つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:中朝霧丘

 梅雨の合間は曇り空でも、雨が降らなければ充分に有難い。雨で潤って、畑の野菜もずいぶんと大きくなっている。春先に一斉に虫が葉を食い漁って深緑色の糞まみれの惨状になるが、ある時期を過ぎると一定の状態で落ち着くようである。あれだけやられていたレタス(↓)も虫にやられないで、一部が生き残っている。葱(↑)は温度が上がると自然に消えてしまうようだが、一部の根を丁寧に植え替えた分が辛うじていくらか生き残っている。

 朝霧丘(あさぎりおか)は優雅な名前である。転勤で各地を回って引っ越しを繰り返していた妻の父親が、将来4人の子供たちが集まりやすいようにと、日本のほぼ真ん中にある明石に家を買い、瀬戸内海が一望できる坂道のお寺に墓を買ったと聞く。東京にいる子供が、今墓参りに来てるで、と電話をしてくることがある。最初は墓参り?と不思議だったが、仕事で福岡に行ったり来たりする途中に、生まれた家が懐かしいのか祖父と住んでいた頃を思い出すのか、時たま寄るらしい。結婚した彼女を連れて行くこともあるようである。楽しそうに暮らしているのが何よりである。
朝霧の家を買った当初は周りに家も少なかったらしいが、3人で転がり込んだ頃は、坂の上の方まで家で一杯だった。百坪余りの家の前は溝になっていて、三方を四軒の家に囲まれていた。家の少し離れた東側に明石と神戸市の舞子の巨大な明舞団地(↓)が出来て、行き交う車の数も相当なものになっていた。人口が多いと交通の便もよくなり、インフラも整備されていく。病院も多く、子供は二人とも明舞団地の大きな病院で産まれた。家の南側に少し離れて幹線道路が通っていて、明舞団地行きのバスも結構な数で走っていた。普段は明石駅まで自転車を使っていたが、バスも本数が多いので使い勝手があった。

 人は生まれながらにして思い切り不平等である。結婚しようと言ってうんと言われ、一ヶ月余り先にはいっしょに暮らし始めていたので、お互いのことをよく知らなかったと、暮らしてから少しずつわかり始めた。四国、西宮、明石と中朝霧丘と移り住んで、その度に転校やったから大変やったよと言っていた。社宅に住んでいたとも言ってたので、県営住宅や市営住宅かと思っていたが、よく聞くと工場長の社宅で、500坪ほどあったようである。お手伝いさん用の部屋や電話ボックスもあったらしい。明石に来たときは大学の付属中学に入れてもらったらしいが、進度の違いで数学に苦戦したと言う。6畳と4畳半のバラックで消防署から屋根の油紙をトタン板にするように改善命令が出た生まれた家とは別世界である。とても同じ時代に生きていたとは思えなかった。

住んでいた家の近くにあった紡績会社の一般社員向け長屋住宅

 明治生まれの父親は母子家庭、奨学金で工学部を卒業、妻の母親とは大恋愛の末に結婚したと言っていた。結婚の日に初めて会った私の両親とは、また別の世界に住んでいたようである。戦前は大学への進学率の1パーセントほどだと聞いたことがあるが、富国強兵の時代には工学部は花形、予算も多く、優秀な人材が集まったようである。卒業後は大手の紡績会社に就職、絹織物主体の時代の「女工哀史」に描かれた織子たちが貧しかった分、工場長の待遇はよかったようである。子供3人を東京の一流大学にやり、都会に一軒家を購入、借金もせずにそれが可能だったようである。ガーナ赴任の話もあったようだが、工場長で退職、その後関連会社に就職したらしかった。妻の母親は腎臓を悪くして、苦しんだ末に亡くなったようで、会えずじまいである。妻を亡くし、老け込みかけた頃に、ある日突然、娘夫婦と孫3人が家に転がり込んで来た、というわけである。
次は、修士論文、か。

住んでいた家の近くにあった紡績会社

つれづれに

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つれづれに:明石

 梅雨に入ると、雨の合間に晴れてくれる日があるとほんとうに助かる。日曜日の晴れ間は有難たかった。雨が続くと地面の乾く暇がない。畑の表面の土が流されるし、虫を追い払うためにせっせと撒く希釈した酢も流されて効き目がなくなってしまう。梅雨前に何とかとまとの柵をと思って2つ目の柵(↑)も出来た。不要になったカーポートの重たい鉄製の門扉と竹製の座机の厚いガラス板を使った。排水を考えないといけないがそれでも何とか雨よけにはなってくれるみたいで、とまとも順調に大きくなっている。どんな実がなるのかわからないが、少しは生ってくれることを願うばかりである。

 結婚を機に家を出て、東隣の明石に移った。婚姻届けは明石市に出し、今後の手続きのことを考えて、ついでに本籍も同じ住所に移した。最初は朝霧駅の近くのマンションに2人で、子供が出来てからは新しく出来た職員宿舎に3人で、そのあと宮崎に移るまで、妻が父親と暮らしていた中朝霧丘の家に転がり込んで4人で暮らした。マンションと中朝霧丘の家は明石市の東端にあり、少し東に行けば神戸市の舞子である。職員宿舎は市の西の端にあり、すぐ西側が隣の市で、田圃や空き地も多かった。明石は生まれて育った地域と大学のあった神戸の東端とのちょうど真ん中辺りにある。マンションと中朝霧丘の家の最寄り駅は朝霧駅(↑)で、一つ西に行けば明石駅だった。その先が西明石駅、そこまでが複々線で、新幹線の駅もある。海岸線に沿って私鉄が走っていて、便利なところである。

 明石駅の北側には赤松藩の明石城(↑)があり、広い公園になっている。最近県が一方的に大木を切り倒すことを決めて明石市側とずいぶんと揉めていた。よく散歩にでかけていたが、樹を切り倒す必要性の全く感じられない静かで緑豊かな公園である。海側には明石港があり、淡路島の南端の岩屋とを結ぶフェリー乗り場がある。バスケットボールの県大会の付き添いでは、女子のチームとこの乗り場からフェリー(↓)に乗った。(→「県大会」、5月16日)舞子から岩屋に架かる明石海峡大橋が出来たのが1998年、宮崎に越してきて10年ほど経った頃らしい。大橋が出来ててっきりフェリーはなくなっているものと思っていたが、航路廃止を反対した自治体が出資して運行を続けているそうである。

 駅から港に行く間に、魚の棚(↓)がある。水揚げされた魚や蛸が売られている。昼網とよばれ、新鮮で生きて動いている海老や蛸や魚も並べられていた。海産物は臭いが苦手なので食べないが、ここで買っためいた鰈(かれい)や海老は、生きたまま料理をしてくれていた。ほとんど臭いがしなかったので、食べていた時期もある。海産物以外にも野菜や干物や和菓子などの店もあった。もちろん、名物の明石焼きの店も何軒かあった。二人で帰りに寄ったり、週に何度かは出かけていた。

 生まれて育った家ではあまりいい思いをしなかったし、学校にも地域にも疎外感しか感じなかったが、明石ではその凝り固まった気持ちが、少しずつほぐれて行った気もする。大学が決まったときは、家族で宮崎に来て借家を借りて暮らし始めた。
 次は、中朝霧丘、か。

借家からよく行った宮崎神宮

つれづれに

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つれづれに:キャンパスライフ2

 今年の九州南部の梅雨入りは平年よりずいぶんと遅い。毎日季節を肌で感じながら生きるのは、なかなか難しい。それだけ雑事に追われているということか。小満の時期もとっくに終わり、芒種(ぼうしゅ)が6月6日から始まっていることにも気づけずじまいだった。あと1週間もすれば、夏至が始まる。 芒種は、稲や麦など穂の出る植物の種を蒔く頃のことらしい。宮崎の場合は超早場米なので、3月に田植えが終わり、今はすでに稲の緑の若葉が瑞々しい(↑)。先週の金曜日に白浜にでかけるときに、風にそよぐ若葉が瑞々しいと感じた。瑞々を水水と書いてもいいくらいだった。季節の勢いである。

 2度目のキャンパスライフ(↑)だった。1度目は行くところがなく、すべてを諦めた末に(→「諦めの形」、3月26日)、2度目は先のあてもなく大学の職を求めて、である。それでも1度目は、気持ちが萎えていたお陰で入学式に行き、全共闘のマイクのがなり声を聞き、すぐあとにはクラス討議、学舎封鎖に機動隊による強制撤去(↓)と思わず貴重な体験(→「大学入学」、3月27日)をした。2度目は推薦書で怒鳴られ、入学試験で罵声を浴びせられ、もみくちゃにされて(→「大学院入試2」、6月10日)。歴史の生き証人みたいで、スリルは充分に堪能はしたが、あれだけ罵声を浴びると、なんだか裏口入学しているような気分になった。「後ろめたい」ので2度目は入学式には行かなかった。(→「院生初日」、6月12日)いずれにしても、希望に燃えて胸を躍らせながら、とは程遠いキャンパスライフである。今回は修士論文を書いて修士号を取ると目的がはっきりしている。時間は短かい。明石からは国鉄とバスをつかっても山の中まで2時間はゆうにかかる。

 目下の第一目標は出来るだけ大学に行かない、である。3学期制のようで、1学期に単位を取れば2学期からは週に一度のゼミの日だけで済むようだった。幸い、在職のまま再養成をして元のところに戻すというのが双方の暗黙の諒解のようだから、単位は取りこぼさなくて済みそう。ただ1回目と違って、四分の三以上の出席が必須のようだ。教育系らしい。四分の一は出ないとして、制約の中で工夫するしかない。一般教養の何コマかが必須である。1度目は何も期待してなかったわりには、専門の「英作文」(4月2日)や「一般教養」(4月8日)でも少しは楽しめたし、「ロシア語」(4月5日)ではスリルも味わえたが、2度目はまったく楽しめなかった。4分の3を消化しただけだった。キャンパス(↓)にいる時間が短かったせいか、学生食堂にも図書館にも行かずじまいである。どちらにも顔を出さなかった唯一の「学生」だったかも知れない。教育系なので記録は更新されていないはずである。

 昼休みのあとの一般教養の時間は一番後ろの席に座り、終了時間の二十分程前にそっと抜けた。バスに乗るためだった。駅までのバスも山の中の列車も一日に数えるほどで、その列車を逃すと明石(↑)に帰るのが夕方過ぎになる。家事も子供の世話も妻に任せる時間が多かったお詫びに、出来る限り家事も子供との時間も取りたかった。
次は、明石、か。

つれづれに

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つれづれに:ゼミ選択

 九州南部は何日か前に梅雨入り宣言、雨の日が続く。紫陽花(↑)の季節である、と言いたいところだが、宮崎では紫陽花もそろそろ終わりである。

「英文学1」を避(よ)ける方法が最初の問題だったが(→「大学院大学」、6月13日)、給与も出て修士号も取れるのだから、不満があったわけではない。しかし、2年間は短かい。修士論文の目安をつけて資料を集め、一日も早く書き始めたい、その気持ちは強かった。先ずはゼミ選択である。教員の構成から見れば、選択肢はないのだから「英文学1」のゼミを取るのが普通だが、出来れば避(よ)けたかった。最初の教員紹介で「英文学1」は、広島大出身、和歌山在住、2年前まで大阪の教育系の大学で教授、自宅からは大阪からの高速バスで山の中の新校舎に来学、大学近くの教員宿舎に単身赴任、英文学でキーツが専門、ということだった。物腰も柔らかそうで、言葉遣いも極めて丁寧、英文学専攻だけあって、いかにも英国紳士風だった。だが生憎、私は「英国紳士風」が大の苦手ときている。英文学に詩、何とか避(よ)ける方法はないものか。言葉とは裏腹に、日本の「英国紳士風」な人が、髭や反体制風をすんなり受け容れるとは到底思えない。信用されないまま丁寧な物言いに合わせるしかない自分の姿が、目に浮かぶ。英語学の助教授が素朴な感じでいい。研究室を訪ねてみるか。

 次の日、さっそく研究室を訪ねた。結婚を期に家を出て、最初は明石市の東端の朝霧駅近くのマンションで暮らし始めたが、子供が出来て新築の職員宿舎に引っ越しをした。明石市の西の端にあって、学校へは自転車で通えた。しかし、両方に仕事があると、小さな子供との生活はなかなか大変だった。すぐに熱を出す。幸い保育所には預かってもらえたが、母親といっしょにいたがって体が反応するのか、ほんとうによく熱を出した。なかなかすぐには下がらない場も多く、タクシーが来なくて妻が一人で病院まで歩いて連れて行ったこともある。この時期、母親の借金のことや課外活動もあって、妻に負担がかかり過ぎた。ある日、家に帰ると、朝霧に帰ると妻が言った。父親が一人で住む朝霧の家に三人で転がり込むことを決めたようだった。

海側からの朝霧駅

 明石の名産丁稚羊羹(でっちようかん)を持って出かけた。赤松藩なのになんで丁稚羊羹なのか、さっぱりわからない、と出版の打ち合わせで横浜の出版社を訪ねた時に、持って行った丁稚羊羹を眺めながら社長さんが言っていた。なんでも知っている人のその時の質問の真意はさぱりわからないままである。英語学の助教授は四十代の初めくらいで、院生からは少し軽く見られているような感じがあった。院生の年齢が高いせいもあったかも知れない。あまり学生も来ないようで、嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。英語学の枠で採用、前任は九州の医科大、アメリカ滞在の経験あり、文学もやっていた、職員宿舎住まいで女のお子さんが二人、そんな話だった。アメリカに滞在、文学もやっていた、それで充分である。出来ればゼミを持ってもらえませんか、英文学、英国紳士風はどうも苦手で、私からはそんな話をした。いちおう上とも相談して後日にまた、ということでその日は終わった。後日、私としては持ってあげたいんだけど、中の事情もあって、また遊びに来なさいよ、ということだった。専攻も違う助教授が文学の教授がいるのにアメリカ文学を指導、というわけにはいかなったようである。英国紳士の面子(めんつ)もある。とその時はそう思っていたが、後に大学院を担当する立場になって、学部より大学院の予算ははるかに多く、修士論文指導の院生を持てば、手当てがつくと知って、なるほどそういう事情もあったのかと合点がいった。しかし、ものは考えようである。アメリカ文学を知らない人ならいちいち口出しされなくて済む、指導教官がいないのと同じなら、好き勝手にやれるということである、その切り替えは早かった。修士号が取れれば文句なしである。
次は、キャンパスライフ2、か。

明石