Netscape Navigator での閲覧に関して、当サイトではスタイルシートを読み込まず、文書構造のみ表示させるように設定しています。視覚情報も再現したい方は、Internet Explorer で閲覧していただくようお願いします。詳しくは、Site Guideの推奨閲覧環境をご覧下さい。
かつて掲載された「つれづれに」のログが時系列順においてあります。 ホームページ開設から2004年度分まではこちらからどうぞ。 2005年度分はこちらです。 2006年度分はこちらです。
すでに4月に入っています。 偏に突然降って湧いたように推されて(押されて?)書くことになった文部科学省に提出する書類書きのためです。外部資金獲得のためだそうですが、当たってもすることが増えるばかり、当たらなくてもまた来年押される(?)だけも癪やしなあ、そんな感想しか湧いてきません。何だか毎年毎年世知辛くなるようで滅入ります。 春先は草花が多彩です。菫(すみれ)、蒲公英(たんぽぽ)、金鳳花(きんぽうげ)、見上げればむべ、通草(あけび)、山藤。桜が今年は今頃満開で、躑躅(つつじ)や五月が色鮮やかに咲き始めています。 仲良しの元6年生が、もうすぐ病院勤めだそうです。桜はらはら 儚きいのち すすがばや 我鬼子
雨がようやく上がったようです。今日も雨の中、三太と歩いてきました。年に何回か出張ででかける日以外は毎朝三太と一時間ほど歩きます。夕方も歩ける時、大体年間三分の一くらい、歩きます。特別に犬が好き、猫が好きというわけではないようですが、三太もノアも同じ部屋で暮らしています。暮らすことになったようです。食べる時は、三太が足下に寝そべり、ノアが膝に来て窮屈な思いをしていることが多いです。ノアは自分のお気に入りの場所があって、膝からそっちに移せばいいんですが、やっぱり窮屈な思いをしながら食べり飲んだりしています。小さなころにも犬と猫がいましたが、時々犬に当たったことが淡い心の傷のようになっています。といっても、も四十年以上も前のことなので、本当にそうだったのかどうかもそれほど確かではないんですけどね。その点、三太が来て七年以上になりますが、一度も当たったことがないところを見ると、少し心に余裕が出来たのかも知れません。 ずっと句が詠めないでいます。山頭火を読めるような心の状態の時は何となく句が出てくるのですが、最近はなかなか出て来ません。きっと、実務的なことをする時間が多いせいか、元々詠む才能がないのか、わかりません。 前期の授業が終わって、色々入試があって、EMPをやって、後期の入試が終わって、いつもなら新学期の前に準備期間があって4月が始まるのですが、今年は急遽外部資金の申請書類が入ったために、心の準備期間が持てないまま、新学期が始まってしまいました。 EMPの1~3年生, ENPの1~2年生の参加希望者の説明会をやったこともあり、一杯一杯の4月でしたが、何とか休講にもせず、表面上は何とか例年と同じくらいは準備をして授業が出来たのは、よかったと思います。 連休に、4年間もらった科学研究費の報告書を仕上げるつもりでやっていましたが、まだ出来ていません。ただ、大体の目処は立ったようですので、締め切りの5月までには間に合うだろうと思います。 例年、庭と畑の草が生い茂って蚊が大量に出ていたのですが、今年は三太用に砂を敷き詰めた庭も、茄子と胡瓜とピーマンを植えた畑にも今のところ草は生えていません。 報告書は『アフリカ文化論 2 アフリカ文学とエイズと人類生存のための処方箋』として叢書シリーズの第2弾にしようと思っています。雨ふる坂道を、三太と歩く 我鬼子
きのうは34度もあったそうで、暑かったはずですね。 朝の三太の散歩の時から、もやーっと熱気でまるで夏のようでした。 学校が始まるとそれだけで手一杯の感じで毎日が過ぎてゆきます。26歳で高校の教員をやり始めた頃、年配の教師から先輩のような顔で、玉田くん、今のうちだけやから精一杯やっときや、みたいなことを言われたことがあります。ま、熱く燃えてやっているように見えたんでしょうね。僕には普通で今もあんまり変わってないんですけどね。しかし、僕を採ってくれた校長鉄ちゃんは、情熱は若いうちだけかt思っとったら、年を取るにつれてますます燃えて来るもんですな、みたいなことを言ってたような。 人はあんまり変わらんような。 しかし、毎日こうもすることがあると、どうも近視眼的になって行けませんね。3月に仕上げるはずだった科研費の報告書に苦戦を強いられています。エイズで叢書の2号を兼ねてと思ってるからでしょう。締め切りは31日。もう日にちがありません。 もう夏が始まったようです。もやーっと、加江田の山の夏が始まった 我鬼子
台風のために電源を落としていましたが(金曜日の夕方から火曜日の朝まで)、電源を入れました。清武のどこかが停電したと聞きましたが、ずっといませんでしたので、実際に電源が落ちたかどうかはわかりません。 台風での停電に備えて電源を落としたんですが、ちょうど先々週から落ち込みが激しくて、このまま電源を入れないままになりそう、そんな気分が続いています。 学期が始まるずっと前から何だか色んなことが途切れなく続いて来たようで、始まっても追われて追われて、そんな感じでした。ま、流れもあるのでしょうが。それでも何とかそのまま毎日をやり過ごし、ホームページも毎日授業のページを一つか二つ更新し続けましたが、切れてしまいました。基本的に、考え直そうと思います。性格的なこともあり、やり始めるときっちりとやらないと気が済まないようですが、ものには限度がありますから、その塩梅を考えるのがむずかしいです。句も拾えない、曇り空に秋あかねが舞っている 我鬼子
季節の変わり目らしく、猛暑ながら不安定な天気が続きます。 もう立秋も過ぎました。毎日無駄にすることばかりだとつい近視眼的になって季節の移ろいを感じられないまま日を過ごしてしまいがちのようです。二十四節気は、ウェブ上のフリー百科事典『ウィキペディア』によれば、「1太陽年を日数や太陽の黄道上の視位置によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。」のようです。立春(2月4日)、雨水(2月19日)、啓蟄(3月6日)、春分(3月21日)、清明(4月5日)、穀雨(4月20日)、 立夏(5月5日)、小満(5月21日)、 芒種(6月6日)、夏至(6月21日)、小暑(7月7日)、大暑(7月23日)、立秋(8月7日)、処暑(8月23日)、白露(9月8日)、秋分(9月23日、寒露(10月8日)、霜降(10月23日)、立冬(11月7日)、小雪(11月22日)、大雪(12月7日)、冬至(12月22日)、小寒(1月5日)、大寒(1月20日)のうち、立春、啓蟄、春分、夏至、立秋、秋分、冬至、大寒くらいしか、言葉も使わない場合が多いようで、パソコンらや携帯やが普及すると、季節の風の違いを意識しながら生活するという雅びた風習も廃れてゆきます。 朝、三太と歩いていると、雲が四方から湧き上がって来て、いつ降って来てもおかしくないような不安定な空になりました。もやーっとした真夏の熱気から、澄んだ秋景色に変わってゆくちょうど過渡期にいるんだと思いながら、一時間ほど歩きました。毛皮で覆われているので温度調節が難しいようで、熱すぎると舌を出してはあはあと苦しそうにするので昼間の散歩は無理ですが、朝の早いうちなら、何とか歩けます。 ずーっとすることが多くて生活のリズムが崩れがちでしたが、先週医学科5年生のEMPも何とか終わり、成績も出し終えて、やっと一息つけそうです。書けないままだった手紙や書き残しの年賀状の返事やら、それに4月に出た本の宣伝やらの文面を考えて、新聞社やJICAの人たちに送ってみようかなと思っています。 それに、去年の夏から続けているケニアの小説ワグムンダ著『ナイス・ピープル』の翻訳と、一応まとめているエイズに関しての叢書の二冊目の仕上げをしたいと思っています。 十月になって後期が始まると、また授業だけで一杯一杯の毎日が目に見えていますが、せめて出来る範囲の準備を休みの期間中にやっておこうと思います。湧き上がる、雲が湧き上がる秋立ちぬ 我鬼子
一昨日は街まで自転車で行ってきました。二十年前に宮崎に来てから十数年は宮崎神宮の少し北の方から十七、八キロの距離を清武の医科大まで自転車に乗って通っていたわけです。最初は三十八歳でしたから、スポーツタイプのに乗って、いやに飛ばしていたようです。大学まで最短で四十分だった記憶があります。自転車路も整備されてなかったので、よく事故にも遭わなかったなあと思います。(一時間二十キロ、一日最低二百キロはは行けるな、遠出するときはそんなあほな計算をしあがら走っていたような・・・) 立秋が過ぎて朝晩は秋の気配が漂いますが、日中は暑くて、自転車に乗りながら、炎天をいただいて歩く、と詠んだ山頭火のことを考えていました。宮崎には大正十五年(一九二六年)と昭和三十年とに二度来たようで、二度目の時は、大淀川の仮設の木製の橋を歩いて渡ったようです。十数年前に山頭火を授業で取り上げたとき、新城くんが来訪時の宮崎の様子を調べて発表してくれたことがあります。 仕事をしていなかったようで収入もなく、行乞と称して坊主まがいの托鉢をしながら各地を歩いて、句を拾っていたようです。食糧事情もよいはずはなく、米と酒が主体の栄養のバランスがけっしてよくない毎日のようでした。心臓に来てたようで、四国の松山で心臓麻痺でなくなったのは五十九歳の時ですから、僕とほぼ同じ歳です。(今年五十八になります) 四十の半ばを過ぎたころから急激に回復力が衰えたようで、老化のカーブを遅らせる努力もなかなか追いつきません。十代の半ばに無理をして体を壊して体を壊すことの苦しさを味わってはいても、日常を送るのは難しいです。 心の方も、十代のいつかにぷつんと切れて以来、その以降をこの世の中で暮らし続けるには、永すぎます。辛うじて、生きている、そんな感じがいつもしています。 山頭火が何を感じたかはわかりませんが、何回か自殺をはかっても死にきれなかった余生は、永かったのかも知れないなあと、時々思います。句に限らず、形而上的に表出された部分からしか想像するしかありませんが、少しはこちらに思いが伝わってくるのは、僕の意識下の元言語がきっと何かを感じ取っているのだと思います。 時代が違えば、僕も袈裟に身を包み、鉄鉢を持ってお経を読みながら、行乞の旅をやっていたかも知れません。 ただ、白髪も増え、いわゆる六十のおじいさんになってしまった今は、炎天をいただいて歩く、というわけにはいかないようです。 夏休みモードに入って、ケニアでエイズ患者が出始めた頃の小説『ナイス・ピープル』の翻訳の仕上げをやり始めました。終わったら、エイズとアフリカ文学の叢書の二冊目の仕上げをやりたいと思っています。 十月になって授業が始まれば、またそれに追われる日々でしょうから。炎天をいただいて歩く、と歩いた人も 我鬼子
22日(土)に耐震補強工事のための停電があり電源が落ちたようです。23日(日)のお昼過ぎに電源を入れてきました。 ずーっと無理が続いていました。気づきながら空間が空かずにそのまま無理を続けていましたら、症状が出ました。歯が浮いてものが噛めなくなりました。それに定期健康診断で内臓のどこかの数値に異常が出て、経過を観察するようにということでした。 危険信号をそのままにしていたら何も出来なくなるので、休むことを最優先にしました。歯の治療もまだ継続中ですが、総体的に体力が落ちているのはわかります。体重も数キロ増えていました。八月の半ばからほぼ一ヶ月以上、少しゆっくりなペースで過ごすことが出来て、大体元に近い状態まで戻ったようです。もうすぐ後期が始まります。絶対量を減らすのはむずかしく、何とかやってゆくしかないのですが、来年からはまた少し総体量を減らさないともちそうにありません、と思っているんですが。 彼岸花が盛りです。すっかり秋になってしまったわけです。 授業のページも結構負担になっているひとつで体のことを考えると限定的に使わざるを得ないようです。 このページになかなか書けないのは、句を拾えないからが大きいです。人によって違うと思いますが、僕の場合は、空間が埋まっていると句も出て来ません。書かないとと思って無理矢理句をひねり出してもろくなものにはなりません。ま、当たり前ですが。 もともと句の素養のないことは自覚していますが、句の出来そうな気になることもあります。十五くらいから何となく歌が長ったらしく思えるようになって以来ですから、もう四十年以上になりますねえ。最初は芭蕉がすんなり心に入ってきましたが、空間が埋まりだした頃から、五七五や季語の制約も煩わしく感じられて、たまたま手にした山頭火を読むようになりました。今はまた芭蕉に戻りつつあるような気がしています。 八十五年にミシシッピのオクスフォードで開かれたリチャード・ライトの国際シンポジウムにいっしょに行った木内さんが、最近その時のゲストスピーカーだったファーブルさんとケント州立大学の伯谷さんとのご縁で、ライトのHAIKUの日本語訳を出版されたようです。出版社から分厚い本が、滞在中のワシントンからメールが届きました。 伯谷さんの奥さんの路子さんとの共訳ですが、また違った世界で興味深いです。伯谷さんご夫妻には、八十五年から八十八年にかけてアメリカとカナダに何度か行った際に色々お世話になったままで、いつかお返しをと思いながら、もう二十年近くが過ぎました。 一番好きだったファーブルさんは、最近お亡くなりになりました。八十五年のシンポジウムからの帰りのメンフィスの空港でたまたまお会いした時、歩きながら振り向かずに手を振っておられた後ろ姿が記憶のかなたに残っています。九十二年に家族でハラレに行った帰りにパリに一週間滞在した時には、モロッコの学生に頼んで屋根裏部屋を予約して下さっていました。パリの屋根裏部屋は、観光客には探せません。英語も話せない中学二年の長女と小学四年の長男に、たまたま訪ねて来られた経済学者の友人といっしょにドミノを教えて下さいました。やっぱり偉い人やなあと思いました。経済学者の人は、ノーベル賞級の人だったようです。ファーブルさんはその年にノーベル賞を受けたオルコットのテレビインタビューを自宅で受けてましたから、ノーベル賞も身近な人たちだったようです。お隣は有名な俳優の家とかおっしゃってました。ま、ソルボンヌ大学に行っておられたようですが、僕や家族には人のいいおじさんでした。 泊まっておられたミシシッピ大学の寮の一室でお会いできたとき、英語が話せませんでした。英語は聞かない、話さないというのがあまりにも強いアメリカの影響に抵抗する自分なりの便法でした。高校の英語の教師でしたから、実際にはそれを百パーセント実行できたとは言えませんが、ま、英語が使えなくても、授業はやれる教育システムですから。 ファーブルさんにお会いして、はじめて自分の言葉で話がしたいと思いました。たまたまフランス語もやってましたから、どちらにしようか迷いましたが、大学では留学生もいましたし、授業を英語ですれば自然に英語を使える環境にもいましたから、英語をしゃべる、と決めました。 九十二年に再会した時には、英語は不自由しませんでした。覚え立てのフランス語でじゅぬこんぷらんぱぱるれらふらんせみたいなことをタクシーの運転手に言ったら、英語で話して下さいと言われてしまいました。フランス語はそれ以来ご無沙汰です。 また、後期が始まりますねえ。もう、お彼岸花が花盛り 我鬼子
春になったようです。 一斉に花が咲き出しています。白木蓮の幽玄、紫木蓮の優雅、雪柳の鮮明、菫の可憐、そして染井吉野の絢爛。勢いを感じます。 映像ファイルの作りすぎにちょうど停電、どうもそれが原因でパソコンが壊れてしまったようです。しかし最大の原因は、何事もわーっといっせいにやらないでいられない自分の性急さのようです。一番厄介なのは、自分。何とも言えません。 一度パソコンがおかしくなって何とか戻ってきたのに、三ヶ月ほど書き込んだデータがすべて消えました。はかないものです。 秋に、恐らくオーバーワークで自覚症状が出て、一週間休んで病院に行きました。結果は何とか警告で済んだものの、そのあと症状の出た三太の方は、年末に歩けなくなり、最後は水も飲めなくなって一週間で亡くなりました。同じ部屋でいっしょに暮らしていましたから、はかない思いが先に立ちました。 悪性腫瘍は凄まじかったです。何とかそれほど苦しまずにいけたのが、せめてもの慰めです。 碌なこともせずに生き延びている、という思いはまた強くなりました。 いま、アフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)という題で、本の仕上げをしています。2日までに仕上げて横浜に持っていく、といって飛行機の手配までしてしまったのですが、間に合うかどうか。 アフリカもエイズも、出口が見えません。何の希望も持てません。何とも奇妙な空間にはまりこんでしまったものです。ま、成り行きで生き延びているようなものですから、何も言えませんが。 4月1日にはEMPのオリエンテーションがあって、また新学期が始まります。また春になった、染井吉野も咲き出して 我鬼子
4月も半ば、一通り授業での顔見せも終わりました。 宮崎も二十一年目に入りました。気持ちを持ち続けるのはなかなか難しいですね。 新入生が今朝もまだ開いていない教室の前で待っていました。しばらくすると、そんな早くから来なくなるんですが、新入生ならではですねえ。 授業の前にこうして書き込みが出来る余裕があるといいんですが、いつもそうとはいきませんからねえ。 始まりました。春雨煙る街並を眼下に見て歩く、あさのあめのなか 我鬼子
半歳も書いてませんでした。すでに後期も始まっています。 土曜日から三日間、奥さんが個展を開催していますので、飯田高原にある九州芸術の杜にあるギャラリー夢に泊まり込んで来ました。別荘を改造して造られたギャラリーの二階のログハウスに泊まりました。高速を使って熊本から阿蘇を抜けて行ったんですが、大草原はそれ自体で圧倒的でした。久し振りにずっと以前に自転車で通ったやまなみハイウェイを逆に通りました。(大学院の修士課程の試験を受けた夜、多分十月のおわり頃に、神戸港からフェリーで別府に来て、そこからやまなみハイウェイを通って阿蘇、高千穂に自転車で行きました。おそらく、何かの区切りをつけたかったのだと思います。途中の山道でパンク張りをしていて、ふっと何かが吹っ切れた感じがして、そのまま日向から戻りました。そのあと、高校の教員になりました。)疲れたなあと思って、千三百三十メートルある牧ノ戸峠で自転車を留め、寝袋の中に寝ることにしました。しかし、道端に寝ていた寝袋が珍しかったのでしょう。行き交う人たちに心配されて、結局一晩じゅう自転車をこぐはめになりました。夜が明ける頃に気がついたら阿蘇だった、というかすかな記憶が蘇りました。 奥さんが通い出した清武の馬場でたまたま奥さんの馬の絵を目にしたオーナーの瀬戸さんから誘いがあって一ヶ月の個展が実現しました。やまなみハイウェイ沿いにあるので、来館者も多く、対応が途切れることはほとんどありませんでした。 宮崎の気候に二十年以上も慣れてしまっているので、高原の朝晩は少し肌寒い感じがしました。しかし、さすがに別荘を改造しただけあって建物がしっかりとした造りで、贅沢な感じを味わいました。肌寒き朝、飯田高原にいる 我鬼子
あと僅かで11月も終わり、なかなか書き込めないでいます。歌が出てこないのが、書けない最大の理由みたいですが。 この前は、永続勤務(20年とか)で表彰とか。一番苦手な表彰式とか、結婚式、入学式とか。行くつもりはさらさらなかったのに、なぜか謝辞まで(二十数人の中で一番年齢が高かったそうで、ま、二十年は法に触れずに生き延びたというわけで、あと何とか法にひっっかからないようにとか、あと数年しかないということは、早う出てくれということやな、とか何とか)ぶつぶつ言って、学長の住吉さんの隣で記念撮影、何なんやろこの現実。 相変わらずすることが多い、みたいです。EMPでGPの予算(3年間で6千万ほど)が通ってまたすることが増えてるし。 今年は奥さんの絵がカレンダーになって小島けいの名前でオムロプリントという印刷・広告会社から(クリカレCreators Power Calendar)全国販売。10月には九州芸術の杜のGallery・夢で個展をしたりと、「60の全国デビュー」。自立出来ると、僕は早めに退職出来るのに、そんなことしか考えてへんみたい。 何だか、今年も過ぎて行きそうです。三太のオリオンが、見えだした 我鬼子
渋柿を干し出してから二十年以上になります。長女が生まれてから少し経った頃、どさくさに紛れて奥さんのお父さんの家に転がり込んで明石海峡の近くで暮らし始めました。庭に渋の木があって、ある年からその柿を剥いて縁側に干し始めました。そう大きくない丸い柿だったけど、そのうち大きい長細い柿を八百屋の店先に見つけて庭先に吊し始めました。家は誰も住まなくなった時に震災にやられて、廃屋の姿を晒していたんで侘びしかったと弟が電話でしゃべってたような。更地にして人手に渡ったそうやから、あの柿の木も今はもうこの世に存在していないわけです。 二十一年前に宮崎に来てからも干し柿作りは続いていましたが、今年は箱で渋柿が出回る頃に柿を買う心の余裕もなくて、とうとう干し柿も作れませんでした。渋柿を吊せなかった、今年が暮れる
体を気遣いながらの授業をやり課題を読んで成績をつけ、つけ終わった翌日からEMP一週間、今年はソンクラ(タイ)から五人とアーバイン(アメリカ)と国内からも4名の講師と外部評価委員を招聘してその対応に追われ、終わった翌日から前期入試、少し間を置いて後期入試と、例年以上に年明けからの忙(せわ)しい日々が何とか終わって一息ついています。新年度のシラバスを書いてますが、何とか充電しないとこのままだと新入生を迎えられそうにありません。 この前今まで気づかなかったところでむべの花の大群を3カ所見つけました。木や電信柱にのぼって花が落ちないように枝を切ってきました。通草と違って実はてかてか光るので何となく馴染めませんが、通草同様、部屋のなか一杯に、甘酸っぱくて心地よい香りが広がっています。 サーバーがダウンして元データーがすっかり消えてしまった奥さんのブログForget_Me_Notを新たに作ってもらって再開しました。去年は小島けいの名前でのカレンダー(クリカレCreators Power Calendar)と九州芸術の杜Gallery・夢での個展でしたが、今年はその二つに加えて、画廊への売り込みです。まだ三つしか更新出来ていませんが、本(横浜:門土社)、絵(花、犬、猫、馬と驢馬)、案内の項目に分けて更新していこうと思っています。絵で自立するのは難しいですが、実現すれば、一年前の退職が可能になります。木によじ登って、むべ採って来た 我鬼子
五月も半ばになりました。 今年は3月の後半からEMPの前期授業報告書、ソンクラ留学記、シンポジウム報告書(日本語・英語版)、後期授業報告書(日本語・英語版)と6種類も冊子にしながら、3月31日にはEMP3年生の打ち合わせ、4月1日にはEMP4・2年生、7日にはENP2年生のオリエンテーションがあり、授業が始まる前にすでにずんとすることがありました。そのまま授業が始まって、例年以上にばたばたした感じでした。その反動か、連休は寝て、韓国ドラマを見て、寝て、立原正秋の小説を読んで、寝て・・・それで終わってしまいました。 『ナイスピープル』の翻訳と解説を連載している門土社(横浜)のメールマガジンモンド通信(MonMonde) No. 9が今日配信されてました。 まだお腹の調子もあやしいまま、大丈夫かなあという毎日です。 今日は辛うじて、自転車で川を渡って近くの百姓市まで行ってきました。川を渡ってくる風も、5月の風でした。川渡る風も、五月(さつき) 我鬼子
今日は朝から庭に出て畑を少々広げました。三太がいるときは、目一杯走れるように砂を敷いて可能な限り広く空間を確保しましたが、猫が四匹部屋にいる今、当分は犬は望めそうにもないんで、庭の大部分を畑にすることにしました。雑木林から自転車に積んで土を運ぶつもりですが、時間がかかりそう。例年は畑に出る余裕もないまま夏休みまでひいひい言ってますが、今年は辛うじて庭に出て生ごみを埋めたりしています。 大根やブロッコリーの花にたくさんの紋白蝶が来て、家の中からその蝶々を捕まえようと猫が窓ガラスと格闘しています。住宅街にあまりにもたくさんの蝶が舞うと卵を産み付けたりして支障が出そうなので、網で捕まえてかごに入れ、遠くの田んぼの畦に放して来ました。 来週からEMP・ENPでも外部から来訪者を受け入れますので、またすることが増えそうです。蝶蝶ひらひら、繁みを越えて 我鬼子
奥さんの小島けい個展 2009に行ってきました。「小島けい個展 2009行ってきました」で、写真も入れて詳しく紹介しています。 個展は9月一杯開催されていますが、19日(土)から23日(水)の連休に4泊5日で大分県の飯田高原にある九州芸術の杜に滞在しました。高原に広がる草原以外に何もないと思えるような場所に美術館が何軒かかたまってある不思議で、贅沢な空間です。オーナーの瀬戸さんが建てられたログハウスを改築して造られたギャラリー夢が会場で、その2階に宿泊させてもらいました。5時過ぎに職員の方が引き上げられると2人だけの世界。まわりに街頭もなく、まったくの暗闇です。やまなみハイウェイ沿いにあり、瀬戸さんの友人の俳優榎木孝明さんの美術館もあって、来館者は以外と結構多いです。 すぐ裏手に瀬戸さんの牧場エル・ランチョ・グランデの第2アリーナがあり、5頭の馬と、2頭の仔馬の親子が囲いの中で遊んでいます。近くの繁みのあちらこちらに通草が実をつけていて、道端には吾亦紅やよめなや秋桜などが咲いていました。宮崎では見かけませんが薊も至るところで花を咲かせていました。よめなは普段見かけるのよりは大きめで、薊も春先に見かけるのよりも大きめで、色が少しくすんで見えました。栗の実とあわせて、秋の花や実をどっさりと持って帰ってきました。 絵で自立するのは、本で生計を立てるのと同じくらい難しいのが現実です。去年は初めてということもあり、ほとんど買ってもらえませんでしたが、今年は花と馬と猫を何枚か買って下さる方がいて、来年の個展にむけての希望になりそうです。 もう一週間で、また後期が始まります。お腹の調子もまだ本調子ではなく、食事療法と適度な運動を根気よく続けるしかないようです。 8月の末から9月の初めにあった医学科5年生のEMPが始まる前に、体後期の授業の準備はほぼ終えたのですが、書く時間はあまり取れませんでした。書き直しのエイズとアフリカをテーマにした小説にも手をつけられないままです。 それでも、何とか充電は出来たようです。通草に吾亦紅、秋深き高原にいる 我鬼子
久し振りに書き込みます。 いつものように朝歩いていたら、彼岸花が咲いているのに気がつきました、そう書こうと思ってからもうすでに何日か過ぎました。日中はまだ猛烈に暑いですが、彼岸が近いから咲いて当たり前と言えば当たり前。山頭火が定住を決めて其中庵と名付けた農家に移り住んだとき、 移り来て お彼岸花の花盛り と詠んだようですが、(長いこと読んでないので、正確には、ちょっとあやしい)、こんな時期に定住を決めて、住みだしたんやなあ、と思いました。 ここへはもう一年ばかり書き込めなかったのですが、たぶん、最後につける歌が詠めなかったからだと思います。空間が何かで埋っていて、歌が出てこなかったのが原因のようです。ここ何年か、パソコン中心の生活で、韓国のドラマもずいぶんと見ましたし、基本的に、創作するための空間が埋ってしまっているせいだと思います。最近は、特に、音声の出る医学用語ファイルをつくっていて、相当根気の要る作業です。時間がほとんど埋められてしまっています。何よりも何も埋らない考えるための空間が、僕には必要なようです。歌がすっと出てくるかどうかが一つの目安だと思います。 ま、そんなわけでなかなか歌を入れてここを結べませんでした。授業がある時は、ほとんど毎日授業のページの書き換えはやっていましたから、書くこと自体には問題はなさそうで、問題なのは心の空間、そのためには、パソコンの作業を減らす、しかなさそうです。 内臓の調子が悪くなったとき、することの総体量を減らす、洋食からバランスの取れた和食に切り替えて適度な運動をする、と決めて何とか体と心を維持しているように、書くために空間を守る、それが書くための空間を求めて大学に辿り着いた僕には基本的に必要なようです。 ケニアでエイズ患者が出始めた頃の小説『ナイスピープル』が11月に出る予定です。3月から本格的に最後の作業をして、何とか七月の終わりに最終原稿を仕上げましたが、授業と併行しての作業はなかなかでした、ねえ。翻訳の出版はラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(1992)以来ですから、相当経ちます。その間に他の本も翻訳はしましたが、今のところ未出版。もともと翻訳とテキストは避けたいと思っていたのに、結局、出すことになって。今回は、同僚の南部さんとの共訳です。採算ぎりぎりの七千部を売ると出版社の關さんも言っておられるので、少しはメディアへの露出も仕方がないかな、少しそんな風に気持ちが傾いています。ずっと意図的に避けて来たんですが。 ここを書き換えられない間にも、細々とはやってはいました。門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」(MomMonde)に書くように言われて、毎月書いています。毎月ですから、だいぶたまりました。整理の意味でも、一覧にしときたいと思います。 今回出版する『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の抄訳と、それに関連する解説です。 抄訳は「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」(2008年12月)、「(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所」(2009年1月)、「(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」(2009年3月)、「(4)第5章 ベネディクト神父」(2009年4月)、「(5)第6章 メアリ・ンデュク」(2009年5月)、「(6)第7章 イアン・ブラウン」(2009年6月)、「(7)第8章 ハリマ」(2009年7月)、「(8)第9章 マインバ家」(2009年8月)、「(9)第10章 ンデル警察署」(2009年9月)、「(10)第11章 リバーロード診療所」(2009年10月)、「(11)第12章 初めてのX線機器」(2009年11月)、「(12)第13章 行方不明者」(2009年12月)、「(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」(2010年1月)、「(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」(2010年2月)、「(15) 第15章 ユーニス」(2010年3月)、「(16) 第16章 豚野郎フィル」(2010年4月)、「(17) 第17章 医師用宿舎B10」(2010年5月)、「(18) 第18章 ナイセリア菌」(2010年6月)、「(19) 第19章 花婿の値段」(2010年7月)、「(20) 第20章 四十年間の投獄」(2010年8月)、「(21) 第21章 一九七九年モンバサ」(2010年9月)、「(22) 第22章 仮論文」(2010年10月) 解説は、「(1) 『ナイスピープル』とケニア」(2009年4月)、「(2) エイズとウィルス」(2009年5月)、「(3) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(1)」(2009年6月)、「(4) 1981年―エイズ患者が出始めた頃(2) 不安の矛先が向けられた先」(2009年7月)、「(5) アフリカを起源に広がったエイズ」(2009年8月)、「(6) アフリカでのエイズの広がり」(2009年9月)、「(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」(2009年10月)、「(8)南アフリカとエイズ」(2009年11月)、「(9)エイズ治療薬と南アフリカ(1)」(2009年12月)、「(10) 南アフリカ政府とゴア」(2010年1月)、「(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(2010年2月)、「(12)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1」(2010年3月)、「(13)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(二)育った時代と社会状況二 アパルトヘイト」(2010年4月)(解説は一時休載中です) 今もらっている文部科学省の科学研究費のタイトルが「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年〜平成23年)です。前回の「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(平成15年度 〜18年度)を発展させた形でやっています。欧米中心の生物学・医学的なアプローチだけではなく、歴史や文化や社会を含めた公衆衛生的で包括的なアプローチでアフリカのエイズ問題を見ていく必要がある、というのが骨子で、アフリカ人の書いた雑誌や小説を手掛かりに、アフリカ人の声に耳を傾けようというものです。その意味では『ナイスピープル』の翻訳は今回のテーマに沿ったものですし、解説の「(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」(2009年10月)で、「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」の方向性を書きました。 「ウィルスだけがエイズの原因ではない」と言ったムベキは西洋のメディアに散々に叩かれましたが、どうしてムベキが敢えてそう言ったのかについて、解説の「(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(2010年2月)以降で書こうとしています。 中間的なまとめで、「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」を書きました。今年中に印刷物になる予定です。 来年は最後の年で、この方向でシンポジウムを一番の仲よし服部くんとやろうと思っています。2003年の大学祭の時に「アフリカのエイズ問題―制度と文学」のタイトルでシンポジウムをやった時も、いっしょにやってもらっておけばよかったなあと思っても後の祭りです。今回はいっしょにやれます。 奥さんの個展が今年も開催されています。「小島けい個展間近!」と「2010小島けい個展開催中です!」で案内しています。18日(土)から26日(日)まで画廊のある大分県飯田高原の九州芸術の杜に泊まり込む予定です。一年ぶりの高原です。すでに秋の盛りだと思います。朝方や夕方の高原の雄大な光景が見られそうです。 ページを確かめてみたら、医学科一年生の課題の講評を1回目も書いていなかったみたいです。高原に行くまでに少なくとも二回目だけは書いておきたいと思いますが、気持ちの上でずっと以前の出来事だったようで。出来るかなあ。 帰って来たら、新学期のようです。お彼岸花が咲き出したか 我鬼子
今日は柿を干しました。たしか西条柿という名の大きな渋柿です。 去年初めて家で植えた木に一つ実がなりました。今年は三つなりました。五つ実をつけていたと思うのですが、最終的には三つだけしか残りませんでした。 お腹をこわしたとき、真っ白な麹と糯米で造った甘酒と干し柿と、胃の粘膜によさそうなつくね薯とおかゆを食べました。手間と時間がかかりますが、弱った胃にはやさしかったように思います。 剥いて陽に干すだけですが、何とも言えない色艶と甘みが出ます。 時間と気持ちがないとなかなか造れないのですが、今年は近所の八百屋さんで買い求めたものと合わせて一回目の準備が出来ました。 秋が終ってしまいそうです。過ぎ行く秋の陽に、柿を干す 我鬼子
ちょうど一年ぶりです。 授業のページは毎回大体更新していますし、→小島けいの絵のBlog Forget Me Notもわりと更新しています。こっちの方は、なかなか書けないでいます。 上の更新履歴で紹介していますが、26日の土曜日にシンポジウムをします。宮崎医科大学に来たのが1988年の4月で、その次の年に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんの講演会をして、2003年に山本敏晴さんとムアンギさんとシンポジウム「アフリカと医療〜世界で一番いのちの短い国〜」をして以来の3回目です。今回は少しマスコミにも連絡をしました。宮日と読売から問い合わせがありました。 ミリアムさんの時は、アパルトヘイトがまだあった時で、国としては反アパルトヘイトのポーズを取っていましたから、国立大学で「人種差別考える集い」という類の見出しのマスコミ報道は、予想していませんでした。実際には南アフリカの作家を囲んで文学の話を聞く講演会という案内を出しましたが、MRTでも朝日新聞、読売新聞、西日本新聞でもアパルトヘイト反対の集会という方向で報告されました。今回もこちらの意図とはすこしずれた形で報道される危険性もありますが、敢えて連絡しました。講演については→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」と→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」に載せてあります。 今回のシンポジウムは、文部科学省の科学研究費を交付されている「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年〜平成23年)の関係ですることになったものです。申請の時点では服部くんは長崎大学にいましたが、今は北海道の東の端。今回もあしたから大荒れの天候で金曜日は吹雪で飛行機が飛ばないかも知れないので一日予定を早めて来てくれることになりました。他にも二人予定をしてたのですが、参加出来ないので、学生の3人に頼んで参加してもらうことにしました。6年生の天満くんも、4年生の小澤さんも、4年生の山下くんも、教育文化学部と農学部対象のアフリカ文化論や南アフリカ概論でも話をしてもらったことがあります。服部くんにもやってもらいました。 前回2003年のシンポジウムは「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(平成15年度 〜18年度)で科研費をもらった時にやりました。(報告書は作っていますが、ホームページには載せていません。) 服部くんも、天満くんも、小澤さんも、山下くんも医学科の英語の授業で出会いました。南部さんとは公立大の英語の授業で出会いました。服部くんは宮崎医科大学の時代ですが、あとは統合後。宮崎も今年で24年目になるようです。3年目に入って来た澤口くんが教授になり、去年は内田くんから「お父さんもこの英語の授業に出ていました」と言われ、そんなに時間が過ぎたんだ、と思いながらも、時の流れを実感出来ないでいます。 研究の一環のシンポジウムを学生も交えてやれるのは、ありがたい限りです。アフリカやアフリカ系アメリカとまともに向き合って来て、授業の最後に、人の性の哀しさにため息しか出ないなあという極めて無責任で、厭世的な物言いしか出来ない身には、若い力でそれぞれアフリカと面と向かおうとしている姿は、何ともまぶしい限りで、一縷の希望です。 今年は柿が13個もなりましたが、干せたのは8つです。一つは色づいたなと思ってよく見たら熟し過ぎてしまっていてそのあと落ちてしまいました。慌てて何個かちぎりましたが、ずっと雨が続いて干せない間に3つが熟してしまいました。長雨の間に、順調に育っていたブロッコリーもリーフレタスも完璧に虫にやられて、無残な姿をさらしています。薬はよう使わないので、一匹ずつ殺すしか今のところ方策はありません。殺生をして虫のえさを横取りする存在です。 すべて、何やらあやうい毎日です。句も出ず、霧島降ろしに柿を干す 我鬼子
シンポジウムが終わりました。参加者が少なかったのが残念でしたが、打ち合わせも含めて非常に楽しい時間でした。アフリカとエイズに関するシンポジウムで自前で参加者を揃えられるのは、医学科ならではです。大学に来るとも思いませんでしたし、文学しか頭になかった僕が、エイズについて専門家の医師と医師の卵の人たちといっしょにシンポジウムをするとは想像もしませんでした。北海道の東の端から来てくれた服部くん、卒業試験前の大事な時期に参加してくれた天満くん、忙しい毎日の時間を割いてつき合ってくれた小澤さん、山下くん、それに細々(こまごま)と協力してくれた南部さんに感謝しています。また何かいっしょにやれるといいのになあと思います。 毎日新聞の石田記者が来て下さり、まとめて記事にして下さいました。的を得た、よくまとめられた記事だと思います。参加者も少なく、予期してなかった取材でしたので、本当にありがたかったです。深く感謝申しあげます。。 来年からの科学研究費は看護臨床実習の英語DVD製作で申請しましたので、エイズに関してはこれで最後かも知れません。上に紹介しましたようにメールマガジンに月に2本書いてますので、もうしばらくエイズに関しては色々とやってみるつもりです。 報告書を作ってこのホームページに紹介したいと思っています。 参加して下さった方々にお礼を申し上げます。ありがとうございました。シンポジウムが終わりました 我鬼子
久しぶりで、今年最初の書き込みです。 このホームページの名前の片方のラブラドールの→三太がなくなってから三年が過ぎました。引っ越して来たときには立派な庭園だった三分の一を畑に変え、残りの三分の二は三太が走り回れるように砂を敷き詰めて空けていましたが、いなくなったあと暫くして、全部畑にしてしまおうと思い立ち作業を始めました。雑木林から土を運んで来ては畝を作っていますが、まだ出来上がっていません。 今の時期は一番寒いので、寒冷野菜のリーフレタスやブロッコリーや大根などが青青としています。正確には緑緑でしょうか。もうひと月かひと月半もすれば、大根やブロッコリーに薹が立って花をつけ、蝶が舞って虫の季節です。ちょうど新学期にあたりますからなかなか畑には出られずに、虫の世界、瞬く間に大根もブロッコリーも、苦いはずのリーフレタスも哀れ芯だけの醜態を晒すことになります。時間があって虫を一匹ずつ殺すのも、それはそれで嫌なもので、こうして殺して虫の食べる野菜を僕らが食べるのかと思いながら作業を続けることになります。手っ取り早く殺虫剤を使うくらいなら、初めから作ったりしないわけですし。 三太と散歩をしているときに大学のキャンパスでがりがりの猫を見つけました。それから二ヶ月ほど姿を現さない猫にエザを運び続けたのち、家に引き取ったのがアリス(→『母親になった猫』(門土社「門土通信」【No. 16:2009年12月】もどうぞ。)です。まだ8ヶ月くらいでしたが、5匹の子供を産みました。 Mちゃん(→「デルフィニュムとMちゃん」【No. 22:2010年6月】もどうぞ)ときーちゃん(→「合歓ときいちゃん」【No. 23:2010年7月】もどうぞ。)とさやちゃん(→「さやちゃんとコスモス」【No. 26:2010年10月】もどうぞ。)は譲渡会で運良くもらわれて、今は綾と国富で元気に暮らしています。 ピノコ(「梅とぴのこ」【No. 19:2010年3月】もどうぞ。)→ジョヴァンニ(ジョヴァ)(→「向日葵とジョバンニ」【No. 24:2010年8月】もどうぞ。)は母親と毎日家の中を走り回っています。 年明けに蒔いた絹莢豌豆とリーフレタスが思いかけずに芽を出しました。零度近い気温では芽を出すことはないだろうと思ってましたが、芽を出すもんですね。植え替え作業をしているところです。 →シンポジウムの報告書も出来ています。印刷物も出来ていますので、連絡下さればお送りしますので、どうぞ。さて、北風にリーフレタスの種を蒔く 我鬼子
久しぶりの書き込みです。 昨日の夜、久し振りに蛍を見かけました。来客があって帰りが九時過ぎになり、医学部から木花のキャンパスに続く坂道の途中でした。外燈もなくいつも真っ暗闇なんですが、蛍がぽーっぽっぽっと、光っていました。幽玄という表現がぴったりの光景でした。 三十数年前に宮崎医科大学が新設された当初、周りに蛍が飛び交ってましたよ、と言うのを聞いたことがあります。 神宮の北の方から通っていたとき、帰り道の沖電気の北側辺りで蛍を見かけ、取って持って帰ったことがあります。おそらく十数年前くらいだと思います。今は小川にコンクリート工事が施されて、蛍はいなくなっています。今回見た蛍を育む小川が近くにまだ存在するということなのでしょう。 寮に住んでいる人は、ひょっとしたら蛍を見かけたことがあるかも知れませんが、暗闇を脇目もふらず帰り道を急いでしたとしたら、目に入っていないかも知れません。 その道で、猿が歩いているのを二度みかけました。猪やらいたちやら、尾根伝いにやって来るようです。 4月になって新入生が入り、連休も過ぎて少し落ちついて来ました。前期もそろそろ後半に入ります。ぽーっぽっぽっと、蛍が光残してゆく 我鬼子
久しぶりの書き込みです。 昨日の夜、久し振りに蛍を見かけました。来客があって帰りが九時過ぎになり、医学部から木花のキャンパスに続く坂道の途中でした。外燈もなくいつも真っ暗闇なんですが、蛍がぽーっぽっぽっと、光っていました。幽玄という表現がぴったりの光景でした。 三十数年前に宮崎医科大学が新設された当初、周りに蛍が飛び交ってましたよ、と言うのを聞いたことがあります。 神宮の北の方から通っていたとき、帰り道の沖電気の北側辺りで蛍を見かけ、取って持って帰ったことがあります。おそらく十数年前くらいだと思います。今は小川にコンクリート工事が施されて、蛍はいなくなっています。今回見た蛍を育む小川が近くにまだ存在するということなのでしょう。 寮に住んでいる人は、ひょっとしたら蛍を見かけたことがあるかも知れませんが、暗闇を脇目もふらず帰り道を急いでしたとしたら、目に入っていないかも知れません。 その道で、猿が歩いているのを二度みかけました。猪やらいたちやら、尾根伝いにやって来るようです。 4月になって新入生が入り、連休も過ぎて少し落ちついて来ました。前期もそろそろ後半に入ります。1日が始まるのだろう、朝日が見える 我鬼子
今年もあとわずかになったようです。21日(金)に今年の授業も終わって、一息ついているところです。水曜日、木曜日、金曜日の授業のページはまだ書けていません。 今年は柿の生り年のようで、家でも60数個がなりました。農産物市や八百屋さんでも箱で出まわっています。今年もむいて干しているんですが、鳥が来てついばんでいます。折角時間をかけてこしらえているのにすべて食べられるのも口惜しいので、2階の分だけ網戸用の網をかけました。 奥さんが初めて描いたポインセチアです。すっかり休みモードですが、まだ会議や推薦入試の面接があるので、行かないといけないみたいです。 元の絵は→「新作です:ポインセチア(赤)(2012/12/17)」今年もあとわずかになったようです 我鬼子
授業も終わり成績も出しました。 前期後期の入試と合間のEMP(医学科4年生と5年生)の一週間間が終われば、今年度も終わりです。 曽山寺の好隣梅というところに自転車で行ってきました。風は冷たいのに東風、もう春のようです。山の斜面に作った梅林で、自転車で行くのはなかなか大変でした。二週間ほど前に一度登っているので、登る距離がわかっている分、この前の時ほどのしんどさは感じませんでしたが。半分は盛りが過ぎていましたが、まだ蕾も残っていました。先週が梅祭りだったそうで、見頃だったようです。 椿山もそうですが、1930年代に不定型の俳人種田山頭火が高千穂から延岡に降りる道すがらに詠んだ「分け入っても分け入っても青い山」の雰囲気が漂っています。 頂上付近から見た青島方面の景色です。 この前、推薦入試の人の合否が決まり、すでに入ってくる新入生も一部決まっています。まだまだ再試でそれどころではない人も多いようですが、シラバスを書いて、そろそろ新学期の準備です。 今年は共通教育の南アフリカ概論をアフロアメリカの歴史と音楽にかえるつもりです。音楽とアメリカがタイトルに入っていると多いかも知れないような気もしますが。それと横山さん、南部さんと三人で協力して医学用語を一年生でやれるように準備中です。
春めいてきました。田植えの準備も始まっています。台風が来る前に刈り取る超早場米だそうです。宮崎に来たときはえらい早いなあと季節感の違いに新鮮な感じもしましたが、慣れてしまいました。 三太が死んだあと暫くしてから庭を全部つぶして畑にしてしまいました。少々の雨でも三太が走れるように砂を随分まいて半分以上の空間を確保していたんですが。 三月初めの写真です。 今年の3月初め ブロッコリーに花が咲いています。大根もそろそろ花が咲き始めます。この辺りからの季節の進み具合は極めて早く、虫の勢いも凄いです。蝶蝶が舞い始めると卵を産みつけ、凄まじいです。そのころはちょうど新学期が始まるので畑に出られないことが多く、ほとんどの野菜が芯だけになってしまいます。夏野菜を植えても、運が悪ければそれも虫にやられます。今の畑は茄子と相性が悪く、てんとう虫が葉の裏にぎっしりつくと、葉が葉脈だけになって枯れてしまいます。薬を使わなければ手で取るしかありません。虫を殺して野菜を食べるのも気が引けますが、そのままだと寒い時期しか野菜が口には入りません。殺生な話ですが、生かされているのは確かです。日常では生かされていることを忘れがちですが。ま、傲慢になっているのにも気づかず、生き恥をさらして生きているわけです。 あしたから後期試験が始まります。それで入って来る人がすべて決まるわけど、また新入生が入って来ます。また新学期の準備です。 去年の春先にも写真を撮っていました。レタスに薹がたちかけています。 去年の四月初め 去年は結構ながいことレタスをちぎって食べていたような気がします。今年は半分しか植え替えられなかったので、いつまで虫にやられずに食べられるんかな。
久しぶりの書き込みです。 先週の水曜日と金曜日、研究室からの帰り道に、また蛍を見かけました。前に書いたことがあるなあと過去の履歴を見てみたら、3年前の同じ時期に書いていました。 「2010年5月29日 久しぶりの書き込みです。 昨日の夜、久し振りに蛍を見かけました。来客があって帰りが九時過ぎになり、医学部から木花のキャンパスに続く坂道の途中でした。外燈もなくいつも真っ暗闇なんですが、蛍がぽーっぽっぽっと、光っていました。幽玄という表現がぴったりの光景でした。 三十数年前に宮崎医科大学が新設された当初、周りに蛍が飛び交ってましたよ、と言うのを聞いたことがあります。 神宮の北の方から通っていたとき、帰り道の沖電気の北側辺りで蛍を見かけ、取って持って帰ったことがあります。おそらく十数年前くらいだと思います。今は小川にコンクリート工事が施されて、蛍はいなくなっています。今回見た蛍を育む小川が近くにまだ存在するということなのでしょう。 寮に住んでいる人は、ひょっとしたら蛍を見かけたことがあるかも知れませんが、暗闇を脇目もふらず帰り道を急いでしたとしたら、目に入っていないかも知れません。 その道で、猿が歩いているのを二度みかけました。猪やらいたちやら、尾根伝いにやって来るようです。 4月になって新入生が入り、連休も過ぎて少し落ちついて来ました。前期もそろそろ後半に入ります。 ぽーっぽっぽっと、蛍が光残してゆく 我鬼子」 25日の朝日新聞の宮崎版に「山が動く」と形容されるホタルの乱舞を鑑賞する「出の山ホタル恋まつり」(小林市南西方の出の山公園)の記事が出ていました。記事によるとえさとなるカワニナなどが生息する川があればいいようです。坂の下を流れるコンクリートで固められた小川がそうきれいにも見えないけど、まだえさとなるカワニナなどが生息出来ているということなんでしょう。 今年も新入生を迎えて、二ヶ月近くが経ちました。もうすぐ6月です。 研究室に来てくれる新入生が例年より多い気がします。進路を変えて入った人も何人か顔を見せてくれましたが、医者になれるスタート地点に立ててよかったなあ、と見てて感じました。 去年看護科の倍率が1.2倍、センター試験が30点ほど難しかったせいで、前期の倍率は6倍、今までなかった事態に僕と横山さんまで面接にかり出されました。医学科と違ってセンター+面接点で合否判定、従って面接官の点数がセンター試験の点数をひっくり返せる場合も。普段前期で辞退者が出ることはめったにありませんが、辞退者が続出、何から何まで異例ずくしの入試でした。結果的に、いい出会いであれば嬉しい限りですが、さてどうやろ。 アーバイン2号の別所が帰って来て最初に言ったのが「たまさん、医者になっても医学用語は感謝されますから、試験してやって下さい。」→June 30, 2010(別所和典)アーバイン留学記3 その年早速やってみたけど、一年生のこの時期、わかってはいても実際に身を入れてやる人はそう多くなく、挫折。それから2年、プリントやファイルの準備をして、挫けず今年くらいまたやってみるかと思ってたとろろに、「授業をやりながら医学用語の必要性を感じてますので、いっしょにやりましょう」と横山さんと南部さん。ほな一年生でやろか、と言うことになり。三月に校正やら見直しやらを3人でやってプリントの準備。(事務の谷口さんには超大量の印刷を頼むはめに。すみません。)1章から5章と15章、22章分のほぼ三分の一から四分の一程度をやることになって、現在進行中です。水曜日には試験、別所くん、試験やるで。 ソンクラからも毎日便りが届いてます。→→Songkla diary・Irvine diary もうすぐアーバインに行く田代くんも、金曜日に部屋に来てくれたとき、アーバインから天気情報つきの報告を送ってくれるようなことを言ってたな。
今日から金曜日まで大学は一斉休業だそうです。 「先週の水曜日と金曜日、研究室からの帰り道に、また蛍を見かけました。」と書いたのが5月27日。 きのう、また蛍をみかけました。今回は一匹だけ。この時期にと思いましたが、ぴーかぴーかと光っていました。 陽が落ちてからの散歩の途中、木花神社の近くでした。高台から木花神社の横を通って坂を下りていた時です。どこにあるのかははっきりとはわかりませんが、蛍の幼虫が生息できるきれいな水源が近くにあるということでしょう。蛍は今頃までいるもんなんやなあというのが正直な感想です。 7月の終わりに授業も終わり、成績もつけてはいましたが、今年はなぜか授業はほとんど来ているのに課題を出さない人が何人かいて、なかなかウェブ登録が出来ませんでした。成績を出す権利を個人与えられているわけですし、試験にかわる課題を出してないんですから、成績を出さなければ済むことなんですが、何だか迷ってしまいます。ほんとに、お節介なんでしょうね。 課題を出さないと成績が出ないというのを、本人はわかっていると思うんですが。 授業に出てるのに課題を出さないというのも、僕にはわかりません。しかし、長年やってると、いろんなことがあるのも、事実みたいです。 最近、どうも書く気持ちをたもてなくて、気持ちをひきずったままです。十月の後期が始まるまでの時間を何とか、と思ってはいますが、ひきずったまま、後期に入ってしまいそうな気もします。この春新学期も、何だかそんな感じで始まりました。 今年は、部屋に来てくれる人がいつもより多かった気がします。木花キャンパスからも公立大からも部屋に来てくれました。特に何かを話した、というわけでもないんですが。 初めてのことでしたが、7月の半ばに胡瓜の種を蒔きました。夏野菜は水がなくても大丈夫と思ってましたが、芽からしっかりとした苗になる前は、そうではなかったみたいです。真夏日の日差しは、きついようで、苗に育たないまま枯れかけています。 真夏日をやり過ごして、秋が来たら、リーフレタスと大根とブロッコリーの種を蒔こうと思います。それまでに、陽がかげった夕方か、陽の昇る朝方に、畝を準備しとこうと思います。 でも、実際はどうなるかなあ。
猛烈な暑さも和らいで少し秋らしくなって来ました。前期が終わってからの充電期間、あと10日ほどです。何とか後期の準備も出来つつあります。公立大の音声ファイルなどは授業のページに置けますので、見てみたい人はメールtamadayoshiyuki@gmail.comをもらえればIDとPassを連絡しますよ。 作業用のパソコンが壊れてしまっていて、新しく作業が出来ないままで授業をしないとけないと覚悟をしてましたが、八月の終わりに無理を押して新しくパソコンのインストールをしてもらえました。映像ファイルや動画編集もずいぶんと楽になって、作業がほど終わっています。 前半はEMPの5年生に頼まれて医学用語のファイル作りに時間を取られましたが、あの人たち、大変な作業を頼んでおいて、競争をしないで折り合いをつけてしまいました。勘弁してほしいです。今は後期の医学科の1年生と、新たに頼まれたEMP4年生のために作業を継続しています。ずっと手がしびれたままです。 そんなつもりはなかったんですが、本一冊をデータとして作るようになって。成り行きです。丸々3年、お金と時間がかかっていますが、これから入ってくる人たちにもきっと役に立つと思ってやっています。でも、ほんとに役に立つんやろか。 先週、卒業生のh艪ュんに乗せてもらって、湯布院の近くの温泉場(湯平温泉でくず粉を買い)と飯田高原(九州芸術の杜で挨拶)と阿蘇に行ってきました。遠い遠い道のりでしたが、丸半日ほどのドライブでした。 三十数年ほど前に神戸港からフェリーで別府に渡り、夜の別府湾を見ながら急な坂を自転車で登りました。(部分的に別府湾の夜景がかすかに残っています。)そこからヤマナミハイウェイを通って牧ノ戸峠付近まで行って、道ばたに自転車を止めて寝袋で寝てました。何人かに「大丈夫ですか?」と起こされて寝てもいられず、そのまま起きて夜中じゅう自転車に乗ってたら、夜明け前に阿蘇山に着きました。中腹で昼寝をして、たぶん大観望あたりを見てから、しゃーーーーっと自転車で下って、高森峠を通って高千穂に行ったような気がします。 今回、牧ノ戸峠に車を止めてもらって写真を撮りましたが、九州一高い中岳の登山口になっていました。1330メートルだそうで、まあ、よくも自転車で登ったものです。若き日の無軌道というやつですか。高森峠はまだ砂利道で、通りにくかったなあとかすかに覚えているようないないような。 そこから鹿児島に行き、おそらく枕崎辺りまで行くつもりだったようですが、実際には高千穂から延岡に下る途中で自転車がパンクしてしまい、雨水を使ってパンクをはっていたら、なぜか急ににあほらしくなって、そのまま日向から神戸に帰ったと思います。 その時、宮崎に20年以上も住むことになるとは夢にも思っていませんでした。 ひさしぶりに奥さんの絵のブログ→「小島けいの絵のBlog Forget Me Not」を更新しました。今年は東京の世田谷のドッグカフェで個展をしますので、準備中です。僕は4匹の猫の世話で、留守番ですが。
充電期間が終わり、後期の授業が始まります。今回は長いことかけて準備しました。作業用のパソコンは映像を扱いますと、一年ほどしか持ちません。冬に壊れたまま、今手持ちの映像ファイルを使ってやるしかないなと諦めていましたが、何とか作業用のパソコンにインストールをしてもらえました。おかげさまで、映像ファイルも新たにたくさん作ることが出来、CDの中にも入れました。 授業は、4ヶ月余り続きます。 「ジンバブエ滞在記」を連載したあと、92年に本を仕上げたときに調べた百年史と、ハラレから戻ってからの僕自身の二十数年間と、その間のジンバブエの歴史をまとめておきたいと思うようになりました。 記事や映像もずっとためていますし、ハラレで家を世話して下さった吉國さんの本『燃えるジンバブエ』も買いました。ジンバブエに住んで歴史と本格的に取り組んでおられただけに、とらえ所がなかなかです。頭のいい方のようで、論旨が明確です。本のあとがきによれば、2006年にお亡くなりになったようで、日本ではお目にかかれずじまいでした。 宮崎医科大学に紹介して下さった方も七十代半ばでお亡くなりになったそうで、時の移り変わりを感じます。64歳まで生き永らえてしまいましたが、いつも人ごとではありませんし。
今年最初の書き込みです。 松山の薦田さんから今年も年賀状「地平線」が届きました。ずっと昔に兵庫でお世話になった弁護士で、アパルトヘイト否(ノン)の講演会に講師として呼んで下さったことがあります。講演の内容は「アパルトヘイトの歴史と現状」(「ゴンドワナ」14号10-33ペイジ)にまとめました。南アフリカの歴史の全体像を把握し切れてないままお話ししたので、うまくまとめられずに・・・・という思いが残る経験でした。 ヨットに乗っておられた時は「水平線」が送られて来ていましたが、ヨットをやめて有機農業をし始めてから「地平線」が送られてくるようになりました。 その書き出しです。 「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内に0.3kuの範囲内に完全にブロックされています。」 御承知のように、昨年9月、IOC総会が開かれたアルゼンチンのブエノスアイレスでの安倍晋三首相の発言だ。「政治家は嘘つきだ。」「嘘つきでないと政治家になれないのか。」と思われた方も多いのではないだろうか。 新渡戸稲造が武士道を世界に示したのが1899年のことで、まだ114年生か経過していないが、その間に日本人はここまで劣化してしまったのかと嘆かわしい。大嘘つきを首相に頂き、大嘘をついたことを知りながら、なおかつ高い支持を寄せる国民は、エコノミックアニマルそのものではないか。 それだけではない。安倍首相の嘘はIOC委員にも分かった筈だから、東京は落選するのではないかと思っていたが、ぶっちぎりで2020年の東京開催が決まってしまった。世界も虚構が支配しているということである。 道徳よりも利益、福島よりも東京、弱者よりも強者という不条理な世界がこれからも続いていくのであろうか。」 表現は違いますが、同じようなことを僕は普段も、授業でもしゃべっているような気がします。 去年の暑中お見舞いで届いた「地平線」は次のような内容でした。 「3・11の東日本大震災を機に、「絆」という言葉が盛んに使われるようになった。「絆」とは、広辞苑によれば「馬・犬・鷹をつなぎとめる綱」であるが、どれだけの人がそれを知ってこの言葉を使っているのだろうか。 大宅壮一の「一億総白痴化」という1957(昭和32)年に使われた言葉がある。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてします」といった意味合いの言葉である。 核兵器、原発、放射性廃棄物、食料、人口、憲法、TPP、気候変動唐の深刻な問題に正面から向き合うことなく、テレビで流れるサッカーやオリンピックの試合に熱狂し、スマートフォンや「ゆるキャラ」で癒される白痴化した我々が、まるで罪滅ぼしのように「絆」を誤用しているのであろうか。 「つなぎとめる」のではなく、夫々が自立して、想像力や思考力を育み、互いに尊重し、心豊かに生きることの出来る社会を実現したいが、その道筋が見えない。 滅びの過程にあることに気付く以外に道はないものか。(薦田) 12月の20日に授業が終わって冬休みに入ったものの、人と会う機会が多くて27日まで一息つけませんでした。 休みは、4年生のEMPと一年生に使う医学用語のファイル作りと、庭の畑の土作りだけでした。それもファイル作りは、6章と8章の修正だけ。作業はほんと延々と続きます。この4年ほどの年末年始は、そのファイル作り。成り行きとは言え、僕は何してんやろ、と思いながら、なかなかやめられず、気が付いたら恒常的に両腕が痺れたような感じで。 三太が死んから駆け回るためにとっておいた庭の空間を畑に変える作業もこの5年ほど。きれいな山土を掘り返して雑木林から自転車で運んで来た土と枯れ草と生ゴミと有機肥料を二段に入れて。やっと今週くらいに完成しそうな気配です。今は、リーフレタス、大根、細葱、ブロッコリー、絹鞘えんどうが青青しています。今年は米良大根も初めてなりあそうです。去年散歩の時にもらって初めてお目にかかりました。西米良が売り出し中の丸大根です。 こっちの方の作業も土運びも土の掘り返しもなかなか体力が必要で、腰も痛くなるし、腕もさらに痺れるし、いつもつき腕、つき指をしたような感覚で。 一月一杯で今年度の通常の授業はほぼ終わり成績をつければ、あとは前期後期の入試と後期のEMP(医学科4年生・5年生)が済めば、また充電期間です。 小寒やそうで。今からひとつきほど、寒い日が続くんかなあ。
今年度の最終日です。 3〜7日の5年生4年生のEMP、12日13日の後期試験が終わったあと、深く潜行して充電中です。 2年以上の教育文化学部改組の会議と全学向けの語学センターの設置、それと年末からの医学部長選と、たくさんの人と会う必要があって、どうも人疲れしたみたいです。人疲れしたということは、かなり無理したということなんやろうなあ。学生のために大学はあるんやし、学生のためになることやったらしゃーないな、と引き受けて動いてはみたけど。 今年度の僕の初日は8日の新4年生のEMPです。9日は医学科の新入生、10日は公立大の2年生、11日は看護学科の新入生、そして15日は南アフリカ概論で農学部、教育文化学部、医学部の新入生です。 授業の準備は出来ました。プリントの印刷とCDのコピーを頼めば完了です。 大体田植えが終わったみたいやね。今年で宮崎も27年目ですが、超早生米の田植えが日常の風景になりました。 桜も盛りを過ぎ、もう少ししたら山藤が薄紫に山を彩り、薊(あざみ)があちらこちらに咲き始めます。特に清武川や加江田川の堤防には薊が多いようです。 新入生が今年も入って来るんやなあ。充電して、普段通りに会えますように。 今回のEMP4年生用に、The Language of Medicineの1章から22章の演習用のファイルを作りました。一冊全体から試験を作るためです。アーバインに行く人たちの選抜用の試験です。 今回も時間がかかりましたが、何とか間に合わせました。 新2〜4年生でも必要な人は、いつでもどうぞ。プリントやCDを余分に用意していますので。 全章のPronunciation of termsをまとめて重複したものを除くと、2200語ほどになりました。pathology, pathologistなどの派生語も含まれているので、おそらく半分程度の1000語くらいをインプットすればいいみたいです。その中には臓器や骨の名前など付随的な知識の要らない用語も含まれているので、主訴や病態などの付随した知識が必要な用語はその半分くらい、500語程度やないかな。それを集中して覚えればいいということになるんかな。 今年の国家試験には主訴や解剖の用語が5題出たそうで、これからますますその傾向が強くなるやろと国家試験に通ったばかりの卒業生たちが言っていました。国家試験にも役に立つんなら、一石二鳥やね。 ファイルを作るときに発音や意味をチェックはしたけど、全部をしっかりと覚えているわけでもないので(多いしねえ)、発音や意味のチェックが必要な人にはつきあうつもりです。僕自身もチェックする機会になると思うし。
充電期間も終わり、今年度の授業も始まりました。 山藤が咲き始め、きんぽうげがあちこちに咲いています。薊(あざみ)もちらほら。春のこの時期は一斉に花が咲き出します。 宮崎に二度来たことのある種田山頭火はよくきんぽうげや薊の句を詠んでますが、今よりもっとたくさん咲いてたんでしょう。 歩けばきんぽうげ、座ればきんぽうげ あざみあざやかにあさのあめあがり は見るといつも頭に浮かんできます。 庭の畑にはレタスがまだ虫にやられずの青々としています。虫にやられるのも時間の問題ですが。レタスは種が細かいですが、芽を出した分を植え替えても枯れてしまうのはなくて作りやすいです。絹莢えんどうも大きくなっています。 今年は三月に入ってすぐに胡瓜と茄子とオクラとピーマンの種を蒔きました。胡瓜とオクラは植え替えて、苗で買った胡瓜と茄子といっしょに少しずつ大きくなっています。もうちょっとすれば勢いが増して、なり出すと食べきれないほど実をつけます。茄子は土の相性がよくないのか、あまり実をつけませんが。 もう少ししたら雑草の勢いがすごくなって、蚊も出て畑に出るのが億劫になります。そのうち、暑すぎて出るのも嫌になる時期が来ます。毎年毎年同じように季節は移り変わります。 去年は新入生の出だしが早くてすでに何人か部屋に来てましたが、今年はまだこれからのようです。
雨が降っています。少し前イリスが一斉に咲き出しました。絵用に買ってきた鉢植えを植え替えてたら、今は二十本くらい、それが一斉に咲き始めたわけです。球根なので増えるようです。 すぐ横には牡丹が見事な花をつけています。 今年は山藤をカレンダーの中に入れるようで、崖っぷちに咲いている山藤の大きな枝を4本採って来ました。山藤は切るとすぐにぽろぽろ散ってしまうんですが、今年は大きなバケツに水を張って外に出し、運良くそのあと雨が降ったおかげで散るのが遅かったようで、ほっとしました。絵を描くためにとはいえ、野に咲いている花や木を採ってくるのは、いつも気が引けます。 授業も二回りし、新入生も部屋に顔を出し始めました。 EMPの人数も増えました。今二人、初めてアーバインの救急で実習をしていますが、評判も上々なようです。二人とも一年の時から、一生懸命やってたもんなあ。5年生も少し減りましたが、それでも13人。 今年でEMPを始めて十年目、新入生からは選択ながらクリクラのカリキュラムの時間帯にEMPが組み込まれるようで。医学で英語がそれだけ必要だと言えばそれまでですが、医者や研究者と英語科の僕らがいっしょにやっているということでしょうか。 いっしょに始めた名和さん(寄生虫、元研究担当副学長)や池ノ上さん(産婦人科、元学部長、病院長)はもう大学にはいらっしゃいません。それだけの月日が経ったということでしょう。 研修医もソンクラに行けますが、その帯同医をかって出てくれている牧くんはEMPの最初のメンバー。EMPの招聘講師も含め、大学内や卒業生でまかなえるのは、さすが医学科。 三年前にシンポジウムをした時も、さすが医学科やなあと実感しました。→シンポジウム2011 書くための時間が欲しくて30過ぎてから大学を探したけどななかなか見つからず、他になかったとはいえ、まさか見つかった大学が医科大学だとは思いませんでした。 「文学のための文学」みたいな意識しかなかった人間だったのに、アフリカのことをやってるんやし一度もアフリカに行ったことがないというのも気が引けるなあと、1992年に家族で在外研究でジンバブエに行ったり、医学科の学生や同僚と接するうちに、世の中の仕組みを知り、違う角度からものごとをとらえたり、考えるようになった気がします。 病気の患者が相手の臨床の人たちに比べれば、健康で優秀な(?!)学生と身近で接することが出来るのは、役得とはいえ、ありがたいことやなあとしみじみ思います。 月曜日は新入生の希望者10人による医学用語演習と4年生22人のEMP、優秀な医学科生を相手に、わかった顔をしながら授業などしてええんやろかなあ、ほんま。 ほな。
サーバーが復旧しました。管理者に感謝して使いたいと思います。 台風の影響が少なくてよかったです。今回は早めにレタスの苗を植えてやっと少し大きくなったところでしたので、避難しました。台風が行ったあと、植え戻しました。早い時期に植えると虫にやられて筋だけになってしまいます。早すぎると薹がが立ってしまうし。なかなか手間暇がかかります。 前期看護科のクラスでThe Language of Medicineの1章をやったんですが、3コマ目でお昼ご飯のあとということもあって半分は寝てるし、時間が経つともっと寝てしまうし、それで途中でやめてしまいました。それでも3年の実習で電子カルテを見て看護計画を立てるころには結構難しい医学用語も出てくるようなので、必要と思われるものを抜き出してコンパクト版を作りました。日本語名をつけて音声リンクも貼りました。人体図なども入れていますので、わかりやすいと思います。1ヶ月ほどかかりましたが、後期のクラスで興味を持ってやってもらえるなら嬉しい限りです。病院看護部の看護師さんにも使ってもらおうと思っていますが、どうでしょうか。 先週一回目の授業がありました。後期が始まりました。諦めてましたが、ホームページを使えるようになりました。毎日追われますが、使えること自体ありがたいもんやなあと、使えなくなってみると、思います。
今年も過ぎて行くようです。3月に定年退職以外は例年通りの毎日です。 今年は渋柿が20数個なりましたが、大半が台風でやられてしまいました。残りの柿が熟す前にひよが来て、ほとんどを食べてしまいました。 12月になって愛媛産の西条柿が出たときに二箱買って来て干しました。味をしめたのか、ひよが来て、目白も来て百個ほどの一割がえさになりました。おいしかったやろかなあ。 柿のことは2011年と2008年に書いているみたいです。 2011年11月23日 今日は柿を干しました。たしか西条柿という名の大きな渋柿です。 去年初めて家で植えた木に一つ実がなりました。今年は三つなりました。五つ実をつけていたと思うのですが、最終的には三つだけしか残りませんでした。 お腹をこわしたとき、真っ白な麹と糯米で造った甘酒と干し柿と、胃の粘膜によさそうなつくね薯とおかゆを食べました。手間と時間がかかりますが、弱った胃にはやさしかったように思います。 剥いて陽に干すだけですが、何とも言えない色艶と甘みが出ます。 時間と気持ちがないとなかなか造れないのですが、今年は近所の八百屋さんで買い求めたものと合わせて一回目の準備が出来ました。 秋が終ってしまいそうです。 過ぎ行く秋の陽に、柿を干す 我鬼子 2008年12月31日 渋柿を干し出してから二十年以上になります。長女が生まれてから少し経った頃、どさくさに紛れて奥さんのお父さんの家に転がり込んで明石海峡の近くで暮らし始めました。庭に渋の木があって、ある年からその柿を剥いて縁側に干し始めました。そう大きくない丸い柿だったけど、そのうち大きい長細い柿を八百屋の店先に見つけて庭先に吊し始めました。家は誰も住まなくなった時に震災にやられて、廃屋の姿を晒していたんで侘びしかったと弟が電話でしゃべってたような。更地にして人手に渡ったそうやから、あの柿の木も今はもうこの世に存在していないわけです。 二十一年前に宮崎に来てからも干し柿作りは続いていましたが、今年は箱で渋柿が出回る頃に柿を買う心の余裕もなくて、とうとう干し柿も作れませんでした。 渋柿を吊せなかった、今年が暮れる 我鬼子 今年はあまりにも蔓が延びて隣の家からも苦情が来るので、玄関先の庭を整理して、そこに沈丁花を植えかえるつもりです。もう一本、西条柿を植えようかなとも思ってますが、どうなるでしょうか。 柿干して、今年も暮れる 我鬼子
体調を崩してましたが、何とか恢復しつつあります。 サーバーが不安定でダウンしてる時間が長くなかなか書き込めませんでしたが、医学科1年と看護学科1年の授業のページには少し書き込みました。(サーバーのパソコンが末期状態でいつダウンするかわかりませんが、5月の連休にレンタルに切り替えてもらえて安定するようです。それまで何とかもってくれることを祈ります。) 今日成績を登録してもらいました。ずっと前に出していましが、遅くなったのは、何人かとメールで遣り取りしながら、試験が終わるまで待っていたからです。 最後の授業をやったあと、2月の予定は全部キャンセルしました。体調がよくないと、教授選、教授会、委員会はなかなかきついです。先週は神戸の予定でしたが、行けませんでした。 今日は前期の試験。午前は待機、午後は採点。7割ほどしか終わりませんでしたが、あしたの午前中には終わる見込みです。大学に入ってしまうと皆、入試なんか受けたんやろか、みたいな顔をしていますが、僕らは毎年毎年問題を作成して採点です。 来週は4年生、5年生のEMP。前期の7月に予算が来て、年末に追加予算が来て、年明けに医学部で使い切れなかった非常勤予算が来て。今年は外国から3名、国内も9名が来られます。基礎と臨床のMDも何人か担当してくれます。多彩な顔ぶれで、参加した人はたぶんいい刺激がもらえると思います。 アーバインの小児科のムラタさんは、普段なら年末にお願いしても手術予定が詰まっているので難しいですと断られるところですが、僕が定年だと気を遣ってスケジュールを調整して来てくれはるみたいです。卒業生も3名、来てくれます。 来年度も部屋を使えるそうですので、いつでも寄って下さい。非常勤ですが。
2日(月)から6日(金)まで4年生、5年生のEMP。外国から3名、国内からも9名をお呼びして一杯一杯でしたが、何とか終わりました。アーバインのムラタさんと北海道の服部くんは、僕が最後やからと、無理やり日程を調整して遠路はるばる来てくれました。ありがたいはなしです。 10日は久しぶりに教授選も出て、投票もしました。大体、調子は戻ったようです。あしたは後期入試です。 来週の後半は東京に出張、帰ってからは、お世話になった人への挨拶まわり、それで終わり、のようです。 20日の教授会は出張で欠席ですと言って挨拶もせずに消えるつもりでしたが、6日(金)の最後の定例の教授会で挨拶するはめになってしまいました。EMPで教授会どころではなかったんですが、挨拶だけと言われて、結局。思い通りにはいかんもんですねえ、ほんま。 もう1年授業のお手伝いをすることになったようですので、それからまたその準備かなあ。 授業のページは管理している人に時間の余裕がなくて頼めそうにもないので、今年の分を上書きして使うことになりそうです。したがって、今年度の授業のページは今月一杯で見られなくなると思います。残念ながら各クラスの掲示板の利用者はゼロのまま書き換えることになりそうです。 来年度は久しぶりに農学部の2年生の授業を1コマ頼まれています。27年前に宮崎に来た秋から農学部の非常勤を頼まれて行っていましたが、統合後は医学部と共通教育と教育文化学部の大学院の授業の担当コマ数が増えたこともあって、行けなくなっていました。 英語が必要でない人は無理にせんでもええんちゃうか、出来るようになりたい人としたい人がやればええんやない?単位はまかせとき、落とすことないから心配せんでもええで、そんな調子で始めることになりそうです。
2月末の前期入試、3月上旬のEMP、中旬の後期入試で終わりかと思ってましたが、東京行きや挨拶回りもあり、なかなか終わりそうにないです。 二週間ほど前に続いて、今日は看護学科から花束が届けられ記念撮影、証拠写真はメールで送られるそうで。 退職の手続きも結構あり、近々年金の手続きをすることになっていて、いよいよみたいです。一年は手伝うことになっているせいか、なかなか退職の実感はありません。普段通りに人も来てくれたりしてるせいだと思いますが。 秋の初めに絹莢とレタスと大根を植えたあと、庭の菜園も放ったままで、今は豌豆(写真中央)も背丈の倍にも伸び放題、大根やブロッコリーも白や黄色の花を咲かせています。 隣の家との境に植えた金木犀(写真左端)も3メートルほどに、石榴(写真中央)もかなりの丈に。去年は二十個以上の実がなりましたが、鳥のえさになりました。 ↓ 畑も草だらけで、春の勢いを感じます。新学期が始まるまでに、夏野菜の畝を作り、隣の家との境の伸び放題の樹を大幅に切ろうと思っています。(35センチの電気のこぎりも買っています。) 新学期の資料などはほぼ出来ましたが、授業の案内や自己紹介などのプリントは今からです。 6年生がぽつぽつ部屋にも。自分はでなかったので何とも言えないけど、あしたが卒業式らしいです。 新入生として入って来てからもう、6年にもなるわけで(6年以上の人もいますが)。毎年毎年こういうことを繰り返して27年にもなるようで。ひょっとしたら、すごいことなんかも。
年末の学長選騒動から退職、ずっとなにやかやあって。それで一区切りかと思いきや、次の人が決まるまで、例年通り。3月末に農学部2年生の授業を頼まれ、夕方の事務局のEMPも2クラス。結局例年より多くの10コマほど。部屋の使えるので、1年生の面接も。例年より多く十数人。 オーバーワークはわかっていながら、1月末に一度ダウン。4月に入ってからも二度喉をやられました。体の危険信号。 何とか峠は越して、あと2週間ほど。 少しゆっくりして、体調を元に戻せるといいと思います。 その中でも苗や種からの胡瓜と茄子とオクラとピーマン、それに生姜。長雨続きの中で何とか生き残っているようで。梅雨があける頃には時間の余裕も出来て、オクラが堅くならないうちに収穫出来るなかあ。一日遅れると、堅くなってしまうので。
彼岸花が咲き出しました。 まだ蛍が飛んでいます。例年梅雨に入る前に見かけるのですが、今年は梅雨がやたらと長く、梅雨が明けたころには蛍も終わりかと思ってました。しかし、梅雨明けにたくさんの蛍が飛んでいるのを見かけて嬉しくなりました。それでもお盆も過ぎれば見かけなくなるだろうと思っていましたら、数は少なくなってはいますが、九月の今時分まで飛んでいるのを目にするのは予想外でした。いつくらいまで、生きていられるものなんでしょうか。 宮崎に来て二十八年目になりますが、医大が出来たころは周りは蛍が一杯やったと、医大に紹介して下さった人に聞いたことがあります。出来たての官舎に住んではったようです。 その人とは兵庫の大学院でお会いしたんですが、研究室ではわらじを履いてはったのが印象に残っています。その人の縁で、宮崎に来ることになりました。退職後地元の広島に戻ってはったんですが、何年か前にお亡くなりになりました。素朴な人柄が好きで、論文指導の教官をお願いしたんですが、内部の事情があったようで、無理やり一方的に教官を決められてしまいました。アメリカ文学で修士論文を書く僕の指導教官はイギリス文学の、それもキーツの詩をやっている人でした。その人の目標は修了までに僕の髭を剃らせることやったとあとで間接的に聞きましたが、僕の方はこれで自由にやれると考えて極力大学には行きませんでした。一つも言うことを聞かないゼミ生は、ほんま癪やったやろなあ。 医学部で大学院の担当をするようになって、そうか、修士の論文指導をすると月々の手当がつくんやったんや、と気付きました。僕から見たら教授でも助教授でも変わりないのに、教員の側ではそれなりの事情があったんやと思いました。 その教授の妨害にもめげずに僕を推して下さったその人は、何年か前に七十代の前半でお亡くなりになったようです。 高校をやめて大学の職を探すときに一番お世話になった先輩は、年下の奥さんが脳梗塞になり、老老介護の身となり、そのあとその奥さんもお亡くなりになったそうです。先日「神戸の父は施設で一人気楽に暮らしています」と娘さんから便りをもらいました。 二つ上の姉が去年亡くなったり、周りでそんな知らせが多くなりました。 授業で配るプリントやCDの量が多いので前期が終わったころから準備を始めました。もうすぐ医学科3クラス分が終わりそうで、次は看護科、その次は急遽頼まれた全学部用の南アフリカ概論とアフロアメリカの歴史と音楽、です。アフロアメリカはの歴史と音楽は初めてですので、ちょっと時間がかかりそうです。映像ファイルも新しくこしらえないといけないみたいですから。 後期の始まる前の日くらいに、ホームページの各クラスのページを書き換えますので、前期の授業のページは見られなくなります。ご諒承のほどを。
彼岸花が咲き出しました。 まだ蛍が飛んでいます。例年梅雨に入る前に見かけるのですが、今年は梅雨がやたらと長く、梅雨が明けたころには蛍も終わりかと思ってました。しかし、梅雨明けにたくさんの蛍が飛んでいるのを見かけて嬉しくなりました。それでもお盆も過ぎれば見かけなくなるだろうと思っていましたら、数は少なくなってはいますが、九月の今時分まで飛んでいるのを目にするのは予想外でした。いつくらいまで、生きていられるものなんでしょうか。 宮崎に来て二十八年目になりますが、医大が出来たころは周りは蛍が一杯やったと、医大に紹介して下さった人に聞いたことがあります。出来たての官舎に住んではったようです。 その人とは兵庫の大学院でお会いしたんですが、研究室ではわらじを履いてはったのが印象に残っています。その人の縁で、宮崎に来ることになりました。退職後地元の広島に戻ってはったんですが、何年か前にお亡くなりになりました。素朴な人柄が好きで、論文指導の教官をお願いしたんですが、内部の事情があったようで、無理やり一方的に教官を決められてしまいました。アメリカ文学で修士論文を書く僕の指導教官はイギリス文学の、それもキーツの詩をやっている人でした。その人の目標は修了までに僕の髭を剃らせることやったとあとで間接的に聞きましたが、僕の方はこれで自由にやれると考えて極力大学には行きませんでした。一つも言うことを聞かないゼミ生は、ほんま癪やったやろなあ。 医学部で大学院の担当をするようになって、そうか、修士の論文指導をすると月々の手当がつくんやったんや、と気付きました。僕から見たら教授でも助教授でも変わりないのに、教員の側ではそれなりの事情があったんやと思いました。 その教授の妨害にもめげずに僕を推して下さったその人は、何年か前に七十代の前半でお亡くなりになったようです。 高校をやめて大学の職を探すときに一番お世話になった先輩は、年下の奥さんが脳梗塞になり、老老介護の身となり、そのあとその奥さんもお亡くなりになったそうです。先日「神戸の父は施設で一人気楽に暮らしています」と娘さんから便りをもらいました。 二つ上の姉が去年亡くなったり、周りでそんな知らせが多くなりました。 授業で配るプリントやCDの量が多いので前期が終わったころから準備を始めました。もうすぐ医学科3クラス分が終わりそうで、次は看護科、その次は急遽頼まれた全学部用の南アフリカ概論とアフロアメリカの歴史と音楽、です。アフロアメリカはの歴史と音楽は初めてですので、ちょっと時間がかかりそうです。映像ファイルも新しくこしらえないといけないみたいですから。 後期の始まる前の日くらいに、ホームページの各クラスのページを書き換えますので、前期の授業のページは見られなくなります。ご諒承のほどを。
2015年度後期用の授業のページを更新しました。
後期が始まりました。 今日は散歩のコースを変えて、海まで自転車で行って、砂浜を歩きました。家から15分か20分。清武川河口の木崎浜です。サーフィンのスポットで有名なようですが、月曜日なので、あまり人もいなくて幸いでした。 雲が多く、海の色も少し濃い灰色でしたが、ずーっと水平線の海はなかなかでした。遠くで何人かがサーフィンをやっているのを見ながら、30分ほど水際を歩きました。 もう10月になったというのに、今日も蛍を数匹見かけました。こんな時期まで蛍が生きているとは。 木崎浜です ↓
今日も蛍を見かけました。こんな時期まで生きてるもんなんですねえ。 金木犀がさかりです。いい香り。垣根用に2メートル足らずの樹を30本植えたんですが、すごく大きくなって。外から見えないのはいいんですが、隣の家にまで延びるし、庭に拵えた畑に陽が入らないし。ゆくゆくは出て行くことになるので、その前に背の高さくらいに切っておこうと思ってチェーンソーを買い込みました。少し切りましたが、まだ作業が続きそうです。 種から少し大きくなったリーフレタスの植え替えをしたり、えんどうの竹の柵をこしらえたり。陽の当たる方に少し畝をのばすのに、土を掘り起こして下の山土を取り除いて畑用の土を入れたり。若い頃と違ってオーバーワークになると足腰が痛くなるし、手が利かなくなるし。一気にやるには気も体もついていかないし。それだけ永く生きながらえてしまったということなんやろなあ、ほんま。
週末に今年初めて蛍を見かけました。前回10月に蛍のことを書いてから、ずいぶんと経ちました。暗がりで小さな犬を散歩している人と、蛍がいますねえ、と話をしました。その人によれば、22日にも見ましたよ、と言われていました 4月には宮崎を離れてはるかかなたに引っ越しをする予定が、まだ宮崎にいます。当分いることになるかも知れません。 今「ほんやく雑記」を連載中です。一回目→「ほんやく雑記(1) 漁夫の波止場」 まだ一覧を作っていませんが、近々連載の終わった「アフリカとその末裔たち1」と「アフリカとその末裔たち2」の一覧もリンクさせ、奥さんの絵のブログの更新もと思っています。 木花の教育文化学部の325に部屋が出来ました。30年前に旧宮崎大学に非常勤で行ってたところに、新たに部屋が出来るとは思っていませんでした。 なかなか思うようには行かないようですが、ずっと成り行きで生きて来ましたので。
久し振りの更新です。 台風の被害はなかったですか。台風が来た次の日に木崎の浜に行って歩いて来ました。今回は時間が短くて夜のうちに通りすぎたので直接の被害はなかったけど、海岸線は相当変わってたね。流木だらけで砂浜を歩くのも大変でした。普段はきれいな砂浜なんですけどね。(木崎浜の写真→2015年10月5日) 後期がもすすぐ始まります。前期が終わってから準備してますが、まだ終わっていません。 基礎教育科目、後期は南アフリカ概論(火曜日4コマ目)、南アフリカ概論U(火曜日3コマ目)、アフロアメリカの歴史と音楽(木曜日1コマ目)を持つ予定です。 単位が取れない人が溢れているので、暫定的な措置ですが、制度が学生に満足が行くようになれば、その時継続するかどうか考えるつもりです。どれもL111(350人収容)の階段教室で、大きな画面と音響は劇場のようです。楽しんでいっしょにやれると嬉しいです。初回の時点の登録者は南アフリカ概論(258名)、南アフリカ概論U(256名)、アフロアメリカの歴史と音楽(348名)です。たぶん、くじではじかれた人で増えると思いますが。 南アフリカ概論Uシラバスにも書きましたが、去年の後期と今年の前期の南アフリカ概論と去年の後期のアフロアメリカの歴史と音楽を取ってくれた人が対象です。ただ時間割の関係でどうしてもという人は、授業前に準備した上で参加してもらおうと思っていあmす。名簿を見た限り相当数いるようですが、連絡をもらったのは17人でです。予めメールをくれればファイルを添えて返信します。 医学科1年生と地域資源創成学部の分も準備継続中です。 授業のページも週末にでも更新するつもりです。(前期の分は見られなくなります。) いい出会いであるといいですね。
今日で9月も終わり、もう十月です。十月になるころにしては、いつもより暑い日が続いているような。急に秋になるんやろかなあ。 南アフリカ概論のテキストに使う予定の『アフリカ文化論』、今朝本が届いて生協に持って行きました。 増刷してもらいました。最近は再版をほとんどしてないようで、印刷所にに元の版が保存されてなくて、予定より仕上がりが遅くなりました。 出版事情は相変わらず厳しいです。しかし、基礎教育支援室の方に頼む印刷の量を少しでも減らさないと申しわけないという思いが強くて再版してもらいました。 貴重な新聞記事、雑誌記事など、どうしても印刷して配りたいのもありますし。そういう記事やニュースの映像などは、その時にしか手に入れるのが難しいので、大事に取って来た記事や映像は、今となってはかけがえのないものです。 悔やまれるのは、アパルトヘイト時代に取っていた南アフリカの週間紙をほとんど処分してしまったこと。置いていれば、ほんとに貴重な資料になったのに、と思います。他にも記憶に残っている記事や映像を処分してしまっています。退職もあったし、これからまた使うと思ってもいなかったこともあるし。 世の中、何が起こるかわからないもんねえ、とよく思います。 南アフリカ概論Uは南アフリカ概論を取ってくれた人たちのために思いついた授業ですが、実際には時間割上の制約もあって取りたい人も準備をしてもらって取ってもらえるようにしようと思っています。 名簿を見る限り初めて見る名前も多いように思います。「アフリカ文化論」を買って準備して来て下さい。15回で話した内容を前提に、少し踏み込んだ話をして、南アフリカ概論では時間的に紹介出来なかった映像も見てもらおうと思います。半分は英語でやるつもりです。簡単な英語のアフリカ史はなかなかないので、英文で2冊書きましたが、その本の南アフリカの部分を印刷して配ります。 教養の科目を英語でというのは初めてかも知れませんが、僕は英語の時間にも英語でやって来ましたから、工夫してやれると思います。 全学の英語教育アドバイザーを、とも言われてますし、少しはお役に立たないと、と思います。 お互い、楽しくやれるとええのになあと願っています。
起きたときはぐずついていましたが、今はきれいに晴れています。また気温が下がるようです。インフルエンザにかかっている人も多いと聞きます。一昨日もインフルエンザにかかったので課題の提出を延ばしてもらえませんかとメールがありました。もう少ししたら、温かくなるので、お互いやられないように自愛しましょう。 生きてるといろんなことがあるなあ。奥さんのブログが乗っ取られそうになって管理してもらっている人に迷惑をかけてしまいました。何があるかわからんねえ。 でも何とか阻止してもらえて感謝です。復活させていますので使って下さい。 目下、千人余りの成績をつけるのに奮闘中です。無風だった医科大学の頃に突然統合の話が実際になり、持つ授業も増えて、成績を出す数もぐんと増えました。それでも非常勤で行ってた公立大を合わせても、せいぜい500人余り。千人以上は初めて。数は力あyというけど、ほんまに実感しています。 文部科学省から、またアクティブラーニングや学士力などの名でカリキュラムの変更を迫られて中味を精査しないまま形を整えて、結果、学士力難民が溢れることになったようで。カリキュラムを変えるのに指揮をとった人は辞めて後には制度だけが置き土産で残る、管理職が変わる度に、いっつも尻ぬぐい、退職した後にまた尻ぬぐいをすることになるとは。でも、基礎教育支援室の福本さんたちの尽力で何とか緩和したみたいで。来年からは、単位のためだけ、より、中味を優先させて選択してもらえるようになるとええのにねえ。 今しばらく寒い時期を過ごせば、春かなあ。
田植えが始まりました。 この三月の末で、宮崎も31年目に入ります。来た当初はちょうど田植えの頃で、3月に田植え?という印象が強かったです。僕より七つ上で川南出身の同僚の方が、台風が来る前に収穫する超早生米ですよ、と説明してくれました。 最近砂浜を時々歩くようになった木崎浜から見る海も、以前住んでいた明石海峡の海とは随分と赴きが違います。常に何艘もの船がせわしく行き交う瀬戸内海の風景が当たり前になっていましたから。 昨日は後期試験でした。これで最後の新入生が決まり、あと一月足らずで新学期が始まります。 350人収容の部屋で授業をしたり、1000人を超える受講者の成績を出したりなど、どうも近視眼的な毎日を送っていると、気づいたら、句も詠めなくなってしまっているようです。 田植えを見たり、木崎浜の水平線や山また山の景色などを見ていると、何だか句も出て来そうな気もします。もし句が出て来そうなら、不定型の俳人種子田山頭火の世界、という授業も近いうちにやってみるかなあ。久し振りに、行乞記を出して、また読んでみますか。 田植えが始まった、春も始まった 我鬼子
もうすぐ菜種梅雨、30年前のこの辺りに、明石から引っ越して来ました。新学期に間に合うようにと、3月の28日だったと思います。ちょうど田植えの頃で、えらい時期に田植えやなあと思いました。両方が働いていたこともあって、その後始末や引っ越しの準備などで無理をして、へとへとの状態で来たのと雨のせいもあって、何だかうら侘びしい感じが残っています。 来る前の5年間は大学を探しての、いわゆる就職浪人で、正規の教員として採用されるかも知れないからと、誘われるままに非常勤を引き受けましたので、一番多いときは週に16コマ。一日の最高は5コマ、大阪経済法科大学で朝1コマ目と2コマ目をやったあと、一時間半ほどかかって大阪工大に移動、LL教室の補助をしてくれていた学生の岡本くん、生島くん、花井くんの三人と夕食を食べたあと、夜の3コマ。9時過ぎに終わってから、バスで大阪駅に出て、一度逆方向に一駅戻って新大阪から国鉄(JR)に乗って明石まで戻りました。(岡本くん、生島くん、花井くんとは今も連絡を取り合っています。岡本くんと生島くんは、一度宮崎に遊びに来てくれました。青島辺りを案内したようです。) 今は木花に住んでいますので青島も近くですが、来た当初は宮崎神宮の少し北あたりに住んでいましたから、青島は随分遠くに感じました。車に乗ってないので、余計に遠くに感じたんでしょう。 単線の日南線と違って夜中まで人の流れが途絶えることがない複々線の山陽本線、大阪駅で並んで列車に乗り込むのが嫌で、一駅戻って新大阪から列車に乗り込んでいたというわけです。 大学なので、一年のうち授業のない半分ほどが休みとは言え、まだ土曜日に授業があったころで、授業のある期間、特に大阪に出かけないといけない時は、ラッシュアワーの人混みに気持ちももみくちゃにされるようでした。 そんなとき、なぜか無性に山頭火が読みたくなって、立ちっぱなしの電車の中で貪るように行乞記を読んでいました。 どうして山頭火を読むようになったかははっきりとは覚えていませんが、たぶん神戸や大阪の古本屋を回っているときに、本を見つけたような気がします。 中学と高校のときは、古典を読んでいたせいもあって、得意になって和歌を詠んでいたように思いますが、あるときから31文字が冗長に思えて、俳句に目が行くようになりました。 月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。・・・・予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、・・・。 そんな奥の細道が、すっと心に入って来て、芭蕉を読むようになっていました。 眠れなくてあれやこれやが頭の中をめぐっているとき、 旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる の句が浮かんで来て、無性に泣けて来たこともあったような気がします。 時々、無性にどこかに出かけたくなり、「漂白の思ひやまず」、寝袋を持って列車に乗り込んだりしました。 575の世界もなんだか制約があるような気がしているときに、たぶん、不定型の俳句を詠んだ山頭火をごく自然に読むようになったような気がしています。 何日か前から、あの山越えて(行乞記一)をまた引っ張り出して来ました。今回は、いつか「不定型の俳人種子田山頭火の世界」の授業を持とうという、今までにない不埒な動機で山頭火を読むことになりました。 30年使って来た医学科の研究室とも22日でお別れです。福利棟から基礎臨床棟に移るようです。まわりは引っ越しに向けて、忙しない日々が続いています。 今日も夕方に4時間ほど出かけて、4階のLL準備室のかたづけをしてきました。
引っ越しのかたづけをしていたとき、処分していたと諦めていた山頭火の資料が見つかりました。退職でもう使うことはないと捨ててしまったと思っていたんですが、ファイルに綴じて残していたようです。 1995年前後あたりに一番気合いを入れて授業の準備をしたようで、山頭火の年譜を元にパワーポイントのファイルまで作っていました。二十年の歳月が流れたようです。 新聞記事の切り抜きや、山頭火フェスタの入場券まで出て来ました。 山頭火は二度宮崎を訪れているようです。 一回目は大正15年(1926年)。おそらく死ぬつもりで酔って熊本の市電を止めたものの死に切れず、出家得度して耕畝と改名し、味取の観音堂の堂主におさまったものの定住し切れずに旅に出たときのことです。 高千穂神社の裏にある句碑の「分け入っても分け入っても青い山」はこの時に詠まれたようです。 もう一回は昭和5年(1930年)。 宮崎市の繁華街ニシタチのビルの側壁にある「うまい匂ひが漂ふ街も旅の夕ぐれ」はその時に詠まれています。行乞記の昭和五年の初めの方に記されています。何日か前に読んだ中にありました。行乞記は日記形式で書かれていて、その日の、たとえば行乞(ぎょうこつ、托鉢の意味のようです)の施しや安宿の居心地などについて記したあと、句を記してない日もありますが、たいていはたくさんの句を並べています。 英文でも結構論評が出ていますが、授業で紹介して読んだニューヨークで出版されたJohn Stevens, MOUNTING TASTING - Zen Haiku by Santoka Tanedaのプリントの原稿や、James Abrams"Hail in the Begging Bowl The Odyssey and Poetry on Santoka"の原稿もありました。(Bowlは行乞[托鉢]で布施を受ける時に使う鉄の鉢のことで句集に「鉢の子」というのがあります。) 山頭火フェスタの入場券は、1995年に宮崎公立大学で行われた「第4回 全国山頭火フェスタinみやざき95」の入場券で、参加料は1000円、となっています。行くつもりで入場券は買ったものの、行けずじまいだったようです。 授業を持つとなると、15回はまとまった話をしないといけないんでそれ相応の資料が必要なんですが、これでひょっとしたら「不定型の俳人種子田山頭の世界」の授業が出来るかも知れません。 他にも県内に何カ所か句碑があるようですし(えびの市、京町、橘通りなど)、日向路の山頭火を研究してる人がおられるようなので、句碑と書いた人を訪ねてみようと思いました。さて、実際に動けるかどうか。 あちこち土筆も生えている、春になった 我鬼子
現実に目に見えるものや意識にのぼってくるものはほんの些末なものでしかないものの、自らが感じて納得するには、残念ながら目に見えるものや意識にのぼるもの、つまり形而上的に見える現象から判断するしかありません。 30年前に宮崎に来たとき、お世話になっていた出版社の方が、医学部で授業をすることになった僕に分厚い手紙を下さいました。医学部出身なので、つい助言したくなったのかも知れません。その手紙の書き出しが意識下の言語についてでした。 「・・・闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります・・・」 南アフリカ概論やアフロアメリカの歴史と音楽の科目で僕が言おうとしていたことは、きっと目に見える、意識にのぼるものを手がかりに、意識下に潜む何かをしゃべりたかったんだと思います。 統合後持ち始めたアフリカ文化論をやったあと本の形にして「哀しき人間の性」と副題をつけましたが、現象から導き出した結論が、人間ってどうしようもないなあという人間の性、だったのかも知れません。 疲れ切った電車のなかで山頭火を読んだのも、僕の意識下の言語に山頭火が何かを伝えたからなんでしょう。 小さい頃、地元の神戸大学に行って県庁、神戸大学を落ちて関学から市役所、そんな周りの流れを嫌だなあと思ったのは、自分の意識下の何かが反発したんでしょう。今から思えば神戸大学はいいところにあって入るのも難しいし、県庁に行けば生活も安定したと思うけど。それに家も家族団らんからはほど遠いものだったし、安定や家族団らんを望むなら一番の近道で理想的な進路だったかもしれないのに、なぜか心が反発して。 受験勉強に馴染めず、結局行くところがなくて変な劣等感だけ抱えて、神戸大学の近くの神戸外大の夜間に行くことに。 俳句を詠みながら行乞の旅をする山頭火と言えばかっこいいんですが、人にたかりながら物乞いをする飲んだくれに過ぎないと批判する人もいます。うしろ姿のしぐれているか、まっすぐな道でさみしい、それのどこが俳句やねん、と不定型の俳句そのものを俳句であると認めない人もいます。 しかし山頭火がたくさんの人を引きつけるのは、きっと何かがあるからでしょう。 山口の大富豪の家に生まれ、早稲田に入り、結婚もして子供も出来、一時は東京市役所(今の東京都)に就職しているようで、それなりの生活をしようとしていたんでしょう。ただ、それでもおさまり切れず、放浪の旅に出ています。 もし「不定型の俳人種子田山頭火の世界」の授業を持つなら、そのあたりが語れるかどうかだと思っています。さて、語れるか。 豌豆も咲いている、雨の中に咲いている 我鬼子
研究室が臨床研究棟に移転しました。この何日かは引っ越し作業で結構大変でした。福利棟の人たちも大忙し、慌ただしい日々でした。 あの研究室には、1988年の今頃に宮崎に来て以来、30年いたことになります。 基礎臨床研究棟から南に出ている臨床研究棟3階の突き当たりの角の部屋3S17(非常勤講師室)です。語学教育センターの所属で木花の教育文化棟3階の328に研究室がありますが、継続して医学科一年生の授業も持ちますので、英語科の一隅を一応使わせてもらえるみたいです。まだ荷物を運んでもらっただけで、片づいていませんが。長いこと北向きの部屋だったので、東と南側がすべて窓になっている真っ新の部屋は、極めて居心地がよさそうです。そのまま今の研究室に運べたら・・・。 山頭火の続きです。今日は句碑について少し書いてみます。 山頭火が最初に宮崎に来たのは一回目が大正15年(1926年)、2回目が昭和5年(1930年)と書きましたが、そのとき詠んだ句の石碑が宮崎県にも何カ所かあるようです。 「うまい匂いが漂ふ街も旅の夕ぐれ」と「水の味も身にしむ秋となり」と「分け入っても分け入っても青い山」の句碑は、何度か見に行ったことがあります。 熊本を経ったあとえびの市などいろいろまわったあと宮崎市に来たようで、宮崎市やえびの市などで詠まれた句の石碑がウェブでも公開されています。行乞記には都城、高岡、西都などを歩いた様子が詳しく記されています。その中の何句かが句碑に刻まれているわけです。 「宮崎県の山頭火句碑」 「えびの市の山頭火句碑」 ぬれてすずしくはだしであるく 山頭火 えびの市飯野市立八幡丘公園 このいたゞきに来て萩の花ざかり 山頭火 老人福祉センター(えびの市向江) ありがたや熱い湯のあふるるにまかせ 山頭火 温泉広場(えびの市京町) 旅のすゝきのいつ穂にでたか 山頭火 図書館資料館・裏庭(えびの市大明司) 「宮崎市の山頭火句碑」 うまい匂いが漂ふ街も旅の夕ぐれ 宮崎市橘通り西 3-1-10 高砂本店ビルの壁に 水の味も身にしむ秋となり 宮崎市橘通り西2 ふるさと料理「杉の子」 こほろぎに鳴かれてばかり 宮崎市清水1-8-20 黒木氏宅 「都農町の山頭火句碑」 まったく雲がない笠をぬぎ よいお天気の草鞋かろい 都農町名貫公民館 ちなみにこの前書いた大正15年の句の石碑は、 「高千穂の種田山頭火歌碑」 分け入っても分け入っても青い山 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037 高千穂神社 大正15年(1926年)行乞流転の旅に出た種田山頭火のこの句は、馬見原から高千穂へゆく途中の作であろうといわれています。句碑は「高千穂文化研究会」が昭和47年3月15日建立(種田山頭火句碑としては全国八番目)。 他にも句碑があるようです。 句碑の解説の中に、山口保明著「日向路の山頭火」(鉱脈社、1995年)が紹介されていました。 「このみちや いくたりゆきし われはけふゆく しづけさは 死ぬるばかりの 水がながれて 九月九日 晴、八代町、荻原塘、吾妻屋(三五・中) 私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ。・・・・」 で『あの山越えて 行乞記(一)』は始まっています。 また、『行乞記』を開いています。今度は授業をどう展開するかを考えながら。生きてるといろんなことがあるなあとつくずく思います。まさか、授業をするために、また山頭火を詳しく読もうとするなんて。
ここ何日か風邪気味で、ちょっと体がきついのでたくさん寝るようにしています。寝不足と引っ越し作業で少し体を冷やしたのがよくなかったみたいです。昨日近くのお医者さんに行って、3日分の薬を処方してもらいました。インフルエンザがはやっていますので、熱が出たらまた来て下さい、と言われました。 それでも昨日は西風の強いなか、白浜の近くに行きました。春がそこまで来てるのは確かでも、結構寒い日が続いています。 引っ越してくるとき、南国やからもう暖房は要らんやろと無責任なことを言って、いまだにこの季節になると、無責任をなじられます。関西や関東からは、充分に宮崎は南国とは言え、住んでみると、この時期、暖房は要らんやろとは言えません。 西風が強かったからか、海の青さも冬から春にかけてのなかなか鮮やかな色でした。ちょうど満潮と重なって、見応えがありました。 白浜(ホテルサンクマールの近くで)↓ 山頭火の続きです。今日は『行乞記』の書きだしについて少し書いてみます。 僕は最初春陽堂から出ている全集を読んだような気がしますが、それらが整理されているのは『俳人山頭火の生涯』を書いた大山澄太という人のおかげだと思っています。山頭火に寄り添いいつも温かい視線で見て来たのがこちらにひしひしと伝わって来ました。大山さんは、伝記の中で山頭火の日記について次のように書いています。 山頭火の日記、それは日本人として、例のない特異な日記文学であると思うが、彼はここで惜しいことに、昭和五年九月までのものを、焼き捨てている。「日記の灰のこれだけか」とあるところをみると、相当沢山なものを焼いて、その灰がたったこれだけかという感じがする。私に言わせると、この日記を焼かずに残してくれていたら、どんなに彼の足跡がはっきりすることかと、残念でならない。その後は、一冊のノートに一杯になると、それを緑平に送って保管をたのんでいた。だから、ここで焼くということは、いろいろの気持もあったことと思うが、その理由の一つは、自分で自分が嫌になったか、また古い日記を持って歩くことは、旅の荷物として、相当やっかいなものになるので、ものに執着しない山頭火は、あっさり焼き捨てたかと思う。(『俳人山頭火の生涯』、三十五〜三十六ペイジ) 「日記の灰のこれだけか」についてはまた書きたいと思いますが、日記をまた書き始めた山頭火の心境を『行乞記』の最初の方、九月十四日の日記に本人が次のように書いています。 「一刻も早くアルコールとカルモチンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージした私はしみじみ嫌になつた、アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルモチンを二百瓦飲め (先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死に そこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)。 呪ふべき句を三つ四つ 蝉しぐれ死に場所をさがしてゐるのか ・青草に寝ころぶや死を感じつつ 毒薬をふところにして天の川 ・しづけさは死ぬるばかりの水が流れて 熊本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨ててしまつたが、記憶に残つた句を整理した、…… 単に句を整理するばかりぢやない、私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなつてゐるのである、ただ捨てても捨てても捨てきれないものに涙が流れるのである。 私もやうやく『行乞記』を書きだすことが出来るやうになつたー 私はまた旅に出たー 所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。 水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚*ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。」 明治十五年(1882)生まれで、2度目に宮崎に来たのが昭和五年(1930)ですから、まだというかもうというか、山頭火は五十前でした。 死にきれずに、捨てたはずの執着もままならず、句を拾うしかなかったのかなあ、としんみり思います。どこかで、どうしやうもない自分が歩いている、と詠んでいましたが、どうしようもない自分を持てあましている僕のような人間には、その思いが何となく伝わって来て・・・・。 それが一時期山頭火を読んだ、無性に読みたくなった本当の理由なのかも知れません。
去年も何度かみかけましたが、きのう、帰り道の坂のところで、狸と猿4匹に出くわしました。 ずっと以前、坂道を自転車で登っているときに、黒猫が一匹ちょこんと座って見上げているのに気がつき、たまたま持っていたえさをやりました。近頃は野良猫にきわめて不寛容で、ある場所の野良猫が突然一斉にいなくなることが何回かあって、その度に、気持ちが凍るような感じを味わっています。 次の日、同じ時間にその道を通ったら、またちょこんと座っていて、今度は明らかに来るのを予測して待っている感じでした。 周りに民家はないので、余り人目を気にせずにえさを置いておくと、大抵は夜中に来て食べているようです。あまり姿をみかけませんが、遠くから来て食べているようです。 その狸は、そのえさを食べに来たんでしょう。道の向こうからこっちに渡ろうとした時に僕と目があって、やばーーいといった表情でくるりと方向を変えて元いた茂みに戻りました。行き過ぎて自転車をとめて遠くからみていると、僕が通り過ぎるのを確かめてからまた渡ろうとしたら、今度は車が来て、また戻って、何度かそんなことを回繰り返して、最後には何とか渡ってえさのところに行けたみたいです。 山にえさが少ないんでしょうかねえ。猫は雨にふやけたえさは食べないみたいですが、たぬきは濡れても平気なようです。 自分だけでもどうしようもないのに、すぐ野良猫にまで気を遣う自分を、少々持て余し気味です。山頭火やないですが、どうしようもない自分が歩いている、のような気分です。 今日は朝から暖かい一日でした。すでにオリエンテーションが始まった学年もあったようですが、僕は10日が最初の授業の日で、それまで今しばらく深く潜行しようと思っています。取り敢えず、医学科2クラスの授業の準備は何とか終わりました。 道を渡った、狸さんにこんにちは 我鬼子
きのうからすっかり落ち込んでました。10日から授業が始まるのに、パソコンの調子がおかしくて使えないかもと諦めかけて。ファイルなどもまだバックアップをとってないし。 あたりまえにやってることも、順調に行ってるときは何とも感じないのに、何かあると、実際にはあやういところで生きてるのを思い知らされます。そのくせ、過ぎ去ってしまえば、何もなかったかのように、反省もせず、また何もなかったかのように元に状態に。そんな繰り返してです。 年齢的にもいろいろ体もいうこときかないようになって来てるのも自覚してるのに、その割には、捨てきれないものが多すぎて。やっぱり自分自身が一番どうしようもないもののようで。 引っ越し作業の無理がたたったようで、久し振りにのどをやられるし。体がきついと、余計に悲観的にもなるし。 その間に新学期が始まってしまいました。 大学の正門のところで石碑を背景に記念写真を取っている親子を何組かみかけました。きのうは休みやというのに医学科で、たくさんの人が集まってたし。 否応なしに始まるんやなあ。あしたから二泊三日で吉祥寺に行く予定です。毎年三月の終わりには、気分転換も兼ねて行くことにしています。今年は4月にずれこみましたが。毎日同じことを繰り返していると煮詰まる気がして。 10日から授業が始まると、15週間は、また否応なしの毎日なので、少し気分が変わって、また始められるとええんですが。 帰ったら、授業のページも用意したいと思っていますが。
吉祥寺に二泊して昨日は横浜の出版社に行って挨拶して来ました。お昼は久し振りに横浜の中華街でした。 神戸にも中華街がありますが、僕が神戸元町三ノ宮の古本屋辺りをうろうろした学生時代には、まだ中華街はなく、出来てからも足を運んでいません。 中華料理の店屋はあちこちにあって、山陽本背の複線から複々線にかわる西明石の駅近くにあった中華料理の店屋で食べた、澄み切ったスープのラーメンは今はなかなか見つかりません。中国のどの辺りの人が作っていたのかわかりませんが、宮崎に来てからぎとぎとの豚骨スープに馴染めないでいるのは、その透明で澄んだスープのせいだと思います。 吉祥寺もそうですが、春休みとはいえお昼にもたくさん人が相変わらず街にあふれていました。横浜の地下鉄の乗り換えには相当な距離を歩かないといけないんですが、やっぱり人があふれていました。便利は便利ですが、毎日だと疲れそうです。大阪工大に非常勤や嘱託講師で行ってえたときは、梅田で乗り換えていたので、人に疲れました。 それでもに同じようなことを繰り返す日常とは別世界で、少しは気分が変わったようです。来週には授業が始まります。医学科のプリント類は大体準備が終わりました。今日はクラスの名簿と顔写真をもらいました。いよいよ始まる感じです。 地位資源創成学部も二年目、新入生と2年生、それに工学部の新入生の英語のクラスです。大きなクラスは百三十数人の履修届があったそうです。あまりええかげんなのは落としましたが、その割には履修した人が多かったようです。統合以来持っていたときは70人か90人ほど。教育と農学、工学と医学とかの組み合わせで一年ばかりだったので、今とは同じように比べられないと思いますが。2年生の人は去年外の科目を受けた人もいるでしょうから、その分数が多くなっているのかも知れません。 くじびきでもれた人が爆竹を投げたい気持ちだとどこかに書き込みをしてました、と事務室で行ってましたが。元々受講生の数にくらべて圧倒的に開講者の数が少ないので、制度上一年生で取れるようにしたり、枠をはずしたり、集中講義で取れるようにしても、やっぱり学生の選択にそういは、あまりにも受け皿が少なすぎるというわけです。 去年から1500人ほど成績を出して少しは緩和できたとは思うけど、たぶん、前期であぶれる人もいるような気がしますので、後期はもう一つか二つ学士力発展科目をもたなあかんやろなあとは思っています。様子を見て決めようと思います。 くじにもれてしゃーないからと来られても、潔くいい機会だからと考えてくれるなら歓迎しますが、制度のせいにしてええかげんなのは、勘弁してもらいたいと思います。今回は最初にきちんと言っておこうと思います、お互いのためにその方がいいような気がします。 受験を終えて入って来る人たちに、さすが大学の授業やなあと思ってもらえれば、元々大学は学生のためにあり、教員は学生の数に応じて雇用されているので、少しでもお役に立てれば嬉しい限りです。 毎日書き換えるのも大変ですが、学生の反応を見ながら授業専用のページも使えたらとは思っていますが、どうなりますか。 明日明後日で、地域創成の3クラス、工学部の1クラス、学士力発展科目1クラス分の準備をやってしまおうと思っています。 目の前のことで一杯一杯で、こんな時は、句は出て来ないようです。山頭火もまた書けるといいんですが。
きのうの地域資源1年と2年の英語、今日の工学部一年の英語、南アフリカ概論の授業で紹介したパスワードのFが不要でした。コピーペーストする時に文字化けしたようです。わからない人はメールをしてもらえれば説明します。 南アフリカ概論で木曜日に移ってくれる人には、新たに授業のページを作って来週の木曜日(今週はありません)にページをみてもらいながら説明します。
朝の散歩に家の近くの高台の公園に行って腹筋運動をしたときに、見上げたら、葉桜が澄んだ空に透けて見えました。今年は桜の開花が観測史上一番遅かったようなことが新聞に報じられていましたが、何日か前が満開で、すでに散り始めて、見上げた枝は葉桜になっていました。授業も始まって新入生は新たな気持ちで毎日が楽しい人もいるでしょう。そんな春の季節です。 明石に住んでいたとき、午後から吉野の桜を見に行ったことがあります。平地より遅咲きの中千本や上千本は見応えがありました。芭蕉の句碑の辺りに辿りついた頃は薄暗がりで刻まれた時を詠むのも難しくなっていました。 高校の教員になって3年目、担任をした文芸部の女子生徒に頼まれた原稿に、その時の吉野の桜の話を書きまし た。 馴染めず反発しか覚えなかった高校時代を再現するような新設高校に、今度は教員として行くことになりました。受験勉強も出来ずに外国学部の夜間課程に通った僕が、受験のためにと英語の成績で分けられたクラスの担任をするという、皮肉な事態となりました。 家庭にも、学校にも、地域社会にもすっかり希望を失なっていた僕は、生きても30く らいまでだろうと感じて、生き(死に)急いでいました。 出口も見えず、生きる命題もつからないまま、遮二無二自分を追込みながら突っ走った日々だったように思いますが、もう一度その時点に戻ったら、きっと同じことをしただろうと思います。 「書いたもの」の中の、「執筆物一覧 76〜89」→「生きゆけるかしら」に載せてあります。以下はその一部です。 「露とくとく」 露ととく 誠に浮世 すがばや 去年の春も、もう終わり頃だったか、吉野の桜の花を見に出け時であった。上千本の、奥の、西行庵の近くの夕暮れの、うす暗がり中で、この芭蕉翁の句に出会ったは………。 春は、僕にとって、いつも哀し季節だった。春の頃には、なぜか、かなしいことが続いた。入学やら、卒業やら、花見やら、世の喧噪は、僕には、いつも、縁のないものだった。 冬は、寒くて、つらいこともあったが、そのつらさが、かえって、かえろうじて、生きるバネとなった。寒い冬の夜に、暖房具を使わないで過ごしたこともある。指が冷くて、かじかんで動かなくなると、木刀を振りまわし、かけまわっては、体を暖め、又、机に向った。そんな寒さが去って、春めいてくると、なぜか、又、わけもなく、ものがなしかった。 いつか、もう一度吉野の桜を見に行こうとは思っていますが、どうしょうか。 カードリーダーの結果が大体出て、まとめてもらえているみたいですので、あした最終確認をして授業のページに報告するつもりです。 語学教育センター事務の岩切さんが、掲示の文面を夕方持って来てくれました。少し訂正してもらって、たぶんあした掲示を出してくれる予定です。 木曜日の南アフリカ概論の授業のページが出来たら、この欄で報告するつもりです。 見上げれば葉桜、空の青さに透けていた 我鬼子
カードリーダーの結果は、出席者542名、木曜日に移動してくれる人75名でした。次回の授業の指示を掲示してもらっています。確認して下さい。 木曜日の南アフリカ概論の授業のページも作り、火曜日と木曜日の授業のページに詳細を書き込みました。 火曜日のページは授業の最後に紹介したパスワードのFを取ってアクセスして下さい。木曜日の人はメールをくれたら案内します。 18日(火曜日5〜6限、L111教室)、20日(木曜日1〜2限、L11教室)の2回目の授業で、改めて詳細を説明します。シラバスで書いたように、テキスト『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性(さが)』は持って来て下さい。解説します。
庭に植えたイリスが一斉に咲き始めました。 イリスです↓ 絵にも描いてもらいました。カードにもして、ブログに載せています。 →「イリス」 庭を潰して拵えた畑は、今年は雑草を生い茂らせたままにしています。雑草に中にもうすぐ虫に食われて芯だけになる運命のレタスとたくさんの絹莢が摘める豌豆の塊が二つ。絹莢豌豆はなり出すと一斉で、とても二人では食べきれず、置いたままにして大きくなった豆を豆ご飯にして食べることになりそうです。それでも取り切れず硬くなって乾燥したのが、来年の種になります。 春先に草を取って新しい畝を作り、種から大きくなった胡瓜や茄子やピーマンやオクラなどを毎年植え替えるのですが、今年は草を生い茂らせたまま。 茄子は土壌があわないのか、移って来てからちゃんと出来たことがありません。東大宮で家を借りていた時は田野か清武の黒土が入れてあって植えれば出来て当たり前だと思っていたのですが、トマトや苺と同じくらい作るのが難しい野菜になってしまいました。胡瓜はたくさん実をつけますが、二人では食べきれず、小さいときに収穫出来ずに、お化けのように大きくなってぶら下がっているだけの状態になってしまいます。 オクラも毎日採らないとすぐ硬くなってしまいますし、とっても二人では食べきれないですし。暑くなると蚊の攻勢も半端ではないので、出ることさえ億劫に。結果的に、今年は畑の中に何本か大きな竹をさして、南瓜の蔓を這わせて、と思っています。夏が過ぎたころに、収穫するだけでいいので、どうもそんな風な畑になりそうです。 というわけで、庭は豌豆の塊以外は雑草だらけです。↓ 春は花が多彩で、イリスの系統でも、花菖蒲、杜若(かきつばた)、菖蒲(あやめ)などをあちこちで見かけます。 東大宮に住んで居たときは市民の森の菖蒲園に花菖蒲を見に自転車でみんなで行きました。奥さんも本の表紙絵を描くのに毎日のように通っていました。 花菖蒲の案内は、いつかの日に。 イリスよ、今年も庭の隅に咲き揃ったか 我鬼子
カードリーダーの結果は、出席者542名、木曜日に移動してくれる人75名でした。次回の授業の指示を掲示してもらっています。確認して下さい。 木曜日の南アフリカ概論の授業のページも作り、火曜日と木曜日の授業のページに詳細を書き込みました。 火曜日のページは授業の最後に紹介したパスワードのFを取ってアクセスして下さい。木曜日の人はメールをくれたら案内します。 18日(火曜日5〜6限、L111教室)、20日(木曜日1〜2限、L11教室)の2回目の授業で、改めて詳細を説明します。シラバスで書いたように、テキスト『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性(さが)』は持って来て下さい。解説します。
二日前にきんぽうげを摘んで木花の研究室に飾っています。↓ 少し盛りを過ぎていますが、まだ蕾もありますので、医学部から木花に向かう道の脇と、馬場から農学部へ行く道の脇で摘みました。きのうコップの水を全部すって萎れかけていましたので、慌てて水を入れたら、勢いを取り戻しました。春先には菫(すみれ)、たんぽぽ、などといっしょにきんぽうげもあちらこちらで見かけます。毎年このころになると、宮崎に来る道すがらに山頭火が詠んだきんぽうげの句を思い出します。その頃はあちらこちらにもっとたくさん咲いていたんでしょう。 前にも何回か書いていますが、2014年には初めて画像入りで書きました。摘んで来て奥さんに描いてもらった絵をカードにした分を画像にして載せました。再録してみます。 *************************************************************************************************************2014年4月10日
************************************************************************************************************ 今年は畑を雑草に覆われたままにしていますが、基本的に毎年同じようなことを書いてるようです。桜が遅かったように、きんぽうげも少し遅かったようではありますが。充電期間も終わり、今年度の授業も始まりました。 山藤が咲き始め、きんぽうげがあちこちに咲いています。薊(あざみ)もちらほら。春のこの時期は一斉に花が咲き出します。 宮崎に二度来たことのある種田山頭火はよくきんぽうげや薊の句を詠んでますが、今よりもっとたくさん咲いてたんでしょう。 歩けばきんぽうげ、座ればきんぽうげ あざみあざやかにあさのあめあがり は見るといつも頭に浮かんできます。 庭の畑にはレタスがまだ虫にやられずの青々としています。虫にやられるのも時間の問題ですが。レタスは種が細かいですが、芽を出した分を植え替えても枯れてしまうのはなくて作りやすいです。絹莢えんどうも大きくなっています。 今年は三月に入ってすぐに胡瓜と茄子とオクラとピーマンの種を蒔きました。胡瓜とオクラは植え替えて、苗で買った胡瓜と茄子といっしょに少しずつ大きくなっています。もうちょっとすれば勢いが増して、なり出すと食べきれないほど実をつけます。茄子は土の相性がよくないのか、あまり実をつけませんが。 もう少ししたら雑草の勢いがすごくなって、蚊も出て畑に出るのが億劫になります。そのうち、暑すぎて出るのも嫌になる時期が来ます。毎年毎年同じように季節は移り変わります。 去年は新入生の出だしが早くてすでに何人か部屋に来てましたが、今年はまだこれからのようです。
久し振りの書き込みです。 6月に入ってしまいました。沖縄はすでに梅雨入りしたと誰かが言ってましたが、そのうち梅雨入りして、行き帰りまた雨で難儀しそうです。 4月20日に書き込んだあとも、何日かおきには書くつもりで、庭に咲いた牡丹、山肌や岩肌に咲く山藤、道端に咲くけしや薊(あざみ)、それに砂浜を歩きに行った時の木崎浜や、自転車で通った白浜の海岸線や、雑草を一掃した畑の写真などを撮っていたんですが、週に8コマの授業と何組かの面接で一杯一杯で、その間に月日が過ぎて行ってしまいました。季節の巡り方が、生活のリズムよりもずいぶんと早いようです。 一番早いところで9回、一番遅いところで7回が終わっていますので、あと二月足らず、7月の終わりには前期の授業も終わります。 地域一年(67人)、地域二年(32人)、工一年(41人)、医一年(54人)、南アフリカ概論(火曜432人、木曜112人)、計732人の成績を出さないといけませんので、予め出来ることはしておかないと、期間内に成績を出せなくなりそうです。去年の後期の1083人よりはかなり少ないにしても、充分多いですので、一種のたたかいみたいです。 たくさんの人に出会えて、部屋に来てもらえて有り難いことです。木花でも医学科でも研究室を使わせてもらってますので、その点も有り難いです。 畑に出る余裕がありませんが、それでもピーマンと胡瓜と茄子とオクラの苗を何とか植えかえました。 今年は畑の中に何本も高い竹を立てました。去年の収穫のあとに取っておいた種から蒔いたかぼちゃをそれらの竹にからませようと考えています。去年は周りの金木犀に絡んで実をつけてたんですが、知らない間に隣の家まで勢いよく延びて行きますので気を遣います。それで大きな竹を立てようと思いつきました。大分大きくなって来ていので、そのうちぐんぐん伸びて高い竹に絡んでいくと思います。 去年は一本の茎から十数個の大きな瓢箪形かぼちゃが出来て子供たちに評判でしたし、猫の野菜の源ですので、今年はたくさん作ろうと思ったわけです。種から10以上の茎が延びています。それがどのように絡むのか、どれくらいなるのか。 また、藪蚊とのたたかいが始まります。
南アフリカ概論(木曜112人)の成績を出し、講評を授業のページに書きました。 しばらく前から稲刈りが始まっています。空港に奥さんを自転車で送って行った帰りに撮った画像です。 台風が来る前に収穫する永年の知恵ですが、今年は台風の被害もなく、例年どおりの収穫が見込めそうでよかったと思っています。 今はすべて機械でやるそうで、この前知り合いになった地元の人の畑に行って話し込んでいたとき、その人の知り合いの方が来られていっしょにしばらく話をしました。その人は、米作りませんか、田んぼも機械もすべて貸しますよ、今は肥料から苗までみんな農協に決められて、耕耘機が稲刈りから何から何までやってくれるので、体使いませんよ、どうです?とおっしゃってました。 いやぁ、いいです、と言いましたが、することいっぱいで、米作りは考えたことなかったなあ。 今は半農の人も多く、この土日で大体稲刈りは終わるようです。 僕は目下、成績を出すのにまさに格闘中、です。 今医学科(54人)の分で、工(41人)、地域(99人)を早く終えて、最後は南アフリカ概論(火曜432人)です。それで前期は何とか一息かな。 ま、毎日することがたくさんあって、有り難いことなんやろなあ、と思っています。 庭の畑は、一部オクラと茄子とピーマンを植えてますが、今年はかぼちゃの葉が覆い繁っています。ところどころ実をつけ始めています。瓢箪型のかぼちゃが去年は好評で、今年は一面のかぼちゃ畑になった次第です。 稲刈りが始まった、赤とんぼも飛んでいる 我鬼子
9月になりました。 授業が終わる前から始めて一月半、ようやく8クラス、七百数十人の成績が終わり、しばらくぼーっとしてたら、九月になってしまいました。 海に行ったら、秋の気配がしてました。台風の影響で、風も強く、波高し、でした 青島が海を挟んで向こうに見える海岸線で撮った画像です。 煮詰まった日常からしばらく離れたら、また後期の準備です。 今回初めて種田山頭火の世界という授業を始めるので、準備も要りそうです。あらかたは用意していますが、どう展開するかなど、思案中です。 和歌がまどろっこしくて、俳句を詠むようになり、あるときから575の形が鬱陶しくなり。 そんな時に、不定型にも惹かれて読んだのが春陽堂の全集。全集を読んだことはなかったけど、手近にあったので、つい。読んで見ると、なんだかわからないけど、すっと心に入って来た感じがして。 一時、全く句が出て来なくなり、正確には心に湧かなくなり。最近、少し感覚が戻って来ているような。それで、種田山頭火の世界をやろうと思ったりしたのか。 ただ、句会とかの類いも、句の鑑賞会なども経験がないし。興味もなかったけど。 それで、講義、ではなく、鑑賞会をやったり、句会をやったり、俳人や定型俳句や短詩などについて発表してもらったり、作って来てもらった俳句の発表や鑑賞、そんなことしか出来ないかもなあ、と考えたりしています。 蚊の大群にやられる覚悟で、陽射しの強い畑に出る勇気が持てず、一面のかぼちゃ畑にしたものの、葉っぱばかりが生い茂り、肝心のかぼちゃの収穫は、大きなのが一つ。 元々荒れ地にでも出来るかぼちゃ、肥料をやったのがいけなかったのか。そろそろレタスや大根の下準備もしないといけなし、と、かぼちゃの葉っぱを切り始めることに。十月になってまた授業が始まると、畑をする余裕も、たぶんなくなりそうなので。 生い茂る葉の中に、かぼちゃがぶらり 我鬼子
今回は3泊4日で神戸に行って来ました。 帰ってから一週間が過ぎました。煮詰まった日常からしばらく離れられたように思いますが、この時期、新学期までまだ時間があるのに、なぜか毎年追われるような感覚で時が過ぎて行きます。 岡山まで足をのばして、人に会ってきました。路面電車で岡山城と後楽園に連れて行ってもらいました。播州からバスケットの相方を誘って自転車で九州まで行く途中で一度、岡山城によったような気がしますが、あまり印象には残っていません。(岡山城を見ながら自転車を留めた、そんな幽かな記憶が残っているような気もしますが。) 岡山駅↓ 岡山城↓ そのあと、少し先の倉敷にも立ち寄ったと思います。尾道、広島、防府でテントを張って寝たのは覚えています。広島は海水が河を遡って来てたせいか蚊に悩まされなかったものの、防府の佐波川の川原でテントを張ったときは、蚊取り線香を焚く前にぼこぼこに蚊にやられてしまいました。その時の痒さが肌に残っているような気もします。 その時は二人で行きましたが、大抵は一人、どっちかというと、奥の細道の「漂白の思ひやまず」、の心境で、わりと切羽詰まって出かけていたような気もします。 1年浪人をして留年を2年、そのあと1年してからしばらく高校の教員をしていましたが、その時、担任をしていた文芸部の人から原稿を頼まれて、次のように書いています。 旅が、身近かなものになった。下駄ばきに寝袋で出かけるようになった。駅のベンチに寝た。道端に寝た。草花が目に入ってくるようもなった。 山陰に出かけたときのことだった。前日、松江止まりの列車にのって、駅に降り立ったのが、夜の十一時すぎだった。駅のあたりをぶらぶらしながら、その日は、駅のベンチに寝た。翌朝、修学旅行にゆくらしい中学生の声におこされた。別にこれといったあてもなかったが、入ってきた鈍行列車に乗った。益田まで、十時間以上かかったろうか。秋だった。山陰独特の、どんよりした空だった。目の前の景色が、どこまでいっても、かわらなかった。しかし、退屈だとは思わなかった。時の流れが、わからなかった。 →「露とくとく」(兵庫県立東播磨高等学校文芸部「黄昏」) 岡山には、伊丹空港からのモノレール、蛍が池で阪急電車に乗り、十三で乗り換えて三ノ宮に出て、JRで新快速で姫路まで。そこから岡山まではかなり不便で、結局、久し振りに新幹線に乗りました。 東京では何年も前からICカード(SUICA)が当たり前になっていましたが、関西で使ったのは今回が初めてでした。随分と前から使えたはずですが、なぜかモードが切り替わらなかったみたいで、いつも乗車券を買って乗ってました。しかし、世界のシンカンセンは現金払い、カードが通用しませんでした、新発見?!やなあ。 昼でも人通りの絶えない元町商店街↓ でも最近は、「漂白の思ひやまず」とは少し違って、煮詰まった日常からしばらく離れるために、が実情に近いような気がします。時とともに旅への心持ちも変化するのかも知れません。 奥の細道、よく読んだのにねえ。 月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く。 後期の準備中、です。
このあと台風が来そうな気配です。 今朝、猫の朝ご飯がやっと終わった頃に、東京の世田谷から電話がありました。遣り取りです。 「NHKで加江田の豪雨の映像と、いつも行ってるこのはな市の手前の橋に流木が流れてる映像が流されてたけど、大丈夫なん?」 「そうなん、こっちはまだこれからみたいやけど。」 お昼頃、雨風がおさまったころに、確かめに行って来ました。橋(清武川河口)の辺りは濁った水が勢いよく流れてはいましたが、報道されたほどではなかったみたいです。その前に、普段砂浜を歩いている木崎浜に行って来ましたが、泥水が流れ込んで海は随分と濁っていて波もそれなりに高かったようですが、風の強い日にはこれくらいの波が、という程度でした。これから本格な大波が押し寄せて来るんでしょうか。 住んで居るところが距離にすれば海岸からはそう遠くないので、風向きに寄っては潮騒の大きな音が鈍く響くことがあります。雨風が強ければその音に消されてしまいますが。 今日の木崎浜↓ 普段の木崎浜↓ NHKニュースで放送されたらしき橋↓ まだ今のところ嵐の前の静けさでしょうか、このあと雨風がきつうなって吹き荒れるんやろか、なあ。 猫中心の日々、後期の準備、継続中です。 野分の浜に確かめに行った、秋になった 我鬼子
台風が宮崎を直撃、という新聞の見出しの割には、何年か前のように停電や断水もなくよかったです。 彼岸花があちこちに咲いています。朝、居間のシャッターを上げたら、目の前に彼岸花が咲いていました。 庭をつぶして畑にしてしまいましたが、北側の一角だけ花が植えられるように山土を入れて空間を確保しています。一番日当たりのいい所です。毎年、春先にはイリスが、そのあとしばらくすると、牡丹がきれいな花を見せてくれます。 来週から初めて俳人種田山頭火の世界という授業を持つので、そろそろ山頭火のモードの幾ばくかを取り戻さなくてはと、随分以前に読んだ其中日記などを引っ張り出して来たりしています。 自分を持て余してなかなか大変な毎日だったようですが、晩年は生まれた山口に戻り、古い空き家を借りて其中庵と名付けて暮らし始めました。最初はそれでも比較的穏やかな毎日だったようで、句もたくさん作っています。 昭和七年(1932年)九月のことで、21日の日記には其中庵最初の句と思しき句が載せられています。 九月廿一日 庵居第一日(昨日から今日へかけて)。 朝夕、山村の閑静満喫。 虫、虫、月、月、柿、柿、曼珠沙華、々々々々。 ・移ってきてお彼岸花の花ざかり 後期が始まるまであと一週間となりました。まだ一週間もあるのに、毎年なぜかいつも追われるような感じで時が過ぎていきます。 ここにも彼岸花かよ 我鬼子 *曼珠沙華は仏教で伝説上の天の花。サンスクリット語(梵語) の音写。純白で、見る者の悪業を払うといわれ、天人が雨のように降らすという、らしいです。日本では彼岸花(ヒガンバナ)と呼ばれ、写真のように鮮紅色の花を咲かせます。
昨日やっと柿を干しました。大粒の西条柿という渋柿です。↓ 干す前の柿です。↓ 今年は60個干せました。風で飛ばされた分を入れると80〜90くらいは成っていたようです。苗を植えて7年目に初めて一つだけ成ったのが2009(10?)年で、ブログで紹介しています。→「柿」 *************** 2009(10?)年 11月 26日 今年初めて一つ柿が実をつけました。桃栗三年柿八年と言うようですが、少し早くなったようです。 多分苗木を買ったとき、西条柿の札がついていたと思います。裏庭になっていた丸い柿を干したのが干し柿作りの最初です。二十数年前に明石に住んでいた時のこどです。そのうち八百屋の店先で西条柿を見つけて干すようになりました。苗木は、いつだったか、宮崎神宮の植木市で目にしたものだったようなあやしい記憶がありますが。 今年は二箱の柿を買って干しています。 ************** 過去のつれづれに3回柿について書いています。 2008年12月31日 渋柿を干し出してから二十年以上になります。長女が生まれてから少し経った頃、どさくさに紛れて奥さんのお父さんの家に転がり込んで明石海峡の近くで暮らし始めました。庭に渋の木があって、ある年からその柿を剥いて縁側に干し始めました。そう大きくない丸い柿だったけど、そのうち大きい長細い柿を八百屋の店先に見つけて庭先に吊し始めました。家は誰も住まなくなった時に震災にやられて、廃屋の姿を晒していたんで侘びしかったと弟が電話でしゃべってたような。更地にして人手に渡ったそうやから、あの柿の木も今はもうこの世に存在していないわけです。 二十一年前に宮崎に来てからも干し柿作りは続いていましたが、今年は箱で渋柿が出回る頃に柿を買う心の余裕もなくて、とうとう干し柿も作れませんでした。 渋柿を吊せなかった、今年が暮れる 我鬼子 2009(10?)年11月23日 今日は柿を干しました。たしか西条柿という名の大きな渋柿です。 去年初めて家で植えた木に一つ実がなりました。今年は三つなりました。五つ実をつけていたと思うのですが、最終的には三つだけしか残りませんでした。 お腹をこわしたとき、真っ白な麹と糯米で造った甘酒と干し柿と、胃の粘膜によさそうなつくね薯とおかゆを食べました。手間と時間がかかりますが、弱った胃にはやさしかったように思います。 剥いて陽に干すだけですが、何とも言えない色艶と甘みが出ます。 時間と気持ちがないとなかなか造れないのですが、今年は近所の八百屋さんで買い求めたものと合わせて一回目の準備が出来ました。 秋が終ってしまいそうです。 過ぎ行く秋の陽に、柿を干す 我鬼子 2010(11?)年11月23日 ちょうど一年ぶりです。 授業のページは毎回大体更新していますし、→小島けいの絵のBlog Forget Me Notもわりと更新しています。こっちの方は、なかなか書けないでいます。・・・・ 今年は柿が13個もなりましたが、干せたのは8つです。一つは色づいたなと思ってよく見たら熟し過ぎてしまっていてそのあと落ちてしまいました。慌てて何個かちぎりましたが、ずっと雨が続いて干せない間に3つが熟してしまいました。長雨の間に、順調に育っていたブロッコリーもリーフレタスも完璧に虫にやられて、無残な姿をさらしています。薬はよう使わないので、一匹ずつ殺すしか今のところ方策はありません。殺生をして虫のえさを横取りする存在です。 すべて、何やらあやうい毎日です。 句も出ず、霧島降ろしに柿を干す 我鬼子 *************************************************************** 奥さんのブログにも柿を使った本の表紙絵を紹介しています。 →「本紹介8 『馬車道の女』」 →「本紹介20 『一番美しく』」 →「本紹介48 『随所に主宰とならん』」 額入りの絵も紹介しています。 →「柿」 今「俳人種田山頭火の世界」で句を詠む題をみんなで考えていて、僕は柿を提案したので柿についてまとめてみました。 陽のちからはすごいなあ、といつも出来上がった干し柿の何とも言えない色と艶を見て感心し、食べてまた納得しています。 2週間後くらいが食べ頃のようです。
昼前から雨が降り出しました。11月も終わり、今年もあと僅か、何とか干し柿はできたものの、最後、二、三日余計に干したみたいで、少し固くなってしまいました。 虫にやられるので、実際に庭の畑は11月になってから。今は、やっとレタスと大根と絹莢豌豆が大きくなってきた、というところです。10月になって苗を植えたブロッコリーは半分がやられて、辛うじて3本だけが残っています。葱といっしょに、種から蒔いたレタスとブロッコリーが少しずつ大きくなっていて、もう少し大きくなったら植えかえられるように、畝の準備もしないと、と思ってはいますが。 陽が射すようにと金木犀の伸びた枝や葉を切っていると、大きくなってぶら下がっている瓢箪南瓜が何個か新たに見つかりました。畑のも入れると30くらいは出来たようで、お裾分けをしているところです。↓
新年になってしまいました。いや、新年になりました、と言うべきやろなあ。 一度切れてしまうと、すべてが意味を持たなくなって、それなら潔く自分自身も含めてすべてを否定すればいいものを、無意識には自分の存在を確かめたい、生きたいと思っているのかも。潔くなく、生き存えています。 それでも歳月は容赦なく、体は終活期に向けて着々と老化を続けています。生きるつもりはなくても生きてしまったので、歯に思いがいたらず、二十数年前に診てもらったデンタルクリニックに以降も定期的に検診をしてもらって何とか辛うじて残っている歯を最大限に使わせてもらったものの、最近の会話は、お互い終活に向けて、ですね、です。いつ使えなくなってもいい歯も、限界を過ぎれば抜く体力もなくなるそうで。その限界がもうすぐ、というわけです。 老化を少しでも軽減するには、聖人、仙人のような毎日が必要で、運動もその一つ。わかってはいても、日常に追われると優先順位が後回しになって。 散歩コースに高台の公園、木花神社、木花駅があります。時々木崎浜に自転車で行き、砂浜を歩くことも。今日も無人の木花神社から青島を見てきました。 木花神社↓ 遠くに青島を望む↓ 週に8コマの授業をやっていますが、今年度入って来た人たちとはたぶん50年の年齢差があるみたいです。 僕が1949年生まれで、「俳人種田山頭火の世界」の山頭火が明治15年に生まれで昭和15年に亡くなってますので(1882‐1940)、同時代を生きたわけではありませんが、アフロアメリカの歴史と音楽でも南アフリカ概論でも、同時代の話です。 事実上の奴隷解放宣言と言われる公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決が出たのは僕が5歳の時、ワシントン大行進のあった1963年は僕は中学2年生で、3年生で行く東京への修学旅行が翌年に東京オリンピックがあるからと2年生で行ったような記憶があります。公民権法が成立した年、ネルソンマンデラが終身刑を言い渡されてロベン島に送られた1964年は中学の3年生の時だったようです。もちろん、まったく知りませんでしたが。 30歳を過ぎてから修士号を取り、高校の教員をやめて大学を探し始め、38歳の時にやっと宮崎医科大学に辿り着いた30年余り前、アパルトヘイトが存在し、反アパルトヘイトのハリウッド映画「遠い夜明け」が、まだ都城や延岡でも上映されていました。 やがて宮崎でも衛星放送が見られるようになり、1990年にマンデラが投獄された時と同じ法律で無条件に釈放された1990年2月12日の前後の何ヶ月間かの英語放送はすべて録画しました。 実際には世界史の教科書に載っている出来事が起きていたわけです。まさか、その歴史を大学の授業で辿るとは思ってもみませんでしたが。 年末は27日まで授業があり、その後はぼーっと毎日が過ぎ、昨日は夕方から翌朝まで14時間ほど寝てました。 こんな調子であと1週間ほどが過ぎて、また授業が始まりまりそうです。
久しぶりに木崎浜に行って砂浜を歩いて来ました。寒くてよく晴れてたんで海の色も濃く、冬の海でした。この寒いのに数人がサーフィンをやっていました。水平線上に十数隻の船が浮かんでいました。あまり見かけない光景で、漁をやってる風でした。 木崎浜↓ 青島から曽山寺までの海辺に歩道・自転車が出来ているのを最近知りました。白浜にマッサージと温泉に通う時は旧道を通っていましたが、これからは海辺の道を通る機会が増えそうです。青島から子供の国を見ながら曽山寺浜から木崎浜に架けられた橋を渡りきった所を左折すれば総合運動公園に、右折すれば木崎浜に出るようになっています。 加江田川河口に架けられている曽山寺浜と木崎浜を結ぶ橋↓ 木崎浜から尾鈴山系を背景に望むシーガイア(遠くて分かり難いですが)↓
暦では昨日が春の初めの立春やったようで、一番寒い時期の大寒は過ぎてしまったようです。でも、毎日寒い日が続いています。 今日は白浜の方に出かけましたが、晴れて寒かったので海の色が濃くて、遠くの方まで見えました。 今年度の授業も何とか終わり、あとは成績、去年の今の時期に比べると三分の一以下の400人分ほど。その分気はちょっと楽ですが、しないと終わることはないので、しばらくこの状態が続きそうです。 それが終わってしばらく充電したら、また新学期、かな。
もう3月になりました。えらく風の強い一日でした。 あしたがこのホームページの最後で、あさってブログに切り替えることになりそうです。 このページの左端に (c) 2003- が見えますが、もう丸々15年です(cはcopyright)。よく出来たホームページで、書いたものを載せ、つれづれを書き、授業のページを書きました。 →英語科のもありましたから、なかなかの作業で、最初やり始めたとき、ま、取り敢えずやってみるかな、という程度の気持ちでしたが、わりとコンスタントに続いて来たと思います。人生といっしょで、思わぬ展開でした。右端にカウンターがありますが、最近は大体100〜200前後でした。最高はたぶん700くらいやったような気がします。 ブログはまだ見ていませんが、授業のページも作れるそうです。当分は書いたものも含めて、またせっせと新たにアップする日が続きそうです。絵のブログを拝借して載せたのを引き上げて移さないといけませんし。 成績、入試も何とか終わり、充電しながら、すでに新学期の準備をやっています。地域資源学部と工学部用のトーイックのファイルと、医学科用の医学用語のファイルの準備が今のところ中心、まあ2週間ほどはかかりそうです。 他にも音声ファイルや映像ファイルを新しく作ったり、それを元にパワーポイントと繋いだり、4月に入れば否応なしに授業が始まりますし、その時に大変な思いをするよりは、今少しでもやっとく方がええやろな、というところです。
雨の一日でした。 ブログの作業をやってもらっています。時間がかかります。 玄関先に植えた沈丁花が甘酸っぱい香りを漂わせています。この香りのために植えたんですが、玄関先のコンクリートの枠の中に植えたのと、北側でもあるので、ある一定以上は大きくなりません。 明石にいたときは、南側にわりと間隔をあけて植えられていたので、結構な大きさになっていました。ある時期になると、沈丁花の香りが充満していました。宮崎よりは二週間か三週間ほど時期が違っていたような感じが残っています。 そこまで考えないで植えたので、南側に植えかえようかと思っています。植え替えの時期は一番寒いころ、たぶん二月の初めか中頃ですので、一年先になりそうですが。 一雨毎の暖かさ、雨が降って、春になって行くようです。