続モンド通信・モンド通信

続モンド通信36(2021/11/20)

私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑮:月は友だち?(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代(玉田吉行)

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1 私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ

 雪之丞くんと飼い主さんにお会いしたのは、2019年の個展でのことでした。

お父さんの背負っておられるキャリーバッグ一杯に、見事なふわふわの毛が広がっていました。

まんまるいかわいい目がとても印象的でした。

最初は<ルーマーちゃん>の絵をご覧になり、こんなふうに背景なしで、雪之丞くんだけで、というご希望でしたが。

ルーマーちゃん

 ラフスケッチをお送りしたりする間に、

① 写真のような構図(正面を向いて足がちょこんと出ている)

② お顔は笑っているように見えるものを。

③ 背景は優しい色合いに。

④ 雪之丞くんが大好きなおもちゃたちを一緒に。

というように、ご希望が具体化されていきました。

そして、大好きなおもちゃのお写真が何枚も届きました。

それらのなかから、かわいいうさぎさんとぞうさんの2つを選ばせていただき、雪之丞くんと一緒に描きました。背景には、雪之丞くんの美しい毛がひきたつように、明るい緑を置きました。

初めての“ペキニーズ”でしたが、とびきり愛らしい雪之丞くんと出会えて、幸運でした。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」11月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑮:「月は友だち?」

月に眠る(2)

 私は夏が好きでした。

小・中・高から大学、大学院まで、ずっと“夏休み”があることも大きな理由でしたが。暑さそのものも、あまり苦になりませんでした。

ところが、ここ数年、その暑さに悩まされるようになりました。クーラーが苦手な私は、微妙な温度差が、体調に影響するようになりました。

もう一つの理由は、毎年個展をし、カレンダーを出すようになって、絵の〆切りが<暑さのまっ最中>と重なることでした。

昨年の夏は、その両方で、夜うまく眠れなくなりました。途中からは、環境を変えようと、アトリエに布団を運び込み(広々と敷く場所はないので)大きめの机の下に敷いて寝る、などという泪ぐましい努力もしました。

そんなこんなで困っていた時、娘が“裸足で土の上を歩くと、体に良いみたいだよ”と教えてくれました。

私は昔スキーで膝を痛めて以来、足首も痛めています。サポーターなしには出歩けませんので、裸足はあきらめ靴をはきますが。柔かい草の上を歩くのはいいかもしれない、と思いました。

以来、近くのキャンパスのグランドのすみっこ、草のところで、歩くことを始めました。一日1000歩。それも、普通に歩くのではなく、<ナンバ歩き>です。

日本地図を作った伊能忠敬が、高齢にもかかわらず毎日50kmも歩くことができたのは、ナンバ歩きのおかげだ、ということを聞いたからです。

伊能中図九州南半「古地図コレクション」

https://kochizu.gsi.go.jp/items/171?from=category,10,index-table

 右手右足、左手左足と最初は少しギコチなかったのですが。丹田にだけ力を入れ、あとは力を抜いていればよいとわかってからは、かなりスムーズに動けるようになりました。 始めた頃は夏の終わりでしたので、遅い時間でもグランドには少し人がいました。ある晩、グランド回りの外灯も消えたので、懐中電灯で足元を照らしながら歩いていると、走っていた学生さんが突然近付いてきて、“何を探しているのですか?一緒にさがしましょうか?”と声をかけてくれました。“いえいえ・・・・”と事情を話しましたが。ご親切に感謝して。それからは懐中電灯をつけずに歩くことにしています。

季節も移り、秋から冬に。夜グランドにくる人も少なくなりました。

シーンとしたグランドは寂しいのですが、見上げると夜空には星と月。特に月は、うすい三日月から徐々に満月になり、また新月になり、とその形が日々変わります。いつのまにか、毎日最初に月を見上げて、確かめるようになりました。

“今日は昨日より少し丸くなったねえ・・・”などと話しかけながら、今夜も1000歩、歩きます。

カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」11月

「月に眠る」(1)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」3

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。

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続モンド通信35(2021/10/20)

私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑭:秋にはコスモス・・・・(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史2(玉田吉行)

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1 私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス

 以前借りていた家には、50坪ほどの畑がありました。初めての秋、その畑は一面のコスモス畑となりました。

それまで親しんでいた花屋さんのか弱いコスモスではなく、人間の背たけを越え天に向かって咲きほこる、強いコスモスでした。

そこで、来年は畑だけではなく、家の周りすべてをコスモスの花で囲もう!と考えました。30cm間隔に穴を掘り、次々とコスモスの根を植えていきました。大変でしたが、“秋の家”を想像するだけでワクワクする作業でした。

家主さんは、お世話になっている先生でしたので、毎月家賃をもってお宅にお邪魔しました。まわりからは恐れられている方でしたが、毎月の私たちのアホな話を、結構楽しみにして下さっているご様子でした。

コスモスの“植樹”(?)を終えた後、お伺いしてその話をしたところ、ふだんはそれほど大笑いされないご夫妻が、一瞬目を見合わせおかしくてたまらないというように、笑いころげておられます。そうして、ようやく笑いがおさまった後、“コスモスは一年草だから、根を植えてもダメなのですよ”と、奥様が教えて下さいました。

20年前に、私たちは今の家を買い、何年か前にはその先生も旅立たれました。他の人たちには厳しかったようですが、息子さんしかおられない先生には、ちょうど娘のような感じだったのか、私たちには温かいまなざしでした。

コスモスの花を見ると、今よりもっとアホだった私たちと、先生を思い出します。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」10月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑭:「秋にはコスモス・・・・」

中島みゆきさんに「アザミ嬢のララバイ」という曲があります。その歌詞のなかに<春は菜の花 秋にはききょう>という一節があり、気だるいメロディとともに、妙に心に残っています。

歌詞には不向きですが、私の場合は<春は桜 秋にはコスモス>となりそうです。

花の絵を中心に描いていた頃、春はめまぐるしいほどの忙しさでした。まさに<花の命は短かくて>。次から次へと、新しい花が咲き出すからです。花を追い、花に追われる日々でした。

そんな春とは違い、秋の花はとても少なく、私のなかでは、ずっと“コスモス”が秋の主役でした。

<花>

No. 1

No. 2

No. 3

No. 4

No. 5

No. 6

No. 7

No.8

No.9

 描く絵が、花から動物たちへと移ってからも、コスモスの花と一緒に描いてきました。

<犬とコスモス>

No. 1(もえちゃんとコスモス)

No. 2(ハーシュくんとコスモス)

No. 3(ターバンくんとコスモス)

No. 4(ポチとコスモス)

No. 5(寅次郎くんとコスモス)

<猫とコスモス>

No. 1(子猫とコスモス①)

No. 2(子猫とコスモス②)

No. 3(さやちゃんとコスモス)

No. 4(まりんちゃんぷりんちゃんとコスモス)

<馬とコスモス>

No. 1(ジャスミンとコスモス)

 これまでも何枚も描いてきましたが、これからもきっと、たくましく時に可憐なコスモスを、私は描き続けてゆくのだろうと思います。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(2 )

ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」2

ケニアの歴史の2回目である。

1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。

エジプトのカイロ博物館

 エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

砂漠の民トワレグ人

 トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。

スワヒリ都市と帆船ダウ

マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。

ダウを操る船乗り

 モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。

「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」

キルワとデヴィドスン

1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。

キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。

キルワ虐殺の版画

次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。

つれづれに

アフリカ史再考④:大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人

アフリカ史再考の4回目で、アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたか、である。

バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人の牧畜生活を取り上げてヨーロッパ人が到来する前に、長い間アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかについて書いていきたい。

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようである。

デヴィッドスンは、コンゴの森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説している。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていたので、固定した社会を持たなかった。

集団で川に橋を架けるピグミー

デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介している。

狩猟の準備をするサン人

その後、村を作り定住生活をするようになるが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要だった。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことである。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行くようになった。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいた。ケニア北部に住むポコト人もその子孫だと思われる。

ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂げる。

狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なもので、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれる。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけである。

デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。

ポコト人を紹介するデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住む。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければならなくなるので、村の人口は次第に減っていくが、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来る。毎年それが繰り返される。

ポコト人の主食はミルクである。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べるが、肉を食べるのは儀礼の時だけに限られる。ミルクと血だけで暮らすためにはたくさんの牛が必要になる。それに干魃などの天災にも備えなければいけないので、牛の他に、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになった。

女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っている。男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけである。

遙か北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われ始めた。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。断熱と防水の効果があるので、牛の糞は壁や屋根に塗りつける。そうして作った小屋は子牛や子山羊を昼間の暑さから守ってくれる。乳離れをさせる時にもその小屋が使われる。

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしている。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働だが、それをこなすのが女性の誇りになっている。

ポコト人女性

厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要である。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫で、カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませる。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニ退治に使う。

こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来ている。食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、そんな基本的な人の営みが営々と続いて来たわけである。

1992年にジンバブエに行った時、家族で住んだ借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなり、インタビューをさせてもらった。

ジンバブエ大学英語科教員のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながらインタビューに応じて、子供時代のことをしゃべってくれた。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれている。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそらしい。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたらしい。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれる。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だったようで、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたと言う。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたそうである。

ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたガリカーイ・モヨさんもインタビューに応じてくれた。

「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」

ガリカーイ・モヨさん(小島けい画)

ジンバブエ大学の学生のアレックス・ムチャデイ・ニョタさんもインビューに応じてくれた。普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、1日じゅう家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったらしい。「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスが言っていた。

3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話が中心、ポコト人と同じというわけにはいかないが、今も田舎では、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らすという牧畜が占める割り合いの多い暮らしをしている人たちが多いようである。ジンバブエの首都ハラレは1200メートルの高原地帯にあり、ケニアの首都ナイロビも標高1600メートルの高地にある。

「ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」(2013年3月)、→「ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」(2012年11月)、→「アレックスの生い立ち」「モンド通信」(2012年6月)

次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」である。

つれづれに

2021年1月Zoomシンポジウム報告書

「アングロ・サクソン侵略の系譜」―系譜の中のHIV感染症とエイズ

2021年11月27日(土)/2021年12月30日作成

目次  はじめに/ 発表/ 参加者の感想/ 資料

目次

 はじめに

シンポジウム「『アングロ・サクソン侵略の系譜』―系譜の中のHIV感染症とエイズ」の報告書(54ページ)である・・・・(続く)→「はじめに」

 発表1 赤木秀男→「HIV/AIDSから社会問題を炙り出す」

発表2 玉田吉行→「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科研費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容は1:「ケニアの歴史」、2:「エイズとアフリカ」、3:「『ナイス・ピープル』と『最後の疫病』」で、その詳細をまとめてゆきたい。

1:「ケニアの歴史」・・・(1)「植民地化以前」→(2)「ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」→(3)「イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代」→(4)「モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」

2:→「アフリカとエイズ」

3:→「『ナイスピープル』と『最後の疫病』」

ナイロビ市街

 参加者の感想

1 赤木秀男(発表):「まず、今回のシンポジウムで報告の機会をいただいたことに感謝いたします。私も昨年までに学んでいた内容を復習しながら、なるべく自分が教わったようにお伝えできればいいなと思いながら準備をしました。当日は様々な学部や国籍のバックグラウンドがある参加者の皆さんから、質問や感想をいただき、いつもとは違った視点に刺激を受けました。玉田先生の報告では、文系の学生時代に戻ったような、知識ではなく自分の頭を使って考えながら議論を拝聴させていただきました。今回、このような機会をいただき、ありがとうございました!」

2 川越慧:「本日はzoomミーティングにご招待いただき誠にありがとうございました。休憩時間の都合で名残惜しい退出となりましたが、大変よい勉強をさせていただきました。私の現在の研究テーマは日本語教育なのですが、アフリカの欧州支配の構造と日本における外国人労働者の搾取には構造的な共通性があるような気がします。今日のお話をきいて、その地域や社会がかかえる構造を外からではなく内側からみつめることが重要なのではないかという示唆を得ました。大学院入試の都合でまだ暫くは忙しい日が続きそうですが、またこのような機会があれば是非参加したいと思います。」

3 キム・ミル:「土曜日はありがとうございました!エイズについてあまりわかっていなかった自分としては、少し難しい面もありましたが、見聞が広がったのでよかったです。シンポジウムの報告を読みながら復習したいので、blogに書けたらぜひ連絡お願いします!!!」

4 黒木真菜:「事前に資料を送っていただけたことは、事前に内容をイメージできて良かったです。また、参加者一人ずつの声が聞けたことも、リラックスした雰囲気で会が進められたと思いました。てっきり医療関係の方が多いのかと思っていましたが、逆に様々な専門分野の学生がいたことは、質問の幅も広く、刺激を受けました。今回くらいの少人数であれば、最初に、今回のシンポジウムで期待していることなどもシェアしていると、発表者がそれを意識して説明してくださったり、後半の質疑応答もさらに濃くなってくるのかな、とも思いました。色々まとまりがなく申し訳ありませんが、以上のようなことを思いました。」

5 杉井秀彰:「医学的な視点からHIVのことが知れたのがよかったです。加えて、アフリカで活動するNGOやODAに潜む欧州などの先進各国とアフリカ諸国政府の結びつきによって起こる問題について触れることが出来、新鮮な議論ができたと感じます。」

6 玉田吉行(発表):「科研費の報告書が要るからとは言え、つき合ってもらえて感謝しています。去年は急遽オンラインの必要性に迫られ、初めてZoomを使いました。いい面も悪い面も含めて、遠隔授業をするしかなかったとは思いますが、副産物でシンポジウムにも利用させてもらいました。最初は地域資源創成学部の英語の時間内に、試験前にやったトーイックの問題が終わらなかったので、土曜日に時間外でやろか、一度画面を消すから希望者はもう一回入って来てや、がきっかけでした。たぶん、オンラインは誰もが初めてで、一年生だったこともあったと思いますが、7割ほどの希望者がありました。実際にやってみて、シンポジウムの場合はよかったと思います。色んな場所にいても参加できるからです。キムくんは韓国から、他の人も色んなところから参加してくれました。前回発表してくれた寺尾さんと杉村さんには今回参加が叶いませんでしたが、また機会があればと思っています。このシンポジウム、将来研究者を考えている人のために、このまま続けられたらと、今は考えていますが、どうなりますか。改めて、ありがとうございました。」

7 得能万里奈:「先日のアフリカに関する講義に誘ってくださり、本当にありがとうございます。様々な学部の方と、アフリカに関する知識や疑問を深めることができて、とても充実した時間を過ごすことができました。加えて、小説などの文学という視点からアフリカのことを知りたいという気持ちが強くなりました。今後もアフリカのことに関する興味関心のアンテナを立てていたいと感じました。貴重な機会を本当にありがとうございました。」

8 中原愛(司会):「最初に赤木さんが素人でもわかりやすい病気自体の説明をしてくださりHIV、エイズについてスムーズに理解が深まった事、その後のたまさんの説明で歴史や社会情勢を通して病気と差別的な社会構想の形成などより多角的に理解することができました。また、多種多様な参加者の質問で、新たな観点に気づきより充実した時間になっていたと感じました。」

9 ルトフィア・ファジリン:「AIDSについて、理系ではない私でも分かりやすく理解できましたが知らない漢字がたくさんありました。中学校と高校の時警察庁からセミナー?公聴会?みたいことがあって、やはりドラックとの関係が強かったから、マフィアが未成年を狙うことが多いらしい。その時に一緒に教えてくれたのは、AIDSにかかった人を差別・隔離?しないようにと言われた。多分かかった人は悪い印象を持っているでしょうね。いくつかの小説とストーリーライフでもAIDSにかかった人の話を読んだことがあったりして、一時期インドネシアで社会問題になったと思う。ただ、差別されていることがよくないことがわかったから色々な報道で彼らの目線でAIDSについて語られたりされたけど、まだ少ない。たまさんの話では、やはりアメリカのconspiration theoryとかアフリカの様々な問題につながられるんだなって感じました。一時期conspiration theoryについてハマったことがあったけど、自分が「本当かな?」って思ってて、でも知識として入れても良かったので間に受けるじゃなくて読書の楽しみにしてた。後、話を聞いている間にインドネシア陸軍は結構アフリカに送られたことがあって、たまにSNSでその様子を投稿する人もいて、メディアに見せないことを案外その投稿で気づくことあるんだな。」

 (事前に送付した)資料

1 →「ポジウム案内」

2 →「シンポジウム概要」