つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足①

冬到来、12月である。2021年も今月限り、気温もだいぶ下がって来た。柿の落ち葉を拾う日々も、やっと終わりである。

康太郎くん:「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」12月

堀切峠下海岸道路の補足①である。「戦後?」も自分の過去と向き合う、わりと重たい作業なので、少し時間もかかるし、書き出しても止まってしまう時がある。元々気持ちにも波があり、躁の時は無意識に体が動いてあれやこれやが途中で止められない性格のようなので、おそらく自己防衛本能が働いて危険を知らせてくれるようだ。落ち込むと、突然すべてが停止してしまう

また南風茶屋に行って、帰りに自転車を堀切峠の道の駅まで担ぎ上げ、峠の一番高いところから海を眺めて、坂を下って戻るつもりだったが、結局は行けずじまいである。その前に、少し補足をと考えて、写真を撮って来た。かなり気温も下がって来たし、海岸線は北風や西風が強くなる。海岸道路経由の2回目南風茶屋行きは春になりそうな気がする。撮って来た写真が予想以上に多く、補足①では終わりそうにないので、今回は青島遊歩道と総合運動公園、次回は青島、青島港、ホテルサンクマール近辺と2回にわけて書くことになりそうである。

上の写真が青島方面へ行く左手の旧道と、トンネルを抜けて内海方面に行くバイパスの別れ道である。元々旧道しかなかったが、車が増えて、山にトンネルを掘って、堀切峠を越えて内海まで行けるバイパスが造られたようである。山の中なので、猿が行き交う姿を車の中から時々見かける。トンネルを抜けた先の道路脇に南風茶屋がある。廃業したレストランデモンドマルシェにも車に乗せてもらって何度も通っている。帰り道に堀切峠の一番高い場所から海を眺めて帰ることが多い。カリフォルニア州立大学アーバイン校の小児科医のペニー・ムラタさんを空港まで迎えに行ってデモンドマルシェにお連れした後も、その場所から日向灘を見てもらうつもりだったが、生憎土砂降りの雨で案内出来なかった。今も心残りである。

その分かれ道の手前の道路沿いに、総合運動公園があり、総合公園出口と交差する県道を渡った突き当りにJRの運動公園駅がある。一時間に一本あればいい程度の運行状況だが、プロ野球やサッカーのキャンプ時や、高校総体がある時などは利用者も増えるようである。今は崖崩れのために、宮崎と青島間の折り返し運転である。そのうち運転が再開すれば、春を待たずに、木花駅から前回紹介をした内海駅まで列車で行くことになるかも知れない。

JRの運動公園駅

分かれ道の所から高架の下に続く坂を下り、県道を横断してしばらく行くとホテル水光苑がある。しばらく前に改装をして黒塗りの建物になり、AOSIMA SUIKOENの表示になった。ホテル横の道を左折して、少し行けば、総合運動公園から青島までの歩行者自転車用の専用道路に入れる個所がある。そこから青島→折生迫→白浜を通り、ホテルサンクマールの横から堀切峠下海岸道路に入る。→「堀切峠下海岸道路①」(10月31日)、「②」(11月1日)、「③」(11月6日)「④」(11月7日)

AOSIMA SUIKOEN

歩行者自転車道路入口

歩行者自転車道路を右に折れて青島方面へ

歩行者自転車道路を右折すれば運動公園方面に

大淀川は宮崎駅と南宮崎の間を流れている。30数年前に宮崎に来た時には、家で大学の人と会わないように大淀川よりも北、駅で言えば宮崎駅の次の宮崎神宮駅の少し北側に一軒家を借りていた。大学までは遠かったが、毎日というわけではないし、大抵は自転車で往復した。途中宮交シティや橘通りやデパートで買い物をすることもあった。当時は今のTUTAYAが入っている場所に、寿屋があり、山形屋とボンベルタがあった。当初、VISAカードが使えるところがほとんどなかった。大学までは20キロ足らずで、普通に漕げば一時間ほど、一度思い切り漕いだら45分で大学に着いた。小土橋が改装される前、県立看護大学が出来る前の話である。

借家からは少し北、今のシーガイヤの近くにある市民の森に家族四人で自転車でよく出かけた。少し足を延ばして、一ッ葉海岸にも行った。今は砂が流れてしまったが、日向灘が一望できるきれいな海岸線だった。1989年に南アフリカのミリアムさんを宮崎に招いた時は、当時医科大2年生だった次郎さんと小島さんの車に乗せてもらって、一ッ葉海岸と自然動物園に案内した。今のシーガイヤの近くにあったサンホテル(たぶん、シーサイドホテルだったかも知れない。どちらも、宮崎観光ホテルと同じくらいのホテルだったという印象が残っている)に泊ってもらった。→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」1990年15号2-8頁)

そこから南に宮崎港→赤江浜(空港辺り)→木崎浜→曽山寺浜→青島→白浜と続くが、常時船が行き交うた瀬戸内海の汚れた海になれていたこともあって、水平線の広がるきれいな海は圧巻である。堀切峠から見下ろす海岸線は何度見てもいい。当然、観光名所も出来る。青島、堀切峠は県外から来る人を案内したくなる名所だ。住んでいる学園木花台から堀切峠下海岸道路に行くまでに、その辺りを通るわけである。ついでに、総合運動公園で写真を撮って来た。

ミリアムさん、一ッ葉海岸を背景に

ワシントニアパームの道路の突き当りが運動公園

プロ野球やサッカーのキャンプの受け入れや、青島マラソンなどのために、県がだいぶ予算を投じて整備したようである。子供が高校の時には、市内4高の対抗戦があると言っていたような気もする。オリンピックのサーフィンが採用されると決まったあと、木崎浜で世界大会が開催された。その時には、駐車場が使われていたようである。次回は「戦後?②」か。

つれづれに

つれづれに:戦後?①

西風が出て、急に寒くなった。干した6個の渋柿に色艶が出て来たので、そろそろ一番喜んでくれる人に送るつもりだ。柿の落ち葉を拾う毎日が続いていたが、この西風で葉がすっかり落ちそうである。一昨日初めて猫のためにエアコンを入れた。三匹でかたまって動かなかったが、ばらばらになってうろうろし始めた。今年は早めに入れてやれてよかった。もうすぐ12月である。

ぴのこと蔦:「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」11月

文學しか頭になかった私がアフリカ系アメリカの歴史を辿るようになって、それまで持っていたアメリカのイメージが大きく変化した。人生を諦めほぼ思考が停止して社会に無反応だったのに、意識下では学校や世間の常識などに大きく影響されていたのだと思うようになった。その変化を知るには、生まれた頃や小中高時代の自分のまわりや日本や世界の情勢と、何よりその中での自分自身の分析が必要そうなので、今回は戦後?である。

ラングストン・ヒューズ(1902-1967)

私は第二次世界大戦直後の1949年に生まれた。昭和22年から24年に生まれた団塊の世代の一人である。大学紛争で東大生が全員留年した学年だが、大学紛争があったことも知らなかった。姉は22年生まれで、すでにこの世にいない。亡くなったと弟から電話があった日、生憎台風で飛行機が飛ばなかった。通夜にも葬儀にも行けず、結局、最後のお別れを言えずじまいである。

父親は戦争でマレーシアに行っていたらしい。「静かにせんかい。ぶち殺すど。」とおぞましい播州弁で喚き散らすすててこ姿の父親の姿が音声付きで記憶に残っている。ものごころがついてから、話をした記憶はない。こうして書くことになるなら、戦争体験を詳しく聞いておけばよかったが、とにかく怖かった。喚き散らしている時に、自分がマレーシアの密林の中で戦車に乗って殺し合いをしていたというような声が聞こえてきたような気もする。死ぬかも知れない恐怖の中で敵と殺し合いをしていたのなら、戦場から戻ってもすぐにまともな生活が出来るわけもなかったのか。意識は一部まだ密林の中だったのかも知れない。復員して2年目に女の子が、その2年後に男の子、それからまた2年後に男の子が生まれている。「その2年後」の男の子が昭和24年生まれの私である。「それからまた2年後に」生まれた男の子は亡くなったらしく、全く覚えていない。「新聞を読みながら父親が傍にいたのに気づかず、戻したお乳を鼻に詰まらせて死なせてしまった」と一度だけ母親から聞いたことがある。父親は7人兄弟の末っ子で、そのうちの4人の家族が穢くて狭い、じめじめした密集地帯に住んでいた。一番上の人の家は小さな中庭のある二階建てだったが、他は6畳と4畳半の二間に、庭もない粗末な家だった。家の屋根は油紙を敷いただけだったので、消防署から改善命令が出て、トタン屋根になったそうである。裏に小さな川が流れていたが、生活排水が流れ込み、容赦なく物が投げ込まれるので、常に悪臭が漂っていた。幼稚園の頃だったと思うが、赤痢が流行って保健所が来て至る所にDDTという白い粉を撒いて行った。道の白さが印象に残っている。私は疫痢にしか罹らなかったようが、姉は二度赤痢に罹って死にかけたらしい。

母親は兄(私には叔父)と二人兄妹だった。母親の母親つまり私の祖母は二人が幼い頃に死んだ。祖父は再婚して、結婚した相手に二人を預け、出稼ぎに出てほとんど家には帰らなかったようだ。二人は継母に育てられたわけが、その継母とは折り合いが悪く、二人とも相当辛い思いをしたらしい。叔父の方は逃げるように満州に渡ったと聞くが、私の母親は結婚するまで継母に虐められ続けたようである。祖父は大理石の職人で、「名古屋駅の大理石を作った」と言っていたと母親が自慢げに話しているのを聞いたことがある。出稼ぎ先は岐阜県の大垣市で、そこで内縁の妻と男の子と3人で暮らしていたと言う。私は祖父には一度しか会った記憶がない。ある年の年末に戻って来て、当時住んでいた二間の元市営住宅で、火鉢を抱えたまま倒れて死んだ。死因は脳溢血、56歳だった。ちょび髭を生やした遺影写真を見て、わりといい顔してるやん、と思った記憶が幽かに残っている。

その二人が結婚した。「親同士が決めたので、結婚するまで会ったことがなかった」そうである。(戦後?②に続く)

つれづれに

つれづれに:アメリカ?

エイブラハム・リンカーン

前回の最後に「文學のことしか頭になかった私が、どうして歴史や政治について考えるようになったのか?次回はアメリカ?」と書いたように、今回は「アメリカ?」である。

アメリカのイメージは自由平等、民主主義だろう。と、思っていたが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもの、正確には学校や世間の常識などから無意識に自分が勝手に想い描いていたものだったように思う。そのイメージは、変化した。

行ける大学がなくて選んだ先が英米学科で、大学の職を探すために行った大学院で修士論文をアフリカ系アメリカ人作家で書いた。歴史を辿り始めたのは小説を理解したかったからである。→「リチャード・ライトの世界」続モンド通信6、2019年5月20日)、→「修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

神戸市東灘区にあった神戸市外国語大学旧校舎(大学ホームページより)

修士課程を終えた次の年から大学の非常勤で英語の授業を持つことになり、テキストにラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」("The Glory of Negro History")を使った。→「『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

ラングストン・ヒューズ「黒人史の栄光」(南雲堂)

その後大学院を担当して受け入れる側の仕組みと立場もわかる今なら、方法もあったと思うが、事前の相談もせずに博士課程を受けてどこも受け入れてもらえなかった。現実的に見て、修士課程を終えただけで教歴なし、業績も僅かでは非常勤も難しかったと思う。世話になっていた先輩が大阪工大の夜間の非常勤を3コマ用意してくれていた。有難かった。→「大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

一旦教歴が出来ると、次々と依頼があった。文部省は大学に英語を必修科目と指定していたから大学でもコマ数を確保する必要があった。学生数の多いところはとても専任でまかなえるコマ数ではなく、安く上げるために非常勤に頼る場合が多かった。従って、資格さえあれば問題はなく、絶えず需要はあった。非常勤に限らず、不祥事を起こすなどの法的な問題さえなければ、授業はすべて教員任せだった。その傾向は、今もそう変わっていない。

専任の話もあった姫路賢明女子短期大、大阪経済法科大の他にも、住んでいた明石から行くのに2時間ほどかかる桃山学院大、家の近くの神戸学院大から依頼のあった分も引き受けた。さすがに京都女子大の話は断ったが、5年目には週に16コマになっていた。すべて一般教養の英語で、それが何よりだった。

元々英語の教科書を使って購読や文法や英作文をする学校の英語は嫌で堪らなかったし、受験のためにとも割り切れず出来なかった。それに英語に対して、戦争に負けてアメリカに押し付けられたという意識があったせいか、喋れればいいという英語にも馴染めなかった。

最初の授業の対象が大阪工大というのも私にはよかったと思う。昼間の学生は英語が出来れば府大(大阪府立大)か市大(いちだい、大阪市立大)に行ってたのにという学生も多く、英語が苦手という割合が高かった。僕は英語が苦手です、と言って授業を始めることが多いのだが、それを聞いてほっとする人もいるようだった。

自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けるので、英語をするのではなく、出来るだけ英語を使って何かをする、新聞や雑誌、映画やドキュメンタリーなど実際に英語を使って作られている視覚、聴覚に訴えかけるものを使う、出来れば中高で意図的に避けて来たような題材がいい、それもあってアフリカ系アメリカの歴史を選んだ。幸い、ヒューズは詩人で語り口も優しく、様々な歌や詩などを含めアフリカ系の同胞をたくさん紹介しているだけでなく、自ら朗読し、生きている人には演奏や録音を依頼してレコード化して残している。大詩人の生の声を聞きながらの、まさに生きた題材である。まだビデオの機材が充分ではない時代だったが、ビデオテープやカセットテープを編集するのに時間をかけた。

英語の授業は、自分の好みにあった文学や時事問題などの人が作ったテキストを使い、最後に一時間ほどで採点できる筆記試験をやっている教員が多かった。私たちが学生の時とほぼ変わらない。だから、映像をたくさん使う授業は学生には珍しがられた。工学部の学生も、目を輝かせて映像を見て、音楽を聴いてくれた。筆記試験はしなかった。理解して覚えるという受験勉強しかして来なかった人は少し戸惑っていたようだが、授業に関連する課題図書を読んで、仮説を立てて論証する課題文を書いてもらった。書くことが苦手で、感想文しか書けない人もいたが。

非常勤をやったのは5年間だったが、すべての授業でヒューズの「黒人史の栄光」を使い、関連する映像を集め、歴史や音楽などの資料を集めて資料化して授業で使った。英語で歴史をしゃべるのも新しい体験でおもしろかった。その過程で、自由平等、民主主義しか思い浮かばなかったアメリカのイメージが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもので、自分が勝手に想い描いていたものだったと確信した。今科学研究費のテーマにアングロ・サクソンンの侵略の系譜を選んでいるが、この延長である。

どうして無意識にその意識が作りだされたのか、それを知るには、先ずは生まれた頃や中高の頃の自己分析をしてみる必要がありそうである。次回は戦後?

植え替えた絹鞘が少し大きくなり始めた、年末には摘めそうである

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路?

「ようやく柿を剥いて干すことが出来た。6個だけである。それも色付いて来たので取り込んだものの、雨の日が多くて干せなかった。少し柔らかくなっている。落ちなければいいがと思いながら剥いた。幸い、何とかこのまま落ちないで干し柿になってくれるようである。火曜日からは晴れの日が続くから大丈夫やろ、と思っていたら、昨日の夕方に少しだけだが降り出して、結局一晩家の中に取り込んだ。干す頃合いも難しい。柿は元々寒い地方の樹のようだから、色付くすぐ手前まで昼間が三十度を超すこの地域でそれなりの干し柿を作るのは無理がある。色付く時期と切り干し大根を作る頃に吹く霧島降ろしの時期が重なれば一番だが、そう思うのはホモサピエンスの思いあがりである。それでも2週間もすれば、色艶が出て食べ頃になるだろう。一番喜んでくれる人の所に送るつもりだ。」

ここまで書いたのが先週の水曜日だ。それから書けずじまい。政治の話を書こうとしたからである。それでも何とか続けて書いた。

「政治の話題はすんなりとは行かないので、『つれづれに』くらいの気持ちで書かないと書けずじまいになってしまう。『形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ』(→「歴史をどう見るか」、9月11日)、そんな思いで、目に見える大きな枠組みの下に潜む意識下の世界を身近なことと結びつけて書いてみようと思う。

堀切峠下海岸道路について書いているとき、ちょうど衆議院の総選挙が実施され、相も変わらず自民党が勝った。忖度政治やオリンピック強行などにうんざりしているのに、である。宮崎では不祥事を起こした自民党の議員が小選挙区で落ちて、比例で復活した。騒がれた議員を通して見える姿とその結果を生み出す構造的な問題に乖離があるのははっきりしている。今回は身近な観光地や飲食業界と絡めて、議会制民主主義の絡繰りについて書いてみたい。」

またここで止まってしまった。話がまとまるまでに時間がかかりそうなので、堀切峠下海岸道路の補足を挟もうと考えた。再び南風茶屋に行って、今度は帰りに海岸道路から道の駅まで自転車を担いであがり、そこから坂を登って堀切峠の一番高い場所から海を眺めて帰ってくる、それを書こうと思ったのである。しかし、この前の帰ってからの二日間の惨状を思い出して、結局行かなかった。それなら、白浜に行く途中に青島近辺の写真を撮って、不祥事を起こして宮崎一区の小選挙区では落選したのに、比例で復活当選した自民党議員の話と観光業界とを繋いで書いてみるかと思ってシャッターを構えてみたが、生憎バッテリー切れで写真が撮れなかった。それでまた、変更である。

小島けい画1990年頃、青島海岸を歩く長男

文學のことしか頭になかった私が、どうして歴史や政治について考えるようになったのか?

次回はアメリカ?