私の絵画館78:子猫とコスモス
何年か前、住宅地の一画にお食事処ができました。その前を通りかかった時、“今はどうしているかなあ”と思いました。
私が教員になったのは25歳の時。場所は兵庫県加古川に出来た新設校です。校舎はまだなくて、昔小学校として使われていた古い木造2階建てからのスタートでした。★ 続きは題をクリック ↑
もうすぐ新学期という頃、ちょうど家に帰っていた兄がアドバイスをしてくれました。“高校生の男子は生意気やから最初が肝心。なめられたらあかん”というものでした。そういうものかと思いながら、私は1時間目の授業に行きました。
何から話し始めたのかは全く覚えていませんが、話し出すとすぐ、ひとりの男子生徒が突然立ち上がり“先生!最初に自分の名前を言うのが普通とちゃうんけ?”と言いました。
少し後の私なら“ほんまやねえ”と軽くかわしたところでしょうが、生まれて初めて聞く播州弁<ちゃうんけ>の<け>が妙に頭に響き、“そういうあなたこそ、先に名前をいうべきじゃなぁい?”と言いました。するとすかさず、まわりの男子から“やーい、反対に言われてら”のような明かるいヤジがとびかい、笑いがおきました。
これがお店の名前と同じ<純平>くんとの初めての出合いでした。彼はとても優しくて素直な性格で、その授業の後必死で追いかけてきて”さっきは生意気なことを言って、すいませんでた”と言ってくれました。
1学年4クラスしかありませんでしたが、各クラスにはこのような元気な男の子たちが数人ずついて、毎時間いろいろ工夫をして出迎えてくれました。
まず教室に着いても、うかつにドアは開けられません。うっかり開けると、頭に黒板ふきが降ってきたりするからです。
ドアをクリアしたら、教室のまん中にむかうまでさりげなく観察しながら進みます。いつかも、妙にきれいに並べられたチョークのまん中で蠢くものがいました。でっかい毛虫です。虫が大の苦手な私は少し手前で方向をかえ、なるべく視野に入らないように気を配りながら授業を始めました。
板書はいつものように右側からですが、毛虫の手前50cmのところで迂回して、毛虫のむこう50cmのところから再び書き始めました。授業が終わると黒板のまん中1mがぽっかり空いていました。
“まん中の空いた所には何を書けばいいんですか?”
と聞かれたので、
“毛虫がいたから避けただけだよ。ごめんね”
と言って教室を出ました。
“えーっ、ノートもちゃんと空けて書いたのに”
と悔しがる声が後から聞こえてきました。
彼らが心をくだいたのは小さな生き物や物だけではありません。
授業と無関係な質問をして、いかに授業を進めなくするかにも熱心でした。そういう時は兄の忠告に従い、
“後で聞くからいらっしゃい”
ということに決めていました。
ところがある時、どう間違えたのか
“後でいらっしゃい”を
“夜いらっしゃい”と言ってしまいました。
“おい、夜行ってもええねんて”
“おー、行こ行こ”と騒ぎはなかなかおさまりませんでした。
こんな元気な男の子たちを私は大好きでしたが、それでも当初は肩ヒジ張って対していたと思います。けれどある日、その肩から力が抜けてしまう出来事がありました。
あの時私は何をあんなに怒っていたのか、もはや原因は全く思いだせませんが、とにかく私は怒りながら懸命に話をしていました。が、途中でそれを聞いているみんながニコニコしていることに気付きました。
“何で?”
と聞くと、
“だって先生が怒ってもちっとも恐くないんだもん”
と言うのです。まわりのみんなも
“そうそう”
とうなづいています。
私は愕然としました。これほど怒っても何も伝わっていなかったなんて・・・・。その時力が抜けると同時に、自分に似合わないことはもうやめようと決めたのでした。
そうやってふと見てみると、どの生徒も親にとってはかけがいのない大切な子。誰もが素敵なところ、いいところを備えて生まれてきている。
そう思うと、みんなかわいくていとおしい。
14年後に私は退職しましたが、その思いは最後までずっとかわりませんでした。
そう思わせてくれたみんなとの出会いに、今改めて感謝です。
この絵は何年も前に描きました。ふと出会った黄色い子猫が愛らしくて、コスモス畑にそっと座ってもらいました。
のら猫の命ははかなくて。どの子もみんな助けてあげたいけれど、一人の力はほんとうにささやかでしかありません。せめて絵のなかででも生き続けてほしい。そんな思いで描きました。
執筆年
2016年
収録・公開
→「子猫とコスモス」(No. 95:2016年9月26日)