ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 二 買い物と自転車

2020年2月2日2000~09年の執筆物アフリカ,ジンバブエ,随想

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は生活を始めた頃の、買い物と自転車の話です。

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 二  買い物と自転車           玉田吉行

買物

日本では何のこともない買い物もハラレではなかなかの大仕事でした。車に乗るのは金持ち、歩くのは貧乏人という白人街では、前篭一杯に買いこんだ食料品を乗せて自転車を走らせる外国人の姿は珍しかったようです。

二日目、家から一番近くのショッピング・センターに食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、四人は地図をたよりに出発しました。地図で見ると一キロほどの距離でしたが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車も猛スピードで走りますし、道路を渡るのも命懸けに思えました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまでたくさん買い込みましたので荷物も重く、随分と遠くまで出かけたような気がしました。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの生活必需品は大体半分から三分の一程度の値段のようです。例えば、この日買った英国風のパンは、日本のトースト用のパン二斤くらいの大きさですが、三ドル(八十円)足らずです。選べば一ドルから二ドルくらいのパンもありました。ビールは小瓶よりやや小さめですが、二ドル(五十円)足らず、それも半分は瓶代ですから、一本が三十円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も一ドル(二十五円)以下で、ビールよりも安いようです。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ますと、スプライト類二本で一ドル九十セント(五十円足らず)、紅茶二杯三ドル二十セント計五ドル十セント(百三十円ほど)でした。

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の二倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエ人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か二ヵ月半の間に目に見えて値上がりしましたが、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくのだろうかと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。

タオルや文房具類は、日本と同じか高めのようでした。品物は粗悪なものが多く、特に紙の質はひどかったと思います。厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを二足買いましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、三日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも一足五十三ドル(千三百円ほど)でした。

五日目に、近くの国立植物園まで四人でスケッチに出かけました。広い敷地で、小学校と違ってフェンスもなく、入り口には次のような掲示がありました。

「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。無料で入れる園内の花には期待が持てませんでしたが、それでも所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

自転車

ゲイリーの一月の給料が百七十ドル(約四千三百円)ですから、中古にしろ二万円足らずの自転車は、乗り捨てられた自転車が駅などに溢れかえっている日本とは違って、貴重品です。

四日目に中古の自転車が二台届いて、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、二台の自転車にそれぞれ二人乗りして、四キロほど離れたショッピング・センターに買い出しに行きました。自転車の性能が悪く、ペダルを踏んでも踏んでもなかなか進みません。サドルも高く、帰り道は登り坂、後に子供、前に荷物、まさに「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」でした。

予想通り、自転車は故障しました。ある日、いざ出発と家を出たとたんに、荷台から長女が転げ落ちてしまいました。大事に至らなかったのが幸いでしたが、突然のことでびっくりしてしまいました。見ると、荷台の止め金が二本とも外れています。初めから止め金がついていなかったのです。

長女が落ちたのは大きい方の自転車からですが、その自転車、今度はある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。どうやら右のペダルの根元の止め金が取れてしまっているようでした。家までまだ三キロほど残っていましたので、仕方なく、左側片方のペダルで漕いで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話しますと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買ってきてくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込んでみましたが、少し大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかし、こんな部品が走っている間に取れたりするものでしょうか。それでも応急処置で何とか走るようにはなりました。日本に帰ってからその部分を調べてみましたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれていました。これなら、外れる心配も要りません。

子供用の自転車の方も、ある日ショッピング・センターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてタイヤが裂けてしまいました。今回は三キロの道のりを押して帰るしかありませんでした。

幸い前輪でしたので取り外し、タクシーを呼んで、購入したマニカ・サイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明しましたら、すんなり新しいのと取り替えてくれましたが、初めから新しいのを着けてくれれば良かったのにと恨めしく思いました。

自転車での買い物は、瀟洒な白人街では珍しかったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語での挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさは感じませんでした。ただ、篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかとか、突然話しかけられるのには閉口しました。しつこくという風でもなく、やんわり断わるとまるで何もなかったように去っては行きましたが。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況はないようでした。スーパーで買物出来る白人や一部の金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。ほとんどのアフリカ人は、時には唐もろこしの粉の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品を入れた小さな袋をもっているだけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しくなってきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいかず、最後まで自転車での買い物が続きました。

白人街のスーパーでは、アフリカ人の店員が荷物を運び白人が僅かなチップを渡す、それが当たり前の光景のようでしたが、どうしても馴染めませんでした。アフリカ人の店員は当然のように荷物を運ぼうとしますが、断るのが大変でした。断るのにチップを払ったりしましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンド・ストリートのスーパーでは、こちらが断わるのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。悪いことをしているわけでもないのに、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣わざるを得ませんでした。目につかないようにと出来るだけ遠くに自転車を留めましたが、必ず目敏く見つけて近づいて来るのには参りました。足も悪いのですから、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくない思いが先に立ちました。

二台の自転車はゲイリーに置いていくつもりでしたが、

帰国する日の一週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる日だそうです)に見事に盗まれてしましました。ゲイリーによれば、番犬も吠えず、もの音一つ立てずに、ゲイリーが眠っているガレージから盗み出せたのは、以前に働いていたメイドの仕業だと言うことでしたが、

誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いでしたが、ゲイリーの落ち込みようは、見ていて辛いほどでした。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿です)

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