つれづれに

つれづれに: 丸坊主

北側玄関先の沈丁花

啓蟄(けいちつ)である。沈丁花が七部咲きで、何とも言えないかほりを漂わせてくれる。ずいぶんと暖かくなった。啓蟄の「啓」はひらくという意味で、寒さが緩んで土の中で冬ごもりをしている虫=「蟄」が、土の中から動き出す季節のことを指すらしい。今年は啓蟄の始まりが3月5日、厳密には太陽黄径345度、23時44分が始まりのようだ。3月21日の春分まで続く。

今回は無意識の「常識」の続きで、高校まで強いられていた丸坊主についてである。丸坊主には軍隊の影が濃い。教育制度が戦争で大きく変わったとは言え、教育を担当する側の人間が変わったわけではないので、前の体制から染み付いた意識は色んなところに色濃く残っていて、後々まで影響を及ぼしている。一度できた制度や染み付いた意識はそう容易く変わることはない。反動で増幅される場合もある。制服一つをとってみても、あの学生運動でも廃止の対象にならなかったが、その後の同和問題を絡めた高校運動で大きく変化し、制服を廃止する高校も増えた。公立高校でも制服が自由化されたところもあるようだ。染み付いた意識は、間違ったら叩く、遅刻すると廊下に立たせる、失敗すると運動場を何周も走らせるなどの体罰や、一番寒い頃に実施されていた耐寒訓練などの現象として形を見せるようである。すべて根は同じところにあって、丸坊主はその象徴的な存在なのかも知れない。だから無意識に体と気持ちが反発したんだと思う。

安保断固粉砕と朱書きされた階段と占拠された事務局・研究棟(大学のHPから)

 最初から高校生活のすべてが息苦しく鬱陶しかったが、中でも毎週の朝礼と寒い時期の耐寒訓練には体が拒否反応を起こしてどうしても馴染めなかった。小太りの体育の教師は、終始威張った口調で大声をあげていた。体育会系の人はなぜかまっすぐに並ばせたがる。そもそもまっすぐに並ぶ必要があるのか。どういう位置で立っていようと人の勝手やろ、と言いたくなる。高校の教員になって担任を持たされた時、席替えがしたいという生徒に「みんなで決めて好きにしたらええやろ」と言ったら、斜に構えた男子生徒の何人かは一人が机を後ろ向きにして二人で向き合っていた。普段仲がよさそうには見えなかったが、納得した顔で座っていた。私の授業のあとに来た教師が「お前ら、何で机の列が乱れている?」と居丈高に言ってたらしい。「毎回机をまっすぐにさせられるわ、たまさん」と一人の女子生徒が言っていた。その1歳上の「同僚」の頭の中には、机がまっすぐに並んでいない状況そのものが存在しなかったのだろう。近くにいたくない部類の人で、姿が見えそうになると出来る限り避ける態勢を取った。「へえー、机て、まっすぐ並んでないとあかんもんなんですか?」と年上を茶化す自分の姿が想像出来たからである。

7年間教員として在籍していた県立高校

 耐寒訓練もおぞましかった。一番寒い頃に一週間、普段の始業開始時間より一時間も前から、旧制中学からある暗い古ぼけた講堂で、裸足で素振りをやらされた。大体、なんでこんな寒いときにやらされなあかんねん、寒い寒い中で嫌々竹刀を振らされて、精神が鍛えられると思ってんのか、委縮するだけやろ、精神を鍛えるてどういうことやねん、そもそも鍛える必要なんかあるんかい、そんな憤りしか感じなかった。もっとも自衛手段を講じてほとんど参加しなかったから、文句を言う筋合いでもないが。なんで耐寒訓練やねん、と抵抗する気も起らなかったらしい。体制は堅固である。どちらも軍隊の影を感じた。もちろん、軍隊の経験があるわけでないが。

高校ホームページから

仲代達矢が主演していた『不毛地帯』(1976年)という映画を見た時、へえー、戦争が終わっても、戦前の官僚体制は脈々と続いてたんや、その戦前の体制、ひょっとしたら明治維新でひっくり返されたはずの幕藩体制から続いてたんちゃうか、と何となく感じた。次期主力戦闘機の選定をめぐって、各商社が政財界を巻き込んで水面下で激しい競争を繰り広げるという山崎豊子の同名小説を山本薩夫監督が映画化したもので、ビデオを借りて見たとき、戦闘機をめぐる巨額の金が動くわけやから、空陸海軍の人脈を政財界が放っておかなかったわけや、と変に得心した。縦の人脈は理不尽にしぶとく強い。コロナ騒動で多くの人が開催に反対している中で巨額の利権に絡む政財界の大きな集団が利益を優先させてオリンピックを強行したように、多くの人の反対を押し切って大日本帝国陸軍が大東亜戦争に突き進んだとき、主人公はその中枢の参謀本部にいて、終戦時には大本営の陸軍参謀降伏を潔しとしない関東軍を説得する為に満州へ赴いたという設定である。東条英機は責任を取らされて処刑されたが、中枢にいたほぼ全員が生き残り、軍隊の名は外されたものの戦後の自衛隊に体制や意識がそのまま引き継がれたというわけである。実際に、映画とよく似たロッキード事件が発覚し、田中角栄前首相が逮捕されるという非常事態まで発生している。

高校の時に染み付いた無意識の「常識」は、ひょっとしたら幕藩体制から、いやもっと前から延々と続いて来たものなのかも知れない。

次回は、高校を辛うじて卒業したあと、一年の浪人をして、入った大学か。

「雨の一日でした。」(2018/03/03)に載せた沈丁花

つれづれに

つれづれに: 世界で一つのカレンダー

2004年1月

 24節気ではすでに立春が終わり、19日からの雨水(うすい)の期間も今日が最後である。降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃を指し、昔から農耕の準備を始める目安とされているようだが、超早場米を作る宮崎では準備も早く、少し前から田に水が張られ始めている。そろそろ春一番か。実際には寒い日も多く、三寒四温を繰り返しながら、春に向かっていくらしい。しかし、ずいぶんと暖かくなった。2009年に妻がカレンダーを作り始める前には、毎年季節の花をちゃっちゃと描いて専用のカレンダーを拵えてくれていた。世界に一つのカレンダーである。特段気にもせずに大半は捨ててしまったが、何枚かが奇跡的に残っている。画像をブログで紹介するようになるとは夢にも思わなかった。大事に取っておけばよかったと思うが、後の祭りである。昨日、2004年から2007年までの残っているカレンダーを画像にして、絵のブログに載せた。↑

「小島けい2004年私製花カレンダー2004」

2009年カレンダーの表紙絵

 宮崎に来る前から、先輩に紹介された出版社の社長さんに薦められて雑誌にたくさん書かかせてもらっていたが(→「ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日))、記事の挿画や肖像画を頼んでいたこともあって、ある日、本の装画を描きませんかと妻に誘いがあった。宮崎に来る前は、仕事に家事・育児を目一杯引き受けてくれていたので絵を描く時間もほとんど持てなかったが、宮崎に来てからは、花菖蒲や通草や烏瓜などの花を中心に毎日毎日水彩で絵を描いていた。初めはその花を表紙絵に使わせてもらった。そのうち、風景画や人物がなどいろいろ注文が多くなっていったが、生き生きしながら注文に応じて描いていた。→「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」

本紹介8 『馬車道の女』(1991/11/16)

 私専用のカレンダーはその合間に「私が作ったげる」と言いながら、紙を大雑把に切り、水彩でしゃしゃっという感じで描いて作ってくれた。粗っぽいが、なかなか勢いがある。今は注文を受けて、丁寧に丁寧に一枚一枚仕上げているが、その絵とはまた違った趣がある。材料を探すのは私の役目、通草や烏瓜などは明石では近くになかったのでもの珍しいこともあって、色んなところに探しに行った。椿山の途中の繁みの中まで入ったこともあるし、平和台公園の池の上に出っ張っている枝を伝っている時に池に落ちたこともある。文字通り苦労の結晶で描いてもらったのに、何気に捨ててしまったのだからどうしようもない。その後引っ越しをしたあと、残っているカレンダーを居間に飾っているのを東京から帰って来ていた娘が見て、「カレンダー作ればいいのに」とさりげに言っていたが、長崎の印刷・広告会社から誘いがあって販売用のカレンダーが出来た。薄利多売で利益が上がらず、販売は一年で終わったが、それ以降は宣伝用にと自前で今のカレンダーを作るようになった。それをまとめてみたら、歳月の積み重ねがあった。→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」

庭の沈丁花はただ今7分咲き

 明日から啓蟄(けいちつ)である。

つれづれに

藪椿

藪椿を5本摘んで来た。葛などの蔓植物に覆われた樹に辛うじて小振りの花が咲いているのを見つけたからである。思わず切って、持って帰って来た。10月の半ば頃の「つれづれに」の中でも書いたのだが、その藪椿の樹が恐ろしく葛に覆われて、今年は花は咲かないだろうと諦めていたからである。写真↓の右手が畑になっていて、腰の曲がったお年寄りの女性が畑作業を続けている。最近、息子さんらしき人が手伝っている姿を何度か見かけた。おそらくその人たちの家の樹だと思われるが、まったく手入れされていないので、年々葛の勢いは増すばかりだ。つい最近、越して来た左隣の人が見兼ねて枝を払ったようだ。手入れとは言えないほど雑な払い方なので、来年も花が咲くか心配である。誰かの家の樹を勝手に手入れするわけにもいかないし。→「つれづれに: 葛」(2021年10月18日)

この小振りな藪椿にはずいぶんとお世話になった。当時、妻は横浜の出版社の本の装画・挿画を次々と頼まれていたし、長崎の広告・印刷会社からカレンダーの話もあって、当時描いていた花の絵をたくさん使ったからである。友人と作成した絵と字の作品を横浜のビッグサイトに出展していた息子に薦められて花の絵を出品した妻に、会場で絵を目にした東京支社の人からある日電話があった。藪椿の絵もたくさん描いて、そのうち何枚かがカレンダーや本の表紙絵になった。→「クリカレCreators’ Power Calendar」の「クリエーター紹介」

「クリカレ2009」

『さざん・くろーす 広野安人戯曲集』(門土社総合出版、1996/5/22)

1988年に急に宮崎医科大学に決まったとき、妻は14年勤めていた高校を辞めた。30くらいで死ぬだろうと人生をすっかり諦めて生きていたのに、急に結婚を決めてから、人生が急回転し始めた。高校のバスケットボールの顧問や母親の借金に振り回されていたとき、文句も言わず、転がり込んだ父親の家で家事、育児も一手に引き受けてくれた。元々体の弱かった妻には体力ぎりぎりの生活だった。若かったし、子供たちも幼かったし、実の父親の助けもあって辛うじて持ち堪えていた、そんな感じだった。卒業後念願の詩の出版社に就職できたのはよかったが、人と折り合えずに結局辞めたらしい。その後通信教育で単位を補充してからなった高校の教員は、元々望んでいたわけではなかったようだが、それなりに楽しんでいるように見えた。私が高校を辞めて5年後に大学が決まった時に、交代した。どちらも、出せる方が出せばいいと思っていたからだが、やっぱりやりたいことをやれるのが一番だったからである。時間を見つけて絵は描いていたが、仕事と家事・育児の中では、当時まだ半ドンで授業のあった土曜日の午後2時間をみつけて、神戸の絵画教室に出かけるのが精一杯だった。大学が決まったとき「辞めて絵を描いてもいいの?」と、嬉しそうに高校を辞めた。やっと家の近くの自分が卒業した高校に転勤になって一年目、少しは子供との時間も増えたところだったが、一切の迷いはなかった。油絵を描いていたが、「元々体力がないので、一発勝負の水彩にしようかな」と言うので、土曜日の午後に新幹線を使って京都に日本画を見に出かけた。西明石からは半時間で京都に着く。錦市場に寄ってから、色々と観て回ったが、「日本画も体力要るねえ」というのが感想だった。

錦市場アーケード

宮崎に来てからは、水彩で描き始めた。最初は、市民の森の花菖蒲だった。毎日毎日自転車で菖蒲園に通っていた。次が道草、烏瓜、それに藪椿だった。「つれづれに:通草」→「1」「2」「3」「4」「5」「6」「 7」(2021年9月26~10月3日)、「つれづれに」→「 烏瓜」(2021年10月8日)、「烏瓜2」(2021年9月23日)、「椿」

つれづれに

 

つれづれに:木花俯瞰図

 

散歩している時に、すごいものを見つけた。江戸時代後期の木花俯瞰図である。「木花地域まちづくり推進委員会」が年末に新たに作成した案内板の中に含まれていて、俯瞰図は木花神社の宮司が所蔵しているらしい。散歩の途中に何回か表札で宮司の名前を見かけたことがある。委員長は公園脇に家のある方のようで、公園や神社の手入れをしている姿を時々見かける。出来た野菜をもらったこともある。普段神社は無人だが、年に何回かは行事が行われているようで、代々引き継がれた宮司が祭祀を執り行い、氏子の地域の人たちが協力して神社を整備、保存しているようである。江戸時代から受け継がれてきたとても貴重な俯瞰図だ。

絵心のある人の絵は想像力を掻き立ててくれる。木花神社の北に法満寺があったのを知ったのは最近だが(→歩くコース2の)、なかなかイメージが湧かなかった。神社があったと思われるところに、今は人家が何軒かあるからかも知れない。この俯瞰図で、少しイメージが湧いた気もする。寺は神社より小さく描かれているので、規模はそう大きくなかったようである。寺の横に木花集落が並んでいるが、高台にある神社と寺と、木花集落との高低差は描かれていない。

江戸時代後期(1735年~1868年)に描かれた図で、描いた人の名前はわからないらしい。図を見ると木崎浜と内海の位置が今とだいぶ違う。図では清武川と加江田川が河口付近で合流し、清武川の北側に木崎浜が描かれているが、今は清武川と加江田川がほぼ並行に流れ、二つの川の間に3~4キロメートルほどの木崎浜がある。それと、曽山寺浜と青島海岸までが湾曲に描かれているが、今はほぼ直線である。一番奥に内海が描かれているが、現在は岬の陰になって木花神社からは見えない。砂浜や河口は変化が激しいので、地形が大きく変わったかのかも知れない。目測を誤った可能性もある。

描かれている左手(北端)の木崎浜から右手(南端)の内山集落(現在の高岡町で、子供の国の西)までの南北の範囲、奥(東端)の内海から手前(西端)の法満寺と木花神社までの東西の範囲を俯瞰するには、位置的に見て、木花神社のかなり西にある高台か高い山から見る必要があったはずである。しかし、実際にはその辺りにはそれほどの高さの高台や山はなかったようだし、方角的に見てその方角からは岬(現在ホテルサンクマールの南側の突き出たところ)に隠れて内海は見えなかったと思われるので、たぶん木花神社、法満寺近くの高台から見たものに恣意的に手を付け加えて描き上げたのではないかと思う。

と、簡単に閲覧できるウェブの地図や写真の基準に慣れてしまっているもっともらしい感想だが、多少の誤差があっても、絵には写真とは違う何かがあるような気もする。内戦もなかった江戸時代の後期に、この俯瞰図、いったい何のために、誰が描いたのだろうか。描いた絵が代々引き継がれて、木花神の案内板に載せられ、後の世の人たちに紹介されるとは夢にも思わなかっただろう。描いた人に会って、いろいろ尋ねてみたい気もする。

次回は俯瞰図の続きで、法満寺を菩提寺にしていたらしい飫肥藩などをめぐって、か。

3月が始まった。24節気の雨水(うすい)がもうすぐ終わり、3月5日からは啓蟄(けいちつ)である。だいぶ気温も高くなり、大根に薹が立ち始めた。また、虫の季節である。「玄関のドアを開けたら、沈丁花がにおって来たよ」、と遠くで妻が言っている。

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」3月