマスコミに守られたことなどについて書きました。シュムーニスによる男性同性愛者へのB型肝炎ワクチンの接種実験がCDCやNIHや製薬会社と連携した癌研究の一環であり、1971年以来癌研究を隠れ蓑に生物兵器の研究が続けられたことを考えれば、HIVが人工的に米国政府に造られたウィルスであるという主張は空論ではありません。(キャントウェルは、後に政府によって公開された情報から、1940年代の冷戦時代の初めから70年代まで政府が秘密裏に行なった放射能実験が著名な大学で実施され、非常に高い評価を受けている医者や科学者が研究に関わっていた事実が明るみに出たこと、犠牲者がしばしば貧乏人や病気の人、恐らくはアフリカ系アメリカ人やいわゆる「アメリカインディアン」に多いことから推測すれば、エイズについてもその可能性は極めて高いと指摘しています。)
製薬会社や政府と密接な関係にあり、資金提供も得ている主流派は「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」を「陰謀説」と切り捨てますが、資金獲得のためには製薬会社はもちろんのこと研究者やNGO、国連さえもエイズ患者やHIV感染者のデータを水増しして利用して来た、などの根本にも関わる政治的な思惑や経済的な絡みなど、これまでの歴史的な経緯を総合的に判断すると、HIVが米国で人工的に作られたウィルスである可能性は高いと言わざるを得ません。
次回からは、11月に宮崎で行なったシンポジウム「アフリカとエイズを語る」についての報告記事をシリーズ(「ナイスピープルを理解していただく為に」)でお伝えしたいと思います。(宮崎大学医学部教員)


初回の<1>→「(1) 『ナイスピープル』とケニア」「モンド通信(MonMonde)」 No. 9(2009年4月)

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を順次メールマガジン「モンド通信MonMonde」で紹介し、それと並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などをシリーズでお届けしようと思います。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。

「ナイスピープル」
『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが81年、ケニアでは84年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。
著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(92年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。
医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

ムアンギさん
ケニア人で身近で接したことがあるのは2人だけです。ひとりは四国学院大学の教員をしているムアンギさん、もうひとりは宮崎大学の留学生だったサバです。どちらもナイロビ大学を卒業したと言っていました。
ムアンギさんとは兵庫県の明石に住んでいた80年代の半ば頃に知り合いました。(ちょうどケニアなどのアフリカ諸国でエイズ患者が出始めた頃ですね。)詳しくは忘れましたが、神戸にある黒人研究の会で知り合ったような気がします。高校の教員を辞めて大学の職を探している時に、大阪工業大学でいっしょに非常勤をしたこともあります。87年だったと思いますが、資料を探すためにニューヨークハーレムにある公立図書書館を訪れる前に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)に滞在していた大阪工大のESSの学生の宿舎に寄ったあと、キャンパスをいっしょに歩いたりもしました。日本では日本語しかしゃべってこなかったムアンギさんが、アメリカでは英語でしゃべりかけて来ました。ギクユの人でナイロビ大学を卒業したあと、国費で京都大学に坂本龍馬の研究に来たとか。卒業後に法学部の助手もやっていたそうです。同じギクユ人の作家グギさんが来日したときに世話をしたら、ケニアに帰れなくなったのだそうです。当時のケニヤッタ政権に反対する立場にいたグギさんの友人は、ケニアでは反体制の危険分子だったというわけです。

2003年にいっしょに宮崎でシンポジウム(下にポスター)をしたときのムアンギさんです。

シンポジウム「アフリカと医療~世界で一番いのちの短い国~」(2003)のポスターの写真

サバ
もう1人のサバはルヒアの人で、宮崎大学の体育館で他の留学生や教員といっしょにバスケットをやった仲です。当時は農学部大学院博士課程の国費留学生で、醸造とかが専門でワインを作ったりしていたようです。普段は週に1回いっしょにバスケットをするだけで、ほとんど個人的な話はしませんでした。ちょうど英文の2冊目の本を書いていた時で、どうしてもケニアの事情が知りたくて聞くことにしました。その時のことをまとめて、英文のテキストに載せました。以下の文章がその日本語訳です。

(旧宮崎大学でサバや大学生とバスケットをしていた時の写真です。)

私がケニア出身の学生とケニアの状況について話をしたとき、その学生は現体制についての不満を言いました。「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で「工事中」の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。92年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』(横浜:門土社、1998年刊)

(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』の表紙絵の写真)

何年か前に、現在長崎市民病院で研修をしている服部晃好くんとサバの送別会をしました。その時は、奈良にある関西文化学術研究都市の会社に就職すると言っていましたが、その後は会っていません。6年間ですっかり身につけた日本語で「小腹が空いた」などと言っていましたが、まだ日本にいるんでしょうか。
服部くんは名古屋の大学の工学部を出て暫くガス会社の研究所で働いたあと、海外青年協力隊の理科教師としてタンザニアのキゴマの中学校で3年過ごしたあと、ケニアでJICAの調整員を2年やったそうです。その後医学部を出て、いつかは再度アフリカに行くために、熱帯研究所のある長崎大学で医師の研修を受けることにしたそうです。
アフリカ音楽にも詳しく、会社を休んでユッスー・ンドゥールのコンサートに出かけたと言います。音楽の解説記事を頼んで、大学の授業でも使わせてもらっています。このシリーズでその解説記事なども紹介したいと思っています。(宮崎大学医学部教員)



玉田吉行の「ジンバブエ滞在記」

 小島けいのブログを更新している玉田吉行の→「ノアと三太」に「ジンバブエ滞在記」を紹介したいと思いますので、この画面をお借りします。門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に2年ほどの予定で連載中です。一覧のあとに<22>を載せています。一覧です。

<26>「 ジンバブエの歴史 1『 百年史概要と白人の侵略 』」(No. 60  2013年8月10日)

<25>「『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」(No.59  2013年7月10日)

<24>「ジンバブエ滞在24ふたつの壷」(No.58  2013年6月10日)

<23>「ジンバブエ滞在23チサライ」(No.57  2013年5月10日)
<22>→「ジンバブエ滞在22ジャカランダの季節に」(No.56  2013年4月10日)
<21>→「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55  2013年3月10日)
<20>→「ジンバブエ滞在⑳演劇クラス」(No.54  2013年2月10日)
<19>→「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」(No.53  2013年1月10日)
<18>→「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」(No.51  2012年11月10日)
<17>→「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」(No.52  2012年12月11日)
<16>→「ジンバブエ滞在⑯75セントの出会い」(No.50  2012年10月10日)
<15>→「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)
<14>→「ジンバブエ滞在⑭ルカリロ小学校」(No.48  2012年8月10日)
<13>→「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」(No.47  2012年7月10日)
<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(No.46  2012年6月10日)
<11>→「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」(No.45  2012年5月10日)
<10>→「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」(No.44  2012年4月10日)
<9>→「ジンバブエ滞在記⑨ゲイリーの家族」(No.43  2012年3月10日)
<8>→「ジンバブエ滞在記⑧グレートジンバブエ」(No.42  2012年2月10日)
<7>→「ジンバブエ滞在記⑦ホテル」(No.41  2012年1月10日)
<6>→「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」(No.40 2011年12月10日)
<5>→「⑤バケツ一杯の湯」(No.39  2011年11月10日)
<4>→「④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」(No.38  2011年10月10日)
<3>→「③突然の訪問者・小学校・自転車」(No.37  2011年9月10日)
<2>→「②ハラレ第1日目」(No.36  2011年8月10日)
<1>→「①アメリカ1981~1988 」モンド通信(No.35  2011年7月10日)


最新版:「ジンバブエ滞在記○22 ジャカランダの季節に」(No.56  2013年4月10日)

電話代

9月に入りますと、ジャカランダがちらほら咲き始めました。ジャカランダ南米原産の大木で、街路樹として街の至る所に植えられていました。薄紫色の花がすっかり色付いた頃に、私たちはこの国とお別れです。
9月も半ばを過ぎると、あちらこちらでジャカランダの花が目に入るようになってきました。そろそろ帰国の準備です。短かい期間ではありましたが、家を一軒借りて住んでみると、後始末の煩わしさも予想以上です。(写真1:ハラレの街のジャカランダ)

13年4月用ジンバブエ滞在記写真1ハラレの街のジャカランダ

9月の上旬には、先月分の電気・水道代と電話代の請求書が届けられました。電気・水道代は、街に出かけるゲイリーに頼んで払ってもらいましたが、電話代が問題です。請求書の額面が1000ドルを超えています。確かに国際電話も使いましたが、吉國さんに教えてもらった料金と掛けた回数を考え合わせみても、やはり法外な額です。どうもばあさんが未払い分をためていたようです。電話を切られますとタクシーも呼べませんので、局まで行って説明するしかないでしょう。
電話局は郵便局の2階にありました。事情を説明して、使った分だけ払いたいので8月分の明細を教えて欲しいのですがと頼みましたら、何年かのうちには明細が分かるシステムになる予定ですが、今は分かりませんので、払っていただくしかありませんと言います。千何百ドルも払うのは大変ですので、何回か同じ説明をしているうちに、双方の前提の食い違いに気付き始めました。相手はとうとう根負けして、ではいくら払えますかと言います。私の頭には請求された限りは全額を払うべきだという固定観念があったのですが、どうやら1度に全部を支払わなくても済むようです。付けがきくというわけです。それならそうと、最初から言ってもらえれば苦労して説明に四苦八苦しなかったのにと思いますと、疲れが倍にも感じられました。水道や電気の場合もそうでしたが、督促状は来るものの、滞納しても別に利子がつくわけでもないし、一部でも支払えば、水道も電気も切られないで済むようです。大量に消費する白人側の圧力があるのかも知れません。これでは市の行政もやり難いに違いありません。

大学構内郵便局

空港では日本から運んで来た5つのトランクが吉國さんの奥さんを悩ませてしまいましたが、そのお蔭で衣類などの不自由を感じないで済みましたし、何よりも食欲を落とさずに過ごすことが出来ました。しかしトランクが多いと、移動時にはタクシーも1台では済みませんし、何かと不便です。イギリスのヒースロー空港では、トランクが多いのにつけこまれて不愉快な思いをしました。充分に用を果たしたところで、思い切ってトランクを2つに整理し、2つを船便で送ろうと考えました。1つはゲイリーに引き取ってもらおうと思います。
ルカリロ小学校でもらった壷もあります。一抱えもある陶器の壷が、日本までの長い船旅の間に壊れないで宮崎まで届く保証もありません。近くのショッピングセンターに出かけて大きな篭を買ってきました。草の蔓で編んだ篭です。その中にザンビアや衣類を何重にも巻きつけた壷を入れました。トランクの分も含めて、大きな荷物が5つにもなりました。こちらのダンボールは紙の質が悪いので、日本から送られてきたダンボール箱を使いました。
5つの大きな荷物を、1つずつ自転車の荷台に乗せて、そろりそろりと大学の郵便局に運びます。最近出来たこの郵便局では、今までこんなに大きな荷物を送る人はいなかったようで、思わず係員の手を煩わせてしまいました。
ジンバブエでは高額の切手は発行されておらず、2ドルの切手が最高です。従って、普段でも航空便などは、何十枚もの切手を舌で舐めて貼りつけます。表に貼りきれない場合は裏も使います。5つとも船便で200ドル前後の料金でしたので、その分で行けば、トランクは切手だらけになりそうでした。しかし、係員はしばらく考え込んだ末、本局に電話で連絡を取る決心を固めたようです。しかし、電話は例によってなかなか繋がりません。長時間の交渉の末、ようやく話が着いたようです。「本局に連絡を取って一括払いに出来るようにしましたから、明日の朝にでも受領証を取りに来て下さい。」と係員が言います。
あまりにも気の毒でしたし、まだ4つも大きな荷物が残っていますので、2人の係員にどうぞとそれぞれ5ドル紙幣を手渡しました。ささやかなお礼のつもりでした。
毎回、大きな荷物を自転車で運んで係員の手を同じように煩わせるのは大変でしたが、それでもなんとか無事手続きを済ませることが出来ました。あとは、荷物が無事に宮崎まで届くのを祈るばかりです。
 手を煩わせた係員には、その都度5ドル紙幣を手渡しました。毎回毎回大変そうだったからです。その甲斐があったのでしょうか、最初に5ドルを渡した翌日に窓口に行った時には、普段は無愛想に渡される切手を係員自らが貼ってくれました。そして、その次からは郵便局に足を踏み入れたとたんに、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれるようになりました。
ハラレを発つ前日の金曜日に、長女と一緒に郵便物を出しに大学の郵便局に出かけました。ちょうど郵便局の向かいに売店が出来ていましたので、そこでコーラを買って差し入れをしましたら2人の係員に大いに喜ばれました。
郵便局を出たところで、アレックスとジョージに出会いました。コーラを買って来て、4人で一緒に飲みながらしばらく話しこみましだ。ジョージは栓抜きを使わずに上手に2本の瓶を操って栓を抜き長女を驚嘆させました。日本語でジョージはどう書くのかと質問されて、譲治かな情事かなと冗談まじりに、長女は両方ともノートに書いて見せていました。ジョージは、その他にも次から次へと長女に質問を浴びせかけて、日本のことなどを熱心に聞いていました。特に漢字を見て感心し、譲治の書き方を一生懸命に覚えようとしていました。アレックスもジョージも優しかったからでしょうか、長女はこの日からすっかりジョージのファンになってしまいました。
10月3日の最終日の午前中に最終便を出しました。本の船便でしたが、なんと、2週間後に宮崎に戻った時にはすでに自宅に届いていました。船便で出した小包みを係員が航空便扱いにしてくれたようです。真偽の程は確かめようもありませんが、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれた郵便局員からの温かいメッセージだったと受け取っておきましょう。

盗まれた自転車

9月26日の土曜日の朝早くのことです。まだ薄暗いのに、窓の外から騒がしい話声が聞こえて来ます。眠気眼を擦りながらカーテンの隙間から覗いて見ますと、ゲイリーとフローレンスがこちらを向いて何やら真剣な顔で叫んでいます。妻や子供を起こさないようにと気を遣いながら外に出て2人の話を聞いてみますと、自転車が盗まれたと言います。ガレージに置いてあった2台が、明け方のうちに姿を消したようです。
自転車は鍵を掛けないまま、シャッターを下ろしていないガレージに入れてありました。しかし、ガレージの北の端の方に置いてありましたから、門の方角から見えることはありません。外部からは見えないわけです。
門から入れば、ガレージまで行くのに、私たちの寝ている部屋の真横を通るはずです。誰も物音には気付いていません。ゲイリーは、明け方にガレージでかすかに音が聞こえたと言います。
玄関に寝ているデインは、死角の位置にあって門からは見えませんが、物音がすれば起きないはずはありません。ゲイリーによれば、シャッターを下ろしていないガレージに自転車を鍵を掛けないままで置いていた、1週間先には私たちが帰国するので近いうちに自転車を処分するかもしれないという事情を知った上で、帰国する日の1週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方を狙った(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる確率が高いそうです)、しかもデインが吠えなかったなどを総合して考えると、やはり以前からここで働いていてデインを手懐けられる人間、つまりグレイスがやったとしか思えないと言います。もしそれが本当なら、グレイスの件はあれで終わってはいなかったわけです。
ハラレの生活にも慣れ、誰もが気分的にも少々浮かれた状態になっていましたが、ショナ人から「あなたは短期滞在の外国人に過ぎないんですよ。」という強烈なメッセージをもらったような気がしました。こちらは知らないつもりでも、いつも周りから見られていたんだと改めて思い知らされました。場合によれば刃傷沙汰に及んだかも知れないと考えると背筋が寒くなりました。給料の1年分、2年分にも相当する自転車を盗むのですから、見つかった時のそれなりの覚悟を決めての犯行だったに違いありません。発見された場合、相手も必死ならこちらが怪我を負わされる可能性も充分にあり得たでしょう。盗みの現場をへたに発見しなくてよかった、自転車2台で済んでよかった、私たちはそう思いなおして胸を撫で下ろしました。(写真2:自転車に乗ったゲーリー)

13年4月用ジンバブエ滞在記写真自転車に乗ったゲーリー

ところがゲイリーの方はそうはいきませんでした。帰る時に処分しないで、ゲイリーたちに自転車2台を残していくつもりだったからです。自転車に乗れないフローレンスは毎日のように、庭で乗る練習を重ねていました。練習の成果があって、ようやく乗れるようになったばかりです。その落胆ぶりは、見ていて気の毒なほどでした。メイビィでさえ、泥棒が自転車を担いで歩く仕草を何度も披露して見せてくれました。ゲイリーから繰り返し話を聞いていたからでしょう。ゲイリーはどうしても諦められないらしく、この地域の白人が雇っている私設警察に届けに行くと言い出しました。この辺りの白人地区ならわかりませんが、ロケイションにいけば、盗んだ自転車を捜しだすのは100パーセント不可能だと思います。
しかし、ゲイリーの決意は固く、動きそうにありません。無駄を承知で、朝早くからゲイリーについて、家の向かいにある私設警察の小綺麗な木製の小屋を訪ねました。
おそらく、複数の手慣れた連中の仕業でしょうが、土曜日の明け方に音も立てずに2台の自転車を運び出した手際の良さはさすがです。
妻は自転車だけで済むだろうかと心配で、熟睡し難くなったようです。
ゲイリーには済まないとは思いますが、誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いだったと今でも思っています。(宮崎大学医学部教員)