つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足③

絹鞘豌豆の花が咲いている。白い可憐な花だ。他の冬野菜といっしょで気温が下がると勢いも増す。何とか年末には今咲いてる花が実をつけてくれそうである。

歴史や政治を切り口にすると途中で止まってしまうことが多いので、堀切峠下海岸道路補足を一回挟もうと思ったが、写真が多くて3回になってしまった。海岸道路に行く途中に観光名所が多いということだろう。堀切峠下海岸道路補足の3回目で、青島屋の続きと、青島港、サンクマール近辺である。

そもそも歴史をどう見るかの話で、表面だけを見ているとわかった気になっても実体の何かを見落とす可能性が高い、意識下の深層に気づかないと・・・→文学しか頭になかった私が歴史や政治を考えるようになったのはアフリカ系アメリカの歴史を辿り始めたから・・・→その過程でアメリカのイメージが変化した(→「アメリカ?」(11月18日))→その深層を探るためには、私の小中高の頃やその当時の日本や世界の情勢を知る必要がある(→「戦後?①」(11月24日))という流れで、今「戦後②」を書いて自分の過去と向き合おうとしているのだが、その方向に行こうとしたのは、大きな歴史と、身近な問題を繋いで考えてみたかったからだ。

今回のコロナ騒動で、国民の多くがオリンピックの中止を考えてるのに多数の意見に反してオリンピックが強行されたことと戦争をしたくない多くの人たちの意見を無視して第二次世界大戦に突入した事態が似ていることや、忖度や嘘で塗り固められた自民党政治に辟易する人たちが多いのに、衆院選では自民党が大勝したことなどがきっかけだが、議会制民主主義の絡繰りなどについて一度書いておきたくなった。

今回の衆院選で、宮崎一区の自民党議員は選挙前に起こした交通事故で散散に叩かれた。無免許を秘書になすりつけて逃げ回ったために、事態を一層悪化させた、掲示板などでは元々横柄な人間だなどと容赦なく批判されていた。その結果、自民党の公認を県の自民党が認めず、普段なら楽勝のはずの小選挙区で落選したが、比例代表制で復活した。どうしてそうなるのか、(アメリカの)民主主義の絡繰り、その辺りから話を始めるつもりだった。

前回の最後に取り上げた青島参道の一等地の青島屋はそのとっかかりだった。小選挙区で落選し、比例代表で復活当選した自民党議員は、元宮崎交通の社員だったと経歴で公表している。つまりこの人は、宮崎一区の基幹産業である観光資本の代弁者で、少々法律を犯そうが、人格的に不遜だろうが、秘書のせいにする卑怯な人間であろうが、自分たちのために動いて成果を出しくれるならそれでもいい、ということらしい。

曽山寺浜、青島海岸で途切れていた防波堤が青島神社の参道を過ぎた所で復活して、青島港まで続く。防波堤の右手には植物園があり、改築されてきれいになっている。植物園の隣には、サーファー用の簡易宿舎とレストランなどの入った黒い建物がある。防波堤の突き当りが、青島港への道である。

肉も魚も苦手なので、一度港の直売所に来たことがあるが、魚が好きなら通っていたかも知れない。そこのレストランも魚料理ではタクシーの運転者など、通には評判がいいらしい。そう言えば、宮崎に来た直後に、家族4人で都井岬の馬を見に一泊で出かけたとき、宿で出た食事がすべて海産物、味噌汁にも魚の塊が入っていて、ご飯とたあくあんしか食べられるものがなかった。それが売りなのだから、行ってみないとわからないとは言え、行った方が悪い。

最初に堀切峠下海岸道路がサンクマール横の入り口から始まっていると紹介したが(→「堀切峠下海岸道路②」、11月1日)、「補足②」(12月2日) で紹介した水産試験所の横から始まっていることに今回初めて気がついた。何度も通っていたが、続いているとは思っていなかった。

今まで気づかなかった水産試験所横にあるサイクリングロードの掲示

防波堤はサンクマールの裏手まで続いていた

ホテル裏のこの洗濯岩の景色を見るために時たま出かけたことはあるし、人を案内したことも何度かあるが、この裏手の防波堤がそのまま堀切峠下海岸道路に繋がっているとは思わなかった。コロナ騒動の2年ほど前までは、ホテルの日帰り温泉によく通った。温度設定が下げられて、湯がぬるくなってしまってからは行っていない。浴場は2階にあって、日向灘の水平線がいい。湯舟からは眼鏡で見えないが、体を冷ましにベランダに出るときは眼鏡を使えるので、水平線を堪能した。ホテルが途切れる辺りの防波堤からは、座礁した船の残骸が見える。ただ、ホテル裏の防波堤の道は、海岸道路に入る手前で狭くなっているので、車では通れそうにない。元々海岸道路そのものが、車のために作られたものでないのが実際に行ってみるとよくわかる。

車はホテル横のこの入り口からしか入れないようである。

海岸道路の続編は、風が穏やかになって南風茶屋に出かけられるようになる春先に、また。

次回は11月27日(土)にやったZoomシンポジウムになりそうである。シンポジウムが終わってからまとめを書き始めたが、ケニアについてはそう深くやる時間が取れずに中途半端なままにしてきたので、時間がかりそうである。書けた分を何回かに分けてブログに載せ、早くまとめて参加してくれた人に届けたいと思っている。

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足②

堀切峠下海岸道路の補足の後半、青島、青島港、ホテルサンクマール近辺で、撮って来た写真の数が多いので、少し長くなりそうである。写真を撮ったのが金曜日で人はそう多くなかったが、第2派の時だったか第3派の時だったか、サーファーが海に入ることを禁じられ、他県からの訪問自粛が出された時に比べれば、だいぶ観光客も戻って来ているようだ。AOSIMA SUIKOENのそばから歩行者自転車道路に入り、曽山寺浜の上を通る橋を下ってしばらく行くと、左手に曽山寺浜に続く青島の砂浜、右手に子供の国が見える。ホテルにも客が戻って来たのか、砂浜ではファーフィンの実演指導を受けるボディースーツの高校生の集団(↑)、子供の国の川では一人用のボートに乗る高校生の集団(↓)が見えた。普段にない光景だった。

海水浴シーズンに間に合わせてきれいに掃除された砂浜に、シーズンが終わったあとの台風や暴風で流木やごみ(↓)が毎年流れ着く。もちろん曽山寺浜でも木崎浜でも状況は同じで、夏の海水浴シーズンの前にはブルドーザーできれいにされる。護岸工事は国土交通省の管轄のようだが、流木除去の作業は県の土木課が担当らしい。実際に作業をしているのは、請け負った土建業者だが、費用は県民税からだろう。

なぜか春と秋の自治会の一斉清掃の時には、二年に一度木崎浜の掃除の割り当てがある。各班4人の割り当てだが、4人を確保するのが年々難しくなっている。役員が回って来た時、すること自体を減らそうとして、そんな遠い木崎浜の掃除はやめませんか、本来はサーファーがするべきことで、元々お節介なんやし、減らせる一つやと思うんですけどね、と提案したが、ま、いいやないですか、という人がいて、実際は提案がやんわり「却下」された。することになっていること自体を見直そうと言う意見に基本的には大体が賛成している役員会でも、である。何やら協議会と何とか連合会からの要請を遠い昔に引き受けて、そのままになっているらしい。会長になって張り切る人がいると、することが増えて、増えたまま引き継がれる。会長をやりたくて仕方がない人、むやみに張り切る人が一番、たちが悪い。一度実施された行事は、おいそれとは廃止されない。自治会構成員が高齢化して、会長や役員のなり手が少なくなっているというのに、いざ何かを廃止しようと提案しても、実際には廃止されない場合が多い。できれば自治会と関わりたくないが、災害時だけ出て行くのも気が引ける、その思いだけで退会出来ないままである。日向灘沖大地震が起きないとは言えないし。

青島神社に行く橋の見える辺りの砂浜には今の所、流木やごみは見当たらない

と思ったが、青島神社に行く橋の手前に流木が見えた

青島神社の参道の入り口の角の一番大きな土産店は青島屋と言うらしい。工事が始まり、掲示で宮崎交通の管轄だと知ったとき、一番いい場所にこんな大きな新しい建物が出来たら他の店、やっていけんねんやろか、と思ったが、青島屋は元からあって、改装されただけですよと聞いた。看板がAOSHIMAYAになっている。歩行者自転車道路を通り始める前は、白浜に行く途中で、毎回この店の前を通り過ぎていたのに、何を見てたんやろ。

長くなったので、青島屋の続きと、青島港、サンクマール近辺は、次回の③に。

ブロッコリーが実をつけ始めた。年末には食べられそうである。ある時期まで希釈した酢を撒いても蒔いても虫の勢いに勝てなくて、葉っぱはこの惨状である(↑)。それでも、実をつけている。たぶん7度か8度くらいに下がった辺りから、虫を見かけなくなり、酢も撒かなくてよくなった。蚊取り線香も要らなくなった。10月までは冬野菜を蒔いても、大きくしようとしてもうまくいかないのに、11月に入ると俄然勢いがつく。10月までに葱やレタスの種を蒔いても、芽は出ても勢いがない。消えてしまう場合も多い。しかし、今はすごい勢いである。夏野菜のオクラと胡瓜の二期作を試みてみたが、芽は出て実はなるものの勢いがない(↓)。もうすぐ霜が降り出すと、枯れてしまう。自然に逆らって抗ってみても、所詮ホモサピエンスの浅知恵の域を出ないようである。

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足①

冬到来、12月である。2021年も今月限り、気温もだいぶ下がって来た。柿の落ち葉を拾う日々も、やっと終わりである。

康太郎くん:「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」12月

堀切峠下海岸道路の補足①である。「戦後?」も自分の過去と向き合う、わりと重たい作業なので、少し時間もかかるし、書き出しても止まってしまう時がある。元々気持ちにも波があり、躁の時は無意識に体が動いてあれやこれやが途中で止められない性格のようなので、おそらく自己防衛本能が働いて危険を知らせてくれるようだ。落ち込むと、突然すべてが停止してしまう

また南風茶屋に行って、帰りに自転車を堀切峠の道の駅まで担ぎ上げ、峠の一番高いところから海を眺めて、坂を下って戻るつもりだったが、結局は行けずじまいである。その前に、少し補足をと考えて、写真を撮って来た。かなり気温も下がって来たし、海岸線は北風や西風が強くなる。海岸道路経由の2回目南風茶屋行きは春になりそうな気がする。撮って来た写真が予想以上に多く、補足①では終わりそうにないので、今回は青島遊歩道と総合運動公園、次回は青島、青島港、ホテルサンクマール近辺と2回にわけて書くことになりそうである。

上の写真が青島方面へ行く左手の旧道と、トンネルを抜けて内海方面に行くバイパスの別れ道である。元々旧道しかなかったが、車が増えて、山にトンネルを掘って、堀切峠を越えて内海まで行けるバイパスが造られたようである。山の中なので、猿が行き交う姿を車の中から時々見かける。トンネルを抜けた先の道路脇に南風茶屋がある。廃業したレストランデモンドマルシェにも車に乗せてもらって何度も通っている。帰り道に堀切峠の一番高い場所から海を眺めて帰ることが多い。カリフォルニア州立大学アーバイン校の小児科医のペニー・ムラタさんを空港まで迎えに行ってデモンドマルシェにお連れした後も、その場所から日向灘を見てもらうつもりだったが、生憎土砂降りの雨で案内出来なかった。今も心残りである。

その分かれ道の手前の道路沿いに、総合運動公園があり、総合公園出口と交差する県道を渡った突き当りにJRの運動公園駅がある。一時間に一本あればいい程度の運行状況だが、プロ野球やサッカーのキャンプ時や、高校総体がある時などは利用者も増えるようである。今は崖崩れのために、宮崎と青島間の折り返し運転である。そのうち運転が再開すれば、春を待たずに、木花駅から前回紹介をした内海駅まで列車で行くことになるかも知れない。

JRの運動公園駅

分かれ道の所から高架の下に続く坂を下り、県道を横断してしばらく行くとホテル水光苑がある。しばらく前に改装をして黒塗りの建物になり、AOSIMA SUIKOENの表示になった。ホテル横の道を左折して、少し行けば、総合運動公園から青島までの歩行者自転車用の専用道路に入れる個所がある。そこから青島→折生迫→白浜を通り、ホテルサンクマールの横から堀切峠下海岸道路に入る。→「堀切峠下海岸道路①」(10月31日)、「②」(11月1日)、「③」(11月6日)「④」(11月7日)

AOSIMA SUIKOEN

歩行者自転車道路入口

歩行者自転車道路を右に折れて青島方面へ

歩行者自転車道路を右折すれば運動公園方面に

大淀川は宮崎駅と南宮崎の間を流れている。30数年前に宮崎に来た時には、家で大学の人と会わないように大淀川よりも北、駅で言えば宮崎駅の次の宮崎神宮駅の少し北側に一軒家を借りていた。大学までは遠かったが、毎日というわけではないし、大抵は自転車で往復した。途中宮交シティや橘通りやデパートで買い物をすることもあった。当時は今のTUTAYAが入っている場所に、寿屋があり、山形屋とボンベルタがあった。当初、VISAカードが使えるところがほとんどなかった。大学までは20キロ足らずで、普通に漕げば一時間ほど、一度思い切り漕いだら45分で大学に着いた。小土橋が改装される前、県立看護大学が出来る前の話である。

借家からは少し北、今のシーガイヤの近くにある市民の森に家族四人で自転車でよく出かけた。少し足を延ばして、一ッ葉海岸にも行った。今は砂が流れてしまったが、日向灘が一望できるきれいな海岸線だった。1989年に南アフリカのミリアムさんを宮崎に招いた時は、当時医科大2年生だった次郎さんと小島さんの車に乗せてもらって、一ッ葉海岸と自然動物園に案内した。今のシーガイヤの近くにあったサンホテル(たぶん、シーサイドホテルだったかも知れない。どちらも、宮崎観光ホテルと同じくらいのホテルだったという印象が残っている)に泊ってもらった。→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」1990年15号2-8頁)

そこから南に宮崎港→赤江浜(空港辺り)→木崎浜→曽山寺浜→青島→白浜と続くが、常時船が行き交うた瀬戸内海の汚れた海になれていたこともあって、水平線の広がるきれいな海は圧巻である。堀切峠から見下ろす海岸線は何度見てもいい。当然、観光名所も出来る。青島、堀切峠は県外から来る人を案内したくなる名所だ。住んでいる学園木花台から堀切峠下海岸道路に行くまでに、その辺りを通るわけである。ついでに、総合運動公園で写真を撮って来た。

ミリアムさん、一ッ葉海岸を背景に

ワシントニアパームの道路の突き当りが運動公園

プロ野球やサッカーのキャンプの受け入れや、青島マラソンなどのために、県がだいぶ予算を投じて整備したようである。子供が高校の時には、市内4高の対抗戦があると言っていたような気もする。オリンピックのサーフィンが採用されると決まったあと、木崎浜で世界大会が開催された。その時には、駐車場が使われていたようである。次回は「戦後?②」か。

つれづれに

つれづれに:戦後?①

西風が出て、急に寒くなった。干した6個の渋柿に色艶が出て来たので、そろそろ一番喜んでくれる人に送るつもりだ。柿の落ち葉を拾う毎日が続いていたが、この西風で葉がすっかり落ちそうである。一昨日初めて猫のためにエアコンを入れた。三匹でかたまって動かなかったが、ばらばらになってうろうろし始めた。今年は早めに入れてやれてよかった。もうすぐ12月である。

ぴのこと蔦:「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」11月

文學しか頭になかった私がアフリカ系アメリカの歴史を辿るようになって、それまで持っていたアメリカのイメージが大きく変化した。人生を諦めほぼ思考が停止して社会に無反応だったのに、意識下では学校や世間の常識などに大きく影響されていたのだと思うようになった。その変化を知るには、生まれた頃や小中高時代の自分のまわりや日本や世界の情勢と、何よりその中での自分自身の分析が必要そうなので、今回は戦後?である。

ラングストン・ヒューズ(1902-1967)

私は第二次世界大戦直後の1949年に生まれた。昭和22年から24年に生まれた団塊の世代の一人である。大学紛争で東大生が全員留年した学年だが、大学紛争があったことも知らなかった。姉は22年生まれで、すでにこの世にいない。亡くなったと弟から電話があった日、生憎台風で飛行機が飛ばなかった。通夜にも葬儀にも行けず、結局、最後のお別れを言えずじまいである。

父親は戦争でマレーシアに行っていたらしい。「静かにせんかい。ぶち殺すど。」とおぞましい播州弁で喚き散らすすててこ姿の父親の姿が音声付きで記憶に残っている。ものごころがついてから、話をした記憶はない。こうして書くことになるなら、戦争体験を詳しく聞いておけばよかったが、とにかく怖かった。喚き散らしている時に、自分がマレーシアの密林の中で戦車に乗って殺し合いをしていたというような声が聞こえてきたような気もする。死ぬかも知れない恐怖の中で敵と殺し合いをしていたのなら、戦場から戻ってもすぐにまともな生活が出来るわけもなかったのか。意識は一部まだ密林の中だったのかも知れない。復員して2年目に女の子が、その2年後に男の子、それからまた2年後に男の子が生まれている。「その2年後」の男の子が昭和24年生まれの私である。「それからまた2年後に」生まれた男の子は亡くなったらしく、全く覚えていない。「新聞を読みながら父親が傍にいたのに気づかず、戻したお乳を鼻に詰まらせて死なせてしまった」と一度だけ母親から聞いたことがある。父親は7人兄弟の末っ子で、そのうちの4人の家族が穢くて狭い、じめじめした密集地帯に住んでいた。一番上の人の家は小さな中庭のある二階建てだったが、他は6畳と4畳半の二間に、庭もない粗末な家だった。家の屋根は油紙を敷いただけだったので、消防署から改善命令が出て、トタン屋根になったそうである。裏に小さな川が流れていたが、生活排水が流れ込み、容赦なく物が投げ込まれるので、常に悪臭が漂っていた。幼稚園の頃だったと思うが、赤痢が流行って保健所が来て至る所にDDTという白い粉を撒いて行った。道の白さが印象に残っている。私は疫痢にしか罹らなかったようが、姉は二度赤痢に罹って死にかけたらしい。

母親は兄(私には叔父)と二人兄妹だった。母親の母親つまり私の祖母は二人が幼い頃に死んだ。祖父は再婚して、結婚した相手に二人を預け、出稼ぎに出てほとんど家には帰らなかったようだ。二人は継母に育てられたわけが、その継母とは折り合いが悪く、二人とも相当辛い思いをしたらしい。叔父の方は逃げるように満州に渡ったと聞くが、私の母親は結婚するまで継母に虐められ続けたようである。祖父は大理石の職人で、「名古屋駅の大理石を作った」と言っていたと母親が自慢げに話しているのを聞いたことがある。出稼ぎ先は岐阜県の大垣市で、そこで内縁の妻と男の子と3人で暮らしていたと言う。私は祖父には一度しか会った記憶がない。ある年の年末に戻って来て、当時住んでいた二間の元市営住宅で、火鉢を抱えたまま倒れて死んだ。死因は脳溢血、56歳だった。ちょび髭を生やした遺影写真を見て、わりといい顔してるやん、と思った記憶が幽かに残っている。

その二人が結婚した。「親同士が決めたので、結婚するまで会ったことがなかった」そうである。(戦後?②に続く)