つれづれに:ナイス・ピープル
エイズに関するアフリカの9回目で、今回はナイス・ピープルである。ナイス・ピープルはエイズの小説のタイトルに使われた言葉で、どんな素敵な人たちの話かと思って読んでみたら、とんでもない、エロ親父の話だった。英語ではSugar daddy、いっしょにシンポジウム(→「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」、→「報告2」、→「報告3」、→「報告4」、→「報告5」、→「報告6」)をした卒業生がタンザニアでの経験を次のように紹介していた。
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私がタンザニアで教えていた学校の近くにも、このような看板を見つけることができました。書いてあるのは「Say No! to sugar daddy」とか、「Refuse offers from sugar daddies」とかだったりします。それぞれ「Sugar daddyにはNoと言おう!」とか、「Sugar daddyからの申し出を断ろう」という意味ですが、ここで言うSugar daddyとは、若い女性と性的な関係を持つ代わりに金銭や物品を与える年上の男性のことです。Sugar daddyそのものは欧米に元々あった概念ですし、日本では「援助交際」などという言葉もあるわけですが、アフリカの場合、学費を得たり家族を養ったりする目的、つまり、生活上やむを得ずこうした関係をもつ若い女性がいます。
発表後にもらった資料の中の写真、使う諒解ももらった本人が撮った写真
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小説はたまたまケニアの友人に借りたものである。その友人ともいっしょにシンポジウム(「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」、宮崎大学医学部国際医療保健研究会編)をしたことがあり、貴重な記事や図書を紹介してもらっていた。その中の1冊である。知り合いの書いた本だと紹介された。後にアフリカ文学と医学の狭間でというタイトルで科学研究費をもらったときに出遭ったダウニングの本の中に、エイズの小説として紹介されていた19冊の中の1冊で、1992年の出版である。
1981年にアメリカで最初のエイズ患者が出た。アフリカで最初の患者が出たのは1985年で、欧米より急速に感染が拡大した。1992年に在外研究でジンバブエ大学に行ったとき、シェラトンホテルの前でブックフェアが開催されていた。ケニアからの出版社の主催で、ナイロビの出版社のヘンリー・チャカバさんは私が世話になっていた横浜の出版社の人とも知り合いだった。グギさんの翻訳出版がきっかけで知り合ったようで、書かせてもらっていた雑誌の創刊号でチャカバさんが寄せてくれた祝辞を読んだところだった。事情を話すと、とても喜んでくれた。「南アフリカ、このジンバブエからタンザニア、ケニアの東海岸一帯は広大なサバンナに牛を飼う人たちが代々住んでいて、バンツーと呼ばれてるよ。People of the peopleという意味で誇りに思ってるね。ケニアから見たらハラレは庭みたいなもんだから」そんな話を一しきりしてくれた。『ナイス・ピープル』の話をしたら「うちから出してるね」と言っていた。当時はイギリス資本のハイネマンナイロビ支社の支社長のようだった。
1985年に最初の患者が出た後のケニア社会を描き出したわけだが、歴史的に見ても貴重な本である。
舞台はケニア中央病院(Kenya Central Hospital, KCH)である。在外研究から戻ったあと何年かして、その病院で実習をした学生が3人、研究室に来て話をしてくれた。医学科では英語の授業で全員にアフリカとアフリカ系アメリカの歴史とエイズとエボラ出血熱の話はしていたので、ケニアでの体験を話に来てくれたんだろう。人事の採用制度を変えた立役者の一人、基礎医学の教授の薦めだった。ずっとず教授の推薦によるずぶずぶの採用人事だったが、公募で残った3人が講演をして直後の投票で決めるという透明な制度に変えた。まだ学生交換制度のない時で、今から思えば、画期的な試みだったと思う。学生の一人は神戸の第3学区の進学校を出ていた。私は理解して覚えるのが主体の制度に馴染めずに受験勉強が出来なかったので、進学校では嫌な思いしか残っていない。教師は県下一斉の模試試験のある度に神戸第3学区と姫路の進学校と平均点を比較して文句を言っていたので、全く関係ないのに散々名前を吹き込まれていた。関西や中部や関東やからの学生は、地元の医学部には点数が足りずに地方を選んだ人が多かった。その学生もその理由で入学して来たと言っていたが、まさかケニアの病院で臨床実習を体験できるとは想像もしていなかっただろう。部屋に来て、楽しそうに報告している3人を見て、なぜか嬉しかった。部屋で話してくれた内容は、2002年の大学の「学園だより」に、「ケニア滞在記」として紹介されていた。
大学の職が決まっても大学用のテキストと翻訳だけはしたくないとなぜか思い込んでいたが、出遭ってしまった出版社の人に次から次に言われて断れないまま押し切られてしまった。最初で最後の日本語訳の本が形になったのは、1992年である。その後も、グギさんの評論(↓)と、このエイズの小説の翻訳も依頼された。どちらも日本語訳をつけるのに2年ほどかかったが、結局は出版されずじまいである。いろいろ勉強はさせてもらったが、なかなかきつかった。特にグギさんの評論は、ギクユ語も混じっていたし、グギさん自身の何冊かの大作の作品論に加えて、反体制の韓国の詩人の詩と、アフリカ系アメリカの歴史まであって、最初はうそぉーと思ったくらいである。アフリカ系アメリカの歴史はやってはいたものの、作品を理解するためにケニアと韓国の歴史を辿(たど)ってからと考えると、とてもやないけど今の自分では手に余る、そんな思いが強かった。しかし、流れには逆らえなかったのだろう。ただ、エイズという免疫不全の病気がテーマなので、医学科や看護学科の英語の資料に使えたのは有難かった。2000年くらいから半期15回の授業形態になって小説を読む時間を取るのは難しかったので、文字にして要約を紹介したり、参考資料として配ったりした。アフリカ文学を読む機会はあまりないので、貴重な機会を提供したいという思いもあった。
グギさんの翻訳を機にケニアの歴史を辿ってわかったのだが、ケニアも恐ろしい国である。南アフリカの入植者が侵略してきた時、ケニヤッタの下で国をあげて団結して侵略者と戦った。1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれ、長く険しい闘いを強いられた。そして、1963年に独立した。
独立戦争の戦士の一人
ケニヤッタ(↓)が初代首相になった。しかし、独立して間もなく、多国籍企業が資本投資や貿易を展開するアメリカやイギリス、日本などと手を結んでしまったのである。ケニヤッタは1969年に左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を禁止して、一党独裁政治を始めた。ケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派が存在していたが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増してしまった。ケニヤッタとその取り巻きは外国資本を後ろ盾に、数の力で、誰憚(はばか)ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を駆使して完全勝利を果たした。1978年にケニヤッタが死んだ後も、モイが大統領になり、一党独裁政治はしっかりと維持・強化されていった。独立をいっしょに闘ったグギさんたちはケニヤッタの変節を批判して、亡命を強いられた。その人の評論の翻訳を頼まれて、日本語訳をつけたのである。自分の著書の作品論と、アメリカに亡命中に発表した評論を集めた本だった。
ジョモ・ケニヤッタ
出版社の人からは『ナイス・ピープル』のタイトルは考えないといけませんねと言われていた。色事師、エロ親父、好きものたち、どれもしっくりいかないままである。小説の主人公は医者のジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) で、ナイジェリアのイバダン大学(↓)医学部を卒業後、KCHで働き始めたという設定である。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が週末に経営する診療所でも稼ぎながら勤務医を続ける。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎(だたい)手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまう。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続する。
金回りはよかったので、金持ち階級の仲間入りをした。その人たちはナイス・ピープルと呼ばれ、高級クラブに出入りしていた。
「ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の『ケニア銀行家クラブ』の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている」
「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されている。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めている。
1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきた。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去った。
法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになった。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思ったが、どうも違うようである。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI, ↓)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着く。
「あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている」
老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったが、元同僚の意見を求めた。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でもアメリカ人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれた。興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめる。
「私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた」
患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちだった。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されたが抵抗したために暴力をふるわれたのだが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようである。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけた。
元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたが、実際の役には立ちそうにはなかった。こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのである。
幼馴染(おさななじ)みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会ったナイス・ピープルである。
南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しむ。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にある。エイズを発症し、イギリスで治療を受けるために帰国しようとするが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆく。
ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに送り返される。
高級住宅街に住むマインバ夫妻もナイス・ピープルである。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれる。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになる。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来る。
作者は小説の中で「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書いているが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしている。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わってくる。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事である。
「著者の覚え書き
『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。
ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」
(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。
この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。
アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。
病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。
世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。
第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう』と言っています。
しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます」
最初は友人から借りた本という認識で気軽に読み始めた。まさか、ケニアッタの取り巻きの金持ちたちの実態を描き出す小説に出会えるとは思ってもいなかった。搾り取られる側(the poor, the robbed, the haves-not)を描いた作品は数多いが、絞る側の金持ち層(the rich, the robber, the haves)これほど細かく描いた作品にはなかなかお目にかかれないからである。変節したケニアッタにぶら下がっていい思いをしていた人たちはこんな生活してたんや、改めてそんな思いがした作品だった。
次回は『最後の疫病』(The Last Plague)である。