つれづれに

つれづれに:エイズの起源

 エイズに関するアフリカの4回目である。奴隷貿易の蓄積資本で機械による産業化社会になり、資本主義が加速度的に進むなかで、持てるものはさらに富を増やす策を次々と繰り出す。その過程で、→「アフリカ」も原材料と市場の標的にされて、搾り取られてきた。アメリカに最初の患者が出たエイズでも、史上最高の利益を生む抗HIV製剤に群がる輩が、感染者が急増したアフリカも標的の一つとなった。アメリカ人医師ダウニングはアフリカのエイズ事情は→「アフリカ人に聞け」と著書(↓)に書いた。メディアも欧米諸国に圧倒的に支配されているからである。アフリカ人の声を聞ける数少ない情報源→「ニューアフリカン」の中からいくつかを取り上げて、紹介しているところである。今回はエイズの起源である。

 エイズのアフリカ起源説を言い出したのは、CDCが重用した人物ギャロである。ギャロは国立癌(がん)研究所でエイズウィルスを発見したと主張していた。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設である。ギャロはパリのモンタニエ研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中だったが、評価が下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われている。

ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学の獣医師エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になった。しかし、そのウィルスがマサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが後にわかり、ミドリザル起源説自体も否定された。ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表したが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかった。

元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えないが、1988年には、モンタニエ研究所の所長モンタニエも、世界保健機構(WHO)のエイズ特別プログラムの委員長ジョナサン・マン(↓)も、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源には謎が深まるばかりだと認めざるを得なかった。

 アメリカや西洋諸国ではエイズはアフリカが起源だとメディアで騒ぎ立てていたが、アフリカ人はそうは捉(とら)えていない。前回ジンバブエ大学の学生の話や、医学部で出会った医学生のタンザニアとケニアでの体験を紹介したが、ダウニングも1990年代の半ば頃に東アフリカ(↓)の病院で働いている時に同僚のアフリカ人からエイズの起源の話をよく聞いたと述懐している。

「エイズの起源は議論の余地がある問題でしたが、エイズが現に存在し、私たち医者の仕事はエイズを防ぐために努力し、そのために最善を尽すだけだと思っていました。しかし、いっしょに働いているアフリカ人たちには、それだけでは不十分で、誰もが『ニューアフリカン』を読んだこともない田舎の人たちでしたが、私が本当にアフリカがエイズの起源だと考えているかどうかを知りたがりました。私には実際わかりませんでしたし、本当に気にもしませんでしたが、エイズについてのアフリカ人の本当の声を聞くある重要な手掛かりを教えてもらっているとはその時は気づいていませんでした。」

 前回エイズ患者やHIV感染者の数を国連やWHOなどまでが水増ししていたことを書いたが、エイズのアフリカ起源説も、西側諸国の持てるものの利益最優先の延長上にあると言える。エイズのアフリカ起源説はHIVのアメリカ人工説と係わりが深いので、項を改めて取り上げようと思う。次回は性のあり方である。

つれづれに

つれづれに:ニューアフリカン

 エイズに関するアフリカの3回目、ニューアフリカン(↓)である。

1966年創刊の「ニューアフリカン」は英語の月刊誌で、ロンドンが拠点である。毎月、22万人がアフリカ大陸での最新情報を求めて購読している、と言う。読者層は主に官僚やビジネスマン、医師や弁護士などらしい。日本に来たグギさんの世話をして以来、反体制分子とレッテルを貼られてしまったケニアの友人も、New Africanは読んでるよ、と言っていた。ケニアの文部省から京大に政治の研究に来て、博士号を取ったあと3年は助手をしていた。その後の職がなかったので、私が世話になっていた先輩が大阪工大(↓)の非常勤を世話したときに、同じ非常勤として紹介してもらった。それ以来、よく遣り取りをした。

 出版されないままだが、グギさんの評論の翻訳をしたときは、いろいろ聞いた。ギクユ語やスワヒリ語やケニア(↓)の文化背景などで聞きたいことがたくさんあったからである。友人はナイロビ大学の秀才のようで、母国語のギクユ語の他に東海岸で使われているスワヒリ語に、もちろん英語、日本に来てからは日本語も使えるようになっている。ほかにルヒア語などもわかるらしい。日本語だけで済む人が多い日本と言語事情は違うが、多言語用の脳を持っている人物なのだろう。ただし、日本語は京都訛(なま)りというより、いかにも外国人という日本語で、一向に変化する気配はない。教えてもらうまで外国人だと気づかないほど流暢(りゅうちょう)な日本語をしゃべる人が身近にいるので、比較してしまう。

 欧米のメディアが圧倒的な力を持っている現状では、アフリカに関心のある人たちには貴重な雑誌である。ただし、日本では「タイム」や「ニューズウィーク」のようには行かない。もちろん、研究室で定期購読という手もあったが、エイズの記事以外にそれほど必要性を感じなかったので、私は科研費の旅費を使って、過去の在庫がある大阪の国立民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行き、アフリカのエイズ関連の記事を大量にコピーさせてもらった。民族学博物館は事前に連絡を通り、有料の万博公園を無料で通って図書館に辿(たど)り着いた。誰もが気軽にという雰囲気ではないなと、毎回思いながら公園内を歩いていた。もちろん、中に入れば図書館員は親切だったが。いかにも国家公務員という対応だった、と言えばいいか‥‥。東京外大のAA研(↓)の図書館は本館で事情を説明したら、案外すっと係員が連れて行ってくれたが、人はいなかった。わざわざ足を運ぶ人がほとんどいない分野ということだろう。お蔭で、一人静かに雑誌を見ることができた。

 たぶんイギリス資本で、1999年までは英国人アラン・レイクなどのイギリス人が編集長をしていたようである。それが、イギリスに住むガーナ出身のパンアフリカニストバッフォー・アンコマー(↓)が編集長になってから、編集の色彩が大きく変わった。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向も変化した。

 アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増えているし、異端派と無視されたアメリカ人の医師に原稿依頼をして、内部告発の人たちに書く場を提供してしている。扱うテーマも、エイズ検査や統計に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、ぐっと幅を広げている。その後の約10年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心である。次回以降は、そこに提起された問題を詳しく紹介したい。次回はエイズの起源である。参照→「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号、2011年)

エイズの検査キット

つれづれに

つれづれに:アフリカ人に聞け

 アフリカ人に聞けと言ったのはアメリカ人のレイモンド・ダウニング医師である。1980年代の初め頃にアメリカで最初のエイズ患者が出たのち、半ば頃にアフリカでも最初の患者が出てすぐに爆発的に大陸じゅうにHIVの感染が拡大した。それから、HIVがアフリカ起源で、あたかもアフリカに責任があるかのような情報がメディアに流れ出した。CDC(アメリカ疾病予防センター)が重用したギャロが言い出したのだが、麻薬常用者(↓)の献血を使った血液製剤で感染者が出て、その責任を取らされてギャロはマスコミから姿を消した。それから、アフリカ起源の情報もほとんど見られなくなった。数年後、ギャロを信奉する帝京大の安部英を担いだ厚生省も薬害エイズで非難され、安部英の名前もやがては消えて行った。

 アメリカでエイズはアフリカの病気だと言い出しても、アフリカ人はそうは思っていなかった。1992年に出遭ったジンバブエ(↓)の人たちがエイズはアメリカの病気ですよね、と言うのを聞いたし、海外協力青年隊員として東アフリカに滞在した友人も、アフリカ人はみなエイズはアメリカの病気だと言ってましたよ、と話してくれた。

 侵略者側にいるアメリカ人からの「アフリカ人に聞け」という主張は、イギリス人のデヴィドスン(↓)が、欧米諸国はもうこの辺りでいい加減に少しは経済的に譲歩して、今まで奪ってきた富を返すべきだと言ったのに似ている。一人は医者として医療活動に長年従事し、もう一人は雑誌記者として長くアフリカ大陸を取材して回った。その中から自然に生まれた発言である。

 公民権運動で特にインテリ層に支持者が多かったマルコム・リトゥル(↓)は「青い眼をした人がすべて悪魔だと思っているのか?」と常々親しい友人に話していたと言う。虐げられてきた側の人々と身近に接し、多くの患者を親身になって治療したり、節目節目の歴史的な出来事にも中立の立場で立ち会ったりするなかで、多くのアフリカ人の本音を引き出せたからこそ、その主張に辿(たど)り着けたのだろう。

小島けい挿画

 ダウニング医師は『あの人たちの見たままに』(As They Say It、↓)を2006年にロンドンで出版している。アフリカで長く医療活動を続け、エイズ患者とも正面から向き合っている中で感じ、考えた内容を本にまとめたようである。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含むもっと大きな枠組みの中で考えるべきで、欧米の支配する報道を鵜呑(うの)みにせずに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと力説している。欧米諸国が槍玉にあげた南アフリカ大統領ムベキが提起する問題や、雑誌New Africanなどの記事を高く評価し、エイズ患者を取り扱う小説まで詳しく紹介している。

 ダウニング医師の本に出会えたのは幸運である。1980年代に何度かアメリカに行ったとき、立ち寄った本屋で本を買い込み船便で自宅に送った。そのとき、書店が中古本を扱うのを知って、修論で扱った作家の初版本などを取り寄せた。その後も、アメリカ関係の本は、シカゴ(↓)の本屋で購入するようになった。高校7年間の退職金で、奴隷体験記41巻を購入した。その後、南アフリカ、コンゴ、ジンバブエ、ケニアなどの歴史を辿ったり、文学作品を読んで雑誌に記事を書いたり、翻訳したり英文書を書いたりするのに時間がかかって、奴隷体験記は読めないままである。

 アフリカ関係の本はロンドンのアフリカブックセンターから購入した。特にエイズ関係は分厚い本が多かった。どちらも、リストが送られて来たので、メールで注文すれば一月も経たないうちに本が届いた。VISAカードが使えたので、気軽に注文できた。アフリカブックセンターは今はもうないようである。本当は研究費を使いたかったが、国立大の図書館は研究費や外部資金で購入した本も図書館の所有になって、外部から貸し出しの問い合わせがあれば応じなければならなかった。もちろんどちらの資金も税金だから文句は言えないのだが、図書館専用の経費は図書館が使っているのだから、研究費や外部資金で購入した本まで図書館所有だと一方的に言われるのに抵抗感があった。必要だから購入しているのだから、退職後はそれでいいが、在職している間に図書館から貸し出していると言われても、違和感しか感じなかった。図書館の人もその点は当然と言わんばかりで、横柄さが感じられて嫌だった。

ケント州立大の日本人の研究室や、カナダに亡命中の南アフリカ人がいるブロック大の研究室に行ったとき、本棚にあまりにも本がないのに驚いて理由を聞いたことがある。図書館で取り寄せてもらえるので、という返事を聞いて、日本とはだいぶ違うなあと感じた。もちろん、ジンバブエ大学(↓)の図書館にほとんど本がないのも知っていたので、国を比較しようとは思わないが、大学の図書館に横柄に扱われるのが嫌で、途中から退職まで図書に研究費は使わなかった。

 病気に対する包括的なアプローチの提言は納得のいく主張だったので、本の中で高く評価されていた雑誌New African(↓)とエイズの小説は丹念に読んだ。エイズの小説はアフリカブックセンターで購入するか、国内の図書館に依頼するかして手に入れた。南アフリカで出版された1冊だけ、どうしても手に入らなかった。New Africanは宮崎では手に入らないので、大阪の民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行って結構な数のコピーをさせてもらった。資料収集のための旅費を研究費や科研費でまかなえたのは、有難かった。

次回はNew African、である。

つれづれに

つれづれに:アフリカ

 最後の山☆社会問題として:アフリカ、の第1回である。最初は、虐げられ続けている側の代表としてのアフリカについて書いておきたい。

生きるつもりもなかったので、まさか歴史を辿(たど)ってこの5世紀余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜について書くことになるとは、夢にも思わなかった。生きていると、何が起きるかわからないものである。その大規模な侵略行為が正当化されるわけでもないが、自分たちの身を守るためにと地域社会の諍(いさか)いで優位な立場にいるためにも侵略者側と手を結んだ一握りのアフリカ人たちもいる。実際は、持てるもの(the haves)が多くの人たちから搾り取るための、持てるもの同士の熾烈(しれつ)な闘争だったのである。その人たちは奴隷貿易でも、人種差別でも、多国籍企業による資本投資・貿易でも、利益率さえよければ何にでも見境なく手を出した。手懸けたものの効率が悪くなると、次なる手段を探しだす。人種差別もじっくり考えれば、支配者の都合で自分たちの利益を上げるために利用しただけにすぎないと気づく。本当は、人種の問題ではなく、奪う側(the robber)と奪われる側(the robbed)の間の階級問題なのである。

 しかし、被支配者階級、持たざる者(the haves-not)の大半は、自分の置かれた位置と全体の構図に気づかないでいる。持てるものたちは、狡(ずる)くて、相手を騙(だま)すことに長けている。自分たちの行為を正当化するために、ありとあらゆる知恵を絞る。そのなかで、持たざるものは自分たちが持てるものに都合よく利用されて搾り取られ続けているという構図に気づかない。法律を作るのも、作った法律に従って行う行政も、そして国民の教育も、すべて持つものの都合がいいように操作される。自分たちの都合のいい歴史を書き、それを教育制度の下で浸透させて行く。行政を守る国家官僚を創り出すのに金を惜しまず、見事に優秀なイエスマンを集める。

1987年にアメリカで、翌年に日本で上映された(試写会パンフレット)

 南アフリカでもヨーロッパ人入植者は自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏(で)っち上げて浸透させた。自己意識の大切さを説いたステイ-ヴン・ビコは、アメリカ映画『遠い夜明け』(↑)の中で、白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人に呟(つぶや)く。

「あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる」

 アメリカではビコよりも前に、公民権運動の只中にいたマルコム・リトゥルは言葉を押しつけた人たちのまやかしを指摘し、自己意識の大切さを説いた。ニグロが、人類をコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイドと分類した文化人類学用語に由来しており、侵略を正当化し、白人優位を浸透させる西洋列強の手先だった文化人類学者の捏っち上げであると断言した。

小島けい挿画

 「なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです」(『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』、Malcolm X on Afro-American History, 1967)→「自己意識と侵略の歴史」(「ゴンドワナ」19号、1991年)

 二人は殺されてしまった。どちらにもいい顔の出来る日和見(ひよりみ)主義者は見逃せても、人々の自己意識を揺さぶる理想主義者を持てるものたちが放っておくわけはない。最初はどちらにもいい顔を見せていたキング牧師も、理想主義者になりかけたとたんに暗殺された。マルコムも黒人回教団の伝道師でいる限りは狙(ねら)われなかったが、回教団を抜けて、自己意識を解き始めたとたんに、回教団も持てるものたちも放っておけなくなった。最後は4回シリーズのアフリカの歴史の最終回を話す途中で、銃弾に斃(たお)れた。

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エイズ関連の連載を始めたのは、自分の辿った軌跡からヒントを得て、小説の形で再構築するためである。再構築したものをフィクションにどう組み替えるか、それがこの先の作業となる。連載は先に→「エイズ」、→「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書き、☆→「HIV増幅のメカニズム」、☆→「エイズ発見の歴史」のあと、☆社会問題として:アメリカ(→「CDC」、→「国際エイズ会議」、→「医師の苦悩」、→「多剤療法」、→「製薬会社」、→「大統領選」、→「HIV人工説」)を書き終えた。今回からは、最後の山☆社会問題として:アフリカ、で、1回目はアフリカについて書いた。次回はアフリカ人に聞け、である。