2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の1回目で、『ナイスピープル』とケニアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

『ナイスピープル』とケニア

「ナイスピープル」

『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが1981年、ケニアでは1984年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。

ケニアの地図

著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(1992年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。

著者紹介のある『ナイスピープル』の裏表紙

医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

ムアンギさん

ケニア人で身近で接したことがあるのは2人だけです。ひとりは四国学院大学の教員をしているムアンギさん、もうひとりは宮崎大学の留学生だったサバです。どちらもナイロビ大学を卒業したと言っていました。

画像

ムアンギさん

ムアンギさんとは兵庫県の明石に住んでいた1980年代の半ば頃に知り合いました。(ちょうどケニアなどのアフリカ諸国でエイズ患者が出始めた頃ですね。)詳しくは忘れましたが、神戸にある黒人研究の会で知り合ったような気がします。高校の教員を辞めて大学の職を探している時に、大阪工業大学でいっしょに非常勤をしたこともあります。1987年だったと思いますが、資料を探すためにニューヨークハーレムにある公立図書書館を訪れる前に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)に滞在していた大阪工大のESSの学生の宿舎に寄ったあと、キャンパスをいっしょに歩いたりもしました。日本では日本語しかしゃべってこなかったムアンギさんが、アメリカでは英語でしゃべりかけて来ました。ギクユの人でナイロビ大学を卒業したあと、国費で京都大学に坂本龍馬の研究に来たとか。卒業後に法学部の助手もやっていたそうです。同じギクユ人の作家グギさんが来日したときに世話をしたら、ケニアに帰れなくなったのだそうです。当時のケニヤッタ政権に反対する立場にいたグギさんの友人は、ケニアでは反体制の危険分子だったというわけです。

サバ

もう1人のサバはルヒアの人で、宮崎大学の体育館で他の留学生や教員といっしょにバスケットをやった仲です。当時は農学部大学院博士課程の国費留学生で、醸造とかが専門でワインを作ったりしていたようです。普段は週に1回いっしょにバスケットをするだけで、ほとんど個人的な話はしませんでした。ちょうど英文の2冊目の本を書いていた時で、どうしてもケニアの事情が知りたくて聞くことにしました。その時のことをまとめて、英文のテキストに載せました。以下の文章がその日本語訳です。

私がケニア出身の学生とケニアの状況について話をしたとき、その学生は現体制についての不満を言いました。「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で「工事中」の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』(横浜:門土社、1988年刊、英文Africa and its Descendants 2

何年か前に、現在長崎市民病院で研修をしている服部晃好くんとサバの送別会をしました。その時は、奈良にある関西文化学術研究都市の会社に就職すると言っていましたが、その後は会っていません。6年間ですっかり身につけた日本語で「小腹が空いた」などと言っていましたが、まだ日本にいるんでしょうか。

サバといっしょにバスケット

服部くんは名古屋の大学の工学部を出て暫くガス会社の研究所で働いたあと、海外青年協力隊の理科教師としてタンザニアのキゴマの中学校で3年過ごしたあと、ケニアでJICAの調整員を2年やったそうです。その後医学部を出て、いつかは再度アフリカに行くために、熱帯研究所のある長崎大学で医師の研修を受けることにしたそうです。
アフリカ音楽にも詳しく、会社を休んでユッスー・ンドゥールのコンサートに出かけたと言います。音楽の解説記事を頼んで、大学の授業でも使わせてもらっています。このシリーズでその解説記事なども紹介したいと思っています。

つづきは→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

  2009年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 35

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』を理解するために(1)―『ナイスピープル』とケニア

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の15回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo. 35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(15)第15章 ユーニス

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(15)第15章 ユーニス

ある月曜の午後に初めて、医療倫理の問題に突き当たりました。リバー・ロードでの生活に満足していましたし、バークレイズ銀行の口座には既に6000シリングの貯金がありました。車の前金も簡単に払い、残りは上級公務員に許されている政府のローンを組みました。患者は私の診察に満足していて、次々と診療所にやってきました。待合室に男女の患者が20人も座っている時もあり、それぞれが私の診察を受けに来ていました。私自身もすっかりお決まりの問診が板についているようになっていました。

「おしっこをする時、痛いんです。」と、男が言いました。
「なるほど」と、私はあまり恥ずかしそうにも見えない患者に私は聞きました。
「最後にセックスをしたのは?」
「3日前です。」
「わかりました。では診療台にのぼってズボンを脱いでください。」

患者が女性の場合、問診のやり方は少し違いました。

「先生、背中が痛むんですが。」
「おりものは?」
「ありません。」
「普段見ないものが、下着に付いてましたか?」
「ええ。」
「おしっこをする時、痛みはありますか?」
「はい。」
「検査のために、おしっこを採ってもいいですか?」

性感染(病)症にかかっているとはっきりわかっていても、頑固な患者には、検査結果の出た翌日に診療所に来るように言いました。

この特別な月曜日に、私はゆったりとした気分で性感染症専門家のキャンベラの医師の記事を読んでいました。なぜ性科学が現代医学で一定の地位を占めているかについて、メアリ・スチュアート医師がタイム誌のインタビューを受けていました。

スチュアート医師はオーストラリアの男性は極めて差別主義的だと主張していました。「囚人として知らない土地に移住し無理矢理その土地に住むアボリジニ女性を娶りながら生き延びるしかなかった開拓史が差別の原点に違いない。今日、女性は強引な異性との出会いではなく愛情を求めているので、どの家庭でも問題を抱えている。では、オーストラリアの男性はどうするのか?オーストラリアの男性は結婚相手を求めてタイに行く。女性の方は、自分が女性であることを実感させてくれるジンバブエや南アフリカ、イタリアやギリシャや他の少数派の男性を結婚の相手に選ぶ。その理由により、オーストラリアは深刻な社会問題を抱えており、その問題を正せるのは男女の問題でロミオとジュリエットの悲劇にみられる恋愛感情がわかる性科学者だけで、もしその問題が解決されなければ、女性は抑圧されたままである。」以上ががメアリ・スチュアートの主張でした。

オーストラリア地図

実際にアメリカでは、性の問題を抱える男女が通院して性行動の教育を受けられるように、特別な病院を建てた、という記事をイバダンにいた最初の頃に読んだことがあります。この種の病院は殆んどが悪用され、偽装した売春宿になってしまったのは残念なことです。しかし、性の問題を扱う病院が、性を売る店になるのが間違っているとは私には思えません。性を買うことと、セックスセラピーにお金を払うことに、どんな違いがあるんでしょうか?見覚えのある高価な服装をした女性がドアを開けたのは、そんなことを考えている最中でした。

「わたしの名前はユーニスです。」と完璧な英語でその女性は言い、
「あなたに助けてもらえればいいんだけど。」と付け加えました。

「私に出来ることは何でもしますよ。」と、私は高価な服装をした40くらいの女性に少し気後れしながら答えました。裕福な暮らしを思わせる甘い香りと高価な香水、きれいにマニキュアをした爪、しっかりと目打ちされた靴からも、リバー・ロード診療所に来るタイプの女性でないのは明らかでした。

「とても疲れやすくて、体全体が張った感じがするの。いつもの婦人科の医者は何も見つけられなかったわね。」
「特に痛む箇所はありますか?」
「ええ、背中と両足と、それに首も、ね。」
「いつの頃からですか?」
「今年に入ってずっとね。でも病気じゃないと思っていたの。」
「どの先生に診てもらってましたか?」
「私はずっとジンマーマン先生にかかって来たわね。」

ロベリ・ジンマーマンはナイロビの医学界ではトップクラスです。高級なブルース・ハウスの6階に診療所を持つ高給取りの婦人科の開業専門医でした。それなのにそのユーニスが1年目の医師ジョセフ・ムングチに助けを求めています。私の「タイタニック号」が間違いなく姿を現わしました。電話が鳴ったのは、そんなことを考えている最中でした。

「ワウェル・ギチンガだ。ドクター・ムングチか?」
「はい、私です。」と、私は答えました。
「マインバ夫人が君に診てもらいに来てるかね?」
「え?どなたですか?」と私が答えて患者の方を見ると、そうだと頷いていました。
「ええ、来られてますよ。」と、私は答えました。
「しっかりとみてやってくれよ。」と言うと、ギチンガは突然電話を切ってしまいました。

その女性の不思議な病気の原因を突き止めるために、出来る限りしっかりと患者を診察しました。45歳の女性としては心拍数も血圧も正常でした。熱もなく、中年女性を侵す婦人病の兆候もありませんでした。
「マインバさん、最後の生理はいつでしたか?」
「1年前ね。」
「便の具合はどうですか?」
「もう何年も下痢はしてないわ。」
「おしっこはどうですか?」
「きれいね。」
「何かスポーツはされてますか?」
「最近、ヒルトン・ヘルス・クラブでトレーニングとサウナを始めたわね。」
「どのくらい前ですか?」
「1週間ぐらい前かしら。」

これ以上問診をしても効果がなさそうでしたので、何種類かの臨床検査をしようと決めました。検査用に尿と便と血液を採るように夫人に頼んだあと、検査結果が手に入る3日後にもう一度診療所に来てくれるようにと言いました。

「きっと何の問題もないわよ。」と、夫人はそう言うと媚びた目つきで、何か深刻な問題があれば見つけてごらんなさいよ、とでも言いたげにくすっと笑いました。

「では、3日後にお会いしましょう、マインバさん。」と、私は早く夫人が出て行ってくれれば次の患者の診察を続けられるのにと思いながら言いました。その男性患者は、梅毒の症状である潰瘍(硬性下疳)が気になるようでした。しかし、夫人は帰りませんでした。ドアをノックして私の承諾も得ないで部屋に入って来ると、便と尿を入れた容器をテーブルの上に置きました。

「私の婦人科医もこれは調べたわ。私のお腹じゃなくて、この辺りに目を向けてほしいわね、若先生。」と、夫人は手で胸元を触りながら言いました。

私の対応が適切ではなかったと遠回しに言われて少し怒りっぽくなっていたのは確かですが、マインバ夫人については婦人病のことは考えていませんでした。リバー・ロード診療所に来る私の患者はこれまでの所、非常に簡単な病気か、カンジダ症、トリコモナス症、梅毒、マラリアなどでした。高所得者層の健康そうな主婦が、実際に病気で苦しんでいるとは思えないような様子で私の診療所を訪ねてくることなどまずありませんでした。私は梅毒の患者に服を着て、受付で待つように頼みました。

「マインバさん、どうして私の処置が正しくないとお考えなんですか?」
「ワウェルが、あなたが検査もきっちりとやるし、ケニア中央病院の医者よりはるかに私の症状に興味を持つはずだっておっしゃったからよ。」
「ワウェル?」
「ギチンガのことよ。」

私は目眩を覚えました。自分の雇い主から紹介された患者が、私を未熟だと現に考えていると思うと心が乱れました。しかし、医学の専門的な知識もない口うるさい女性に負けるわけにはいきませんでした。

「便と尿と血液の検査が終わってから、木曜日に検査をするつもりだったんですが、今日がいいということでしたら、ベッドに上がって服を脱いで下さい。」と夫人に言ってから、私は手袋を着け、検査用の手鏡を手に取りました。そしてイバダン大学の医学部以来何年も使っていなかった道具で検査を始めました。

私は夫人の体を隅々まで検査しました。夫人は私に言われたように服を全部脱ぎ、金の指輪と耳と鼻のピアスだけの姿になりました。首と脚に着けていた装飾品もみな純金でした。私は宝石商ではありませんが、50000シリングは下らないほどの金やダイヤモンドを身につけているのだろうと思いました。歯、鼻、口、両目、腋、恥骨、両手両脚、すべて完璧な状態でした。陰部には、傷もいぼも発疹もなく、体のどこにも吹き出物ひとつありませんでした。実際、男性でも女性でも、今までこれほどの健康体を私は見たことがありませんでした。

「そうですね、これだけは言えますよ、今まで私が診察してきた中であなたは一番完璧な生き物です。」と言って私は手袋を外しながら夫人に服を着るように言い、検査結果が出るまで時間をくれるように頼みました。

「私、本当に大丈夫なの、先生?」
「診断結果異常なしの証明書が出せますよ。」
夫人は服を身につけながら、もう一度悩ましげな笑顔を私に見せ、化粧を直して唇を真っ赤に塗り終えると意気揚々と部屋を出て行きました。

ナイロビ市街

*****************************

ユーニス・マインバは、木曜日の夕方5時ちょうどにやって来ました。普段は診療所を閉める時間ですが、どうやら終わる時間に合わせて来たようです。他の患者はすべて帰っていましたので、私には好都合でした。艶めかしい女性が私に偉そうに言ったり、ここの規則を無視して好き勝手に振る舞うのを他の患者には見られたくなかったからです。夫人は私にバラの花を持って来て、「奥さんに毎日机の上に飾ってもらうといいわね。」と言いました。

「妻を持つという光栄にまま浴していません。」と、自分で自分の首を絞めているという自覚もほとんどないまま、私はそう言いました。
「まあ!こんなハンサムな男性が、まだ結婚なさってないの?」と、夫人は目を大きく見開いて不思議そうに言いました。
「マインバさん。検査結果が出ています。病気を起こす可能性は全くありません。帰ってもらっていいですよ。リラックスして、健康な毎日を楽しんで下さい。」
「リラックスするのを助けて下さる?」
「あなたのなさる何を助けるんですか?」と、私は聞きました。
「リラックスして、健康な毎日を楽しむんでしょ?」
「自分が楽しむのに人の助けなど要りませんよ。」と私は言いました。実際にその通りだと思います。
「じゃあ、ジョセフ・ムングチ先生、あなたは私が「両性具有」だとでもおっしゃるの?」夫人は私の好きな専門的な領域に入り込んできましたが、決してこの夫人にやられたままになっているつもりはありませんでした。
「いいえ、マインバさん。私は「無性症」ではありませんが、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないと言っているんです。」
「そうなの?じゃ、マスターベーションはやるの?」
「やりません。」
「それじゃ、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないって、あなた、どうやって言えるのかしら?」
私は今まで如何に世間を知らずに生きて来たんだろうと思い始めていました。結婚すれば性生活でも必要なだけの満足感を得られるもので、健康そのもののユーニス・マインバも、生活に必要なすべてを備えた満ち足りた母親だと信じていました。

すべてはこうして始まりました。マインバ夫人と私はその後一年間関係を持ち、二人は破滅寸前まで行きました。週末には国内じゅうのあちらこちらに出かけ、仕事が休みの時には、パンガニにある金持ち層ナイスピープルの恋の巣窟で何時間もいっしょに過ごしました。ユーニスは気前のいい女性でした。私の少ない給料を当てにするメアリ・ンデュクとは違って、高いホテルでは、ほとんどユーニスが支払いました。スーツまで新調してくれました!ある晩、ユーニスは私の嫌いな縞模様のスーツを着るように言いました。すでに私は金持ち夫人に仕える若い燕になっていました。

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html

執筆年

2010年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 19

ダウンロード・閲覧

『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(15)第15章 ユーニス