つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院入試2

2度目の大学院入試である。厳密に言えば、大学の6年目に一度(→「大学院入試」、5月10日)、卒業してから一度、卒業した大学の修士課程の入学試験を受けている。それから教職大学院の修士課程を修了する年に関西で三つ、その次の年に東京で一つ博士課程を受験したが、全敗だった。卒業してから2度目に受けた時は、書いた答案をすべて消して出て来ている。どうも入試とは相性がよくないようである。

高校の教師はおもしろくて充分に楽しかったが、そこが居場所だとはとても思えなかった。新任の一年目に初めて「職員室入って自分の席に歩いて行くときに、先は長くなさそう、もって2年くらいやろなあ」(→「新採用一年目」、5月18日)と思ったが、なかなか踏ん切りがつかなかった。初めての卒業生を送り出した頃に、このままずるずると行ってしまわないかと焦り始めた。書くための空間を確保するには大学が一番よさそうに思えて、大学はどうやろ?と妻に聞いてみたら、よさそうねと賛成してくれた。一年目の学年末に結婚してすぐにいっしょに住み始め、次の年には子供も出来ていた。ずいぶんと課外活動に時間も取られて、土日も含め、家事や育児があまり出来なかったのに、妻は合ってない姿を見るのも辛いので、早く高校を辞めて欲しいと言ってくれた。ぼんやりと30までかなと考えていた30の坂も、既に通り過ぎていた。大学の職を探すためには、最低限修士号は要るので準備が必要だが、授業(→「初めての授業」、5月15日))に、「ホームルーム」(5月24日)に、課外活動の「顧問」(5月30日)にと、毎日が一杯一杯だった。リチャード・ライトの分厚いBlack Power(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、→“Richard Wright and Black Power”)を開いて読もうとしたら、活字が躍って見えた。給料が同じで五分の一くらいの仕事量なら、教員になる前にやったように、併行して「大学院入試」(5月10日)の準備も出来たとは思うが、手を抜かない限り不可能だった。ちょうどその頃、兵庫の山の中に教員再養成のための大学院大学(↓)がスタートし、教員の経験が5年あれば受験可能で、教諭のままで修士号が取れることを知った。

あと一年で条件は満たせそうである。担任よりも顧問の方が生徒との距離も近くなるので、毎日接している生徒には少し後ろめたい気もしたが、どこかで断ち切らないと、と気持ちを整理した。試験は神戸の甲南女子大学(最初の写真)であり、出身大学の教師の推薦書も要るらしかった。準備を始めた。

次回は、分かれ目、か。

移転先の新校舎

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:雪合戦

生野峠周辺の山々

 雪合戦をした。前の晩から降り始めた雪が積もり、その日は朝から辺り一面が雪の原だった。その日の英語の授業は雪合戦になった。今なら雪合戦はなかったかも知れない。
兵庫県の瀬戸内側の地域に住んでいたので、暑くもなく寒くもなく、そう頻繁に台風も来ず、雪が降っても積もるのは年に数回である。心がいじけていたせいか、暑くもなく寒くもないから、この辺の人は意地が悪いんやろなと本気で信じていた。兵庫県は宮崎県と同じで縦に長く、日本海側に面した北側は普段の生活に入り込んで来ることもめったになかった。一度中国山脈の「生野峠」(5月12日)を越えて日本海側の海岸線を自転車で回ったことがあるが、日本海を見るのはそれが初めてだった。

生野峠

 学年旅行で浜坂に蟹を食いに行くことになり、毎日その話題で盛り上がっているのを見て、集団で旅行に行くのもその話が毎日続くのも摩訶不思議な世界だった。日本海で覚えているのはそれくらいである。

香住海岸

 大学の時に電車で宮崎に来て、30年ぶりの雪だと言っているのを聞いたが(→「阿蘇に自転車で」、5月11日)、こちらに来て30数年、雪を見たのは何回かしかない。ほとんどがみぞれ混じり、少し積もったのが1回か2回である。台風は毎年やって来るが、雪とはほぼ無縁だ。ただし北の五ケ瀬にはスキー場もある。子供は高校の旅行でスキーに出かけ、女子は一日目は見学するように言われて憤慨していた。まわりのみんなが当然のように従っているのがもっと嫌だったと哀しそうに言っていた。関西弁をしゃべるからと虐められて虐める相手をやっつけたら、その輪が大きくなったらしい。大変な日々だったが、最後まで関西弁を使い、今は東京への永住組である。
今なら、職場を放棄して何ごとか、授業の遅れをどうするのか、と言われそうである。条件が揃わないと雪合戦は成り立たない。先ず合戦が出来る雪が要る。宮崎ではしようにも雪がない。大学の教養の時間に雪が降ってるな、外に出て雪合戦しよう、という気にはならない。雪国では顰蹙(ひんしゅく)を買うのがおちだろう。新設でスカートの丈がどうのこうのと煩かった(→「新採用一年目」、5月18日)、校長も怖れられている、そんな中で、雪が積もってるから雪合戦は、普通は範疇外だろう。素足に下駄で教員の面接に出かけた(→「面接」、5月9日))と同じくらい、か。どう考えても「鉄ちゃん」の影の力である。だからこそ教頭は、髭?雪合戦?懇親会には来んし、言うこともきかんし返事もせん、そんな私への苛立ちが怒りとなって、ある日、止められなくなったんやろうなあ(→「懇親会」、5月19日)。
当の本人はどう考えていたか。「こんなに雪が積もってるんやから、鉄ちゃん、学内放送で、今日の1校時は全校で雪合戦、速やかに運動場に出るように、と言わへんやろか」一年目に教務で隣り合わせだった国語の女性と、2年目に左隣の席だった理科の教師も、私が雪合戦をしているのを見て、生徒を連れ出して雪合戦をしていたよ、と後から聞いた。たまさんのクラスは雪合戦してるで、と言う五月蠅(うるさ)い生徒の声に負けたらしい。生徒からも教員からも、雪合戦のことで直接何かを言われたことはない。
次は、大学院入試2、か。

移転先の新校舎

つれづれに

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つれづれに:辞書を引け

移転先の新校舎

 「辞書を引け」といつも言っていた。「学年の方針」(5月23日)に押し切られて受験用の授業をしていたとき(→「受験英語」、6月5日)は、である。大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」とまるで正反対のことを言った。
「英語は元々知らない言葉やから、うーんと考えて何かを思いつくもんでもないし、わからん時は辞書を引くしかないやろ」ずいぶんとえらそうな物言いである。習うより慣れろ、を意識したことはないが、全員に基本構文の参考書をを持ってもらい構文を理解して例文を覚える、それを繰り返すのが一番効果的だと思ったからだった。受験英語は言葉とはまるで別物である。

使ったのはたぶん、この「旧」版

 言葉は使うものだから、知らない言葉があれば文脈や相手の様子を窺いながら、ああではないか、こうではないかと想像したり推測したり、間違っては直し、間違っては直しを繰り返しながら、気がつけば、大体わかるようになって使えるようになっているものである。間違わずに覚えられることは、先ずあり得ない。しかし受験英語は言葉や構文を先ず理解し、それを繰り返し覚える、わからない言葉があれば辞書を見て、或いは人に聞いて意味を理解する。基本はあくまで正確に、間違わない、である。言葉を覚えるのに使う自分の中の創造力や推察力をほとんど使うことはない。
辞書を見た時点で、その意味がなんだろうという想像力は停止するので、まるで逆の作業をしているわけである。だから、受験英語だけをやって入学して来る大学生の大半は、英語が実際には使えない。英語を話そうとするときに一番に障害になるのが、間違ってはいないか、間違うと恥ずかしいと思ってしまうことだが、それ以上に、6年間も英語をしながらしゃべれないという、ある種の劣等の意識の方が影響は大きいかも知れない。しゃべってないからしゃべれなくても当然、だから間違いを気にせずに先ずはしゃべってみよう、という風にはならない。しかし、しゃべるようになるには、しゃべってみるしかない、実に当たり前のことである。
読む場合も同じだ、わからない言葉が出て来た時に辞書を引いた時点で、想像して読む、前後を考えて推測しながら読むという作業は停止してしまう。だから、大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」と言っていたわけである。
「採用試験」(5月8日)の準備をし始めて最初に読んだのが1026ページもあるAn American Tragedyだが、読み終えるのに3ケ月もかかった。読んだあと、このやり方で辞書を引き続けても決して読めるようにはならないとしみじみと感じた。(→「購読」、5月5日)

その経験が身に染みていたのに、授業では「辞書を引け」と大声で言ったのである。

その後、教員の教職大学院に行き、資料探しにアメリカに行っているうちに、使う必要性も生まれ、英語を使うようになった。それはそれで大変だったが、受験英語の過程でついた劣等に意識は、英語を使えるようになった時、気にならなくなる。その意識を払拭するためにだけ英語を使うのもありかも知れない。受験英語は本来の言葉とは別物である。
次は、雪合戦、か。
昨日は遠出をして「つれづれに」を更新出来なかった。清武加納の歯医者さんに定期検診に行き、市内でお茶を、平和台で餃子を、最後にハンズマンで小葱の種と樋(とい)を買った。小葱は時季外れだが、強い陽射しを避けて夏の時期にも作ってみようかと考えた。暑くなると、虫にもやられるし葱自身も消えてしまうが、日陰と水で温度を下げればひょっとしたら出来るかも知れないと思ったからだ。樋は畑の溜枡に雨水を誘導するためのものだが、自転車なので長いのは持って帰れない。短いのを試しに買ってみたが、うまく行くかどうか。どうやら週末から梅雨に入る気配だし、南瓜も伸びてきたし、柵も作ってしまわないと。いろいろすることがある割には、一日に出来る作業量もそう多くないので、なかなか季節に追っつかない。一日の限界が20キロという自転車の距離といい、思い通りに行かないものである。

餃子屋さん

つれづれに

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つれづれに:英語版方丈記

移転先の新校舎

 ある日、校長室を訪ねた。「鉄ちゃん」に頼みごとがあったからである。

「あのう、英語で方丈記をやろうと思うんですが、授業の前に日本語で方丈記、やってもらえませんか」

「ワシに授業やらせてくれるんか。教頭、校長ひまやからなあ。久しぶりや。さっそく準備せなあかんな。よっしゃ、わかった。ほな、また。」

予想通り気軽に引き受けてくれた。「授業では学年で採用した教科書を使うので、担当者の工夫の余地はそう多くなかった。内容はそう難しくないし、量も少ないので、「家庭教師」(4月10日)の時と同じでさっとやって繰り返」(→「受験英語」、6月5日)していたので、別のことに使える時間はある程度確保出来ていた。元々古典や日本語訳で何かを出来ないかと考えていたら、漢文と古文が得意な「鉄ちゃん」に古典をやってもらって、そのあと僕が日本語訳を交えて授業をする、そんなことがやりたくなったのである。
高校の時も家では古典を読んでいたし、大学に入ってからも英語はせずに古典を読んではいたが、どうも適性に欠けていたようで面白く感じられなかった。しかし、考えてみれば、読んでいた源氏にしろ落窪や宇津保にしても、上流社会の色恋ざたか政治の駆け引きの物語である。しっくり来るわけがない。まだ自分の中の反体制の自覚がなかったとは言え、自分は働くことをせず人に働かせた上前をはね、階級や家の制度を利用して蓄財した富を代々受け継いで贅沢を続けてきた金持ち層の色恋沙汰が楽しく読めるはずもない。その点『方丈記』の著者鴨長明は身分も高くなかったようで、作者の描く無常観はすっと心に中に入り込んできた。文の流れも、韻文に近いリズムがあって心地よい。分量も源氏のように膨大ではなく、頃合いで一気に読める。何回も読んだ。「安元の大火」の書き出し「予、ものの心を知れりしより、四十路あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。」は、今でもつい口に出て来るほどだ。四十あまりの春秋を送ることはないやろなあ、と独り言を言いながら読んでいた。
次の日、「鉄ちゃん」が職員室の私の席まで来てくれた。「ほれ」と言って、1冊の本(↓)を机の上に放り投げた。「この本、あんたにやるわ。ワシも読んだけど、最後にアストンと言う人の英訳が載ってるで。参考になるんちゃうか。漱石も英訳してるらしいな。ほな、また」

 発行者は冨山房、出版は昭和十五年とある。第二次世界大戦の始まる前で、私はまだ生まれていない。所々棒線が引いてある。英訳には辞書で調べたとわかる書き込みもある。解説には英譯六種(夏目漱石、J. M. Dixon, W. G. Aston, 南方熊楠とF. V. Dickins, A. L. Sadler, 板倉順治)の紹介もある。W. G. Astonの抄譯をW. G. Astonの"A History of Japanese Literature"(↓)から転載するとの断り書もある。

 「鉄ちゃん」を教室に案内した。戸を開けたとたん、全員が静まり帰った。「たまさんが『鉄ちゃん』連れて来た」と最初はあきれ顔だったが、すぐにいつになく緊張し始めた。「鉄ちゃん」が「怖い」校長だったのを思い出したらしい。普段はでれっとしている人の背筋まで延びている。「鉄ちゃん」はこの日のために用意したプリントを配って授業を始めた。教育実習で説教をされた時は、真下から2時間睨みつけていたが(→「教育実習」、5月4日)、力のある人の話は含蓄があってなかなか面白い。私にはあっという間の時間だった。鉄筆でガリ版刷りのプリントだったが、準備も授業も久しぶりに楽しかったようである。

 みんなから「長老」と呼ばれていた英語の同僚から「玉田クン、えろう元気やな。若いうちだけやから、今のうちにがんばっときや」と言われたことがある。生徒もよく来るし、毎日プリントもするし、バスケットでの初めて県大会に連れて行ったし、生きのいい新任と思ってくれたらしい。しかし、何だか違和感があった。若いうちだけやろか?その人は新設に便乗しての移動組の一人だったようで、授業の前には教科書に教師用の指導書(豆本)を見ながら必死で書き込みをしていた。「鉄ちゃん」は指導書なんか必要ない、と予算を認めていないようだったから、自前で買ったのか?授業のあと「年取れば取るほど、ますます燃えてくるからな」と「鉄ちゃん」は言ってたから、余計に二人を比べてしまった。45年と3ケ月授業をしていたが、若いうちだけ、ということはなかった。
ある日、アメリカにいる泊谷さん(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、→「 MLA(Modern Language Association of America)」)から方丈記の英訳本(↓)が送られて来た。読んでみると、流れるような英語だった。アストンやドナルドキーン(↑)の英語訳は英語臭が抜けていないし、漱石の英訳は日本語臭が抜けてないと感じたが、送られてきた英訳は、英語臭も日本語臭もしない流れるような英語だった。訳者の解説を読んで謎が解けた。アメリカ歴の長い日本人と日本歴の長いアメリカ人との共訳だったのである。もちろん、語感や字感にも恵まれていたんだろう。思わず、いいものを見せてもらった。七十路「あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。」である。

 次は、辞書を引け、か。