つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:体の悲鳴

 危うく死ぬところだった。ずっと体が重く、背中や最後辺りは頭の先まで痺れていた。背中を伸ばして寝られないことが多かった。黒髪も半分は白髪になっていた。大学(↑、→「夜間課程」、3月28日)でバスケットボール(→「運動クラブ」、3月29日)を始めてからは鍛えるためにずっと体を動かしていたのに、採用試験の準備を始めてからは(→「採用試験」、5月8日))、憑りつかれたようにほとんど座り詰めだった。一年間、ずいぶんと無理を続けた。一年が終わる頃から、その兆候はあった。

教員で学校に行き(→「新採用一年目」、5月18日)、結婚もして子供が出来(↑、→「明石」、→「中朝霧丘」、6月17日)、毎日が一杯一杯だった。ずっと、体が悲鳴をあげていた。若さで持ってはいたが、そろそろ限界に近かったらしい。わたしには弟が二人いる。上の弟の結婚相手は看護師で、結婚を機にしばらく同居したことがある。その弟夫婦が心配して、看護師仲間の話を聞いて「兄貴、かなりきついマッサージらしいけど、行ってみるか?」と勧めてくれた。そう期待していたわけではないが、体も辛かったし、思い切って訪ねてみることにした。明石市の北隣にある三木市の住宅街(↓)に治療院があった。住宅の一室が治療室で、縦長の治療台が二つ、間にドーム型のサウナが置いてあった。治療室の隣に待合室も兼ねた狭い事務所があった。座頭市の主人公のような小太りの中年の人だった。最初に血圧を測って、太い指で私の足の甲をぐっと押しながら「よかったでんな。あとにふた月ほどでクモ膜下でしたな。あぶないとこでしたで」が第一声だった。34歳の時である。血圧は上が120で、下が15だった。

 「すべて、血液とリンパの流れでんな。下が15て、血液がまともに流れてまへんがな。ほんま危なかったでっせ。最初は一週間ごとにきてくれまっか。少し落ち着いたひと月にいっぺん、ようなったらふた月に一回くらいでよろしいでっしゃろ。」先にサウナで体を温めるように言われた。一人用のドーム型のスチームサウナである。うつ伏せになり、肩の辺りまで中に入った状態で1時間ほど、だいぶ汗をかいた。次に電動式のローラーに乗るように言われた。胸と足首の辺りに重しを三つずつ置いて、30分ほどだったと思う。最初なので、背中が痛かったが、我慢できないほどではなかった。それからマッサージが始まった。両脚が最初だった。太い指が筋肉の中まで食い込んで来る。弟の言葉通りかなりきつい。サウナとローラーの時に別の治療台にいた人が「あたたたたーっ、あたたたたーっ・・・・」と大きな声を連発して痛がっていたので、少し意地になって、声を出さないと決めて我慢した。太腿と足の裏など何個所かは肘と全身を使ってぐりぐり、ぐりぐり、結構中まで食い込んで来る。肘と骨が接触するくらいの感じだった。「調子がようないと痛いでっしゃろ。ようなったら気持ちようなりまっせ。脹脛(ふくらはぎ)だけは、ようなっても痛(いと)うおますけどな。」太い指が筋肉の中に食い込んだ。終わったら、ふーっと気が遠くなるような感じだった。次に両腕、最後に肩から腰と尻、要所要所で肘を使っていた。ぐーっと奥まで肘が入ってくる尻の痛さも、また別格だった。逃げようがない。ようそんなに痛いとこ見つけるもんやなと思うほどの2時間だった。歯を食いしばって最後まで声は出さなかったが、気が遠くなるくらい痛かった。脹脛に指が食い込んだとき、その後一度だけ気を失ったことがある。ぐっと歯を食いしばって堪えてはいたが、ふーっと暗くなって意識が飛んだ。きっと痛さの限界を超えていたんだろう。「わたしの場合、ブルドーザーでがあーっと、という感じでんな。」ほんとうに、その言葉通りだった。
2時間悶え苦しんだ後の血圧は、上が120で、下が58だった。1983年の10月23日が初日で、大学院を修了した次の年のことである。毎週の治療は1月30日まで、三か月余り続いた。
次は、手入れか。

最寄りの神戸電鉄緑が丘駅

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:魚の棚

 「明石」(6月16日)に住み始めた時は、妻は仕事に食事や子供の世話でぎりぎりの毎日だった。土曜日も授業があった時期で、授業が終わったあと週に一度、前から通っていた神戸の絵画教室で絵を描く2時間を確保するのがやっとだった。私の方はそれに甘えて、授業(→「教室で」、5月21日)と「ホームルーム」(5月24日)と課外活動(→「顧問」、5月30日)を優先する毎日だった。若かったとは言え、よくも妻の体が持ってくれたものである。私は丈夫に生まれついているようだが、妻は元々体も弱かったので、この頃のことを思うと心が痛む。「中朝霧丘」(6月17日)は妻が住んでいた家だったので、その点は気が軽かったようだ。父親は伴侶をなくして以来の一人暮らしで老け始めていたが、目に入れても痛くない娘が突然孫を連れて帰って来たので、一目見てもわかるほど若返っていった。小さい頃も娘は親と離れたがらなかった。保育所に預けてもよく熱を出すし、出る前は悲しげに黙っていることが多かったので、お爺ちゃんといられるのは何よりだった。二人の相性もよく、二人でいるのが楽しそうだった。息子が出来た時は、すでに大学院生活が始まっていたので、私が母親役をさせてもらい、2時間おきにミルクもやった。妻の大変さをしみじみと思い知った。

明舞団地

 明石の住み心地がよかったのは家の居心地よかったことが一番だが、人が多すぎず少なすぎずという人の数や、城もあって気軽に行ける魚の棚があるという街の造りも影響があったように思う。大学の時に三宮(↓)で国鉄から阪急に乗り換える時も、明石から満員電車で大阪の梅田の地下街を通った時も、大都会の人混みの多さに気が滅入って、疲れ果てた。満員電車の中で嗅いだ神崎川の悪臭は、窓が閉まっているのに臭って来るほど強烈だった。大阪工大の夜間授業が終わって帰る時は、大阪駅で人と座席を争う気になれずに、逆方向の新大阪駅まで行って列車に乗っていた。三宮で満員電車に乗る気になれずにやり過ごしていたら、最終列車になってしまったこともある。それでも、ほぼ満員だった。もう少し大都会を避けられない生活が続いていたら、どうなっていたか。

 その点、明石はちょうどいい加減だった。魚の棚なども含めて、城下町の造りが今に生きていたからかも知れない。ときたま、土曜日に時間を見つけて新幹線で京都の錦市場(↓)に出かけていたが、当時も結構な賑わいがあった。(→「藪椿」、3月2日)魚の棚のことを考えるときは、いつもこの錦市場と比較してしまう。地の利を得て、北陸からくる新鮮な海産物などや四方八方から来る人がたくさん集まり、地域にも深く根付いているようだった。明石より規模もかなり大きい。Covid 19騒動の前は、外国人観光客が溢れて違う市場になってしまったと嘆く人も多かったと聞く。コロナで観光客が来なくなったあと、市場はどうなったのか。観光客の受け入れが再開されて、今後はどうなって行くのか、少し気掛かりだ。地元に根付いたあの賑わいを取り戻してくれることを祈るばかりである。

 魚の棚辺りの市場は平安時代に豊かな地下水を利用して京都御所に新鮮な魚を納める店が集まったのが始まりで、今の魚の棚市場の原型は江戸時代の初めに築城された明石城とともに生まれたらしい。宮本武蔵が城下町の町割りの設計を担当したとは知らなかった。町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町、西魚町などの商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区と線引きし、城に近い一等地に魚町を置いたらしい。当時から明石では魚が重視されていて、その東魚町、西魚町にあたるのが現在の魚の棚商店街の原型だそうである。ゼミでいっしょだった人の家は樽屋町にあると言っていたから、中心街より少し西側に住んでいたようだ。

 全長350メートルのアーケードに、特産の魚介類や練りもの、海苔やわかめなどの乾物を扱う100余りの店舗がある。私以外は魚も好きなので、買い物は新鮮な魚が主だったが、通りの曲がり角に新鮮な野菜の店もあり、和菓子屋さんもあった。英語学の助教授の人の所に持って行く丁稚羊羹は駅デパートでも買えたが、名店にあぐらをかいているのか態度が横柄で買う気にはなれなかった。

 小さい頃から魚類は臭いが苦手で食べないが、海がそう遠くないのに新鮮な魚が出回らなかった地域だったことと、給食の影響が強かったと思う。古い鯖をよく吐いた。他にもゴムのような牛肉や特有の臭いのきつい鯨やそれで作った肝油、粉臭い脱脂粉乳に硬い味気ないパン、よくもこれだけ食欲を殺ぐものばかり集められたものである。今でも、魚も肉も苦手だ。魚の棚に並べてある魚は昼網と言われて、生きているのも多かった。目板鰈と海老、鯵などをよく買った。目板鰈と海老はいきたまま鍋に入れるので、鰈がわしがってるよ、と妻がよく言っていた。鰈も海老もほとんど臭いがしなかったので、この時期は普通に食べていた。妻の父親が魚を捌いてくれた。魚の棚が毎日の生活に入り込んでいたということだろう。そんな市場に、私は自転車で買い物に出かけていたわけである。
 次は、台風1号、か。

明石

つれづれに

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つれづれに:明石城

 7月(↓)になった。今年の梅雨はかなり短かったと聞く。週末から一週間ほどあまり天気がよくないようなので、その期間に植え替えないままの胡瓜を5本、植え替えてしまおう。今の陽射しだと、植え替えても即枯れてしまいそうだから。昨日、陽が沈みかけのころに畑に出て畝も準備済みである。

青い街2:「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬~」7月

 親子3人で転がりこんだ「中朝霧丘」(6月17日)の家の辺りも坂の多いところだった。東隣りの神戸市は更に坂が多く、傾斜のかなりきつい坂も少なからずある。6年間通った神戸市外国語大学や隣の神戸大学も、大学院入試でもみくちゃにされた甲南女子大(→「分かれ目」、6月11日)も、坂の途中にあった。年寄りや足の弱い人には、住みやすい街とは言い難い。家の周りの道路はほとんど舗装されていて、坂を北の方の登れば神戸市の伊川谷町で、1966年に出来たらしい神戸学院大(↓)があった。

 歩いて行ける範囲内である。後にその大学に非常勤に行くとは思わなかった。土曜日の一日3コマの授業を頼まれて、周りが畑や田んぼだらけの道を自転車で通った覚えがある。宮崎に来てからは一度も行ったことがないので当時と比べようがないが、辺り一帯はすっかり住宅地に変貌しているのではないか。

 大学6年間は利用した自宅からの最寄り駅と阪急に乗り換える三宮駅とのちょうど真ん中辺りに明石駅があったので電車が通過してはいたが、わざわざ降りて魚の棚に行ったり、明石城公園内を歩いた記憶はない。明石より少し西寄りの田舎町から見たら、「明石」(6月16日)は神戸の手前の冴えない小さな街だと考えていたからか。明石駅の一つ西の西明石駅までが複々線だったので、西明石駅か明石駅で空いた各駅列車に乗り換えることもあった。その時、明石駅の高架のホームからは明石城(↑)や、日本標準時東経135度の子午線上に建つ天文科学館(↓)がよく見えた。高架駅の営業開始が1964年らしいので、今と同じ光景を何度も見たはずである。

 山の中の大学まで行くのに時間がかかったとはいえ、毎日授業(→「教室で」、5月21日)と「ホームルーム」(5月24日)と課外活動(→「顧問」、5月30日)に一杯一杯だった時に比べれば、ずいぶんと贅沢な時間だった。子供との時間や買い物や散歩の時間もぐっと増えた。基本は自転車と徒歩だったが、バスと電車を使えばほとんど不自由を感じなかった。家から自転車で少し南に行って国鉄と私鉄の線路を渡れば大蔵海岸(↓)で、海岸線を東に行けば舞子や須磨の海岸である。須磨まではだいぶ距離があったが、舞子までは自転車だとそう時間はかからなかったので、時々でかけた。舞子ヴィラにはしゃれたレストランもあって、家族ででかけた。

 海は宮崎のほとんど水平線だけの日向灘とは違って船も行き交い、淡路島も見え、水もとてもきれいとは言えなかった。海岸線沿いは国道2号線付近は頻繁に行き交う車で空気も汚れていたが、慣れればそれもなかなか、妻などは毎朝朝霧駅横のマンション(↓)近くの坂から海を見て、今日も海は広い、とひとり悦に入っていた。

 毎日ばたばたと時間に追いまくられていたので、自由な時間は何よりだった。自転車で明石城公園まで行って、歩いて城跡の階段(↓)を昇り、ぐるーっと公園内を歩いて回ることが多かった。大学に通う途中の明石駅で乗り換えた時に高架の駅のホームから見ていた明石城側から、逆に駅のホームを眺める日が来るとは思ってもいなかったし、明石に移り住むとも思ってもいなかったが、住んでみるとそれなりにいい所だったように思う。
次は、魚の棚、か。

つれづれに

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つれづれに:言語表現学会

 中間管理職を利用して体制強化を目論んで創られた(↑、→「大学院大学」、6月13日)とは言え、院に通う「学生」が日常で文部省の目論見を感じることはなかった。多少年嵩は行っているが、誰もが授業に出て講義を受け、学期末には試験を受け、昼は学生食堂に行き、空き時間や放課後を利用して図書館(↓)に通うという「普通の」学生生活を送っていた。出来る限り大学に行かず、授業に出る回数を如何に減らすかに腐心し、図書館や学生食堂があることにも気づかなかった学生は、大半が教育系出身の現職教員の中では、今も昔も天然記念物だろう。

 国語と英語の壁を取り払う「言語表現」が目玉だっただけあって、入学した時点で自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。経緯はどうであれ、業績が必要だった私には「黒人研究の会」とは別の発表の場があるのは有難かった。修士課程が終わるまでに、「言語表現」(↓)で1本、「黒人研究」で2本が活字になった。口頭発表も合わせて5回ほどさせてもらった。何の準備もなかった2年間のわりには、最低限はやれたようだ。それが精一杯だった。どちらも業績欄に項目がある。

 今更授業でもなかったが、教養科目も含めある一定の単位は必修で選択の余地はなく、仕方なく授業(↓)を受けた。教養科目は教員がついでにやっている感じのものが多かったようだが、たしか2つか3つで済んだのは何よりだった。(→「キャンパスライフ2」、6月15日)専門でも出来るだけ嫌なものは避けたかったが、英語教育の枠で英語教育法と英語評価論、言語学の枠で理論言語学というのが厄介だった。ただ、現職教員を再教育して元の学校に戻すという暗黙の諒解の下に、あり得ない答案でも、優はつかないまでも可くらいはくれる仕組みのようだ、と勝手に決めつけていたから、何気に気持ちは軽かった。しかし、英語評価論と理論言語学は、箸にも棒にも掛からなかった。担当の3人とも異動組ではなく呼ばれた口のようだった。ごくまともな感じがしたので、少し後ろめたさは感じたが、仕方がない。

 私より若い学生は二人だけで、四十代も何人かいた。いっしょに英語評価論の授業を受けた人で一人、この人大丈夫かいな、これで人に授業出来るんやろかと心配した人がいたが、小学校の教員だったと聞いて少しほっとした。卒業間際に神戸のデパート前(↓)で遠くから見かけたとき、東北に帰る前に目一杯買い込んだようで、土産の神戸風月堂の袋を両手に一杯にぶら下げていた。家族で歩いていた光景は何だか微笑ましかった。児童には優しくて、いいせんせなんだろう。まったく問題なしである。

 言語系英語の14人は大学(↓)の寮か近くに住んで、上の何人かの人柄がよかったのか、仲もよかったようで、いっしょに飲んだり勉強会もしていたようだ。私は別枠で考えてもらえていたようで、教育系にありがちな押し付けもなかったし、毎回誘ってもらうのも悪いので、勉強会に一度だけ行ったことがある。運用力がうるさく言われていない時代にしては、英語の運用力のある人も多かった。一番年上の52歳の人は温厚で、言葉遣いも丁寧、おまけに英語の実力もありそうだった。東京の公立中学校で全部英語で授業をしているらしく、教生(Student Teacher)がその人の学校に実習に来た時の話はおもしろかった。教室の後ろに立っていた教生に、その人は教壇から"Why don’t you sit down?"と話しかけたら、教生はもじもじしながら"Because….”と口ごもったとたん、生徒がどっと笑い出したということだった。毎回英語で授業を受けている生徒の自然の反応だろう。その話を「黒人研究の会」の例会でしたら、外大の院を出た後、非常勤をしていた人が「Because….ではいけないんですか?」とぼそっと呟いていた。ことさら英会話、英会話と言い過ぎるのも考えものだが、"Why don’t you~?"の話を聞いて、想像力を働かせるくらいはしたいものである。英語が使える学生は、口でこそ言わないが、英語の授業では相手にもしてくれない。

 3学期制のおかげでアメリカに行く前に取れる単位はすべて終わり、9月からは週に一度、ゼミの時間に行けばよかった。「ゼミ選択」、6月14日)
次回は、明石城、か。