英語 Ra1(2)

<連絡事項>

* 課題提出:7月27日(月)授業時までにWebclassで提出。遅くとも29日(水)までに。

* 授業日程確認:

12回目→7月27日(月):『金のフレーズ』、映像「アフリカシリーズ」

13回目→7月29日(月):『金のフレーズ』、映像「アフリカシリーズ」

14回目(最終回)→8月3日(月):まとめ(全員のコメントが聞きたいです。いろいろ聞かせてや。頼みます。)

* 希望者がいれば、前期試験が終わった頃から先ずは後期が始まる前、希望があれば継続して11月の2回目のトーイックの試験まで週一回くらいのZoomトーイック(公式TOEIC Listening & Reading 問題集2と3を編集しての過去問演習、前回希望者でやった要領で)につき合ってもいいと思っています。ただし、11月の試験では、最低5000円はもらえる650はクリアしてもらわんとあかんと思うけど。希望者はメールしてくれたら、Zoomの招待状を送ります。(人数にもよるけど、たぶん他の希望者と合同で)試験最終日が8月の20日くらいやろから、それまでに連絡してくれたら。一人でもメールが届いた時点から新Zoomトーイック(公式TOEIC Listening & Reading 問題集2と3を編集)の問題を作ります。

授業では

* 課題提出日、課題の再確認

* 前回、やってくれた発表のThe colonization of Africa: Precolonial Africa(恒吉さん)、西アフリカの王国(戸高さん)、トワレグ人(小島さん)、カイロ(梅山さん)、The colonization of Africa: The first colonialists(田代くん)の「アフリカシリーズ」の映像。(西アフリカの王国の映像が壊れてたんで見てもらえなかったけど)

1992年に家族で行ったジンバブエ遺跡の画像も。英語で解説。

* 『金のフレーズ』①の10までのブレイクアウトセッション。

次回

* 『金のフレーズ』①の11からのブレイクアウトセッション。①が終わるとええね。

* 「アフリカシリーズ」の映像、それと1980年代のライブエイドの音楽を少々、時間があるとええけどね。

授業で、また。

 

二週間毎にマッサージをしてもらってる西口さんから、玉田さん、左脚の筋肉が少し落ちてますねと言われたんで、左脚に力を入れて三段変速の一番重いので坂道を立たないで2往復(一年のクラスが終わったあとお昼を食べに家に帰ってるんで)、汗だくになったね。
日が落ちる頃に歩けるとえんやけど。70過ぎても筋肉はつくそうやけど、生きてるだけで、大変や。
一つ葉の砂浜ではしゃいでいた三太(ブログの名前の片われ)。最近木崎の浜で歩いてないけど、自転車で浜まで行って歩きたいねえ。冬の砂浜もええけど、夏はサーファーとは違う動きで砂浜を歩くのもそれなりに楽しいね。サーフィンの大会があると、警備員に締め出されるけど。
木崎浜から曽山寺浜にかけられた橋。総合公園からのマラソンコース。青島の旧パームビーチホテルのとこら辺まで。道は青島から、青島港まで続いてるけど。

 

クラス名簿(再掲載)2020年前期 英語 Ra1(2)クラス名簿(31名)

30170030 井戸 颯人 イド ハヤト
30200049 池ノ上 将基 イケノウエ シヨウキ
30200092 梅山 愛梨 ウメヤマ アイリ
30200100 押領司 尚美 オウリヨウジ ナオミ
30200137 尾崎 ちひろ オザキ チヒロ
30200186 加藤 大地 カトウ ダイチ
30200205 川越 晴登 カワゴエ ハルト
30200232 北村 詩歩 キタムラ シホ
30200250 串間 怜央 クシマ レオ
30200278 小島 楓華 コジマ フウカ
30200322 迫田 凜々香 サコダ リリカ
30200335 佐々木 ルナ ササキ ルナ
30200423 田代 直哉 タシロ ナオヤ
30200447 恒吉 実於 ツネヨシ ミオ
30200454 角田 楓 ツノダ カエデ
30200461 堂下 つばさ ドウシタ ツバサ
30200506 時松 桃花 トキマツ モモカ
30200533 戸高 みなみ トダカ ミナミ
30200551 永友 阿耶里 ナガトモ アカリ
30200603 東久保 光汰 ヒガシクボ コウタ
30200627 平井 優季 ヒライ ユキ
30200676 福瀬 一真 フクセ カズマ
30200713 藤田 涼 フジタ リヨウ
30200728 淵脇 紅南 フチワキ アカナ
30200731 古田 紋子 フルタ アヤコ
30200742 本田 拓哉 ホンダ タクヤ
30200766 松田 美月 マツダ ミヅキ
30200777 松元 彩夏 マツモト サヤカ
30200816 御沓 帆志 ミクツ ホシ
30200834 宮脇 駿介 ミヤワキ シユンスケ
30200870 山田 凌平 ヤマダ リヨウヘイ

 

英語 Ra1(2)

<連絡事項>

* 課題提出:出来るだけ7月27日(月)授業時までにWebclassで提出。遅くとも29日(水)までに。(次回画面を共有して、Webclassでの提出の仕方を確認出来るように準備しときます。)

* 授業日程確認:

11回目→7月20日(月):映像「アフリカシリーズ」、『金のフレーズ』

12回目→7月27日(月):映像「ルーツ」、『金のフレーズ』

13回目→7月29日(月):第二次世界大戦後:映像「アフリカシリーズ」、『金のフレーズ』

14回目(最終回)→8月3日(月):まとめ

授業では

* 課題提出日、課題の再確認

* 発表:The colonization of Africa: Precolonial Africa(恒吉さん)、西アフリカの王国(戸高さん)、トワレグ人(小島さん)、カイロ(梅山さん)、発表:The colonization of Africa: The first colonialists(田代くん)

みんなそれぞれしっかりと調べて発表してくれました。ほんとはすぐあとに映像を見てもらえればより具体的にイメージ出来たと思うけど、映像は次回に。何とか全員発表してもらえてよかったです。

二つのクラスともほぼ全員が授業に来てくれてるけど、すごいなあ。僕の大学の時とえらい違いや。

もうあと4回と先も見えて来ました。何かばたばた授業を始めて、週に7コマの授業をするだけでアップアップ、何とかあと一月で一息つけるんやろか。

出来れば、最終の週までに成績をつけて、授業が終わったあとは、今回の感染症騒ぎで中断することになって小説を書き上げて、9月末の新人賞に応募出来ればええけどな。

 

The colonization of Africaの日本語訳

次回

* 授業についてのコメント数人(続き)

* 「アフリカシリーズ」の映像

* 『金のフレーズ』①の解説→ブレイクアウトセッションで確認し合い、出来れば覚え合う。

授業で、また。

 

Precolonial Africa, The first colonialistsの日本語訳

Africa and Its Descendants (アフリカとその末裔)

Chapter One: The Colonization of Africa(アフリカの植民地化)

PRECOLONIAL AFRICA 植民地化以前のアフリカ

Africa has been of great importance to the development of mankind. It has been found that the earliest beings able to make tools once lived in the Rift Valley in East Africa.

アフリカはこれまで人類の発展のためにとても重要でした。ごく初期の頃に道具を作るが出来た人たちが、かつて東アフリカのリフトバレー(大地溝帯)に住んでいました。

A big leap forward was taken when man learnt to sue iron for tools. Another big step was taken when cultivation started on a large scale. Large scale cultivation in Africa began in about 2000-3000 B.C. in both West Africa and Ethiopia.

人々が道具を作るために鉄を精錬するようになって、ひとつの大きな文明の飛躍がありました。大きな規模で耕作が始まって、更に飛躍を遂げました。約紀元前2000年から3000年頃、西アフリカとエチオピアの双方で、アフリカでは大規模な形での耕作が始まりました。

Between the years A.D. 700 and 1400 Europe developed rapidly. But for all this time European society was in many ways inferior to that of its African neighbours. Cairo was the foremost trade centre in the world and gold was used as the means of payment. Some of this gold was brought from West Africa, and some from Central Africa. The gold of Africa kept world trading going. World trade was stimulated by the spread of Islam. The gold from Zimbabwe was transported from the interior by Muslim middlemen to the African East Coast.

700年から1400年の間に、ヨーロッパは急速に発展しました。しかその期間の間も絶えず、ヨーロッパ社会は様々な点で、近隣のアフリカ諸国よりも劣っていました。カイロは世界の最大の貿易拠点で、金が支払いの手段として使われました。このとき使われた金は、西アフリカや中央アフリカからきたものもありあました。アフリカからの金が世界の交易を発展させ続けました。世界貿易はイスラムの広がりによって刺激を受けました。ジンバブエからの金はイスラム教徒の仲買人によって内陸からアフリカの東海岸へ運ばれました。

In West Africa, too, long-distance trade gave birth to new and powerful societies. The West African kingdoms were ruled by kings who appointed local noblemen to collect taxes from the peasants.

西アフリカでは、また、長距離貿易が、新しくて強力な社会を生み出しました。西アフリカの王国は王によって統治され、王に指名された地方の貴族が農民から税を集めました。

西アフリカの王国を訪れたポルトガル商人イブン・バトゥータ

Not only in West Africa, but also in Central Africa a centralized organization of society emerged on the basis of surplus production, trade and a growing population.

西アフリカだけでなく、中央アフリカでも、余剰生産と交易と人口増加を基礎にして、中央集権社会が現れました。

Parallel to the development of large kingdoms in Africa many groups of people learnt to control nature without kings and kingdoms. Their political systems may be called 'village rule.’

アフリカでは、大きな王国の発展と併行して、多くの人々の集団は王や王国なしに自然を制御するようになりました。その人たちの政治制度は “村落共同体支配” と呼べるかも知れません。

In Africa, as elsewhere, migrations of cattle-raising people took place when they had to find new pastures, and new places to live for a growing population.

アフリカでは、他の所と同じように、人口が増えて新たな牧草地を探し、生活するための新たな土地を見つけなければならなくなった時、遊牧民の移住が始まりました。

THE FIRST COLONIALISTS 最初の植民地支配を目論んだ人達

Portuguese adventures were the first Europeans to 'discover’ Africa south of the Sahara. The first voyages along Africa’s west coast were little more than an extension of the piracy. The Portuguese took away people from the coasts they plundered and brought them home as slaves. As yet slave trade and economic exploitation were on a small scale.

ポルトガルの探検家がアフリカサハラ以南のアフリカを最初に「発見した」ヨーロッパ人でした。アフリカの西海岸に沿った最初の航海は、海賊行為の延長に過ぎませんでした。ポルトガル人は略奪行為を行なった海岸地域から人々を連れ去り、奴隷として母国に連れて帰りました。しかしそれでも、奴隷貿易と経済的な搾取の規模は小さなものでした。

They started to buy gold directly at the coast. In time they also wanted to find a sea route to India. Their aim was to take away from the city-state of Venice their control over the profitable spice trade with the East Indies.

ポルトガル人たちは海岸線で、直接金を買い始めました。やがてはインドへの海上ルートも発見したいと望んでいました。その人たちの目的はベニスの都市国家から、儲けの多い東インドとの香辛料貿易の支配権を奪うことでした。

Portugal wanted to start trade by exchanging goods with East Africa. But the project failed as the goods that Portuguese had to offer were inferior to those of the East African tradesmen. The Portuguese seafarers and merchants then decided to achieve for themselves the East African trade monopoly by force. With their superior arms the Portuguese managed to destroy the East African civilization.

ポルトガルは東アフリカと商品を交換することによって貿易を始めたいと思っていました。しかし、ポルトガルが持っていった商品が東アフリカの貿易商人の扱う商品よりも劣っていたために、その目論見は失敗しました。その時、ポルトガルの船乗りと商人は、武力を使って自力で東アフリカの貿易を独占しようと決めました。ポルトガル人は、優れた武器を使って辛うじて東アフリカの文明を破壊することに成功しました。

In Western history Vasco da Gama, d’Almeida, and Tristan da Cunha have been estimated as 'great discoverers,’ but they were nothing but destroyers for Africans. A Germany who was present when d’Almeida destroyed Kilwa gives us the following eyewitness report:

“In Kilwa there are many strong houses storeys high. They are built of stone and mortar and plastered with various designs. As soon as the town had been taken without opposition, the Vicar-General and some of the Franciscan fathers came ashore carrying two crosses in procession and singing Te Deum. They went to the place, and there the cross was put down and the Grand-Captain prayed. Then everyone started to plunder the town of all its merchandise and provisions. Two days later the city was set on fire."

西洋の歴史では、ヴァスコダ・ガマやダルメイダやトゥリスタオ・ダ・クンハはこれまでずっと「偉大な発見者」として評価されて来ましたが、アフリカ人にとってその人たちは破壊者以外の何ものでもありませんでした。ダルメイダがキルワを破壊した時に立ち会ったあるドイツ人は、次のような目撃証言をしています。

「キルワでは2階や3階の高いしっかりとした家がたくさんあります。家は、石とモルタルと漆喰で出来ていて、様々な模様をしています。町が抵抗もなく占領されるとすぐに、司教総代理と何人かのフランシスコ会の神父が上陸をして、一列になって十字架を運び、賛美歌を歌いました。それからその場所に行き、十字架が降ろされ、総督が祈りをささげました。それから、その町の全ての商品と食料品を略奪し始めました。2日後、街に火をつけました。」

栄えていた商業都市タンザニア沖合の島キルワ、1505年廃墟に

The main interest of these first colonialists was in spices, cloth, gold, and ivory. They dominated the sea but on land only some narrow strips of the coast. Other countries soon began to compete with the Portuguese for the trade with the East; first the Dutch, then the English and the French gained control over this rich trade.

こうした植民地支配を目論んだ人達の主な関心は、香辛料と布と金と象牙でした。その人達は海を支配しましたが、陸では海岸線の岸の狭い僅かな地域を支配しただけでした。やがて他の国々も東洋との貿易を求めてポルトガルと競争をし始めました。最初にオランダ、次にイギリスとフランスがこの豊かな貿易の支配権を手にすることになりました。

THE SLAVE TRADE 奴隷貿易

The European conquest of South America suddenly changed the character and importance of the slave trade. With brutal force the prospering cultures of Peru, Bolivia and Mexico were stamped out by the Spanish conquerors and their silver and gold were stolen. Many Spaniards who set out for this Eldorado found no metals but settled as farmers.

ヨーロッパ人が南アメリカを支配したことで、奴隷貿易の特徴と重要性が一変しました。ペルー、ボリビア、メキシコの繁栄した文化はスペインの侵略者に力ずくで踏みにじらされ、金や銀が盗まれました。理想郷を求めて出発したスペイン人たちは金銀を見つけられませんでしたが、そのまま住み着いて農民になりました。

In 1518 a Spanish ship brought the first cargo of Africans directly from Africa to America. This was the start of a trade in slaves which was to continue for three and a half centuries and to bring millions of Africans to America.

1518年、スペイン船が初めてアフリカ人の積み荷を直接アフリカからアメリカに連れて行きました。これがその後3世紀半にも渡って続き、何百万人ものアフリカ人をアメリカに連れ出すことになる奴隷貿易の始まりでした。

The merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called 'triangle trade.’ The riches of the capitalists grew while Africa suffered.

奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。これらの人間はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。これが所謂「三角貿易」でした。資本主義者たちの富が増えて、アフリカが被害を受けました。

奴隷船(帆船)

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated to speed up the development towards capitalism. The 'triangular trade’ was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.

ヨーロッパ、とりわけ、イギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への発展の速度を加速させました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in the terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind.

アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

 

クラス名簿(再掲載)2020年前期 英語 Ra1(2)クラス名簿(31名)

30170030 井戸 颯人 イド ハヤト
30200049 池ノ上 将基 イケノウエ シヨウキ
30200092 梅山 愛梨 ウメヤマ アイリ
30200100 押領司 尚美 オウリヨウジ ナオミ
30200137 尾崎 ちひろ オザキ チヒロ
30200186 加藤 大地 カトウ ダイチ
30200205 川越 晴登 カワゴエ ハルト
30200232 北村 詩歩 キタムラ シホ
30200250 串間 怜央 クシマ レオ
30200278 小島 楓華 コジマ フウカ
30200322 迫田 凜々香 サコダ リリカ
30200335 佐々木 ルナ ササキ ルナ
30200423 田代 直哉 タシロ ナオヤ
30200447 恒吉 実於 ツネヨシ ミオ
30200454 角田 楓 ツノダ カエデ
30200461 堂下 つばさ ドウシタ ツバサ
30200506 時松 桃花 トキマツ モモカ
30200533 戸高 みなみ トダカ ミナミ
30200551 永友 阿耶里 ナガトモ アカリ
30200603 東久保 光汰 ヒガシクボ コウタ
30200627 平井 優季 ヒライ ユキ
30200676 福瀬 一真 フクセ カズマ
30200713 藤田 涼 フジタ リヨウ
30200728 淵脇 紅南 フチワキ アカナ
30200731 古田 紋子 フルタ アヤコ
30200742 本田 拓哉 ホンダ タクヤ
30200766 松田 美月 マツダ ミヅキ
30200777 松元 彩夏 マツモト サヤカ
30200816 御沓 帆志 ミクツ ホシ
30200834 宮脇 駿介 ミヤワキ シユンスケ
30200870 山田 凌平 ヤマダ リヨウヘイ

 

英語 Ra1(2)

<連絡事項>

* 10回目授業→7月10日(月)10:15~11:30

授業では

* 授業についてのコメント数人(続き)

* 映像:「アウトブレイク」

* ザイールのその後:Zaire’s Turmoil Invites an African SolutionとPushing Kabila on early election unrealistic、(追加で配った資料の中の)Looking back in Anger: Life in Mobutu’ Zaireで解説。長いけどなかなかおもしろいので読んでや。ニエレレについては二冊目の英文で書いたことがあります。本文と日本語訳を貼っときます。→Africa and its Descendants 2

次回

* 授業についてのコメント数人(続き)

* 発表:The colonization of Africa: Precolonial Africa(恒吉さん)

* 発表:西アフリカの王国(戸高さん)、トワレグ人(小島さん)、カイロ(梅山さん)

* 発表:The colonization of Africa: The first colonialists(田代くん)

* 時間があれば「アフリカシリーズ」の映像

* 時間があれば『金のフレーズ』①の解説。

Africa and its Descendants 2

The fundamental problem is a matter of structure and system, something which so many Africans have tried to address. But most of them, like Nkrumah, failed. Julius Nyerere, Kenneth Kaunda, and other African leaders also tried in vain.

根本的な問題は、構造と体制の問題で、本当にたくさんのアフリカ人々が何とかその問題を解決しようと努めてきました。しかし、エンクルマのように大抵の人が失敗してきました。ジュリアス・ニエレレやケネス・カウンダやその他のアフリカ人指導者も挑戦しましたがだめでした。

In Tanzania, Nyerere adopted his new policy called 'ujamaa’ in 1967. It was a kind of African nationalism based on the traditional values of sharing and co-operation that existed among African families. Unfortunately the policy was unsuccessful. He shared his recollections in the MBTV program:

タンザニアでは、ニエレレが1967年にウジャマーという新しい政策を採用しました。その政策は、アフリカ人家庭に生き続ける分かち合うことと協力し合うことという昔ながらの価値感を基にしたある種のアフリカ民族主義でした。運悪く、その政策はうまく行きませんでした。イギリスMBTVの番組の中で、ニエレレは当時を振り返って語っています:

When we were preparing our first five year development plan, the price of our sisal was a hundred and forty eight British old pounds before devaluation, a hundred and forty eight pounds per ton. We felt this price would not likely to continue, so we planned on the basis that we might average ninety five pounds per ton. It dropped down to less than seventy. We can’t win. . . . What can we do? What really can we do? What can a primary producer do? What do we do with our sisal, eat it, I mean, what can we do with sisal, we produce the sisal, we have to sell sisal. If the world market price goes down, what can we do? I mean, really, in a world of vultures, what can you do? I mean, really, we have to suffer.

1回目の開発計5年画を準備していた時、サイザル麻の値段は1トンにつきの通貨切り下げ以前の旧イギリスポンドで148ポンドでした、トン当たり148ポンドだったんですよ。この価格はそう続かないだろうと考え、1トンが平均で95ポンドなるようにという基準で計画を立てました。しかし、実際には70ポンド以下に下がりました。とても太刀打ち出来ませんよ・・・。私たちに何ができます? 本当に何が出来ますか。第一次生産者に何が出来ます?サイザル麻をどうしろと言うんです、食べるんですか、一体サイザル麻をどうしろと言うんですかね。サイザル麻を生産したら、売るしかないんですよ。もし、世界市場の価格が下がったら、私たちに何が出来るんですか。弱肉強食の世界で、一体私たちに何が出来ると言うんですか。苦しむのは、いつも私たちですよ、ほんとに。

By the mid-1980s the country was crippled by a huge foreign debt and declining agricultural and industrial production. Tanzania was forced to accept a drastic program of 'structural adjustment’ so as to qualify for continued foreign loans from the World Bank. The government was forced to cut back on those aspects of its policy that had been relatively successful under ujamaa, like health and education. Nyerere retired from the presidency in 1985.

1980年代の半ば頃までに、国は巨額の外債と農業、産業製品の生産が落ち込んで立ち行かなくなっていました。タンザニアは世界銀行からの外国債継続の資格を得るために「構造上の調整」という思いきった計画を受け入れざるを得なくなりました。政府はウジャマー政策の下で比較的うまく行っていた医療や教育のような政策の見方の見直しを迫られました。1985年、ニエレレは大統領職を退きました。

 

クラス名簿(再掲載)2020年前期 英語 Ra1(2)クラス名簿(31名)

30170030 井戸 颯人 イド ハヤト
30200049 池ノ上 将基 イケノウエ シヨウキ
30200092 梅山 愛梨 ウメヤマ アイリ
30200100 押領司 尚美 オウリヨウジ ナオミ
30200137 尾崎 ちひろ オザキ チヒロ
30200186 加藤 大地 カトウ ダイチ
30200205 川越 晴登 カワゴエ ハルト
30200232 北村 詩歩 キタムラ シホ
30200250 串間 怜央 クシマ レオ
30200278 小島 楓華 コジマ フウカ
30200322 迫田 凜々香 サコダ リリカ
30200335 佐々木 ルナ ササキ ルナ
30200423 田代 直哉 タシロ ナオヤ
30200447 恒吉 実於 ツネヨシ ミオ
30200454 角田 楓 ツノダ カエデ
30200461 堂下 つばさ ドウシタ ツバサ
30200506 時松 桃花 トキマツ モモカ
30200533 戸高 みなみ トダカ ミナミ
30200551 永友 阿耶里 ナガトモ アカリ
30200603 東久保 光汰 ヒガシクボ コウタ
30200627 平井 優季 ヒライ ユキ
30200676 福瀬 一真 フクセ カズマ
30200713 藤田 涼 フジタ リヨウ
30200728 淵脇 紅南 フチワキ アカナ
30200731 古田 紋子 フルタ アヤコ
30200742 本田 拓哉 ホンダ タクヤ
30200766 松田 美月 マツダ ミヅキ
30200777 松元 彩夏 マツモト サヤカ
30200816 御沓 帆志 ミクツ ホシ
30200834 宮脇 駿介 ミヤワキ シユンスケ
30200870 山田 凌平 ヤマダ リヨウヘイ

 

英語 Ra1(2)

<連絡事項>

* 9回目授業→7月3日(月)10:15~11:30

授業では

* ERIX6B→(続編)X1『失われた友を求めて』

* パパ・ウェンバ→Papa Wemba解説

* 感想:ブレイクアウトセッション

次回

* 授業についてのコメント、コロナ騒動の中で思ったことや感想意見など(続き)

* 映像:「アウトブレイク」

* reading解説:ザイールのその後:最初に配ったプリントのZaire’s Turmoil Invites an African SolutionとPushing Kabila on early election unrealistic、(追加で配った資料の中の)Looking back in Anger: Life in Mobutu’ Zaireは読んでおくとわかりやすいと思います。一部を読んで解説するつもりです。イギリス英語で分かりにくいのもあるけどね。

次々回からは→The colonization of Africa、『金のフレーズ』の2本立て。それぞれ配ったプリントに目を通しておいてや。The colonization of AfricaはPrecolonial Africa, The first colonialists、『金のフレーズ』は①の100題。

X1『失われた友を求めて』

・・・強い意思でコンゴの激戦区に残ったコバッチュが死亡したとの連絡を受け、彼を残してきてしまった罪悪感から再びコンゴに飛び、コバッチュの生存を確認し彼をアメリカへ送った後も、自分の居場所と使命を見出しコンゴに留まる。→いつでもコピーするんで、どうぞ。

Papa Wemba

【ケニア、タンザニアの音楽事情とリンガラ音楽について】

服部晃好くん(北海道新冠郡の新冠町立国保診療所→http://www.niikappu.jp/kurashi/sekatsu/sumai/teijyu/iryo/kokuho.htmlの勤務医)に【ケニア、タンザニアの音楽事情とリンガラ音楽について】を書いてもらいましたが、その中にPapa Wembaについても書いてくれています。一部貼っときます。服部くんは36歳で、宮崎医科大学に入って来たときに一年生の英語の授業で出会いました。相性がいいみたいで、いまだに遣り取りをしています。名古屋工大の院を出てガス会社に行ってたそうで、そこを辞めてタンザニアで3年理科の教師、一年半ほどケニアで調整員をし、その間に6年分のお金を貯めて一発勝負で受験をしたようです。そのころ医学科にはすでに何人かの海外青年協力隊の経験者がいて、誰もが意欲もあり成績もよかったことにも助けられて、高年齢で面接もあったのに合格出来たと思います。写真は定年退職の年に医学部でいっしょにやったシンポジウムで撮ったものです。

【リンガラ音楽】

「リンガラ」という呼び方は、ケニア、タンザニアなど「外国」(日本を含む)での呼び方であり、コンゴでは単に「ルンバ(Rumba)」と呼ばれる。また、欧米では「リンガラ」よりも「スークース(Soukous)」という名称の方が一般的である。元々、リンガラというのはコンゴの商用語のことであり、コンゴ川流域にそれぞれ独自の言語を持つ民族が多数共存する状況において、特に商取引の便宜を図るために自然発生的に形成されたものと言われている。1960年のコンゴ共和国の独立後、現地で流行したポピュラー音楽の多くがリンガラ語で歌われるようになったため、ケニアやタンザニアなどでは、そうした音楽を「リンガラ(音楽)」と呼ぶようになったのである。

地元(コンゴ)の人々が「ルンバ」と呼ぶように、リンガラ音楽のルーツにはキューバ音楽がある。ただし、これは何も「リンガラ」に限ったことではなく、ナイジェリアの「ジュジュ(Ju Ju)」、ガーナの「ハイライフ(High Life)」、カメルーンの「マコッサ(Makossa)」、そして、ユッスー・ンドゥールやサリフ・ケイタの音楽等々、現代アフリカン・ポップスのベースには、たいていキューバをはじめ中米やカリブの音楽の影響があるという。「(伝統的な音楽を持つ)アフリカ人がなぜキューバ音楽を?」と不思議に思ってしまうが、キューバで生まれた本来のルンバは、アフリカから強制的に連行された奴隷たちが、休憩時間にだけ小屋で踊ることを許されていたという状況の中で生み出された、打楽器と歌(コーラス)だけで構成された(いわゆるアフリカ色の強い)音楽であるということを考えると、アフリカの人々がキューバ音楽を取り入れるのは至極当然のことであろう。キューバやカリブ諸国の(いわゆる)ラテン系音楽は、1920年代から主として白人入植者によってアフリカへ持ち込まれたが、1950年代半ばにはヨーロッパからアフリカに輸入されるラテン音楽のレコードが、コンゴを含む中部・西部アフリカにおいて非常に売り上げの大きい重要な商品であったということから、現地の人々にとってこうした(ラテン)音楽の衝撃が如何に強烈だったかが想像できる。その衝撃は、目新しい衣装をまとって突然目の前に現れたのが、実は音信不通になっていた古くからの友人であったことを知った時のようだったのかもしれない(ちなみに、この時期、ヨーロッパの大手レコード会社が次々に現地へ進出し、キューバやアメリカで既に発表されていた音楽を低コストで再生産・再発売することで、莫大な利益を上げていたという)。

現在、一般に「リンガラ」と呼ばれている音楽は、キューバン・ルンバをベースにしながら様々な民族のリズムを融合したリズム体の上に、複数のエレキ・ギターによる高音域の繰り返しフレーズが絡み合い、主に高音域で歌うヴォーカルとコーラスが載るというのが最も一般的なスタイルであり、多くの楽曲は、①ルンバ、②サカデ(Sakade)、③セベン(Sebene)という3つのパートから構成されている。①ルンバは歌やコーラスを聴かせるゆったりしたパート、②サカデはソロ・ヴォーカルとコーラスの掛け合い(コール&レスポンス)で盛り上げていくパート、そして、③セベンはダンスのためのテンポの速いパートであり、ライブでは5分、10分と続くことも珍しくない。それぞれのパートは、同じようなリズムやリフレインの繰り返しが基本であり、「リンガラ」の目的が踊ることにあるのが一目(一聴?)瞭然である。ライブにおけるヴォーカルの掛け合いやセベン・パートでのダンスは、初めて見る人にはかなり奇異に写るかもしれないが、現地では聴衆も一緒になって盛り上がるのが普通である。そして、こうした構成はまさに伝統音楽を現代の楽器を用いて再現したものであり、夜を徹して延々と繰り返しながら盛り上がり、集団でトランスに入っていくような要素も伝統音楽と同様であるように思われる。ただ、1960年代までの初期(いわゆる第一世代や第二世代)の「ルンバ」は、ゆったりとしたキューバン・ルンバのカラーが強く、楽曲も歌が中心であった。それを上記のような主としてダンスを楽しむための音楽として変革したのが、1969年に結成されたザイコ・ランガ・ランガ(Zaiko Langa Langa)であり、現在のリンガラもその延長線上にあると言える。そして、そのザイコ・ランガ・ランガの中心人物であり、現在も「リンガラ」のシンボル的存在であるのが、欧米や日本でも有名なパパ・ウェンバである。

近年のコンゴの混乱を反映してか、現在のコンゴのリンガラ・シーンは1970~80年代の全盛期に比べてずいぶん沈滞しているという。しかし、ラップの要素なども取り入れた新たなスタイルも生み出されており、特に中部・東部アフリカにおいては依然として最も影響力の強い音楽であることは間違いない。

パパ・ウェンバ Papa Wemba –<リンガラ・ポップの伝道師>

中央アフリカに位置するザイールからアフリカ各地へと広まっていったリンガラ・ポップ、このサウンドをアフリカからヨーロッパへ、そして世界中へと広めていった伝道師の役目を果たしたのが、ヴィヴァ・ラ・ムジカを率いて何度も日本を訪れているパパ・ウェンバです。彼はミュージシャンとして、ザイールの音楽シーンを引っ張っただけでなく中央アフリカ最大の都市キンシャサという大都会に住む若者たちのファッション・リーダー、トレンド・リーダーとして、そのライフ・スタイルにまで影響を与える存在でした。そのサウンドは都会の文化、ストリートから生まれた数少ないアフリカン・ポップスと言えます。

 

クラス名簿(再掲載)2020年前期 英語 Ra1(2)クラス名簿(31名)

30170030 井戸 颯人 イド ハヤト
30200049 池ノ上 将基 イケノウエ シヨウキ
30200092 梅山 愛梨 ウメヤマ アイリ
30200100 押領司 尚美 オウリヨウジ ナオミ
30200137 尾崎 ちひろ オザキ チヒロ
30200186 加藤 大地 カトウ ダイチ
30200205 川越 晴登 カワゴエ ハルト
30200232 北村 詩歩 キタムラ シホ
30200250 串間 怜央 クシマ レオ
30200278 小島 楓華 コジマ フウカ
30200322 迫田 凜々香 サコダ リリカ
30200335 佐々木 ルナ ササキ ルナ
30200423 田代 直哉 タシロ ナオヤ
30200447 恒吉 実於 ツネヨシ ミオ
30200454 角田 楓 ツノダ カエデ
30200461 堂下 つばさ ドウシタ ツバサ
30200506 時松 桃花 トキマツ モモカ
30200533 戸高 みなみ トダカ ミナミ
30200551 永友 阿耶里 ナガトモ アカリ
30200603 東久保 光汰 ヒガシクボ コウタ
30200627 平井 優季 ヒライ ユキ
30200676 福瀬 一真 フクセ カズマ
30200713 藤田 涼 フジタ リヨウ
30200728 淵脇 紅南 フチワキ アカナ
30200731 古田 紋子 フルタ アヤコ
30200742 本田 拓哉 ホンダ タクヤ
30200766 松田 美月 マツダ ミヅキ
30200777 松元 彩夏 マツモト サヤカ
30200816 御沓 帆志 ミクツ ホシ
30200834 宮脇 駿介 ミヤワキ シユンスケ
30200870 山田 凌平 ヤマダ リヨウヘイ