つれづれに

2021年Zoomシンポジウム3

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」3:

ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース3

「ケニアの歴史3」にもう少し時間がかかりそうなので、「歩くコース3」を挟むことにした。写真も撮り、9月23日に書くつもりで下書きのまま残っていた。

公園から墓の横を通って坂を下り一つ目の角を左折し、木花中学校跡の横を通り、坂を下って県道に出るか、グランドを横切って北端の坂を下りて県道に出るか。そのあとは県道の西に向かう坂を越えて、木花中学校の横を通って戻る30分ほどの短いコースである。こちらに引っ越して来たときはよくこのコースを歩いたが、距離が短いので今は一時間ほどのコース1を歩くことが多い。越して来て20数年になるので、ここにあの樹があったのになあと思うこともある。歳も取るわけだ。

一つ目の角

一つ目の角を左折し、そのまま緩やかな坂道を進んで舗道をまた左折すると市営のグランドが見える。

木花中学校があったそうで、跡地を今は市営のスポーツ施設として使っているようである。少年野球と社会人野球のチームが練習している光景をよく見かけていたが、コロナ騒動で最近は練習風景を見かけない。木花神社の横に法満寺という寺があったようだから、法満寺が高台の南の端で、旧木花中学校が北の端、その間に民家があり、そこを散歩コースで歩いていることになる。何年か前から、跡地を利用して木花地区の青年団が夏祭りを催している。元々祭りと人が集まるのは苦手なので行ったことはないが、散歩の途中にポスターを見かけたり、当日の夜に大きな花火の音がするので耳に入って来る。

グランドの横を通って坂を下り県道に出る。越してきた頃は、表紙絵の材料に通草(あけび)を探し回っていたので、ここでも目に着いたんだろう。何年か、途中の繁みで通草を採って持ち帰ったが、蔓がはつられてから、実を見かけなくなった。

跡地横から県道に出る坂

グランドを横切って、北の端の坂道から県道に出るときもある。坂の手前の右手に梅の樹があり、時々枝を切って持って帰っていたが、もうだいぶ前から花を見かけなくなった。中学校の跡地だけあって、植わっていた樹がずいぶんと大きくなっている。一度坂道で、まゆみの樹を見つけた。きれいな淡い色の花がたくさん咲いていた。持って帰ったら珍しがられて、カレンダーの1月の絵になった。(タイトル下の絵)長崎のオムロプリントが売り込んでくれておかげで地元で採用され、花カレンダーになった。まゆみの花を見たのはその年限りで、風や他の樹にやられて、以降花を見かけていない。

北端の坂の入り口

まゆみ

次回は「歩くコース4」の木崎浜か、「ケニアの歴史3」か。木崎浜の写真が多いので、一回で紹介し切れないかも知れない。

2010年~の執筆物,つれづれに

シンポジウムのまとめ、1、2週間でと思って始めたが、今までケニアの歴史を中途半端のままにしてきたので、少し時間がかかりそうである。何とか今年中に仕上げて、2月のBlack Lives Matterの案内といっしょに送り届けられたらと思っている。

2021年Zoomシンポジウム2

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」2:

ケニアの歴史(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来

ケニアの歴史の2回目である。

1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。

エジプトのカイロ博物館

 エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

砂漠の民トワレグ人

 トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。

スワヒリ都市と帆船ダウ

マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。

ダウを操る船乗り

 モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。

「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」

船でキルワに向かうデヴィドスン

1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。

キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。

キルワ虐殺の版画

 次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。

つれづれに

アフリカ史再考③:ナイルの谷

本格的に寒くなって来た。昨日は風も強かったので、余計に寒く感じた。前回初大根の写真を載せたが、今回はブロッコリーである。もう何回か獲って食べて。根負けせず希釈した酢を撒き続けたおかげである。夕暮れ時に写真を撮ったので、全体に白っぽくなった。種から大きくしたブロッコリーも少しずつ大きくなっている。新たに撒いた種も芽を出しているので、植え替えれば冷たい時期に大きくなって、4月半ばまで食べられる。

今回はアフリカ史再考の3回目、エジプトの話である。

エジプト文明

三千年に渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響を強く受けている。

1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺を皮切りに西洋諸国の世界侵略が始まっているが、侵略者たちは侵略を正当化するために自分たちの都合の言いように歴史を書き、それを押し付けてきた。侵略まがいの行為は今も形態を変えて続いているので、白人優位、黒人蔑視の考え方も、想像以上に実際は世界に浸透している。したがって、古代世界でも類のないほど栄えたエジプト文明も、古代オリエントの枠組みの中では考えられても、アフリカとの関係は完全に無視されて来た。ファラオたちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈はない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈はない、西洋人はこれまでそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていた。その辺りの事情について、「アフリカシリース」の中で、エジプトの首都カイロにあるカイロ博物館の中を紹介して歩きながら、バズル・デヴィッドスンは次のように解説している。

「カイロ博物館の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです。」(「アフリカシリース第1回『最初の光 ナイルの谷』:NHK、1983年)

今から5000年前、エジプト文明は大文明の舞台になっていた。アフリカを知るにはこの時代、ファラオと呼ばれた王たちが支配した古代エジプトを抜きには到底理解することは出来ない。

ナイル川はアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖に源を発し、ヴィクトリア湖から地中海に注ぎ込むまで北に向かって延々と6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人間が住み始めたのは数万年前からで、涸(か)れることのないナイル川は毎年定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な泥を下流に運んで行った。そこでは、やがて農耕生活が始まった。

ファラオが支配したエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。ファラオたちはデルタ地帯の下エジプト、それより上流の上エジプト、その二つの領域に君臨していた。

今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中にはこうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族もまじっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

嘗ては大西洋からナイル川流域までサハラ全域には様々なアフリカ人が住んでいたと思われる。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は七千年から八千年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトスのようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

ヌビア人と古代クシュ王国

アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ三千年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前七世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです。」と話している。

タハルカ王の立像

ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスンはワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています。」とその感慨を述べている。

ベルベル人とペルシャ人

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間の砂漠の民トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

サハラ砂漠のトワレグ人

次回は「大陸に生きる」人たちである。

胡瓜はもう枯れてしまった。2期作をもくろんだが、あまり大きくならず、不成功に終わってしまった。鞘オクラも同様である。来年はもう2か月ほど早く種を蒔いて、もう一度やってみるつもりである。うまく行くやろか。