南アフリカ概論

11月27日7回目の授業でした。

先々週は休講にして申し訳なかったです。先週は振替授業で、久しぶりでした。1回目の課題とガンジーの感想文を集めました。

今日は余裕がなくて、書き込みが少し遅れますが、悪しからず。

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追加の分です。

最初に大学の本来あるべき姿みたいな話をいろいろしました。

BSE(牛海綿状脳症)、蛋白質が病原体になり得る三つのパターンという論文を1967年の段階でイギリスの科学誌Natureに投稿したGrifithという人の話で知的好奇心を満たしてくれるような場でないとあかんなあ、とか、出席で縛られないと学校に来られないこと自体が情けないでえ、とか。

南アフリカにつちては金鉱山の映像(1970年代初めと1987年)、金鉱山近辺に集まる短期契約の労働者のおこぼれにあずかろうとする売春婦の映像、それとヨハネスブルグ金鉱にアフリカ南部から出稼ぎ労働者を運んで来る蒸気の列車Stimela、ヒュー・マセケラのトランペットと歌を観て聴いてもらいました。

次回は

* 1992年に行ったジンバブエの話

* アパルトヘイト政権(北畑くん)

* 国民会議(渡辺さん)

アパルトヘイト体制とアフリカ人の解放運動、二つ目の山です。

いろいろ映像もあるんで観てもらいたいです。

それと大澤たかお主演の「アフリカの蹄」も。

また、木曜日に。

 

土曜日は久しぶりに庭を潰(つぶ)して拵(こしら)えた畑(vegetable
garden)で、蒔(まい)いた種から大きくなっているレタス(lettuce)を植え替え、ブロッコリー(broccoli)の苗を植え替える畝(うね、stitches)を拵(こしら)えようと思っていたけど、レタスを四分の一ほど植え替えただけ。

2月くらいにはこのくらいの大きさになるリーフレタス

レタスやブロッコリーは冬野菜、今頃なら虫にやられずレタスは年明けから3月の終わり頃まで、ブロッコリーは3月の始めくらいから4月の半ばくらいまで食べられます。それ以外は葉っぱは虫に食べられて、芯(しん、stem)だけになってしまうねえ。

今は畑(上に写真)の半分は南瓜(かぼちゃ、pumpkin)。まだ20個近くなってるかなあ。瓢箪(ひょうたん、gourd)みたいな格好(かっこう)してるね(下の写真)。皮の部分が柔らかくて結構おいしいよ。

南アフリカ概論

連絡事項:来週授業あります。月曜日振替は再来週でした、ごめんなさい。

* 「ガンジー」の感想文、来週出してや。

11月7日6回目の授業でした。

①1652年から1910年辺りまでの確認、②牛谷くんのガンジーの発表、③関連の映像、④ガンジーの映画の冒頭20分余り、でした。

1652年から1910年まではもう一回貼っときます。↓

*1652年 オランダ人が到来
*1795年 イギリス人のケープ占領
*1833年 イギリス人の奴隷解放(オランダ人の敗北)
*1854年頃 イギリス人、オランダ人で4州を棲み分け

* ダイヤモンド(1867)と金(1886)の発見
*1910年 南アフリカ連邦

牛谷くんもガンジーについてしっかり発表してくれたね。感心です。ちょうどガンジー批判の記事を配れてよかったです。パワーポイントにあったKaffir、白人の言ってたSmart bloody kaffirは聞き取れたかいな。

映像はズールー人、ズールー戦争、ダイヤモンドの発掘の様子、ナタールの砂糖黍畑で働かされる少年。

関連してセシル・ローズとジンバブエの侵略の話もしました。

<次回は>

* 登録修正期間が過ぎたんで、来週は一度名簿で名前を確認するね。

* 1652年から1910年辺りまでの映像の残り(金鉱、メイドなど)
* ジンバブエの話

* (時間があれば)曲を少し、アパルトヘイト政権の誕生とアフリカ人の解放闘争の話も少し。

来週、また。

<配ったプリント>

* 「ガンジー」の感想文(B5表1)

* ガンジーについての英文記事(A4表裏1)
* ジンバブエについての英文と日本語(B4表裏2)

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干し柿の季節で、今年干したのは40個。倍くらいなってたと思うけど、無事生き残って干せるのはそれくらい。

小島けい画

前にホームページで何回か書きました。↓

2008年12月31日

渋柿を干し出してから二十年以上になります。長女が生まれてから少し経った頃、どさくさに紛れて奥さんのお父さんの家に転がり込んで明石海峡の近くで暮らし始めました。庭に渋の木があって、ある年からその柿を剥いて縁側に干し始めました。そう大きくない丸い柿だったけど、そのうち大きい長細い柿を八百屋の店先に見つけて庭先に吊し始めました。家は誰も住まなくなった時に震災にやられて、廃屋の姿を晒していたんで侘びしかったと弟が電話でしゃべってたような。更地にして人手に渡ったそうやから、あの柿の木も今はもうこの世に存在していないわけです。

明石にいた頃、家族でサンフランシスコへ行く前に寄ったハワイで長女と

二十一年前に宮崎に来てからも干し柿作りは続いていましたが、今年は箱で渋柿が出回る頃に柿を買う心の余裕もなくて、とうとう干し柿も作れませんでした。

渋柿を吊せなかった、今年が暮れる      我鬼子

2009年11月 26日

今年初めて一つ柿が実をつけました。桃栗三年柿八年と言うようですが、少し早くなったようです。
多分苗木を買ったとき、西条柿の札がついていたと思います。裏庭になっていた丸い柿を干したのが干し柿作りの最初です。二十数年前に明石に住んでいた時のこどです。そのうち八百屋の店先で西条柿を見つけて干すようになりました。苗木は、いつだったか、宮崎神宮の植木市で目にしたものだったようなあやしい記憶がありますが。

今年は二箱の柿を買って干しています。

2010年11月23日

今日は柿を干しました。たしか西条柿という名の大きな渋柿です。
去年初めて家で植えた木に一つ実がなりました。今年は三つなりました。五つ実をつけていたと思うのですが、最終的には三つだけしか残りませんでした。
お腹をこわしたとき、真っ白な麹と糯米で造った甘酒と干し柿と、胃の粘膜によさそうなつくね薯とおかゆを食べました。手間と時間がかかりますが、弱った胃にはやさしかったように思います。

今使っている清武のカネコ味噌が作っている麹

剥いて陽に干すだけですが、何とも言えない色艶と甘みが出ます。
時間と気持ちがないとなかなか造れないのですが、今年は近所の八百屋さんで買い求めたものと合わせて一回目の準備が出来ました。
秋が終ってしまいそうです。

過ぎ行く秋の陽に、柿を干す   我鬼子

2011年11月23日

今年は柿が13個もなりましたが、干せたのは8つです。一つは色づいたなと思ってよく見たら熟し過ぎてしまっていてそのあと落ちてしまいました。慌てて何個かちぎりましたが、ずっと雨が続いて干せない間に3つが熟してしまいました。長雨の間に、順調に育っていたブロッコリーもリーフレタスも完璧に虫にやられて、無残な姿をさらしています。薬はよう使わないので、一匹ずつ殺すしか今のところ方策はありません。殺生をして虫のえさを横取りする存在です。
すべて、何やらあやうい毎日です。

句も出ず、霧島降ろしに柿を干す   我鬼子

奥さんのブログにも柿を使った本の表紙絵を紹介しています。

「本紹介8 『馬車道の女』」

「本紹介20 『一番美しく』」

「本紹介48 『随所に主宰とならん』」

額入りの絵も紹介しています。

「柿」

南アフリカ概論

10月31日5回目の授業でした。もう三分の一が終わり、あと10回です。

金とダイヤモンドの梶山さんの発表への質問、「遠い夜明け」の感想は出そうになかったんで、少し映画の補足説明、特に冒頭の場面の解説をしました。

コシシケレリアフリカ、「グレイスランド」の最後の合唱とSoweto Gospel Choirの合唱。

そのあと南アフリカの用語の解説をしたあと、1652年のオランダ人の到来から1910年の南アフリカ連邦の成立まで英語で解説しました。これで何回か通して話をしたんで、この辺りの歴史の流れは少し掴んでもらえたような気がするけど。

次回映像を見てもらえれば、一つ目の山、南アフリカに来たヨーロッパの入植者が、アフリカ人から土地を奪い、課税して、安価な労働力による巨大な搾取機構を作り上げたことがよりわかってもらえると思います。

<次回は>

* 1652年から1910年辺りまでの主立った映像の紹介

* ガンジーの発表、教育1年の牛谷くん(授業のあと言いに来てくれました)

* ガンジーの映画の冒頭

* (時間があれば)1992年に行ったジンバブエの話

来週、また。

<配ったプリント>

* A chronology of South Africa(B4表1)

* ラ・グーマ・/南アフリカの用語解説(B4表裏1)

「ラ・グーマ」のプリントの地図と画像を見てもらいながら、「遠い夜明け」の冒頭の場面を解説、ケープタウンの郊外の砂地に住む人たちの話をしました。それは課題図書に入れてあるラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の世界です。英文の註釈書も作り、作品論も書きました。リンクしておきます。

英文注釈書(Mondo Books, 1991, 表紙絵は小島けい画)

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁。

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19頁。

『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992年、表紙絵は小島けい画)

南アフリカ概論

連絡事項

* 「遠い夜明け」の感想文、次回出してや。

10月24日4回目の授業でした。後期が始まってもう4週目やねえ。

南アフリカに来てからのオランダ人の動向、金とダイヤモンドについての発表のあと、「遠い夜明け」を観てもらいました。

南アフリカに来てからのオランダ人の動向については金子さん(畜産1年)が、金とダイヤモンドは梶山さん(畜産1年)が発表してくれました。しっかりと調べてくれてました。時間が足りなくなりそうで、質問を聞いてもらえなかったので、次回に。

「遠い夜明け」を観てもらうだけでいっぱいいっぱい。長い映画を端折ったんで、分かり難いところもあったやろから、次回質問と感想と解説、やね。

補足の説明は長くなりそうやから、最後につけときます。↓

<次回は>

* 金とダイヤモンドの発表(梶山さん)の質問など

* 映画の感想(何人か)

* 映画の補足説明

* コシシケレリアフリカ・ユッスー・ンドール「ネルソン・マンデラ」

* 歴史の関連映像

来週、また。

<配ったプリント>

* 「遠い夜明け」の感想文

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23日(水)に、臨床実習でお世話になっていたカリフォルニア大学アーバイン校から医学科が招待した小児科医のペニー・ムラタさんのお世話をさせてもらいました。空港から観光ホテルの夕食まで、ほぼ半日。
前回はフラワーガーデンと平和台公園に案内したので、今回は海に、と思ったけど、生憎の激しい雨。レストランからの海しか観てもらえなかったのは、残念。
普段は一定のリズムで辛うじて毎日をやり過ごしてるからなんやろな、半日も普段以外のことが入ると、すっかりペースがぐちゃぐちゃ。
あしたからまた7コマの一週間が始まるから、戻さんとね。今週は、あした獣医用語の授業もあって、8コマもあるしね。
というわけで、ブログの更新が今日になりました。

上段左がペニー・ムラタさん、右は池ノ上さん

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「遠い夜明け」画の補足

映画の補足や、書いたものなどの紹介もしておきます。

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。次回観てもらう予定の「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。「ガンジー」でも暗殺の場面を最初に持ってきました。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようです。今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

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The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

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自己意識の話と、アレックス・ラ・グーマの話を補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

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白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

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↑ホームページにはpdfをダウンロード出来るようにしてましたが、今回ブログに書きました。1987年に訪ねたカナダに亡命中のラ・グーマの友人セスル・エイブラハムズさんに宛てて、映画の感想も書きました。訪問記と併せてリンクしておきます。↓

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。