『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(5)第6章 メアリ・ンデュク
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の5回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(5)第6章 メアリ・ンデュク
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第6章 メアリ・ンデュク
メアリ・ンデュクは158センチで、カンバの間では美しいと考えられていた明るい肌の色をしていました。父親は不明でしたが、母親からは「おまえはとても立派な人の娘なんだよ。」と教えられていました。母親のムウェンデが産んだ6人の子どもは、父親が皆違いました。それでも、ムウェンデは女王蜂のように慎重に雄蜂を選びました。ムウェンデはタラ高校で調理師として働いたあと、ニエリの少年院では賄い婦として働きました。長男のジョンの父親は村の村長でした。ムウェンデを自分の手元に置いておきたいと思ってその子を二年間は養いましたが、当のムウェンデが第二夫人になることを望まず、今度は学校の校長に乗り換えて、別の子をもうけたのです。校長はのちに当地区の官吏になり、やがては地区の長官になりましたが。それから一年もせずに、朝鮮で第二次世界大戦を経験した陸軍の曹長との間にカヴィラが生まれました。帰還するとすぐにマウマウと戦うため、「英国王アフリカライフル部隊」に配属され、ニエリの少年院で曹長はムウェンデと出会ったのです。
ニエリ珈琲農場
非常事態で国の状況が一番厳しい時に、ジョン・キマニ医師との間に4番目と5番目の子供を産みました。 ニエリの居住地区で暮らす家族には厳しい時代でした。マウマウの壊滅活動によって、食料の供給が少なくなって物価が急騰しました。
ムウェンデが、一家の仮の主人としてキマニを選んだその頃は、良い時代などと言えるものでありません。政治的混乱の最中で、キマニはなんとか家族を養ってはいましたが、ムウェンデと結婚するつもりはありませんでした。居留地からマウマウをあぶり出して一掃するために、エンブとメルとギクユの出身者は強制収容所に送り込まれていました。
末っ子のレベッカが生まれる頃には、すでにメアリはタラで高校に通っていました。メアリは決心していました。夫を何度も変え、父親のいない子供を50人も産みかねない母親のようには決してならない、と。父親の話が出るといつも、自分が普通の子供のようには育てられなかったと感じて、メアリは心の底で涙を流すのでした。
ムウェンデは気前がよくつき合いのいい女性で、非常に働き者で、抜け目がなく頑固でした。男の習性については知らないことはありませんでした。慎重に連れ合いを選び、ほぼ数学的な精密さで妊娠にこぎつけるのです。子どもたちの父親に養育費を出してくれとは言いませんでしたが、人は良いのに男は皆、1週間しないうちに自分に我慢ならなくなるのが唯一の欠点であることだけは受け入れて欲しいと言いました。そのあと、ムウェンデの癇癪が二人の間に支障をきたすようになると、その男を自分の人生から排除するのです。男たちが来ては去って行きました。出て行く男の数が増えるほど、ムウェンデは、子どもたちをまともに食べさせ、まともな身なりをさせ、十分な教育を与えられる家庭を一人で築けることを人にわからせてやろうと心に誓いました。
メアリの話から私も色々と思い出しました。メアリ自身は、ナイロビで秘書をやっていました。再会したのは、医学部主催の新年ダンスパーティーの会場ででした。タラ高校時代のクラスメイトが連れて来ていたのです。ムウェンデの子どもであることは15年前から知っていましたが、会うのは高校以来でした。ナイロビ大学で臨床心理学の講師をしているスティーヴが、当時18歳のメアリを妊娠させて、メアリはそのままタラ高校をやめてしまっていたのです。
スティーブがメアリを紹介したとき、私は知らない振りをしました。
ナイロビ大学
「こちらはムングチ先生。ジョー、こっちはメアリ。僕たちすごく親しいんだ」と、スティーヴはお互いを紹介しました。
「うそ、親しくなんかないわよ。あなた6年前に私に迫ってきて母親にしておいて、それ以来別れたままでしょ」と、メアリはぴしゃりと言いました。スティーヴの紹介をその場で言い直した屈託のなさに私はとても驚きました。
「ジョゼフ、本当に私のこと知らないの?」と、メアリが尋ねました。
子どもの頃、私はジョゼフで通っていて、20年前の私を知っている人間だけが、その名前で呼んだのです。私はメアリを見つめました。あのムウェンデの末娘が今やすっかり大人になっていました。ひとりの成熟した女性でした。もし品の良さというものが、唇を半開きにして、伏せ目で音を立てずに飲み物をすすり、相手に耳を傾けながら熱心に頷きながら、必要な時だけほんの少ししとやかに顔を斜めに動かすということを指すのなら、メアリには何かしら品の良さがあると思いました。
メアリは今の私の状況をかなり知っていると思いました。ケニア中央病院での研修のことやンデル市場街の「ミニ病院」のことを誰が教えたのだろうと不思議に思いました。
メアリを知っていることを認めて、「ニエリ認可校の美人、ンデュクだね。」と、私は言いました。確かにメアリのことは知っていました。休日に、ニエリにいた父に会いに行った時のことです。非常事態宣言が出されていた間、父はニエリに(赴任させられ)配置換えになっていました。植民地政府が言う「更正役人」だった父の任務は、マウマウ抑留者が暴力停止の必要性を認め、白人支配を受け入れるように説得することでした。
ニエリ珈琲農場で
私とメアリの家族は、同じ抑留地内に住んでいました。確か父は、ンデュクの住まいには1度も入ったことのない、ただ1人のVIPでした。両家とも6人家族でしたが、1つ違いがありました。私の母親には夫がいましたが、ンデュクの母親に夫はいませんでした。私たち家族の社会的地位を、ンデュクが妬み、私たち家族のような立派な家庭を作るという思いに取り憑かれていたことなど、当時の私には知る由もありませんでした。
そういった家族の方針からすれば、スティーヴとの赤ん坊のことはたまたまの事故だった可能性もありますが、メアリは相変わらず毅然としていました。私に微笑みかけ、親しみをこめて私の名前を呼ぶので、思い切ったメアリの誘いに誤解のしようもありませんでした。それから、今は結婚していて二人の子ジョンの面倒もみているスティーヴの傍から、メアリはぱっと身を離しました。
後になって、私はメアリが贅沢に暮らしているのを知りました。身に着けている洋服や靴は、地元のものではありません。自宅の調度品も見事でした。全てが栗色のマホガニー材です。部屋には絨毯が敷き詰められ、台所の設備も整っていました。何とかやってきた陰には苦労もありました。メアリの愛人、イアン・ブラウンは地元のスタンダード銀行で融資部長を務める英国人でした。メアリはその秘書で、自分の上司が求めるもの、絶対的忠誠心を捧げたのです。
ナイロビ市街
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執筆年
2009年5月10日