つれづれに

つれづれに:HIV人工説

 今回は、HIVの人工説である。HIVはアメリカが生物兵器を造る過程で、故意または偶発的に漏れたウィルスである可能性が高いという話である。エイズ関連の最後の3つ目の山の前半、☆社会問題として:アメリカ、の締め括(くく)りとなる。大きな問題だが、不確定な要素が多く、現実的に見て今となっては立証する術はない。しかし、抗HIV製剤(↑)が人類史上最も利益を生む薬となり、その周辺に蠢(うごめ)く人たちのやってきたことを考えると、心に留めておきたい問題の一つである。そうでないと、歴気から何も学ばないで終わってしまう。爛熟(らんじゅく)して滅亡期に入っている資本主義制度のど真ん中にいて、大量生産と大量消費を止められないのだから、せめて少しでも滅亡の時期を遅らせるように、歴史から学んで少しは流れに抗(あらが)ってみるのは悪くない。何もしないよりは、ましだろう。

 HIVの人工説を言い出したのは、エイズ患者が出る前に、癌の治験に協力していたアメリカの医師(↑)たちである。つまり、政府やCDC(米国疾病予防センター、↓)などの遣り方を批判する内部告発だったわけである。既得権益にしがみつく集団は、その人たちを異端派として排除し続け、その内部告発をもみ消してしまった。

 私がHIV人工説が荒唐無稽(こうとうむけい)ではないと思えたのは、アメリカのレイモンド・ダウニング医師の「アフリカ人のことはアフリカ人に聞け」という提言に従ってアフリカ人に耳を傾けた時である。ナイジェリア人が編集長(↓)になってからNew Africanでは、アメリカ人医師の内部告発を継続的に取り上げていた。治験に協力してエイズ患者と向き合った医師のデータに基づいた主張に、私は信憑(ぴょう)性を感じた。

 アフリカ滞在が長いダウニング医師は、著書(↓)で臨床面や社会学的な面からだけではなく、実際にエイズ患者を取り上げた小説19冊を紹介している。ちょうど文学と医学の狭間からエイズを覗(のぞ)くというテーマで科学研究費を交付されていたので、何より貴重な資料となった。一番心を動かされたのは、病気を病因や症状だけからみるのではなく、社会や環境や歴史などから、より包括的に病気をみるべきだと力説しているところだった。

 南アフリカの大統領タボ・ムベキ(↓)がエイズはHIVだけが原因とは言えないと主張したのと同じ路線である。欧米のメディアはムベキを非科学的な野蛮人と痛烈に批判し続けた。激増する感染者を前に世界保健機関(WTO)の例外条項を使ってコピー薬を製造し始めたとき、製薬会社はアメリカの副大統領を使って圧力をかけて、→「大統領選」まで左右した。2000年のダーバンの→「国際エイズ会議」でも、ムベキを槍玉にあげて相変わらず非科学的で頑固な野蛮人と批判し続けた。

 次回から最後の山☆社会問題として:アフリカ、の連載に入る。たまたま修士論文に選んだ作家(↓)がアフリカ系アメリカ人で、必然的に奴隷貿易で連れて来られたアフリカに目を向けて、歴史を辿(たど)ることになったが、その成り行きがエイズを理解するのに役に立つことになるとは思ってもみなかった。この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜の中で、侵略者側は自らを正当化するために白人優位・黒人蔑視を浸透させてきたが、意識の中でも現実の生活の中でも、その系譜を今一度問い直す機会の一つになれば嬉しい。

小島けい画

つれづれに

つれづれに:2024年10月1日

<ロバ(パオンちゃん)と犬(ウィペット)の親子>(3号)

 今年も10月1日が過ぎて行った。私の誕生日である。医大で出会った既卒組の一人からユッスー・ンドール(↓)を紹介してもらった。文字を持たない口承の世界のグリオ(griot)の末裔だそうである。グリオはかっこよく吟遊(ぎんゆー)詩人と翻訳されることもあるが、その村の歴史を記憶して語り継ぐ人たちである。『ルーツ』の作者アレックス・ヘイリーは7世代を遡り、ガンビア川を遡って祖先クンタ・キンテの生まれ育った小さなジュフレ村を訪ねた。その村のグリオの口から、ある日森に樹を切りに出かけた時に奴隷狩りに捕まり、奴隷船でアメリカに売られて行ったと、直接祖先の名前を聞いている。

 80年、90年代に欧米に紹介されて世界的な歌い手になった。来日もしている。学生がコピーしてくれたJokoというCDは、90年前後に宮崎の本屋にもおかれていた。その学生は一つ目の大学を卒業したあと働いている時に、有休を取ってコンサートに出かけていたそうである。1990年の昭和女子大でのコンサート(↓)の模様はNHKBSで放送された。コンサートでは「ネルソン・マンデラ」などを歌った。その後の英語の授業で紹介したら、東京の私大を卒業した学生が「このコンサートに行きましたよ。ほら、一番前で手を振ってますよ」と映像を観ながら、教えてくれた。

 そのユッスー・ンドールと誕生日が一緒だと紹介したら、次の年にお誕生日おめでとうございますとメールが届いた。その後も、何回かそんなことがあった。誕生日前に後期高齢者用の保険証が送られてきているが、ユッスー・ンドールは私より10歳若い。世界的に売れたアフリカ人の歌手はロンドンかパリかニューヨークなどを拠点にする人も多いらしいが、首都のダカールにスタジオを持って活動しているらしい。日本ではホンダのステップワゴンのCMで、結構有名になった。1994年にニューヨーク州ソーガティーズで開催されたウッドストックロックフェスティヴァルにも招待されて、Copy Meを歌っている。その頃、非常勤なのに旧宮崎大(↓)英語科の学生の卒業論文の手伝いをしていた。最初アフリカ系アメリカの作家で書きたいということで研究室に来たが、いつの間にかブラック・ミュージックにタイトルが変更されていた。なぜか最後まで付き合うはめになったが、その学生がバイトしていたビデオショップでそのフェスティヴァルを録画してくれた。頼んだわけではなかったが、ボランティアへのお礼だったかも知れない。父親が働かない人で学費をバイトで賄って卒業した後、東京で就職した。今ごろ、どうしているんだろう?最初で最後の卒論指導である。医学科はゼミがないので卒論指導をしたことはないが、統合後手伝った日本語教育の修士課程と新設された医学科の修士課程で、一人ずつ修士論文の相手をすることになった。

まさか75歳の日が来るとは思いもしなかったが、先がそう長くないのを、少し意識し始めている。一度諦めたとき、後で悔いることだけは避けたいと思って生きてきたので、あまり悔いはないが、そんなにきれいに割り切れるものでもないらしい。気持ちが切れないうちに、5冊目を書いておくとしよう。