つれづれに

 

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:受験英語

移転先の新校舎

 思わずなったので(→「街でばったり」、5月13日)教員としての毎日を考えたこともなかったが、やってみると毎日がばたばただった。課外活動(→「顧問」、5月30日)も「ホームルーム」(5月24日)も時間はかかったが、やはり一番時間が多かったのは授業である。50分15コマ、行事などの日以外は毎日ある6コマの授業時間の半分は、授業に行っていたわけだ。
関学に10人を入れるために英語でクラス分けをしてがんがんやる、というのが「学年の方針」(5月23日)だったので、結果的には初めて受験英語をするはめになった。自分がするわけではなので、正確には、受験勉強で効果があるのは何かを考えて工夫するはめになった、か。授業では学年で採用した教科書を使うので、担当者の工夫の余地はそう多くなかった。内容はそう難しくないし、量も少ないので、「家庭教師」(4月10日)の時と同じでさっとやって繰り返すのは効果があるとは思ったが、それだけでは「関学に10人」が実現するとは思えなかった。合格できる点数を取るには、何か骨子になるようなものが要る、そんな気がした。
単語だけを覚える人もいたが、言葉が単独で使われる場合は少ないので、前後も含めて考える必要がある。surpriseはサプライズ!サプライズ!など普段でも使われているが、動詞で使う場合も多い。元々「驚かせる」という他動詞だが、"I was surprised at the news."のように過去分詞が形容詞として使われることが多い。"The news surprised me."よりも"I was surprised at the news."として使われている。こういう形式は多く、"be surprised at"を塊として考えれば、be pleased with, be satisfied with, “be interested in" など、かなり他にも応用できる。単語一つではなく一つの塊、この場合は句として考えれば応用範囲も広がる。日本語で「約束する」は”make a promise"、「決心する」は”make a decision"など、ある名詞に使われる動詞はある程度限られている。日本語の「~する」につられて”do a promise"や”do a decision"とは言わない。動詞と名詞を一つの塊、この場合は熟語として考えればやはり応用の幅も広がる。”It is important to listen to many opinions.”のように形式主語を置く英語と日本語の構造的な違いを理解したうえで、慣用的に覚えるのも必要なようだ。Itは形式主語で、to以下の不定詞句が実質的な主語、不定詞は元々は「不限定動詞」で動詞が派生したもので、分詞、動名詞と併せて準動詞と呼ばれる、というような文法的な意味合いを考えれば理解しやすい。そういった句や文の構造を系統的にたくさん集めたものはないかと考えた。理解したうえでしっかりと骨子になる部分を覚えれば、効果がありそう、そんなことを考えて、参考書を探してみた。色んな出版社から色々出ていたようだが、取り敢えず美誠社の『英語構文150題』(だったように思う)を使ってみることにした。授業に行っていないクラスの生徒にも買ってもらい、学年全体で使うようにした。

手元にないので探してみたら「新」版が見つかった、著者も同じである

 ここからはお節介である。毎回の授業に短い時間で使う構文と例題のプリントを拵え、学年全体で毎時間使うようにあいた。全部でたぶん1000近くの例文があったと思うが、定期試験にも何割か組み込み、全例文の一覧も作って、繰り返し、繰り返し使った。毎時間、覚えて来て発表もしてもらった。3年間繰り返しやったので、ある程度の効果があったのではないかと思う。少なくとも、英語に割く時間が増えたのは確かだろう。最初から意図していたわけではないが、「言葉は習うより慣れろ」を実践していたかも知れない。今のようにパソコンが使えるわけでもないので、ガリ版刷りの原稿を鉄筆で書くのもそれなりに大変だった。毎回短いコメントを入れ、妻に挿絵を描いてもらった。印刷は事務員の人に頼んだが、わりとヒステリックな人で、調子のいい時はよかったが、機嫌の悪いときは非常に気を遣った。頼むのが億劫な時は、その人が帰宅したあとで自分で刷った時もある。
ただ、言葉は本来使うためにするものだから、受験勉強は別物である。言葉は間違って覚えるものだが、受験英語は「間違わない」が基本だから、根本的に違う。従って、受験英語が出来ても、実際の場面では役に立たない場合が多い。使えるようになるためには、やぱり使うしかない。いい点を取るために、自分に言い聞かせて覚えたり、無理やりさせられていると感じたり、心理的な悪影響も大きい。学年全体で関学に10人は少し足りなかったと思うが、関大などにも何人か行ったし、浪人も含めると目標は一応達成したかも知れない。修学旅行で梓川を渡った生徒も、社会をせずに受験して関学の社会学部に行った。英語が飛び抜けてよかったということだろう。数学は欠点続きで教師に虐められていたが。ただ、卒業後もうまく行ったかどうか。授業をするのは楽しかったが、「がんがん」やる授業で嫌な思いをしなかったかどうか。そんな思いは残っている。関学に合格したあと、母親といっしょに遠くから家まで来てくれた人もいる。母親は入学した時には考えてもいなかったらしく、よほど嬉しかったのだろう。関学ではないがそこそこの女子大に行き、JALの客室乗務員になって行く先々から何年か絵はがきを届けてくれた人もいる。どちらも2年間担任をした。
顧問として自分の出た高校に行くことがあった。挨拶に体育館の顧問部屋に行ったら、少し嫌味を言われた。普段通り下駄を履いていたからか、髭が気に入らなかったのか。顧問は体育会系の人が多いので近寄らないようにしていたが、練習試合をしてもらう手前ずっと断るわけにもいかず、一度飲みについて行ったことがある。行き帰りの車の中で、普段の様子を色々聞かれた。ホームルームや受験英語で毎日アップアップですよ、と今回書いたような話をした。私がその人とは違う範疇にいると諦めてくれたのか、そのあと、少し風向きが変わった。体育会系はわかりやすい、というか。医者に警察に軍隊に体育会系にやくざ、どうもものごとを縦に並べないと気が済まないらしい。その人も、私を自分の下に並べたくて茶を淹れさせようとしたり、下駄や髭に文句を言ったり。従わせるより兄弟分にする方が楽だとわかって横に並べたら、下駄や髭も気にならなくなったのか。まことに魔訶不可思議な世界である。

高校のホームページから

 次は、英語版方丈記、か。

つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合3

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 反体制ーグギさんの場合の続き、今回は言語についてである。グギさんは母国語のギクユ語で書き始めた。それまでジェームズ・グギの名で作品を書き、欧米でも評価を受けてきた。しかし、考えればおかしな話である。日本人が日本語で書かずに英語で書いて評価を受ける、実際にはそんな状況は考えられない。しかし、第二次世界大戦では台湾や韓国で日本語を強要しているし、アメリカに英語を強要さる可能性がなかったとは言えない。北海道はロシア語、本州は英語などという案もあったそうだから、荒唐無稽という話でもない。ハラレ(↓)のジンバブエ大学で出会った学生(「アレックス」)に、日本は経済力があるのだから日本語をしゃべらせればいいのに、と言われたことがある。私が滞在した1992年の百年前にはほとんど白人がいなかったのに、南アフリカケープ州から私設の軍隊を引き連れて第2の金鉱を探しに来たイギリス人入植者にそのまま居座られ、家畜や土地を奪われた末、侵略者の言葉である英語を強要された。私が滞在した大学では、9割がアフリカ人なのに、授業は英語で行われ、アフリカ人同士が英語でしゃべっていた。僅か100年の間の変わりようである。

 1949年生まれの私は戦後の急速なアメリカ化(→「戦後?①」、2021年11月24日)→「牛乳配達」、3月30日)に馴染めず、英語は侵略者の言葉で抵抗があった。まさか英語をやって教員になるとは思ってもいなかったが、考えれば、英語の教師の定員が多かったから、職の間口が広かったから可能性が大きかったわけである。言い換えれば、学校での英語の時間の占められる割合が多かったから、職の間口も広かったからに他ならない。大学の職を探した時も30を過ぎてから院に行き、非常勤をしながら専任が見つかったのが40前だが、それでも英語だったからである。元々職の定員が少ければ見つけようがない。東京外大のモンゴル語を出て、そのまま修士、そのあと早稲田で博士号を取っても、短期の助手の口はあっても、専任にはなれずにいる人もいる。
前回紹介したケニアの文化状況(→「反体制ーグギさんの場合2」、6月3日)でも、侵略者の言葉も含め、毎日の生活でいかに外国資本に食い物にされているかが力説されていた。『作家、そのの政治とのかかわり』の五章「ケニアの国民文学と文化の基礎としての民族語」でグギさんは文学と言語について次のように書いている。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 「これまで英語でケニヤ(↓)の作家によって生み出されてきたものは、決してアフリカ文学ではありません。それはアフリカ系サクソン文学であり、フランス語、ポルトガル語、イタリア語、スペイン語などの外国語でアフリカの作家が創作した文学の体系の一部でしかなく、正確にはアフリカ系ヨーロッパ文学と呼ぶべきものなのです。
ケニアの国民文学は現代ケニアを構成する諸民族の言語によって創作をすべきです。すべてのケニア民族の言葉によって受け継がれてきた豊かな文化や歴史の国民的伝統をうまく使うことによってはじめて、国民の血肉を得ることが出来るのです。つまり、ケニアの数民族のそれぞれの大多数が所属する階層であるケニア農民大衆の豊かな言葉と文化と歴史の源に至るならば、そのとき初めてケニアの国民文学は成長もし、力強く発展もするのです。

 しばらくの間、この言葉の問題についてお話しさせて下さい。どんな言語も物質的な生活を支える人々の生産に社会的な基盤を置いています。つまり、衣食住という生活のための物質的な手段を作り出すために自然と格闘する労働での人類の協力や伝達という実際の活動に基盤を置いているのです。労働、つまり富の生産や交換、分配においては、口頭での手がかりという体系としての言語は、人々の相互伝達の産物であるのです。言語は歴史的にみて、社会的に必要なものとして生まれます。
しかし、やがて口頭での手がかりというある特定の体系が、自然と社会の産物をめぐるふたつの闘いについてのある一定の歴史的な意識を反映するようになります。その人たちの言葉は長年の総体としての闘いの記憶装置となるのです。こうして、言葉はその歴史的な意識のなかの継続性と変化の双方を具現するようになります。言葉が神秘的な自立の源になると考える人がいるのもある一定の民族の総体としての記憶装置としての言語のこういった見方に依るのです。その人たちに共通する主体性の基盤を形成する過去の業績や失敗の民族の総体としての記憶装置を殲滅されるにも等しいという理由から、自分たちの言葉が殲滅されたり、他の言語に完全に同化させられたりしないように、色々な国や民族が武器を持って立ち上がるのも同じ観点に依るのです。それは歴史からその共同体を根こそぎにしてしまうに等しい行為なのです。
歴史はそれぞれ異なった世代の継続に過ぎません。それぞれの世代は前の世代から手渡されたものや資本基金や生産力を利用します。そして、一方では全く違った状況の中で伝統的な行為を継続しながら、他方では、古い状況を全く違った活動に修正するのです。(カール・マルクス)
言葉は、それぞれ違った世代のこうした継続性の産物であり、生活つまりは文化の手段を預かってくれる銀行員でもあり、生産の総体としての経験のそういった修正を反映しています。イメージの中で考える過程としての文学は言葉を利用し、その言葉の中に具現された総体としての経験つまり歴史に迫ります。書くときには、すべての囁きや叫び、泣き声、それに過去の声が発した数々の愛憎を聞かなければいけません。そういった声は決して作家に外国語で語りかけたりはしないのです。
というのも、私たちケニアの作家はもはや『私たちの文学が誰の言葉と歴史に迫るのか?外国語によって伝達された外国の言葉と歴史と文化なのか?あるいは、ルオ語、スワヒリ語、ギクユ語、ルヒヤ語、カンバ語、マサイ語、ギリアマ語などによって伝達された国語と歴史と文化なのか?』という問題を避けることが出来ないからです。
その問題を考えれば、おのずと読者の問題に戻ります。もしケニアの作家が農民と労働者に語りかけたいと思うなら、その人たちが喋る言葉、つまりケニア諸民族の言葉か、ケニアの国語のスワヒリ語で書かなければなりません。そうではなくて、もし外国人や外国語をしゃべる人たちとの意志疎通をはかりたいと望むなら、英語やフランス語やドイツ語のような外国語を使用しなければなりません。もしケニアの作家が過去現在の多くの国民の声から創造的な刺激や活力を得たいと願い、ケニア国民の主流の中にいたいと望むなら、ケニアの民族語を使うべきです。もし外国人の声から創造的な刺激や活力を得たいと願い、外国の主流の中にいたいと望むなら、その時は外国語を利用すべきです。自らが選択を行なうとき、外国語による支配に抵抗するケニア民族語の闘いが帝国主義支配に抵抗するケニアの国民文化のより広範囲な歴史的闘いの一部であることをケニアの作家は忘れてはなりません。」

グギさん

 グギさんは手始めに母国語のギクユ語で描き始め、ギクユ語で書かれた脚本で、農民とともに演劇を始めた。
次回は、グギさんの場合4演劇、か。その前に、受験英語、に戻るかも知れない。

つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合2

 今日は金曜日、マッサージをしてもらいに白浜に出かけた。風のきつい日以外は、曽山寺浜から海岸線の歩行者・自転車専用道路に入る。3週間続けて雨にやられたが、そのあと3回続きで晴れてくれた。橋を少し登ってから見える海の景色(↑)はなかなかである。最近は週に一度手入れをしてもらうペースが出来ている。歳を取るといろいろな所で体が悲鳴を上げるようで、最近はとみに関節の節々が痛くなる。毎回ありがたいなあとしみじみ感じながら揉んでもらっている。
今回は、反体制ーグギさんの場合2である。
前回は『作家、その政治とのかかわり』の序の私の日本語訳を紹介したが(→「反体制ーグギさんの場合1」、6月2日)、今回は、母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳の紹介である。そう考えて書き始めてみたが、量がかなり多いので、また分けることにした。先ずケニアの日頃の文化状況についてである。序では、「毎日の生活を形成する階級の権力構造と文学が無縁ではいられ」ず、作家は「民衆の側なのか、民衆を抑圧し続けようとする社会権力や階級の側なのか」を選ぶしか選択の余地はないと強調している。ケニアの人はどんな文化状況の中で生活しているのか。少し長くなるが、いかに外国資本に食い物にされているかを書いた件(くだり)の日本語訳である。『作家、そのの政治とのかかわり』の第一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)第3章にケニアの文化状況が詳しく書かかれている。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 「ケニア人の文化―生きのびるための国民的な闘い」の中の以下の件(くだり)である。
「今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくり仰天すると思います。
そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう。配給映画は、インドシナのアメリカ帝国主義的冒険主義に少し批判的な『帰郷』などの穏やかな秀作から、最後の審判の日や人類の文明の終末という意味で言えば、変革や変革の可能性が見られる『オーメン』や『マジック』などの大量生産された知性のかけらもない駄作まで様々です。変革の手先は悪魔なのです。ヒーローたちは(もちろんすべてアメリカ人ですが)、アメリカドルと銃によって保障されている現在の安定を脅かす、黄泉の国あるいは宇宙からきた悪漢と闘う人たちです。
同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません。このように、ケニア人の読者に開かれたマスコミの二大手段は外国人帝国主義者の会社が所有しているのです。編集者はケニア人かも知れません。しかし、編集方針と外国人所有者の間で意見の食違いが合った時は、譲らなければならないのは、ケニア人側なのです。
訪れた人でもしケニアの出版社をみたいとしたら、ハイネマン、ロングマン、オクスフォード、ネルソン、マクミランなどの有名な外国の会社のケニア人の支局長が温かく歓迎してくれます。ただひとつの例外は、ケニア政府所有のケニア文学局です。そういった出版社はケニア人によって書かれた本を出版することもあります。しかし、本の出版は質量ともに外国人の思いのまま、手の内にあるということです。

ゴンドワナ創刊号(横浜:門土社、1984年9月)

ハイネマンアフリカ支社長ヘンリー・チャカバさんの祝辞

 さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉を換えて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なものを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです。この過程は子供たちが勉強するように仕向けられる文学によってその速度が加速されます。だから、シェイクスピア、ジェーン・オースティン、ワーズワースがケニアの学校の文学の分野でいまだに支配的なのです。ケニアの言語状況は、ケニア人(大半は農民)の九十パーセント以上が、書かれた言葉で行なわれている国民的な論争にまったくと言っていいほど関わりを持っていないということになります。」
文学も「毎日の生活を形成する階級の権力構造」と無縁ではいられず、「民衆の側」を選択した作家として、ナイロビ大学の教員として文学部の三大企画「ケニアの学校の教材として相応しい文学の検討、文学と社会に関する連続公開講座、無料移動劇場」にグギさんは取り組み、「リムルの農民や労働者の文化活動」に深くかかわる中で反体制の色が濃くなった。その手始めが母国語のギクユ語で書き始めることだった。農民が読めないと話は始まらないからである。その現状のなかで、ケニアの人たちは何をすべきか。

ナイロビ大学

 「ケニアの人々は歴史を振り返ればいいのです、そうすれば他のものをやみくもに真似てみたり他人と同じことを繰り返してみたりして栄えた文明があったためしがないことに気付くでしょうし、いかに意志があり、賢明で才能に恵まれていても、或いはいかに独創的であっても、外国人が私たちの文化や言葉を私たちのために発展させられはしないことも分かるでしょう。ケニアの文化と言葉を発展させられるのは、国を愛するケニア人だけなのです。私たち国民の産物であり、その歴史を正しく映しだしている文化だけが、ケニア人の共同体の最前線にケニアを押しやることが出来るのです。人々が働かないからではなく、富がアメリカや西ヨーロッパや日本の少数の怠惰な階級に食物や衣服を供給したり、その人たちを庇護するために使われているがゆえに、現在、人類の四分の三以上が物乞いと貧窮と死に追いやられているという社会的共食い状況から逃れて、現代の人間文明を打ち建てる手助けになれるのはそのような文化なのです。
帝国主義者と国民の利益の間の現在の文化闘争の中では、世界の農民や労働者から掠め取る儲けを独占出来るロンドンやニューヨークやその他の地位の立場にいる金融業者にたいして破れかけのズボンをはいた慈善家であるこれまでの立場を完全に拒絶した国民の力と自信を現代のケニアの国民文化が反映すべきだという見方を、大部分のケニア人が持ってほしいと私は思います。」

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 「民衆の側」を選択したグギさんは、自らの母国語で書き始めた。
次回は、反体制ーグギさんの場合3、か。ギクユ語と英語を含む言葉についてである。

つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合1

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 今回は、反体制ーグギさんの場合である。
新聞で韓国の詩人金芝河(きむじは)さんの訃報を読み、グギさんの評論の中に引用されていた詩を日本語訳した縁で、金芝河さんに関する「つれづれに」を5回書いた。(「金芝河さん」→「1」、→「2」、→「3」、→「4」、→「5」、5月26日~29日)学生運動の過激派の風貌にたまたま似ていたせいで警官にしつこく職務質問されているうちに(→「髭と下駄」、4月19日)、自分の中にある反体制の意識に気づいたのだが、この前の科学研究費のテーマ「アングロ・サクソンの侵略の系譜」(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」、2022年3月)はまさに反体制そのものだった。この五百年に渡って欧米中心の自称「先進国」がいかに好き勝手やって来たか、というテーマがよくもその「先進国」の一員である国の日本学術振興会に選ばれて予算が交付されたもんやと感心したほどである。修士論文(→“Richard Wright and His World”、1982)に選んだアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(↓、→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月)も、→「MLA」、2020年2月)で発表する作家に選んだ南アフリカのアレックス・ラ・グーマ(→「闘争家として、作家として」、→「拘禁されて」、→「祖国を離れて」、1987)も、出版社の社長さんから評論の日本語訳を頼まれたグギさんもすべて反体制の作家である。金芝河さんが1974年に死刑宣告を受けたのも、体制側朴正熙軍事政権にとって詩人としての影響力の強い金芝河さんが脅威だったからである。訃報を読んで金芝河さんについて書いた時に、この機に、反体制の題でグギさんとラ・グーマとライトについてまとめておこうと考えた。先ずは、『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳をしたグギさんからである。

リチャード・ライト(小島けい画)

 ロンドンを拠点にジェームズ・グギの名前で作品を書いてる限りは「ナイロビ大学教授、世界的に著名な作家」のままで居られたが、ある時点から体制の脅威となり、投獄され死を覚悟して、亡命の道を選んだ。何が体制の脅威になったのか。それは母国語のギクユ語で描き始めたことと、グギさんの感化を受けて大衆が自らの意思で動き始めたからである。『作家、その政治とのかかわり』の中に、その手掛かりがある。序で概要が書かれ、作品や文化活動を通して得た成果、特に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている。今回は序の私の日本語訳を紹介し、次回に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳を紹介したい。作品は一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)で、1ー文学と社会、2ー学校での文学、3-ケニア人の文化―生きのびるための国民的な闘い、4ーある戯曲に架けられた「手錠」、5-原点に立ち戻って、あとがきー文化に関して、二部(作家、その政治とのかかわり)では、6-作家、その政治とのかかわり、7ーJ・M―ある作家への献辞、8-再生―マウマウ、解き放たれて、9-慈愛の花びらと項目分けしている。「序」の私の日本語訳である。

グギさん

 「本書に収められた評論は一九七◯年から一九八◯年の間に書かれたもので、七十年代の私の心を支配していた「人生にとっての文学の妥当性とは何か?」に要約されるいくつかの問題を示しています。文学の妥当性を求めていた私は、文化と教育の問題から言語や文学や政治に及ぶたくさんのイデオロギー論争に巻き込まれました。そのお蔭で、ナイロビ大学(↓)での文学部との深い関わりや文学部主催の多くの活発な討論や活動から、リムルの農民や労働者の文化活動まで、同じように深くかかわるようになりました。

 私にとっては、変化に富んだ恐るべき十年でした。最終的には、もはや私は一教師ではなく、ケニアの農民と労働者の足元で一人の生徒になっていました。その結果が、民衆に根ざし、国を思い、伝統を持つ文学や国民的文化に再び自分自身がかかわるための、アフリカ系サクソン文学からの私の新しい旅立ちとなりました。こういった変化が、この十年に書いた私の作品の中に反映されています。七十年代の初めに、すでに私は英語で『炎の花びら』を書き始めていましたが、七十年代の終わりにはギクユ語で『サイタアニ・ムサラバイニ(十字架の悪魔)』を書き終えていました。演劇の分野では、ミシェレ・ゲタエ・ムゴと英語で書いた『デダン・キマジの裁判』と、グギ・ワ・ミリイと一緒にギクユ語で書いた『ンガアヒカ・デーンダ(結婚?私の勝手よ)』の脚本をこの時期に生み出しました。また、ナイロビ大学の教員生活から奈落のカマタ最高治安刑務所の牢獄に放りこまれたのもこの時期です。

『炎の花びら』

 ケニアの学校の教材として相応しい文学の検討、文学と社会に関する連続公開講座、無料移動劇場の年次企画を通じての民衆主体の取り組み、という文学部の三大企画の妥当性を探っていた私の気持ちに刺激を与えてくれました。
従って、例えば文学と社会に関する論文は、ケニアの学校での文学教育に関して、一九七三年にナイロビ学校で行なわれた文学部主催の文学会議に出席した教師のために書きました。「作家、その政治とのかかわり」についての論文は、文学部企画の公開講座で読みました。そして、大半が言語と演劇の問題で占められているのは、帝国主義に組する文化と、国を大切に思うケニアの国民文化との間の大きなイデオロギーの闘いが、特に劇場で烈しく繰り広げられたという理由に過ぎません。
このイデオロギーの闘いは、J・M・カリユキが暗殺されたり、国会議員、労働者、作家、学生、国を思う知識人がそれぞれ拘禁されたり投獄されたりした七十年代のケニヤの高まる闘争を順に反映しています。J・Mとその著書『マウマウ、抑留された人々』に関する二つの評論は、台頭するケニアの右翼政治勢力の抱く不安を示しています。本書の評論が、これからも続く国を大切に思う国民文化の闘いに少しでも役に立てば、というのが私の願いです。その闘いは、帝国主義者の利益を反映する外国主体の文化の攻勢に抵抗するケニアの国益を映し出しています。

 しかしながら、アフリカやアジア、ラテン・アメリカなど、世界で起こっている事態と切り離してケニアの闘いを見てはなりません。経済や政治や文化の外国支配に反対するケニア人の闘いは、第三世界やその他の地域で争われている闘いと同種のものです。ですから、私たちを結ぶ絆を示すために、韓国とアメリカに関する評論を何編か収めています。
私たちの毎日の生活を形成する階級の権力構造と文学が無縁ではいられませんから、私はこの本に『作家、その政治とのかかわり』という題をつけました。そこでは、作家に選択の余地は残されていません。その作家が意識しているかいないかにかかわらず、多かれ少なかれその作品は、経済、政治、文化、イデオロギーの激しい闘争の局面を照らし出しています。作家に選べるのは、民衆(↓)の側なのか、民衆を抑圧し続けようとする社会権力や階級の側なのか、戦場ではどちらかの側かしかないのです。その作家が男性であれ、女性であれ、中立に留まることだけは出来ません。作家である限り、政治とのかかわりを持たずにはいられないのです。問題は、どんな政治なのか、誰の政治なのかということです。グギ・ワ・ジオンゴ ケニア リムル村ギトゴオジにて。」

農園では働く人々

 次回は、反体制ーグギさんの場合2、母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳の紹介、か。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』