本紹介3『手紙相談十二年』
本紹介3八田誠二著『手紙相談十二年 相談事例八十一集』(1990年6月5日)に挿画(人物のイラスト)を描いています。
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(挿画1:相談員のイラスト)
(挿画2:女の子の相談者のイラスト)
(挿画3:男の子の相談者のイラスト)
本紹介3八田誠二著『手紙相談十二年 相談事例八十一集』(1990年6月5日)に挿画(人物のイラスト)を描いています。
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(挿画1:相談員のイラスト)
(挿画2:女の子の相談者のイラスト)
(挿画3:男の子の相談者のイラスト)
日本語訳『まして束ねし縄なれば』の表紙絵です。NHK衛星放送のアンゴラの風景を元に描きました。
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<本の解説>
南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の第2作目の物語Alex La Guma, And a Threefold Cord(玉田吉行註)(1991年4月14日)の日本語訳 『まして束ねし縄なれば』(1992年10月16日)の表紙絵です。NHK の衛星放送で放映されたアンゴラの風景の一場面をモデルにして水彩で描いたものです。
ラ・グーマの2作目の英語で書かれた物語で、アパルトヘイト政権下では、発禁処分を受けていました。舞台は南アフリカ第二の都市ケープタウン郊外のスラムで、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられているカラード社会の一面が生き生きと描かれています。カラードはアフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特にケープカラードと呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。
第2作の作品論は→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』南アフリカの人々1」[「ゴンドワナ」16号(1990年)14-20ペイジ]と→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7『三根の縄』南アフリカの人々2」[「ゴンドワナ」17号(1990年)6-19ペイジ]でどうぞ。
作家論は→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(「ゴンドワナ」 8号 22-26ペイジ、1987年)、→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(「ゴンドワナ」 9号 28-34ペイジ、1987年)、「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(「ゴンドワナ」 10号 24-29ペイジ、1987年)に掲載しています。
アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)
1987年に『アレックス・ラ・グーマ』の著者セスゥル・エイブラハムズさんにラ・グーマの話を聞くために亡命先のカナダまで行きました。その時の訪問記は→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ氏を訪ねて」(「ゴンドワナ」 10号 10-23ペイジ1987年)、その英語訳は→Cecil Abrahams – My Visit to La Guma’s Biographer(未出版)に、英文インタビュー記事は→TAMADA Yoshiyuki Interviews Cecil Abrahams(未出版)に掲載しています。その次の年のラ・グーマの記念大会に招待され、50人ほどの北アメリカに亡命中の南アフリカの人たちの前で話をしました。招待講演者のブランシ婦人にも初めてお目にかかりました。
テキストの日本語訳は→本紹介10『まして束ねし縄なれば』で紹介しています。(玉田吉行)
本紹介36正木邦彦著『神のいない三つの部屋 田上二郎戯曲集』(1997/4/5)の表紙絵で、ポピーを描いています。
→「ポピー」もどうぞ。
「紙一重」の現実
絶望を叫ぶには、人生は長すぎる。捨て去るには荷物が多すぎる。狂気と正気、現実と幻、いずれともつかぬ泡沫の夢、それが人生。だから悲しく、そしていとおしい。
(帯より)
「宗教なんてしょせんはおんなじさ。歴史が始まってから今までに、神が人間を一度でも救ったことがあったかえ」「ある」「救われたような気になっただけさ。神はいつでも人間を破滅させるんだよ。人間はいつでも神にだまされて不幸になるんだよ」「嘘だ」「戦争を起こすのも神だ」「嘘だ」「人を殺すのも神だ」「嘘だ!それはみんな邪悪な人間たちが神の名を騙っているだけだ」(「神のいない三つの部屋」より)
(帯より)
花に対するイメージが、宮崎に移り住んでから全く変ったのは、コスモスだけではありません。
ポピーも、大きくかわった花の一つです。
これまで春先の花屋さんに出まわるポピーは、細い茎でほんとうにひ弱そうな可憐な花でした。
ところが、強すぎる日射しのせいか、よく肥えた土のせいか、宮崎で咲くポピーはとても元気がよいのです。大きめの葉から出た茎はけっこう太く、花びらもとてもしっかりしています。いつのまにかポピーは、たくましい花として私のなかで定着してしまいました。
今ならポピーが街のあちこちで咲きはじめていますよ。こんな私の一言で、では今度の表紙はポピーで、ということになりました。そして、私は宮崎のポピーを描きました。
ところが、都会派の編集者の方たちのイメージは、私が以前抱いていたポピーのそれです。もっとか細く、もっと弱々しく。でも本当はひどくイセイがよいのですが……。
こんな両者のせめぎあいの結果が、その装画になりました。
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本紹介32 遠藤勢津夫著『真鶴の歴史を探る』(1996/12/24)の表紙絵で、真鶴の景色を描いています。
人の世は夢
夢の中の旅
果てなき道を
たどるうちに
にわかにさめて
何も残らぬ
(帯より)
冬枯れの枝越しに博物館の建物を見ながら上野公園を歩いていたところ、急に胸に痛みが走るのを覚えた。といっても心臓の痛みではない。心の深いところにある、あまり思い出したくない、それでいて懐かしい思い出に触れたときの痛みだったようだ。何を思い出そうとしているのか、なおはきりせぬままに博物館の前まで来たとき、ぼくの内に三十年前、いやほとんど四十年もの昔に初めて作った「同人雑誌」なるものに載せた小文「博物館」の冒頭のくだりが、忽然として蘇ったのである。(「序」より)
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本紹介33 伊勢弘著『心眼 ロザリオの聖母 かく恵み給う』(1997/3/30)の表紙絵で、薔薇と野生の桜草を描いています。
ハンセン病者として、
理不尽な法の犠牲者となり、
差別と偏見の地獄を生きた
元陸軍曹長、無念の叫び。
(帯より)
受洗後、このご恩返しに私も何かしなければと思いながら、盲目と両手の重度障害のため何の働きもできず悲しく思った。しかし私には祈りと重度の障害がある。これを捧げて神が私を愛してくれたように、私も神様を愛する心ですべての人の救霊のために生涯をかけようと決意した。(本文より)
これは、担うには重すぎる人生を歩んでこられた方の本ですが、装画にはいつか見た原野に咲く桜草の花を、さらにキリスト教に関連してバラの花を、ということでした。
野生の桜草を私は見たことがありません。そこでせめて花屋さんで売られている桜草を、と思いましたが、あいにくほとんどのお店ではもうシーズンが終わっていました。
あちこちさがした末、家から自転車で一時間半くらいの花屋さんに、数個盛りをややすぎた桜草が残っていました。
目の前の花と写真集などで見つけた野生の桜草とを重ねあわせてできたのが、表紙の絵です。
病気のため盲目になられた作者に、せめて心の眼でみていただきたい、と思いながら描きました。
参考までに。
初版本は御家族や親しい友人たちに遺稿集として残したいという要望で出版されましたが、「大学・高校などの先生方から教材に使いたいとの熱い要望」があり、「若干コンパクトに再編集」されるとともに参考資料も加えられ平成9年8月8日に改訂版が出版されています。
編集にあたられた城麗子さんもいわれているように、故郷をA県K市ではなく、ほんとうの出身地を明記し、本名で語ることのできる日のくることを、私も心より願っております。
→「新作です:ばら(2011/11/18)」、→「新作です:ピースちゃん(2011/11/9)」、→越地としこ著『いのち芽生えて』(装画/薔薇)、→越地としこ著『いのち芽生えて』>(ハードカバー版)もどうぞ。
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宮崎県串間市出身のラブラドール、怒ることを知りません。絵のカードやカレンダーになっています。
三太「眠り」(3号)↓
三太「春」(SM)↓
「私の散歩道2011」表紙↓
三太「月に眠る」(6号)↓
三太「椿山」(4号)↓
夏の朝
夏の朝:「私の散歩道2020~犬・猫・ときどき馬」7月
三太と海:「私の散歩道2017~犬・猫・ときどき馬」8月
小島けいの名前でオムロプリントという印刷・広告会社からカレンダーになっています
毎年東京ビッグサイトで開催されているデザイン・フェスタに絵やカードを出品していましたら、長崎のオムロプリントという印刷・広告会社からお誘いがありました。
企業向けのカレンダーですが、東急ハンズやロフト、旭屋や成田空港などでも売られているほか、ウェブ上でも販売されています。→「クリカレCreators’ Power Calendar」http://www.creators-debut.com/shopping/shop2.html
長崎の企業に採用された2011年度のカレンダーの表紙
卓上カレンダーで、北京オリンピック開催の年でもありましたのでパンダの絵の「トレカ」がついています。トレカの裏面にはプロフィールが紹介されていて名刺代わりになっています。
「私の散歩道2019~犬・猫・ときどき馬」6月
別のクリカレ用パンダ:「私の散歩道2020~犬・猫・ときどき馬」6月
カレンダーに使われています。↓
→「私の散歩道2010」1月
花はどれもいとおしいと思いますが、なかでも一つだけ、と言われれば、水仙かも知れません。
三十年前の二月十一日、産前休暇に入ったばかりの私は、朝の新聞記事のなかに「淡路の水仙峡」という文字をみつけました。
かなり大きなお腹でしたが、とりあえずはまだ子供のいない身軽さで、何の計画性もなく、昼前にでかけました。
明石海峡を船で渡り、岩屋というところからバスで洲本へ。そこから水仙峡までまたバスで30~40分。
ところが、最後に乗ったバスが、途中で止まってしまいました。詳しくは忘れてしまいましたが、一本道が通れるようになるまで2時間以上も待ったでしょうか。
冬の日暮れは早く、ようやく水仙峡にたどりついた時は、もう夕闇がせまっていました。
けれどそのおかげで、観光客はみなひきあげ、茶店の歌謡曲も終了。最終のバスに乗ってきた数人だけが広い畑にちらばり、海へと続く水仙の花々を満喫することができました。
いつのまにかすっかり暮れてしまった静寂のなか、色で描くならレモン色の涼やかな、それでいてどこか優しい水仙の香りにつつまれ、そうっと畑に身をしずめたままひとときをすごしました。
それ以来、水仙は私にとって特別の花になりました。
子供が産まれた後に引っこしたマンションは、ドアから北風が吹きこむ、というので、急きょ内側にもう一枚ドアを作ってもらいました。
殺風景な木のドアの一面に、私はあの日の水仙峡を描きました。
次の転居でその絵は散逸してしまいましたが、今度はたくさんの方たちにみていただけるよう大きなスケッチブックに描きたい、と思っています。
門土社のメールマガジン「モンド通信」に収載されています。→『水仙』(No. 18:2010年2月)
絵のカードやカレンダーや本の表紙絵にもなっています。↓
「私の散歩道2011」2月
コロちゃんと水仙:「私の散歩道2012~犬・猫・ときどき馬」1月
ベティと水仙:「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」1月
→『ティアラを掘り出せ』(横浜:門土社総合出版、装画/水仙、1994/3/1)
本紹介2 A Walk in the Night (1989年4月20日)の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。
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<本の解説>
表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。宮崎医科大学、旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして使いました。
南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の第1作目の物語です。アパルトヘイト政権下では、発禁処分を受けていました。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられているカラード社会の一面が生き生きと描かれています。アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下ではカラードと分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特にケープカラードと呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。
作品論→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(1988年)と→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」(1988年)は下に載せてています。
作家論は→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(「ゴンドワナ」 8号 22-26ペイジ、1987年)、→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(「ゴンドワナ」 9号 28-34ペイジ、1987年)、「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(「ゴンドワナ」 10号 24-29ペイジ、1987年)に掲載しています。(玉田吉行)
パソコンが壊れてサーバーの中のブログのデーターが消えてしまいました。
新たにブログを作ってもらって再開です。
渋谷出身の猫ノアです。
雨の日の大都会の駐車場でずぶ濡れになりながらあらん限りの声を振り絞って泣いていたところを長女に助けられ、飛行機で運べるようになったある日、今の家に姿を現わしました。すでにいっしょに暮らしていたラブラドールの三太とすぐに仲良しになり、日当たりの良い居心地のいい居間を占領しているというわけです。
三太は悪性腫瘍で去年の年明けにいなくなってしまいました。今は三太がなくなったあとしばらくして拾われてきた猫のアリスとその子供のピノコとジョバンニと、今ひとつしっくりいかない間柄ながら、いっしょに暮らしています。
「私の散歩道2018~犬・猫・ときどき馬」1月