つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゼミ選択

 九州南部は何日か前に梅雨入り宣言、雨の日が続く。紫陽花(↑)の季節である、と言いたいところだが、宮崎では紫陽花もそろそろ終わりである。

「英文学1」を避(よ)ける方法が最初の問題だったが(→「大学院大学」、6月13日)、給与も出て修士号も取れるのだから、不満があったわけではない。しかし、2年間は短かい。修士論文の目安をつけて資料を集め、一日も早く書き始めたい、その気持ちは強かった。先ずはゼミ選択である。教員の構成から見れば、選択肢はないのだから「英文学1」のゼミを取るのが普通だが、出来れば避(よ)けたかった。最初の教員紹介で「英文学1」は、広島大出身、和歌山在住、2年前まで大阪の教育系の大学で教授、自宅からは大阪からの高速バスで山の中の新校舎に来学、大学近くの教員宿舎に単身赴任、英文学でキーツが専門、ということだった。物腰も柔らかそうで、言葉遣いも極めて丁寧、英文学専攻だけあって、いかにも英国紳士風だった。だが生憎、私は「英国紳士風」が大の苦手ときている。英文学に詩、何とか避(よ)ける方法はないものか。言葉とは裏腹に、日本の「英国紳士風」な人が、髭や反体制風をすんなり受け容れるとは到底思えない。信用されないまま丁寧な物言いに合わせるしかない自分の姿が、目に浮かぶ。英語学の助教授が素朴な感じでいい。研究室を訪ねてみるか。

 次の日、さっそく研究室を訪ねた。結婚を期に家を出て、最初は明石市の東端の朝霧駅近くのマンションで暮らし始めたが、子供が出来て新築の職員宿舎に引っ越しをした。明石市の西の端にあって、学校へは自転車で通えた。しかし、両方に仕事があると、小さな子供との生活はなかなか大変だった。すぐに熱を出す。幸い保育所には預かってもらえたが、母親といっしょにいたがって体が反応するのか、ほんとうによく熱を出した。なかなかすぐには下がらない場も多く、タクシーが来なくて妻が一人で病院まで歩いて連れて行ったこともある。この時期、母親の借金のことや課外活動もあって、妻に負担がかかり過ぎた。ある日、家に帰ると、朝霧に帰ると妻が言った。父親が一人で住む朝霧の家に三人で転がり込むことを決めたようだった。

海側からの朝霧駅

 明石の名産丁稚羊羹(でっちようかん)を持って出かけた。赤松藩なのになんで丁稚羊羹なのか、さっぱりわからない、と出版の打ち合わせで横浜の出版社を訪ねた時に、持って行った丁稚羊羹を眺めながら社長さんが言っていた。なんでも知っている人のその時の質問の真意はさぱりわからないままである。英語学の助教授は四十代の初めくらいで、院生からは少し軽く見られているような感じがあった。院生の年齢が高いせいもあったかも知れない。あまり学生も来ないようで、嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。英語学の枠で採用、前任は九州の医科大、アメリカ滞在の経験あり、文学もやっていた、職員宿舎住まいで女のお子さんが二人、そんな話だった。アメリカに滞在、文学もやっていた、それで充分である。出来ればゼミを持ってもらえませんか、英文学、英国紳士風はどうも苦手で、私からはそんな話をした。いちおう上とも相談して後日にまた、ということでその日は終わった。後日、私としては持ってあげたいんだけど、中の事情もあって、また遊びに来なさいよ、ということだった。専攻も違う助教授が文学の教授がいるのにアメリカ文学を指導、というわけにはいかなったようである。英国紳士の面子(めんつ)もある。とその時はそう思っていたが、後に大学院を担当する立場になって、学部より大学院の予算ははるかに多く、修士論文指導の院生を持てば、手当てがつくと知って、なるほどそういう事情もあったのかと合点がいった。しかし、ものは考えようである。アメリカ文学を知らない人ならいちいち口出しされなくて済む、指導教官がいないのと同じなら、好き勝手にやれるということである、その切り替えは早かった。修士号が取れれば文句なしである。
次は、キャンパスライフ2、か。

明石

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院大学

 大学を新設する場合、文部省は認可に際して色々文句をつけてくる。大学院大学(↑)の場合、文部省が日教組の強い反対を押し切って強引に創った(→「大学院入試2」、6月10日、→「分かれ目」、6月11日)ようだから、有無を言わせず国の方針を押しつけるのも可能だっただろうに、見せかけは一応大学の意向も聞いてということらしい、それが民主主義とでも言うのだろう。大学紛争で国にこてんぱんにやられた人たちが、次は同和問題に絡んで高校紛争でも闘い続けたようだ。大学院大学はその頃に考えて創られたようだから、目的は教育での民主主義的な管理の強化だったのだろう。それに革新勢力の強い日教組が強く反対したという構図らしい。教頭になるには校長の推薦が要る、指導主事は辞める人の指名など、そんな旧態然としたなあなあの人事に支えられて、何とか管理体制を維持して来たものの、安保闘争(→「大学入学」、3月27日)、同和問題(→「面接」、5月9日)などで大きく揺れて、体制強化のための次の策が必要だったらしい。

バリケード封鎖された学舎(同窓会HPより)

 そこで思いついたのが複数の中間管理職、教員をより細かく分断し、教員間の軋轢をうまく使えば体制強化が図れる、とでも思い付いたのか。最初の時点では、まずは兵庫に一つ、だったようである。その後、新潟、徳島と続いた。
しかし、新設を作ると言っても、関わる人が基本的に変わるわけではない。既存の大学からの寄せ集めだ。新設を利用して異動する人も多い。呼ばれた人には有能な人が多いが、便乗異動組の評判は芳しくない。大学のお荷物になる人も少なくない。私が入ったところも、教育系なので広島大出身者が中心の人事だった。実際には、ミニ広島大のような顔ぶれだった。当然、それまで培った考えや体験が新設校にも反映される。英語科の教員の内訳は、教授4、助教授2の計6人、そのうちの教授2と助教授2が広島大の卒業生だった。教授6人の専門は、英語学3、英文学1、英語教育2だった。当時としては英語教育2は多く、旧弊に従えば、英文学3、英語学2、英語教育1といった辺りか。文部省の認可には何かあたらしく見える目玉が必ず必要で、この人たちは、言語系コースの英語と国語の二つの壁を取り払って「あたらしい」言語表現を目玉にすることを思いついたようだ。創立当初から、教員と院生で作る言語表現学会をスタートさせている。「言語表現研究」には国語と英語の両方が含まれていたが、実際には壁を取り払うための学問的な交流はなかった、と思う。

「言語表現研究」

 私は疲れた体を休め、修士号が取れればよかったので、方針がどうであれ、大学の構成が如何にあれ、文句を言う筋合いもなかった。修士論文を書くときに「指導」を受けるゼミを決める必要があるが、アメリカ文学で書くつもりだった(↓)のでほぼ選択の余地はない。案の定、英文学の枠にアメリカ文学は入ってなさそうだった。大学院入試で必須の英文学史を敢えてしなかったくらいだから、英文学は苦手である。(→「大学院入試」、5月10日)何とか「英文学1」を避(よ)ける方法はないものか。最初の現実的な問題だった。
次回は、ゼミ選択、か。

小島けい画リチャード・ライト(『アフリカとその末裔たち』挿画)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:院生初日

 院生になった。推薦書や甲南女子大(↑)で大騒ぎしたが辛うじて、である。(→「大学院入試2」、6月10日、→「分かれ目」、6月11日)教員の再養成のための大学院大学ではあるにしろ、修士号は取れる。それから先のことはどうなるかわからないが、先ずは修士論文である。県立高校の教員は地方公務員だから、県からの給与が出て、教諭として県から研修のために大学院大学に派遣されるという形を取っていたようである。名目上はそうだが、学生が管理者の意図通りに動くとは限らない。生憎規則通りに動く、優等生ではない。優等生は元々苦手だ。入学式の通知があったが、行かなかった。さぼったわけである。一度すべてを諦めたつもりになったとき、わからないものをわかった風に生きるのはやめよう、今までのすべてをもう一度整理して、出来る限りしたくないことはやらないでおこうと決めていた。式などの類は、出来れば避けたい部類に入っていた。大学の入学式(→「大学入学」、3月27日)に出てしまったのは、連敗続きでよほど気持ちが萎えていたから、ということにして、今回の式は避けたかった。それだけである。初めての顔合わせなのかも知れないが、これから嫌でも顔を合わせる。
新学期が始まった。どの授業を取るか、修士論文を書くためのゼミはどうするかなど、最初に決めなければいけないことが多いようで、行く方がいい気がしたので出かけた。行き始めてわかったのだが、さすがに教員の再養成のために作られただけはある、ほとんどが教頭や校長になりたい人の集まりのようだった。ただ私が選んだのは教科・領域専攻言語系教育コースのようで、大学、学部の名前も入れると、なんか後ろめたいことがあるのかというほど長い名前である。ほとんどが管理職を狙う人たちのなかでは、わりと稀有な場所だったようで、言語系には国語と英語の2コースがあり、英語は14人だった。20代もいたが、わたしのような30代と40代前半が多く、50を超えている人もいた。一人だけ大学を卒業したばかりの人がいた。行き始めて少しずつわかってきたが、若い時に経済的に勉強の時間が取れなくて、純粋に勉強時間を確保したくて来た人たちもいるようだった。大人で落ち着いて、しっかりと地に足をつけて生きている感じがして好感が持てた。数は僅かで、戻ったら管理職になりそう、と一目でわかる人も多かった。
その日、14人が大きな部屋に集められた。十人ほどの教員も来ているようだ。専攻を何にするか、ゼミはどうするかなどを決めるようだった。大きな部屋に集められた。入学式にも行っていないし一応意思表示は必要な気がして、一番後ろの席に座った。教師も含め全員が前の方に座り、私だけが大きな部屋の一番後ろに一人という構図になった。出来れば構わないで放っておいてもらえたらというささやかな気持ちだった。始まったとたん、前に来るように言われた。渋々集団から少し離れた後ろの席に移った。色々説明があったが、なぜか研究者になった場合の英語分野の可能性についての話もあった。英語教育の分野は比較的歴史の浅いので可能性は高く、言語学の分野はほとんど可能性はなく、文学はまったく可能性はないというのが現状です、というような話だった。現職教員の再養成課程なので、原則的には派遣された学校に戻るのが前提だから、しなくてもいい話にも思えたが、現役で入ってきた人も要るし、戻らない人もいるとの前提だったのか。説明した人が英語教育の分野の人で、自分のゼミに誘おうとしていたのか。その話を聞けば、英語教育を選ぶのが妥当なのだろうが、選んだのはもちろん文学である。その説明のあと、一人一人が大学に来た理由と大学でしたいことを聞かれた。他の人が何を言っていたのかは覚えていないが、私は高校では一杯一杯の生活で疲れ果て、常に寝不足気味だったので、ゆっくり休みに来ました、休めれば充分ですとだけ言った。教員の一人に専攻は決めてもらわないとゼミも決められないので困ると言われたが、取り敢えず休めたらいいですと返事した。こちらの意思が伝わったどうか。私の院生初日である。
次回は、大学院大学、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:分かれ目

 甲南女子大学(↑)で行われた教員再養成のための大学院大学の入学試験が、文字通り人生の大きな分かれ目になった。教員経験5年以上の条件も満たせそうだし、退職した「鉄ちゃん」の後任で来た校長にも会って受験の承諾も取れたし、あとは大学時代の教員の誰かに推薦書を書いて貰えば準備は終わる、その予定だった。「英作文」(4月2日)の授業で『坪田譲治童話集』をテキストに選んでくれた人に頼みたいと思ったが、胃癌で胃をすべて取ったらしく、入学試験の監督中に容体が急変して52歳の若さで急死していて頼めなかった。他には思いつかなかったが、推薦書は要る。なぜかその時、教育原理の授業でマルクスの『経済学・哲学草稿』の人間疎外の話をえろう元気にしゃべっていた人のことを思い出した。(→「教員免許」、5月3日)電話で連絡を取り、奈良の自宅まで出かけた。

「あのう、出身大学の教員の書いた推薦書が要るようですので、お願いに来ました。よろしくお願いします。」
「お前は何を考えとるか!ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃあ!馬鹿者!推薦書なんか書けるか!帰れ!」

何もこんな近くで大声で怒鳴らなくても聞こえますけど、と思ったが、中間管理職を増やして教師の分断を目論み、締め付け強化を図ろうとする文部省に日教組が強く反対するのは、反体制を意識し始めていたので、充分に理解できた。5年間教員をしながら、校長と教頭以外の中間管理職の必要性を感じたことはない。中間管理職が増えれば、教員間の軋轢や小欲が絡んで碌なことにならないのは目に見えている。その人は大学紛争の時に国と対峙する学生側についた7人の教官の一人だった(→「大学入学」、3月27日)らしいし、充分に説得力もあった。推薦書を頼みに行った私の方が、悪い。結局、違う人に連絡を取って書いてもらった。その人は、授業の時と同じように淡々と推薦書を書いてくれた。どちらも後に、学長になっている。国と対峙した学生を助け、国の政策とかつては闘った人が、学長になって文部省で辞令を受け取り国に忠誠を誓った、ということのようである。
推薦書の一件も落着し、入学試験の当日、会場の甲南女子大学(↑)に出かけた。校門の辺りがやけに騒がしい。遠くからはわからなかったが、近付いてみると、なんと『経済学・哲学草稿』の人がマイクを片手に「われわれ日教組は……」と大声でがなり立てている。あちゃー、である。今年はやめとこ。「お前は何を考えとるか。ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃ!馬鹿者、帰れ!」とまた怒鳴られそうである。そう考えて、来た道を戻り始めた。しばらくとぼとぼ歩いていると、一台の車が横に止まり、窓が開いた。

「あのう、甲南女子大はどこでしょうか?」

渡りに船とはこのことである。乗るしかない。助手席に乗り込んだ。

「いっしょに案内しますよ」

ところが、である。車が止まったところは、群衆のど真ん中。そこに放り出されたのである。

「お前、その髭で教育が出来ると思ってるんか?」
「喧しい、放っとけや。髭は教育と関係ないやろ」

たくさんの人に囲まれて、怒鳴られて、もみくちゃにされて、何がなんだかわからなかった。気が付くと、校門の中にいた。「ほな、試験受けに行こ」
のちに「アフリカ系アメリカ人の歴史」という教養科目の授業で、毎年必ず、「アーカンソー物語」を見てもらった。1954年の公立学校での人種差別は違憲という最高裁の判決に従って、1957年に実際に黒人の生徒がアーカンソー州の州都リトル・ロックのセントラル・ハイ(高校)に入学した時に起こった実話を元に作られた映画である。そこでは、連絡漏れの黒人の女子学生が一人で登校してたくさんの白人の生徒から罵声を浴びせられていた。親たちも高校に押し掛け、事情を説明しようとする教員の話を無視して集団で、大声で騒ぎ立てていた。その映画のあとに「大勢に罵声を浴びせられて、もみくちゃにされた経験あるか?僕はあるで」と言いながら、この時の話をした。もみくちゃにされた本人にしかわからない感覚である。
大学院大学(↓)が出来て2年目、修士課程の2期生になった。兵庫県は地元なので、優先的に県枠で50人も取ってくれたそうである。マイクのがなり声を聞いた時は、また来年やなと観念したが、もみくちゃにされて校門内にはじき出された、文字通り人生の分かれ目になった。
次は、院生初日、か。